ブッククラブニュース
平成21年8月号新聞一部閲覧 追加分

サブカルチャーとどう向き合うか
C子どもから奪われる時間と心

イギリスの子どものメディア事情と日本

 英国の方が遅れているのか、日本の方が遅れているのか、統計資料だけでは分からないが、英国では十代では90%の少年少女が自分専用のテレビを持っているという。最新の統計資料がないからわからないが、日本はここまで持っていないだろう。ただ、英国での面白い傾向は、裕福な家庭では自室にテレビを持つ子どもが48%であるのに対して、そうではない家庭(貧困階級)で98%が自分のテレビを持つ。と、いうことは、裕福な家庭では子どものコントロールが効いているが、下層階級では歯止めがないことがわかる。これは、日本も同じで、意識の高い階級がテレビの視聴時間やテレビゲームをする時間をコントロールしているのに対して、下層階級では子どものするがままという傾向はある。
 さらにテレビの視聴についてだが、英国では五、六歳児の三分の二は登校前にテレビを見ていて、寝る前も二時間平均はテレビを見るという。この数字(前回示した英国の平均視聴時間・2時間36分は日本の五、六歳児も同じかそれ以上だろう)は低く見積もっているような気がする。それとも、ネットやテレビゲームに時間を取られてテレビ本体は視聴されなくなっているのかもしれない。

子どもが過ごす一年間の時間割

 さて、前回挙げたコンピューターに年間2000時間も向かっている十代の少年たちのメディア機器所有状況だ。
 35%が自分専用のノート型やデスクトップ型のパソコンを持ち、70%が専用のゲーム機を持っている。この数字はおそらく日本でも同じか、それ以上だろう。日本では十数年前から中学校でインターネット学習が始まっていて、家庭でのパソコンの普及率から見ると十代の子どもたちの専用パソコン所有率は50%に届くかもしれない。さらにネット接続可能なケータイを加えれば80%を越える数字になるかもしれない。ゲーム機もPS,DSを入れれば90%に近づくのではないだろうか。その意味では日英ともに「電子漬け」の子ども事情となっている。ただ、日本の場合、学校が良い意味でも悪い意味でもゆとりを与えないので、多くの子どもはメディア機器を持っていても使う時間がないこともあるかもしれない。右の記事のように日本人の高校生は授業と部活で一日14時間拘束されているのだから、そういう子はゲームもできないだろう。ある意味健全。
(この記事は北ドイツ・ノルダーナイの新聞)

エンターテイメントを偽装して子どもから個人情報を集める企業

 上のような状況があると企業は、幼児を含む子どもたち(5歳ぐらいから18歳ぐらいまで)の少年少女からたやすく個人情報を得て、商品を売りつけることがしやすくなっているわけだ。たとえばサイトのHPに体験版のポケモンのゲームを宣伝する画面が現れ、そこをクリックするとゲームの一部ができる。しかし、それはすぐ終わってしまう。完全版へ誘い込むためにIDやパスワードがあるが、それはメールアドレスやPCユーザー名、電話番号から生年月日、名、性別、年齢などが引き換えに奪い取られる。さらにダウンロードして楽しむためにはクレジットカードの番号まで要求してくるわけだ。これをあたりまえと考える親は、おそらく子どものコントロールは不可能になるだろう。英国では子どもに人気のあるサイトの85%が、サイト・アクセス権を持つために個人情報を入力するように要求している。これは、日本もまったく同じである。あるいは、壁紙や写真の取得の代わりに個人情報が要求されることもある。

市場としての子ども

 ふつう物を買うときに物が個人と密接に関連しているとき以外、個人情報が知られることはない。たとえば病気の診察とか教育を受けるとか、そういうことなら個人情報は必要だろう。ふつうの物の消費に個人情報は不要なのである。ファミレスに行って、「何名さまですか?」とは聞かれるが、性別や年齢、アドレスや電話番号までは聞かれないだろう。聞かれたらおかしな話だ。駅前でティッシュを配られて、その代わりに個人情報を教えるバカはいない。ところが、ネット上ではそれがあたりまえのこととなっているのである。英国では(日本も)子どもを消費者とする商品市場では、企業がマーケティングの一環として個人情報を子どもからたやすく奪っている実情がある。英国の子ども向け商品市場は、2004年からの五年間で33%増加し、99兆ポンド(1ポンドが150円で換算してください)となった。そのうち12兆ポンドは子どもの「お小遣い」である。現代の子どもは豊かだ。しかし、オリバーツイストのころの問題とは違う問題が横たわる。
 はたして、この市場原理で迫ってくるサブカルチャーの渦の中で、われわれ親は子どもに正常な価値観を養うことができるだろうか。日本では、まず長いものに巻かれてどうしようもないことになるだろうと思う。

発達に応じるということ
Cさまざまな影響

1)親自身が育った環境の影響は大きい


 人間というものは、そうそう変ったことはできないようで、自分が育ってきたときに体験、経験をしたことを繰り返すものです。それが安全、確実だと信じてしまう要素が組み込まれているのかもしれません。社会の構造がしっかりしていたときには問題なかったものでも、ここまで社会が変化してくるとそうはいきません。
 そこで形成された親の価値観もそうそう変えることはできません。「キティちゃんがかわいい」となれば、自分の子どもにも与えて「かわいい」という価値観を植えつけようとします。「ディズニー大好き」となれば一歳児を連れてディズニーランドへ行くバカ親も出てくるでしょう。「ガンダム」に狂った超合金世代は、子どもにどんどん合金ロボットを与えるでしょう。そして、彼ら親の世代がいまや社会の中核ですから、バカ親の一部や世代トップがお台場にガンダムを作り、神戸に鉄人28号を等身大(巨大な)で出現させますから、世間が認めたものとして平気で子どもに与えていくでしょう。価値の悪循環が始まるわけです。かくして悪貨は良貨を駆逐して、どんどん異常な価値観がはびこります。子どもが育っていって、「こんなはずじゃなかった」「自分と成長の結果が違う」と、親が思うのは何年後でしょうか。さまざまな影響は世代間を越えて波及しつつあります。だからこそ、なるべく悪影響が出ないようなものを選んで与えていくべきですが・・・・それもどうやらむずかしくなったようです。

2)「かわいい」の影響は親の価値観?


 20年前は赤ちゃん絵本で問題の多い本はあまりありませんでした。数も多くなかったので、ある意味、どれを選んでも問題があるというものは少なかったのです。しかし、キャラクター絵本、アニメ絵本、しかけ絵本などが赤ちゃん絵本の市場にドッと入り込んでくると、影響も大きくなってきたのです。
 先日、中学で美術を教える講師をやっている友人と話していて、「子ども(中学生)の美術感覚がいつのころからかおかしくなった。ふつうの絵が描けず、何を書いてもアニメチックになっている」というのです。これほどではないけれど、実は私もそれに気がついていました。ブッククラブにご参加願うときにお手持ちの本をリストアップしてもらうと俗に言う「カワイイ本」のキャラ絵本、アニメ絵本がほとんどです。つまり親自身がディズニーやキティで育ってきていて、「かわいい」「美しい」という感覚が違ってきているのです。
 当然、赤ちゃん関係の本を作る出版社は親の好みを分析します。そして商品展開をします。親が、かわいい、美しいと感じれば本は売れるからです。赤ちゃんが買うわけではありませんからね。この代表が、「いもとようこ」の絵本。いわゆる「かわいい」系の絵で物語の内容などとは関係なく現代の「かわいさ」を売りにします。民話や名作童話の絵をここまでかわいくしたら、鬼は怖い存在ではなくなり、オオカミも冗談のような存在になってしまいます。赤ちゃんのうちから、こんな絵本ばかりが身近にあったら、「3びきのやぎのがらがらどん」や「せかいいちのはなし」などは怖い絵本としか思えなくなってしまうでしょう。

3)出版社は消費者の弱点を心得ているから引っからないようにする


 かわいい系、アニメ系の本を作って大量に展開する出版社は、子どもが大きくなって自分のお金で買うようになることまで計算して本を作っています。テレビなどで先に宣伝展開して、キャラを子どもの目に植え付け、それから書店店頭の平置きに並べて買わせ、やがて、その本のキャラでゲームやパズルなど関連商品を展開すれば子どもの財布など手玉に取れるのです。人間には「広まっているもの、みんなが知っているものは安心」だと思い込む習性があります。園でも「アンパンマン」「ピカチュー」が良質なキャラと考えているところさえあります。ここを突かれたら、大人でも買わされてしまいます。「知られている芸能人が宣伝しているものなら安心」・・・安全安心の根拠はないのですが、質のすばらしさより見かけのかわいらしさ・・・いまや行政までが「ゆるキャラ」を作って、内容とは無関係の観光事業を行う時代です。これでは、かわいい絵がつかない名作はどんどん嫌われていくでしょう。
 でも、それにしても最近の「かわいらしさ」って何だか異常で気持ち悪くありませんか。ゴテゴテ、ボテボテ・・・赤、ピンク・・・ラメ・・・これでは美術感覚がなくなるというより頭の悪いコギャルの趣味です。子どもは大人より物事が簡単に刷り込まれます。粗悪なものに囲まれていれば、粗悪な感覚しか育たないでしょう。「粗悪なものに囲まれていてもそれを越えて秀逸なものに目が行くようになる」という「反面教師」の理屈は通りません。「反面教師」という言葉は常に少ない例外に適用する言葉で、標準ではありません。「人は見かけに寄らない」というのと同じです。多くの人は見かけで判断できます。同じことは、本でも言えます。見かけがダメな本は本質もダメな本で、中には良い本があるなんてことはありません。



(2009年8月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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