ブロッター

ブログとツイッターを混ぜて、さらに異論、反論、オブジェクションで固めたものです。で、ブロッターというわけです。毎日書く暇も能力もないので、不定期のコメントです。

2020/春 comment
ブロッター1  罪人たちは何百となく何千となく、真っ黒な血の池の底から、うようよと這い上がって、細く光っている蜘蛛の糸に一列になりながらせっせと登って参ります。
 そこで?陀多は大きな声を出して、「こら罪人ども。この糸は己のものだぞ。お前たちは誰に尋いて、登ってきた。下りろ、下りろ」と喚きました。・・・・・
 こう叫んだとたん、また奈落の底に真っ逆さま。中学生のときに読んで以来、この場面が頭にこびりついている。どんな道徳の本より、私の心に恐ろしさを植えつけた話だ。蜘蛛を助けた小さな善意で救われた男が、利己心をちょっと出しただけで奈落の底へ。怖い。この読後感はいつまでも残り、虫を見ては蜘蛛を思い出し、悪事を見ては?陀多を想った。その意味ではトラウマになる物語でもある。  それにしても、人間を知っているくせに、助けてはまた突き放すお釈迦様はなんとも罪なお方ですね。
ブロッター2  実は『三国志』魏志倭人伝にはこのような国名は存在していない。女王卑弥呼がいた国が「邪馬臺国」だ、とは一切書いてないのである。
 倭人伝中、この国名が書いてあるのはこの文面一個所だけである。そこには「邪馬壹国」と書いてある。
 近畿か九州か、その場所の論争が長くされてきた邪馬台国。しかし、そんな名の国は存在していないと作者は言う。原文の「壹」が、似ている字「臺=台」に勝手に置き換えられ、無理やりヤマタイと読まれた。多くの学者が孫引き、コピペでヤマタイと読むのはヤマトに結び付けたかったから、か。なるほど、言われてみれば目から鱗で、原典には「邪馬台国」などない。原典や原文に当たる大切さを痛切に感じる一節だ。
 徹底的に三国志の著者の陳寿を信用し、そこから読み解いていく姿勢はじつに痛快である。これまでさほど考えなかった漢長里と魏晋朝短里の考察も鋭い。いままで文中の里数は漢のもの400mと考えられていたのを魏晋では75mとする。それで倭国内の諸国の距離を考えればとうてい近畿大和に邪馬台国があるわけもないことがわかる。
ブロッター3  「なぜ答えぬ・神殿や祭や神に羊を捧げる犠牲より大事なものがあるのか」という律法学者の問いにイエスは答える。
 「人のために泣くこと。ひと夜、死にゆく者の手を握ること、おのれの惨めさを噛みしめること、それさえも・・・・ダビデの神殿よりも過越の祭よりも高い」イエスは、くたびれた声で弱々しく答えた。
 ここでは、奇跡を行うイエスではなく、無力なイエスが描かれる。弱い者や悩んでいる人、苦しむ病人のそばで、ひたすら一緒に悩み、苦しみ、ともにいるだけのイエス。それが民衆の支持を得始めたとき、権力者は、そのやさしさが人気を生み、大きくなるのを恐れ、彼を死に追いやる。
 立身出世で頭が弱肉強食という正義しか持てなくなった現代人の背後にも弱く、みじめな人たちがいる。これを寄付や上から目線の博愛でとらえても心の中は何も解決を見ない。
 この本の読後には、弱者たちだけでなく読者もまた、「なにもできなくても人にやさしくする」ということが権力や金銭よりはるかに強いと改めて考えることとなるだろう。
   

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