ブッククラブニュース
平成29年8月号新聞一部閲覧 追加分

子どもの発達と絵本③
1〜2歳児と絵本(3)

 3歳くらいまでの子どもの発達があまりにも速いので、逆に親が気づかずあたりまえとおもってしまっていることがたくさんあります。子どもは遊びながら言葉を覚え、語彙を急速に増やしていきます。また認識力も一日ごとに発達するかのようです。
 たとえば1歳半くらいで多くの会員に「きんぎょがにげた」が入りますが、これが1歳前半だとどこに逃げているのかがわからないのです。2歳後半よりあとになると、あたりまえすぎて子どもが何度も読んでくれという関心を示しません。さらに、1歳前半では語彙の意味「きんぎょ」や「にげた」もわかりませんが、すぐにどういう意味か理解します。これが読み聞かせの底力なんですね。2歳にはもう金魚がどういうもので、逃げるというのがどんなことかわかっているのです。すごいと思いません? たった半年ですよ。いや、わかるのは、読み聞かせてすぐなんです。使えるまで含んて総合的に言葉を見たとき半年でかなりの言語が習得できてしまうのです。子どもの言語には理解言語と表現言語の二種がありますが、理解言語は使わないがわかっている言葉、表現言語はわかっていて使うことばです。この半年間の伸びはすごいですよ。それを適切な読み聞かせで進めることができるのです。
 2歳になったばかりの子で言葉が早い子を見ていると、じつに絵本の中の言葉を場に応じて適切に使っているのを見かけます。ここで言葉の遅い子を持つ母親はアセりますが、大丈夫です。聴力に問題がなければ言葉は、どんどん頭の中に入って溜まっています。しゃべりはじめたときにうるさいほど使いますのでご心配なく。

1歳後半では

 さて1歳半ごろからに「もこもこもこ」とか「ごろごろにゃーん」とか「ぞうのぼたん」などの大人には理解しがたい無意味さがある本が順次入っていきます。これを見た親はふつう「?」と思います。大人の理解をはるかに越えた本だからです。
 2歳になると大人も納得する「ちいさなたまねぎさん」「おおきなかぶ」などの物語のようなものが入ってきます。1歳のころの配本とは大きな差異がある本です。ちゃんと初めがあってスジがつながり、終わりになる・・・きちんとした物語絵本です。もちろん、そういう本ばかりでなく、1歳後半では、例えば「色や形」関係の本や「物の名前や言葉」関係のこの時期の発達特徴に合わせた配本も組まれますが、1歳後半までOKだった極端なアドリブを入れることはじょじょに避けてもらいたいのです。また、声色を変えたり、パフオーマンスをしたり、そういうこともじょじょに避けていただきたいと思います。
 2歳で「おおきなかぶ」が入ったら、きちんと文を読んであげることを意識しましょう。淡々とあまり声色も使わず、身振り手振りも徐々に抑える・・・そういう読み方をしていただきたいのがこの時期の本です。

ものすごい速度で発達する

 とにかくこの時期はもう信じられないほどのスピードで頭が発達していきます。極端に言えば二日後には、別の力を発揮しているという感じですね。毎日接している親は意外に気が付かないでしょうが、実際は日毎に言葉の量を増し、話せる準備がちゃくちゃくと進んでいるのです。前述の表現言語と理解言語の差はありますが、1歳半で500語がわかっている子が2歳半では2500語以上理解しているともいわれます。ただ、あまり数字やグラフで示さないほうがいいですね。親の中には学校教育のせいで、ほかの子と比べる習性がついている人がいます。そして焦り、妙に手を加え、品を加えます。でも、これはオムツが早く外れるか外れないかと同じで、まずオムツが外れない子どもはいない。ずっと、しゃべらない子どもはいないということです。(ニュース一部閲覧)

生活って?②
遊べない子ども

 たとえば第二回のおはなし会にトップバッターでやっていただいた名執真理子さんは、子どもたちを相手に「自然との遊び方」を指導する活動をしている。山梨県には、その県名とは逆に山はたくさんあるし、森や川も大きいものから小さいものまであるが、じつは現代の子どもはほとんど、そこを遊び場所にしない。おはなし会では大人がガイドして子どもたちが遊ぶための資料を配布してもらったが、季節に応じて変わる生物の変化が見て取れる丁寧なものだった。
 理科の授業では得られない「遊びから得る知識と体験」で、もしこれがすべてタブレットで行われ、現場体験ができなかったら子どもはどんな成長をするのだろうと思った。
 もはやジジババである私たちの世代でも、山や川は年上の子が連れていき、遊び方を教えてくれるものだった。川のせき止め方、魚の釣り方、昆虫の捕まえ方・・・さらにどこに行けばたくさん獲れるかなど。そればかりではない、危険な場所を教えてもらったり、積乱雲が黒くなってきたら川から離れるなんて「命令」が出た。そういう知識を知っていて小さい子どもをまとめる力がある年長者がいつも横にいて、年少者もすぐに学んで下の子をまとめる役をもらっていた。これは成績とはまったく違った能力である。コワモテでは小さい子はついて行かない。自信がなさそうな年長はすぐに見抜く。こういう子ども社会が確実にあったのだが、いまはどうだろう。
 つまり、遊びは知識集めだけではなく、人間関係の学習から大きくは「世界の中にいる自分までわかってくる」という人生観・世界観までつながってくるわけである。この基礎が子ども時代にかたち作れないと大人になってわけのわからない生き方をしてしまうケースも多くなる。遊びは重要な子どもの仕事だが、いまそれを大人や親が指導しなければならない不幸がある。

少なくとも子どもは遊ばせたい

 ディズニーランドやUSJもいいかもしれないが、大人の観光旅行と同じで「見た、見た」「知ってる、知ってる」だけの経験だけだったらさびしい。そして、これは名執さんが言うように大人になって環境問題を考えたり、エネルギーの問題を考えたりすることにはつながらないような気がする。
 遊べない子どもは最近存在し始めたわけではない。もう何十年も前からいる。考えてもみよ。ニンテンドーのファミコンは1980年にできたのだ。以来、外遊びが苦手な子、外回りに連れ出す親は少なくなっている。せいぜい公園くらいで、それも見守っていられる幼児のときだけ。
 そうは言っても、余り過ぎている半導体を売りたい企業はあるわけで、今後も学校もどこもかしこも、どんどんバーチャル化は進むだろう。親は弱いから、どうしてもそれに乗っていく・・・はてさて、良い打開策はあるのだろうか。忙しくなって子どもの寝顔しか見られない親も増えている。そういう生活って、やがてどんな社会を生み出すのだろう。(ニュース一部閲覧)

私の好きな一冊④
あさえとちいさいいもうと

 かなり以前に出版された本で発行年をみたら1982年だった。考えてみるとウチが開店して二年目の年だ。あれからそんなに時間が経ってしまったのか!と思う。我が家には1980年とその翌年生まれた姉妹がいる。
 1980年開業だからもう37年も経つ本である。会員配本でも女の子だけ、それも妹のいる子にしか配本しない。しかし、個人的にはとても良い本だと思っている。
 目を離したすきにふと消えてしまった妹を探すだけの話だが、探す姉の健気さがいい! 必死さがいい! 子どもらしさがいい!
 ところが、ある評論家は、この本を「最悪」と決めつけた。また、ある絵本作家は「気持ちが悪い」と評した。おそらく、この酷評の背後には「個を最優先」し、「家」「血縁」「家族」などを疎ましく思う現代的感情があるのだと思う。しかし、こうした世評に抗して、あえて、この本を「私の好きな1冊」に挙げた理由は「人間誰しも身近な人へ思い入れというものがある!」この一点である。妹を探すときの姉の健気さ。これは必要な感覚だ。必死さ・・・・本来これが子どもらしさなのであって、高をくくって無責任では困るのだ。こうあってほしいと思うふつう、子どもにそう思うのが親心ではありませんかね。兄弟姉妹を越えて大切さを思う気持ち。
 「個の自由、個の表現を!」という近代の理想で育てたところで、親殺し、子殺しが横行する世の中になったんじや個の尊重も絵に描いた餅か空念仏。泥臭くても姉が妹を思い、親が子を思い、夫が妻を思い、そして少しばかり他人も思う。それで世の中が丸くおさまる。丸くおさまる結末が「大団円」というもので、親も子もひと安心となる。誰がなんと言おうと、この良さは必要だと思いますよ。
 金に目がくらんでおかしくなっている時代、もう一度、家族や人間関係を考えるうえで大切な一冊でもある。
(平凡社・別冊太陽「絵本屋さんが選んだ100冊の絵本」投稿文・一部閲覧)

③心と言葉
文は想像力を掻き立てる!

 ラブレターをもらったときに、書いた相手が意図しているものよりはるかに多<のものを言葉から読み取ろうとする気持ちが働いたことはないだろうか。 このときの想像力はものすごいエネルギーを使って大きくなる。つまり現実を飛び越えてあらぬ方向に心が動くこともあるのである。人によっては考えすぎて苦痛も起こる。
 『この「あなたのことを前から・・・」というのはきっとあのときからだ』とか『ここに付け加えられた「もう一度あそこに行ってみたい」というのは、心の中で彼女が(彼が)私と(僕と)行きたいのではないか』とか『この表現の強さではひょっとすると結婚まで?』・・・などとほとんど妄想に近い想像力が働くというわけだ。言葉がつくりだす心のひとつである。
 現代の若者はラブレターなんか受け取ったことはないだろう。もちろん書いたこともないと思う。短文のメールのやり取りでは想像力など働かない。「スキ!」では味もそっけもない。「愛している」なんて書かないことで伝える方法は人間の心を豊かで鋭敏なものにする。人間が最初に文字を発明した時は、単に「知らせる」いわゆるメッセージから始まったと思われる。しかし、それは「知らせる」ということを基本に大きく進化して、読み手の想像力を要求し、まったく違った世界を個々に感じ取れるものにまで変わった。

読み取る力は感じる力でもある

 本来、文というものには、想像を引き起こす巨大な力をもつものだ。それは、「2:00PMにいつものところで。」いうメール文から始まり、文学的な物語まで大きな想像力で個人的な世界を描き出す力を持つ。「夏の夜空はきれいに晴れ上がって、“白鳥の心臓”がまわりに星々をしたがえ、空高くのぽっていた。」(「ゲド戦記」・アースシーの風)。想像は個人の頭の中で個別にどんどん大きく膨れ上がる。 描かれる夏空の風景は読む人によってすべてちがう想像の結果となる。
 これは、叙事の文でも同じ。
 「ローザ・ルクセンブルクは柩に収められていない。遺体がまだ発見されていないのだ。それでもローザは今日埋葬される。今回の犠牲者のシンボルなんだから。」(「ベルリン・1919」)‥・文章化されると歴史的事実も個人の想像の内部になり、個別の感慨が沸き起こるようになっている。では、無味乾燥な経済論はどうか。
 「ナノツールを使えば、手術をしなくても無駄な脂肪を取り除いて体型を整えられる日が来るかもしれない。ナノ規模の大量のセンサーが連絡を取り合いながら、軍事情報を提供するようになる可能性もある。」(「富の未来」アルビン・トフラー) ここでも、希望や不安感とか恐怖感も含めて、その事態を個別に想像する力が働く。
 想像力というと、よく読書推進運動をするおばさんたちの「想像することは楽しいもの。本を読んで想像力を高めましょう!」というフレーズを思い出すが、想像はけっして楽しいものばかりではない。
 場合によっては、悪い状況を想像したり、危険で怖いものを想像したりすることもある。それがあたりまえの人間の世界で、子どもの頭の中も同じである。じつは、この想像も深いところでは言葉がもたらす心の世界だと思うのだが、けっして楽しいもの、快いものばかりに想像が働くわけではないことは言っておきたい。  楽しさのレベルも個人によって大きく違う。それは読み取る力に応じたもので、女性週刊誌で今井絵里子議員の不倫にしか好奇心が向かないような人には「アースシーの風」も「ベルリン・1919」や「富の未来」の文から何も想像はできないし、そのまえにまず、その人たちはこんな本は読めない。

文学の毒

 「文学の毒」という言葉があるが、文学が持つ暗い側面も想像の対象になるのである。なぜ、こういうことも含めて人間が想像力を発揮するかと言うと、それは進化のたまものだと思う。人間は直立歩行することで脳を肥大化させたが、それによって多くの動物が持つ本能的な危険予知能力を薄めてしまった。これを補うためにメッセージから想像するという力を発達させてきたのである。つまりメッセージ(あるすぐれた人が発する言葉や文)から危険を察知する能力である。
 ところが、どういうわけか学校の読書推進運動では、この「文学の毒」が極端に嫌われる。そして、たいていが、Drearn comes True(夢は実現する)文学を薦めてくる。「たとえば走れメロス」のような。こんな答えがお定まりのものには想像力など使いようがないのにね。大人になれば否が応でも醜く、不快で、不条理な現実にぶつかるのだから、少年時代には極悪人が出てきたり、どうしようもない裏切者がいたりする文学の毒は免疫をつくるのだから、その想像力を抑えてはいけないと思う。
 想像力とは人間だけが持つ「自己防衛能力」でもある。 未来にどういう事態が待ち構えているか、これを想像で想定して見定める。「裏切り」がテーマの本を読めば、裏切られたときに、どのように気持ちを整えるかを一度シミレーションしておくことができる。つまり、反射や感覚刺激で危険を察知する動物とは違った未来を読む能力・つまり、言葉で自己防衛する力が人間には備わっているのである。(つづく 新聞一部閲覧)

サブカルを再び考える前に

 最近、いろいろ見ていて予想通り、「便利な生活の中で人間が壊れてきたな」とよく思うようになりました。ブッククラブ会員で長い方は私がずっと言い続けてきたことが現象として出てきたと思うでしょうが、短い方にとっては何をいっているんだろう?くらいしか思えないと思います。かんたんにいえば、30年前、40年前とで人が変わってしまったとでもいいましょうか。もちろん、何も考えない、あるいは過去と現在を比較できない人は変わったこともわかりません。
 この40年近くで人を変えた原因は、便利すぎる生活とサブカルチャーです。
 サブカルチャー? よくわからないという人もいると思いますが、よく私が槍玉にあげてきたのはアニメ・マンガ、ゲームの類です。でもすでに物語の中にも映画の中にもこういうものが入り込んでいますからふつうの人にはもう、あたりまえの「文化」です。親の中でもゲーム世代は「ゲームを子どもがやってどこが悪いの?」くらいにしか考えない人も多いことでしょう。
 でも、ライトノベルやバーチャルリアリティものの映画、ドラマ・・・。こういうものは、人間の頭を「大人」にしないのです。いつまで経っても現実感のない神経を刺激するだけの世界に浸らせてしまうので、頭は子どものまま。子どもがいけないというのではありませんよ、そんな影響を受けた大人が困るということです。

便利さとサブカルチャーが変えたもの

 では、そういう便利とサブカルでどうなったかと言うと、なんでもありになった、手前勝手が通用する、政治の世界は言うにおよびません。地域の中でも、業界や会社内でも、あるいは学校でも、自分の意見をはっきりと言えない、そんな空気が陰湿に広がっているのはみなさんも感じるでしょう。
 例えば学校の図書館の蔵書にひどいものがあっても何も言えない、あるいは非常識な伝達事項が来ても何も言えない。攻撃されたり、シカトされたり、イジメ(自分の子どもに対しても)られたりする恐れがあるからです。悪い表現をすると、子どもを「学校や園に人質に取られている」ために子どもに被害が及ぶ前に親が黙ってしまう状態になっています。昔なら「それはおかしいじゃないか!」と味方になってくれる人も大勢いたのですが、いまやそういう人はほとんどいません。母親たちのSNS世界でのつながりでも変な気配りが横行しています。そして、私たちはこういう状態に、もう久しく慣らされてしまっているのです。つまり「異常を異常と思えなくなっている」わけです。
 都合の悪いことは黙ったり、隠したり、責任逃ればかりする、あるいは改善する議論や努力ができない社会は健全とはいえないでしょう。そこで行われるのは批判の名を借りたバッシング・嫌がらせ・村八分・左遷・営業妨害・・・つまり個人攻撃です。その恐怖が人々を黙らせます。意見を言えば不利になる・・・こうなると政治でも学校でも企業でも上の人間は調子づきます。商業宣伝や政府の公式発表さえも嘘や騙しで行われ始めます。これではマスコミへの信頼もかなり落ちてくるはずで、おそらく以前とはまったくちがって目も耳も傾けなくなっている人が多くなっています。実際、日本の言論の自由や情報公開の国際ランクは世界で50位以下なのです。戦時中の大本営発表がまかり通る状態では子どもも大人も息苦しくなります。

空気を読む必要はない!

 昔、よく言われた「K・Y」=「場の空気を読めない・読まない」というのは生活するうえでは問題かもしれませんが、今は「空気を読み過ぎるズルさと弊害」の方を考えなければならないときにきているように思うのです。こういう感覚が子どもに影響して打算や保身をするようになったら大変です。これを越えないと子どもは銭・金・物だけを追う大人になり、その結果がひどいものになることでしょう。あるいは家庭内でも世の中でも問題を引き起こしかねません。偉そうなことを言いますが、これからは「真実」とか「未来」とか「正義に」ついて家庭や子どもの周辺で考えていかないと、あるいは対話をしていかないと、私たちの責任を子どもたちに果たせなくなると思われます。いまの親たちに、そういうことが家庭内でできているでしょうか。
 サブカルや便利な生活で何が欠けてしまったのか? それは、いま世の中で起きている事件や現象の後ろで、あるいは「やさしさの教育の中」で消えてしまった「社会規範を守る気持ち」「軽く物事を考えない気持ち」でしょうね。
 私は「空気を読む」前に「本を読め!」と思います。サブカルは底の浅い「頭をただ知っているだけの」人間にするだけのものです。きちんとした本を読めば、そこには生き方や善悪や考え方の基本が書かれています。
 なんだかんだ言っても、これまでの日本は「里見八犬伝」で言われた仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌などの社会規範で動いてきました。近年はあまり聞かれなくなったこの八つの人徳の基本もひとつひとつあらためて思い起こしつつ、ちょっと苦い見解 や しょぱい話、耳の痛い問題について次回から考えていきます。異論・反論・賛同・疑問・・いずれもいろいろお寄せください。随時公開します。
 お願い ご意見をお寄せください。就学児会員の方から募集ですからメールも可 忖度無用

なぜ本を読まねばならないか⑤
「サブカルチャーが子育てに影響する時代」

 戦後(昭和20年代)に広がり始めたアニメ映画や漫画は、あだ一般に浸透していなかったのですが、昭和30年代には雑誌を中心に広がり始めました。
 やがては、テレビの普及とともにビデオなどの記録媒体で広まっていきます。
 サブカルチャーというものはブームをまずつくります。昔は自然発生で、局所的であったり、ものによっては全国に広がることもありましたが、それはテレビなどが役目を果たしていました。しかし、学校がブームの場所になったり、園が流行の場所になったりして、ブームのパターンは多様になっています。ここで子どもたちの間でサブカルチャーを広げる最大のツールになったのは持ち運びできるゲーム機の登場でしょう。1980年登場の任天堂のファミコンは据え置き型で、ソフトをカートリッジで持ち運べましたが、基本的には持ち運べるものではありませんでした。しかし、これは子どもというより大人が流行らせ、やがて子どもに波及していました。代表的なサブキャラは、「マリオブラザーズ」です。可動型ゲーム機は、それよりちょっと早く液晶の黒白画面でゲームをするものが流行りましたが、その後はGAMEBOY、DS,WIIとどんどん進化します。ここに登場するキャラがどんどん子どもや大人の頭を幼稚化し、単純化するのですが、それを良しとする社会があります。このからくりはあるのですが・・・・。まずは半導体のつくりすぎが、サブカルを広げる原動力になっていたと言っておきましょう。
 他方では、情報機器の進化が始まります。まず局所的だった最初の例は、ポケベルと呼ばれる数字かカタカナしか送れない通話機でした。これが中高校生の間で流行り、少し間があったもののケータイがそのあとを襲い、さらにスマホとなっています。次世代は時計型スマホかもしれませんが、いずれにしても若者を中心に大人から子どもまで巻き込んで急速に変化する流行がSNSの裏や闇の部分を推し進めてきました。

エンクロージャー(囲い込み)現象

 日本の社会は異質なものを排除する性質を持っていますが、これがSNS機器(ゲーム機も含めた)を持たない者をどんどん囲い込んで同じ物を持たせようとする現象となります。これが囲い込みです。中高校生の間ではイジメにすら発展します。「あいつが持っていない!」「あいつだけがやらない!」・・・「協調性を思んじる」学校や園は、この囲い込みにひじょうに鈍感です。囲い込みは当然、日本では大人社会でも起きます。異質なものを排除するしくみがどこかにあるからでしょう。
 こういうことで経験はありませんか。同じものを持っていないと「変っている!」と言われて排除される・・・これは物だけではなく同じ意見や考え方をしないとのけ者にされることはよくあることです。異論、自主的な行動、他とは違いのある考え方を持つと無視から始まって、反論や批判などをするとさらに異質な囲い込みが始まることがあります。日本は、根本で「均質化」をしようとする動きを社会自体、われわれ自身が持っているように思われます。
 学校や園も、囲い込みに寛容な体質を持っていますから、子どもがいじめに遭ったり、浮いた状態になると親は大変です。ある意味、子どもは「人質」になっているようなものですから、なかなか父母会でも物が言いにくくなります。で、けっきょく、周囲に折れて同じようにする、同じことを言う、同じ考えを示すというのがひとつの対処法になります。日本人の均質化体質とSNS・・・ひじょうに危ない関係です。

次は依存

 年々増えているインターネット依存者については、具体的な数字発表も文科省見解もないので、じつはよくわかりません。
 成長期にインターネット依存(ゲーム、LINEなどのSNS)に陥ると、子どもたちは知らず知らずのうちに本来歩んでいくはずのコーースから外れ、自分の力では戻れなくなるのが日本の現状のようです。
頭がゲームでいっぱいになる、偏執狂的にある特定の分野にしか関心を示さない、30歳になっても40歳になってもゲームやキャラクター、アニメに狂っている、テーマパークや集めたもののコレクションにしか関心が行かない、生活がきちんとできない、これが子どもだけでなく成長した大人さえサブカルチャーやインターネットに依存する深刻さを示しています。これは病的依存といえるでしょう。
 現在、はっきりしている依存はネット・ゲーム依存、ネットショッピング依存の二つですが、いずれLINE、ブログ、ツイッターなども依存になっていくでしょう。こういうことが賭博性の高いものに向かったら大変です。これもまた学校などが子どもが幼少時から慣れさせる目的で原因をつくっている可能性があります。電子黒板、タブレットなど・・・すでに市場規模では、さばききれなくなっている半導体を個人消費でなく税金消費にもっていく算段です。PCが売れなくなってスマホも限界に達したとなれば、学校で一人一台タブレットを持たせたら、当然、子どもの数だけさばけます。明治以降の政府は必ず企業と結びついていましたから、ここでも同じ図がまた描かれます。

気がつかない病

 しかし、物の取り扱いと違い、電子画面上の文化は本人たちにとっては外界とつながる手段という認識なのでしょうが、こういうものが病気であることが個人には自覚がむずかしくてなかなかわかりません。それに日本では欧米や中国のように、この手のものを矯正する施設や治療する病院は少ないのです。ないといったほうがいいかもしれません。
 2011年に、日本で最初の「インターネット依存外来」を創設した久里浜医療センターの樋口進院長は、インターネット依存の恐ろしさについて、自論を持って開設したらしいのですが、この関係の調査は何とそれより一年も後に厚生労働省が後追い調査の形で行っています。それだけ対応は遅れています。
 2013年8月に発表された調査結果では、インターネット依存の疑いがある中高生は、全国に約52万人いるという結果が出ました。これは新聞記事で見た方がいると思います。でもこれは目に見える数値です。潜在的にはどうなのか、数はわかりません。
 久里浜医療センターを訪れるインターネット依存外来の患者は、高校生がもっとも高く、最年少では小学生も訪れているということです。スマホの低年齢化が、ここ2、3年で進行していますので、実際には1000万人という数字が出てもおかしくないでしょう。

深刻なネットゲームやSNS依存

 インターネット依存の中でも、特に依存度が高く、抜け出すのに時間を要するのがオンライングームだと言われています。見知らぬ遠くの仲間と遊ぶのですが、ソフト会社やゲーム会社が善意でやっているわけではなく課金するし、アイテム売り買いなど、その世界に入らないとわからないシステムがうごめいています。
 オンライングームは、これまでのソフトウェアのゲームのように、ゲームがパッケージとして完結しているわけではありません。そのため、ゲーム使用者は、インターネットを通じて次々と新たなステージに進み続けたりすることができますが、ここには罠も待ち受けています。
 オンラインゲームは主にDSやWiiなどのゲーム機やパソコン、スマートフォンなどで出来ます。総務省の「青少年のインターネット利用と依存傾向に関する調査・2012年」によると、今や89%の小学生がさまざまな種類なのですがとくにかくゲーム機を所有しているらしいのです。インターネットに繋がる環境があれば誰でもゲームに参加できます。
 オンラインゲームで有名なのは2つあって、ひとつはMMORPGというもの・・・これは多人数同時参加型のロールプレイングゲームで、全世界の大勢の人たちがそれぞれの役割をしながらひとつのゲームに参加します。言っておきますが、これはオンラインとはいえバーチャルゲームで、何も生み出すものはありません。「つながり」が広がるなどと肯定的な意見もありますが、考えても見てください。会ったこともないような人間のつながりなど希薄なものです。
 しかし、精神的には、やればやるほどランクが上がっていきますからある種の達成感が得られます。そして、やがて自分は世界と繋がっているという錯覚を起こし、次第にオンラインの世界で自分が存在しているように思うようになっていくのです。まさに依存の典型的現象ですね。

続々とゲーム内容は進化する

 やったことがないので文献から知るだけですが、さらにFPSと呼ばれるシューティングゲームがあります。戦争ごっこみたいなことをするものです。こういうゲームでは、自分たちのチームが世界で今何位かということが絶えず出てきますから、チームの中で自分もそれなりの役割を果たしたりすると、あまり居場所が明確ではない現実の世界よりずっと心地よいわけです。こうして次第にゲームにのめりこみ、明け方まで続けることになる高校生や中学生が出てきます。そして、成績が下がったり、昼夜が逆転して引きこもり状態になったりするなど、さまざまな社会的影響が出始めています。
 こういうばあい、親がゲームのオンライン利用料などについて注意をすると暴言をはいたり、自分のアバター(ゲーム上の分身)を強くするために親のお金に無断で手を出し、勝手に課金を受けたりすることもあるから怖いものがあります。依存がひどくなると、子どもが無銭でネットカフェに行って警察につかまるケースも頻繁に出てきます。オンラインゲーム依存は、ゲームをしている時の心地よさへの依存なのですから始末が悪いのです。これは聞いた話ですが、知り合いのまた知り合いの子で中学1年なのに、昼夜逆転の生活、勉強も何もせずにゲームをしているという恐ろしさを感じる例の話を聞きました。ネットの中で感じた達成感や自分が活躍したという非現実体験が、さらにゲーマーである中高校生依存に追い込んでいくのでしょうね。

依存・心への影響

 では、どのような子どもたちがインターネット依存に陥りやすいのか、分析した本があります。
 ①現実の場面でコミュニケーーションがあまり上手でない子
 ②相手の顔を見る経験が少ない子、人間関係にも責任を感じるタイプ こだわりを持つタイプ
 ③自分の居場所やアイデンティティをうまく見つけられていないタイプの子ども…家庭環境の崩壊など。
 当然、こういう子がゲームにハマっていけば、オンラインの中に居場所や居心地の よさを見い出すだけでひきこもる。さらに社会生活に支障をきたした結果、現実世界ではうつ状態に落ち込む子どもたちも多いということです。ゲームだけではありません。LINEなどSNSもまた依存をつくり、子どもの頭をそれだけに集中させます。これは四六時中、画面を見ていないとおさまらないという状況をつくりだします少年事件の主役にもなってきました。

いわゆる電子画面からの問題

 ここであげた例は柔らかい例です。第二回目の犯罪事件の表をごらんください。すべてが挙げられているわけではなく、ほんの一部です。この極端な事件群はすべて何らかの形で幼少期、少年期にサブカルチャーの影響を受けたものです。
 サブカルチャーは意識が鈍感な下層階級から流行り始めます。もちろん、影響は個人差があり、のめり込まない子もいますし、のめり込む子もいます。また、極端な事件に走る子は氷山の一角ですが、いまや氷山は肥大化して百万人規模になっています。世の中全体になんとなく、不可解な状態が感じられるのは、この影響かもしれません。

影響は個人差があるが

 あらゆるものの影響は人間に起きますが、影響そのものは一律に起きるわけではありません。放射能や電磁波と同じで、同じ時間当たっていても影響が出る個人差は大きく、若者にはすぐ出るが老人にはなかなか出ないなんてことはよくあります。当然、同じ若者でも症状が出にくい人もいればすぐに出てしまう人もいますよね。
 つい数十年前までは、そんなものがなくても人間は生きていけましたが、いまやスマホやAIに頼らないと生きられない人間が増えているのかもしれません。
 最初に述べたニンテンドー・ファミコンですが、任天堂を世界規模の企業にした岩田社長はDSやWIIの開発、販売展開をした人です。しかし、55歳の若さで亡くなりました。社長自身がゲーマーで機種開発には能力を発揮したのですが、若い死去でした。しかし、問題は、この死去を「世界中で数百万の人々が惜しんだ」ということです。それだけファンがいて、軽い依存があるのです。人の死を惜しむことはけっして悪いことではありませんが、脳に著しい影響や変化をもたらすものの開発は、ある意味、武器を開発するのと同じく人類の負の側面を押し広げるようなものだと個人的には考えています。同じく「世界中の数百万の人々が惜しんだ死」にアップルでスマホを売りだしたスチーヴ・ジョブズ氏がいます。56歳でした。多くの依存症を産み、それでも巨万の富を得るには開発者本人も命を削らなければならないようです。

最終的結果

 結果として考えられることは、自分で考える能力の喪失・・・それは依存症の典型的な症状でもあるのですが、現実感を伴わない精神状態になるということでしょう。世界的、あるいは集団的には理性を失っていく傾向、知性に反する傾向が出てきます。こうなると言動でも行動でも自分自身をコントロールすることができないことになります。アニメオタク、あるいはサブカル中毒などの結果、他人の考えやイデオロギーをコピペするだけのロボットになってしまう恐れも出てきます。
 最近起こる理解不能な犯罪や事件、言動や行動はその実体を見せてくれています。それでも囲い込みを打ち破れないで、子どもを周囲と同じにしていくのか、それとも、ほんとうのことを見せて教えていくのか・・・これから教育組織もどんどん劣化していきます。自分の子どもをどういう大人にするのか・・・・それは親である大人の判断です。(つづく・おはなし会レジメ一部閲覧)



(2017年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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