ブッククラブニュース
平成20年7月分

ほっとする風景

  さあ、暑い暑い夏になっています。湿度も高く、気温も高く、でも、この背後には温暖化という危機的なものがあり、警戒強固なサミットもあったりで、なんだか緊張の夏です。蚊にも刺されるから金鳥の夏ではオヤジギャグのCMになってしまいますね。。さて、金鳥であれ緊張であれ、私は子ども時代から夏になると野山に出かけたくなるのです。なんだか、夏=出かける・・・子どもの頃の習慣がそのままです。とくに山や川にはでかけます。山梨県は海なし県でもあって山と川しかないのです。その山川で虫を採ったり、キャンプをしたり・・・そういうのを楽しみにしてきた子ども時代があると大人になっても「習性」として身につきます。その遺伝?か、上の娘もキャンプが大好きで、高校生になってもいろいろな行事のキャンプに参加していました。下の娘もこれまた山や川や村を巡る「小さな旅」が大好きで、いまやそれを仕事にしているくらいです。小さいときに見た野山の風景が形づくった習性なのかもしれません。
 よく写真雑誌に「日本人が持つ原風景」なんて見出しで、棚田や里山が写されています。私のような世代には里山の風景や水田は懐かしい風景で、原風景といってもさしつかえないものです。でも娘たちに聞くと子どものころに印象が深かった風景は「南アルプスに日が沈むところ」とか「山の上から見た甲府盆地」という答えが返ってきます。誰にも幼いころに見た風景が原風景として心のどこかにあるのでしょう。私は、こういうものが人間性や人格の基礎を作る大きな要素になっていると思っています・・・・。ストレスや悩みが生じたとき原風景に似たものを見るとほっとする気分になることもあります。
 ところがです。原風景を持たない?世代も出てきているようです。数年前、娘が合宿先を選ぶ役になり、子どものころに泊まった高原の静かな場所を計画に入れました。ところが、合宿を終えて帰ってきて、「せっかく、静かな場所を選んだのに『コンビニがない』とか『暗くて外に出かけられない』って不満ばかり出た・・・」と、仲間の言動に文句タラタラでした。不満を洩らしたのは、多くが都会育ちの男子学生だったようです。コンビニのウインドウが輝く夜景も原風景といえば原風景。林立するビルに当たる夕日も原風景といえば原風景・・・そういう原風景が新たな創造につながれば何もいうことがありませんが・・・風景として見ていなければ原風景にはなりませんよね。
 話はまったく変わりますが、大澤真幸の「不可能性の時代」(岩波新書)という本に二つの映画を比較して、現代の様相を解析している箇所があります。日本は70年代の「理想の時代」を経て、80年代の「夢の時代」を過ぎ、90年代には「虚構の時代」に入った。どこまでも「現実」とは関係なく、夢ばかり追っていたというわけです。たしかに「理想」の反意語は「現実」、「夢」の反意語も「現実」、「虚構」の反意語も「現実」です。だから、何事も現実として処理しないというわけですね。ところが2000年ごろから虚構に酔うこともできなくなり、逆に過激に超現実に走るようになりました。それを酒鬼薔薇事件から秋葉原の無差別殺傷に至る暗い事件が象徴します。いきなり過激に現実化するというものです。このような背景には人間の心がどのように時代によって変わったかが見て取られなければなりません。そこで映画の比較となったわけです。
ひとつはカンヌでパルムドール賞を受けた「ある子供」という作品。恋人が生んだ自分の子供を売り飛ばす都会のチンピラの話です。少年たちに盗みをさせて生きてきたチンピラが、自分の子を物と同じように子どもを欲しがっている人に売ってしまうわけです。子どもへの愛着もなければ、恋人への愛着もなく、即物的に生きているだけの存在です。やがて刑務所に入れられ、そこに面会に来た恋人と和解して罪を認めて救われるというものです。もう一つの映画は山崎貴監督の「ALWAYS三丁目の夕日」です。ご承知のようにみんな貧しかったが楽しかった時代という映画です。
大澤は、この二つを比較して、前者は「結末で救済があるのに観た後で少しもほっとしない」、後者は、「誰も救われていないのにほっとする」と述べています。自分の子供を売り飛ばすような人間に救いなどないことを観客は知っているから安心できない。都会という欲望ばかりが刺激される風景の中では、幼い頃から即物的な感情しか育たないのかもしれません。得になることだけで生きていて、挫折したら過激な現実に走るというのもその特徴です。
しかし、「三丁目の夕日」では、みんな何も達成できていないのに希望を持っている。みんな貧乏だし、がんばっても芥川賞が取れない。でも、つねにみんな希望をもって「明日はこうなるだろう!」と信じているわけです。大澤は、その希望に観客がほっとするのだ、とも言っています。「三丁目」は、「ある子供」とは逆に他人の子どもを自分の子どもとして育てようというシチェーションで作られています。たしかにラストで、その子が「なぜ夕日がきれいか。それは三人で見ているからだよ」というせりふがありました。たしかにそうです。共通の原風景、原体験というのは人と人を結びつけていくものなのかもしれません。かつて、日本人は共通の希望や理想を持っていたので貧しくとも安心がありました。小さいときに見たものは忘れてしまっていても、どこかで浮かび上がってくるものです。やはり、幼児期の原風景は意外に大切なものかもしれません。暑くて外出も億劫ですが、良い風景を探しに子どもと出かけて見ませんか。遠くでなくていいのです。ほんの身近なご近所でも・・・・。(ニュース一部掲載)

「希望」という名の数字

 ときどき新聞やテレビの数字にだまされることがある。よく考えると、おかしいな?と思える数字が出てくるし、ケタが大きくなると想像もつかないことがあるから、実際のところ何なのかわからない。ところが、世の中には数字信仰というものがあり、「数字が示すものは正しい」という思い込みがある。ちゃんと統計学のお勉強をしてこなかったからいけないのかもしれないが、もし、真実がわからないように数字を意図的に使っているのなら、テレビや新聞で語れる数字や統計はわれわれ国民をだますことになりかねない。
例えば「地球温暖化」の報道が流れる。「なんだか急に今年の春ごろから環境関連の番組や新聞記事が多くなったな!」と思ったら、なんのことはない。今月開催されたサミットに合わせて議長国の日本が少しも啓発活動をしていないから、突如、温暖化防止の大キャンペーンになったらしい。新聞雑誌。テレビに「レジ袋をやめて、これで、CO2○○トン削減・・・」という数字が躍る。場当たり的過ぎるが、それでみんなの意識がエコに向くなら温暖化阻止への「希望」が生まれる。数字で示すことは悪いことじゃない。炭酸ガス・千トンと言われてもわれわれは想像もできないが・・・。ただ、レジ袋をやめてエコバックにしてもレジ袋並みにエコバックが消費されれば意味がないし、個人が削減しても事業系で増加していたら細かい努力など意味がなくなってしまう。みかけの数値が達成できても実質がともなわなければ、結果は同じで嘘となる。まだまだ安心はできない。「希望」が見えるのは先のことだ。相変わらず記者会見の机の前で頭をさげ、「ごめんなさい」と謝っている大人がニュースで映し出される。使いまわし、偽装、横領、詐欺・・・「ごく普通の大人がどんどん悪いことをしている」「こんなに世の中は悪くなってしまったのか」と感じないわけにはいかない。市場主義、競争主義のなかで効率や利益の拡大を狙うと、どうしてもこういう嘘や悪が生まれてしまう。これも数字がなせることなのかもしれない。人を楽しませる嘘やフィクションなら嘘も方便だが、直接、生命に関わりが出てくるようなミスや数の偽装は人を楽しませるものではない。少しも「希望」を持てない状態である。
 ところで、山梨のある市が国指定事業の読書推進活動を行い、「小中学生の読書量が1・5倍になった」という報道があった。なんと1ヵ月あたりの平均読書冊数が13.2冊。昨年は8.8冊(これだってすごい!)だから五割増しである。高学年、中学生になると増加率が低くなるらしいが、ま、これは当然としても、たとえ低くても増加はしているのだから「推進活動の成果だなぁ」と思った。とくに小学校の低学年の伸び率がすごい! 低学年・二年生では一ヶ月に19冊以上読むとある。二日で一冊以上の割合だ。月に一、二冊で音を上げている子もいる我がブッククラブでは信じられない数字だ。「やり方によってこんな成果が出るのだろうか? 私は間違っているのだろうか?」と思った。
ただ、ここが重要なことなのだが、その報道には「どういう本を読んだのか」が書いてない。まさか、学校図書館の貸し出し競争で手当たりしだいに読みやすい本(幼児絵本や漫画)を借り出した子の数字をカウントしているわけではないだろう。どういう本を読んでいるかが知りたいところである。
うがって考えてみれば。「かいけつゾロリ」なら一日で十数冊読め、「こまったさん」のシリーズなら一日一、二冊は読めるだろう。学校図書館にある漫画の歴史だってふつうに読めば一ヶ月で50冊や60冊は読めるだろう。「まさか、そういうのはカウントしていないよな」と思ったりする。
さらに、気になったのは市教委のコメント。「読書で得られる理解力や判断力の重要性を考え、引き続き読書推進運動を働きかけて行きたい」というものだ。目的が「理解力や判断力の達成」では「なんだかなぁ・・・」と思う。本なんて楽しく読むものだ。私の経験では、低学年のときなど遊び回っていて、ろくに本など読んだことがなかった。外で遊ぶほうがずっと楽しかった。中学年になって読み始めた。楽しい体験を物語はさらに巨大に大きくしてくれる。その楽しさはさらに楽しいものだ。一ヶ月かかって「ロビンソンクルーソー」を読んだこともある。冊数よりどのくらい楽しめるかが読書の意味ではないだろうか。
 「十五少年漂流記」を読んで、海辺で木を集めて焚き火をするのもいい。小学高学年になれば四百ページ以上の「二年間の休暇」になる。速読術を使っても一日では読みこなせない質量だ。でも、その長さが楽しいという子もけっこういる。「魔女の宅急便」を読んで、どうしたら魔法が使えるのかを考えるのも楽しい。「チョコレート工場の秘密」を読んで、銀紙の中に入れる招待券を作るのも楽しい。理解力や判断力の達成なんて後のことだ。それで何もできなければ悲しいものがある。一ヶ月にたった一冊でもいいじゃないか。その一冊が嘘のない「希望」を作り出すのなら。


(ニュース一部閲覧2008年7月号)
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