ブロッター

ブログとツイッターを混ぜて、さらに異論、反論、オブジェクションで固めたものです。で、ブロッターというわけです。毎日書く暇も能力もないので、不定期のコメントです。

2017/秋 comment
ブロッター1  「村では年寄りを裏山に捨てたものだった。或る時、老婆を捨てたところが這って帰ってきてしまったのである。その家の者は「這ってきた、這ってきた、蟹のようだ」と騒いで戸をぴったり締めて中に入れなかったのである・・・(本文より)」・・・
 ♪ 這ってきたとて戸で入れぬ。蟹は夜鳴く鳥じゃない。これは著者が作った歌・楢山節だが、この解説をしながら展開する有名な姥捨ての物語である。
 貧しくて口減らしのための策だった姥捨て。哀しい結末には多く人が涙しかし、この豊かな現代でも老人の孤独死三万人、生産性のない人間は切り捨てるという政策。老人は働かねばならず、親殺し、子殺しも頻繁だ。
 これでは、文明化した戦国の世の中のようなもので、なにもかもが見えている情報社会だから、もっと始末が悪い。また昔に戻っていくのだろうか。
ブロッター2  「父は借金に追い立てられ、極地で写したフィルム一巻を携え、全国に映画講演旅行に赴いたのです。住居は転々と十数回かわり、私が結婚して朝鮮に渡ってからは、それがさらにひどく、時には別荘番をしたこともあります。(本文より)」
 これは南極探検の英雄・白瀬中尉のその後の生活を娘が述べたもの。上下2巻の大作である。白瀬の誕生から幼少年期、また軍人になってからの軌跡がえんえんと克明につづられる。その白瀬の晩年を娘が口述したものがこれ。
 アムンゼン、スコットと競争した人物の後半生とは思えない哀れさが漂う。白瀬は、老いてもなお太平洋戦争中を生き、敗戦直後に八十五歳で亡くなった。
 それにしても、我々が近代史で英雄・偉人と教えられてきた人々が、意外に悲劇的な、あるいは悪辣な人間像を持っていたか・・・学校の授業では知る由もないことを本は教えてくれると痛感した。
ブロッター3  「開皇二十年,倭王あり、姓は阿毎、名は多利思比孤、阿輩?彌と號す。(中略)王の妻は?彌と號す。後宮に女・六、七百人有り。太子を名付けて利歌彌多弗利と為す。城郭無し。」という不思議な文がある。なぜ不思議かというと、こんなことを我々は日本史で教わらなかったからだ。

 これは中国・正史・隋書が日本について記した文章だ。開皇二十年は西暦六百年、女帝・推古天皇の時代。
 しかし、そこの王はなんと阿毎(あま)という苗字を持ち、妻までいる。後宮まである。推古天皇であるわけがない。聖徳太子? 中国の使者は男と女を見誤ったのか! 天皇と皇太子を間違えたのか! いや聖徳太子はタリシヒコなどという名など持たない。この後、さらに続く文では火を吹く阿蘇山や夜中に光る不知火が記される。なんとも不思議というよりはない。
 日本書紀が正しいのか、中国の正史が正しいのか・・・これについて、日本の学者はどういっているのか。知りたくなった。
   

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