ブッククラブニュース
平成19年11月分

情報貧乏

 ブッククラブには外国で暮らしている方々もけっこういます。国外赴任の方もいれば、国際結婚の方もいて、短期滞在もあれば、永住もあります。外国で暮らすと、あたりまえですが、日本語事情は逼迫(ひっぱく)してきます。そこで、質の良い日本語を与えたい、あるいは親の母国語を深く知ってもらいたい、という気持ちが強くなると思います。
 幾人かの外国の会員からのお便りには「日本にいたときより子どもたちはひじょうに本が好きになっている。」とか「親子のコミュニケーションが増した。」というものが多いのです。国によって事情は違うでしょうが、日本と違い、子ども向けの粗悪な情報が少ないこと、現地語が分からないためにTVなどを観ていてもおもしろくない、生活がのんびりしているため本に触れる時間がある・・・などが答えではないでしょうか。うらやましい話です。
 日本では、子どもが時間と情報に追われています。子どもを対象にしたアニメやマンガ雑誌、TV番組が子どもの生活の中で目白押しです。まず、メディアでキャラクターをインプットしておいて、次に関連商品を売ろうとする商業主義が生活の底の部分まで行きわたっているため、生活の中で粗悪な情報をカットしなければならないむずかしさが出てきます。
 「絵本の読み聞かせがいい」という「情報」を真に受けて、図書館から毎週十冊以上も借り出し、ついでにタダだからとビデオを借り出すバカな親も出てきました。子どもが食傷気味になり、逆に本嫌いになってしまうことさえ分からない。情報は多いほど人は混乱するのです。
 まったく個人的な話ですが、我が家は子どもを育てるときに、こういうものを排除してきました。TVはアンテナ受信にしたため(山梨はCATVの有線配信がほとんど)NHKですらゴーストが入り、民放はまるっきり映りません。今でもそのままなので我が家では地震警報が出ても咄嗟(とっさ)に逃げられません。また、ケータイ大流行のときにケータイを持たせなかったら、持っていないのはクラスでたった三人だったそうです。こういうことをする親がケータイを持っていたら矛盾なので持たなかったら、いまは操作すらできなくなり、ついに生涯持たないで行こうと決めました。
 でも、そこまでしないと本を読む時間も映画を観にいく時間も確保できないのです。多くの人は私を忙しい人だと思っているかもしれませんが、じつはけっこう生活を楽しんでいるヒマ人なのです。百歳も二百歳も生きられるわけではないので、つまらない一過性の情報やメジロ押しのイベントに楽しみをつぶされたくはないです。
 情報洪水と豊かさの中で、いま親が考えなければならないのは、子どもの進路の安全保障ではなく、子どもたちが楽しめ、世の中を味わい深いものだと知る体験の保障なのではないでしょうか。冒頭の外国の例のように情報貧乏にならないと本当の意味で生活を楽しむことなどできないかもしれません。
(ニュース一部掲載)

秋の陽はつるべ落とし

 日が短い。「短日」は秋の季語。十一月ともなれば五時には日暮れとなり、周囲は真っ暗だ。「短日」といえば、「燈火親し=読書」も秋の季語。
   燈火親し 詩の行間の豊かなる。(長澤母子草)
   燈火親し 物の影みな智恵持つごと(宮津昭彦)
 たしかに夜が長くなり、落ち着いた時間が流れるから読書には適しているのだろう。しかし、実際に読書にいそしむ人が増えるかといえばそうでもない。「交通安全週間」や「動物愛護週間」と同じで、なかなか実現しないことだから「〜週間」というキャンペーンを張るのである。
 しかし、最近の秋の夜長は、上の俳句のような感情が持てるかどうか。親は超過勤務で帰宅は夜中。学校は時短で詰め込みが増え、塾通いやお稽古事で子どもも忙しい。宿題もしなくてはならない。息抜きにTVゲームもしたい。のんびりと読書することなど怠けているような感じを持たれてなかなか。そういう事情は私も重々承知している。休日は休日でドライブや旅行・・・〜大会、〜イベントへの参加。「何でもかんでもやっておけ」という激流に流されて何かしないでいることは罪悪であるかのようだ。社会は子どもを早く大人にしようとしていて、大人びた体験を重ねることが大人になる重要な条件であるかのようにも思っている。
 忙しすぎて「ふつうのおばさんに戻りたい」と言って辞めた歌手がいたが、ま、芸能人など言行不一致の河原乞食だから別に批判もしない。しかし、一国の総理大臣が責任ある仕事を放り出したり、「どうも私は政治家に向いていないようだ」と任期途中で辞める代議士が出たりすると、よくもまあ教育改革だことの美しい国づくりなどといえる、この国の大人はひどいなぁ、と思う。
 一般庶民を馬鹿にした傲慢が、自分を弱く力のない者にしたことも分からずにである。これも忙しさの中で自分を見失ってしまっているとしか思えない。こういう人間こそ「トムは真夜中の庭で」や「モモ」を読んで、子どもの頭は大人とちがっていることを知るべきなのだが・・・彼らは本を読まない人種なのである。あれだけ忙しければ本も読めまい。この間、会員の母親と話していたら「先生が子どもに『なんでこんなことができないのだ!』と怒った」と言う。その先生も自分が何年もかかって分かったことを忘れて子どもを叱っている。「少しは自分が子どもだったころを思い出せよ!」と言いたくなる。高校が塾並みに「どこそこの大学に何人入れる!」ということをキャッチフレーズにしているくらいだから、学校としては体育ができ、絵が上手、楽器が得意で、全科目高成績を要求するのもしかたがない。大人の傲慢もここまで来るとすごいものだ。しかし、それまでしてもダ・ヴィンチのような大人がまったく出現しないのはどういうことなのだろう。困る体験、悩む体験、そして考える体験を重ねないと傲慢になり、無関心になり、やがて切れることにもなる。豊かさなんかもうじゅうぶんにあるじゃないか。もっと他のものを望む・・・そうしないと、この国も秋の陽のように「つるべ落とし」かも。
   燈火親し 心に刻む論語の句 (杜氏雄)
(新聞一部掲載)


(ニュース一部閲覧2007年11月号)
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