ブロッター

ブログとツイッターを混ぜて、さらに異論、反論、オブジェクションで固めたものです。で、ブロッターというわけです。毎日書く暇も能力もないので、不定期のコメントです。

2016/秋 comment
ブロッター1  革帯がひとつ紛失していた。もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。彼にその骨折り賃として何銭かあげようとしたが、彼は旅の終わりまで無事届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受け取らなかった。

 明治初期、東北・北海道を旅した英国女性・イザベラバードの紀行文だ。「日本は汚い!」「不衛生だ」と綴っていた彼女が、旅を続けるうちに、しだいに日本の美しさに気が付いていく。人々はお互いに親切であり、礼儀正しいと絶賛する。風景だけでなく、人の心もまた。
 当時の東北人は、まだ「江戸人」で、それを彼女は、次々に発見していくのである。まだ、日本人が欲で汚れていなかった時代の人物と風景。この一節は、會津坂下をすぎたところのものだ。
ブロッター2   シェークスピアの『アゼンスとタイモン』」の中に「武士の徳である名誉心は、利益を得て恥辱をこうむるよりは、むしろ損失を選ぶ。」というヴェンティディウスのせりふがあるが、武士道は非経済的であって、貧困をもって誇りとした。

 たしかに、ドン・キホーテは、金銀や領地よりも錆びた槍、やせた馬を誇りにした。
 消えて久しい精神だが、新渡戸稲造の生きた時代にはまだ残っていたのだろう。南北戦争の余った銃で一稼ぎして祇園でドンチャン騒ぎをした龍馬や限りなく欲を追った福澤諭吉などに聞かせたいセリフだ。武士がやせても枯れても名誉心を考えていた時代と、歩いた後には薄汚い足跡が残る現代。さて、どちらが人間的なのだろうか。
ブロッター3   私が取りつかれていたのはもう一つの速度の歴史であり、それは二輪の足蹴り自転車から、人力飛行機にいたる「役に立たない速度の歴史」である。

 これは、寺山少年が本を万引きして、逃げ切れずに捕まり袋叩きに遭った体験から出た思想である。
 速度の歴史は「逃げる手段の歴史」というわけだ。それが、万引き少年の大脱走論ではなく、社会の速度に反抗して、既成社会から「逃げる」、自分の日常から「逃げる」ということにまで話が及んでいく。そして「速度は権力的だ」と断ずる。これが、彼の「自らを守るためには速度が必要なのだ」という結論につながる。
 彼は説く。書を読み、書を捨て、現実を生きろ!と。
   

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