ブロッター

ブログとツイッターを混ぜて、さらに異論、反論、オブジェクションで固めたものです。で、ブロッターというわけです。毎日書く暇も能力もないので、不定期のコメントです。

2013/春 comment
ブロッター1  すぐれた作家、すぐれた脚本家は未来を読み取れるものをつむぎだす。たとえばジョージ・オーウエルの「1984」など監視・検閲の社会が到来することを予言した本だが、それはレイブラッドベリの「華氏451度」も同じだ。これは文学だけでなく映画、演劇、マンガ、ネットなどでもすぐれたものは未来を予見する。SF映画でも時間が経つとそうなっていることに驚かされることがある。
 たとえば最近、歴史修正主義とか都市伝説とかオカルト的な神秘主義が世の中の一部で出始めたが、1999年に書かれた左の本は、その動きがなぜ出てくるのかを綿密に説明している。引用が多く、調べないと読みにくい本でもあるが、「〜はなかった」という修正論やUFOからのメッセージなどがユダヤの陰謀である風潮への反論として述べられる。しかし、はびこる反知性はそれを乗り越えて増殖する可能性もある。先を見る一冊でもある。
ブロッター2  2年前の春・・・テレビで流される津波の映像を見て息を飲んで沈黙していた。あまりにも圧倒的な力に感想も衝撃も何も感じず、ただ黙ってみているよりなかった。2万人の人が死んだ実感が出てこない。
 この本を読むと、その状況が「体験」と「未体験」の大きな差であることがわかる。地震や津波の恐ろしさは、あたりまえのことながら体験しなければわからないということだ。地震や津波だけではない。目に見えぬ放射能もまた接していない地方(例えば西日本)での怖れと東日本での怖れの違いがある。体験しなければ、ほんとうのことはわからない。テレビの映像では驚愕する揺れもすべてを飲み込む津波も実感はない。ここには昭和九年の津波を体験した子どもの作文が載っているが、読んで涙が出ても子どもが体験した恐ろしさが感じられないのだ。せめて、このノンフィクションから、想像力で自然の恐ろしさを得るよりない。これは哀しいものがある。
ブロッター3  村上ファンが山ほどいるらしいが、私はじつは数冊しか読んでいない。読んでいないというのは正確ではない。しかたなく読んで、途中で嫌になって閉じることが多い。読んでいて、なんとも「よくわからない」感があるからだ。「ノルウエイの森」は赤い巻で挫折した。「1Q84」は理解力がないせいかテーマがわからない。で、今回の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」という長たらしいタイトルも期待せずに読んだが、設定がふつうすぎるし、何で名前で色分けをするのか? それが何の暗示なのかもわからなかった、内容はくだらない色恋沙汰の神経戦のようなもので、作者の意見も見えてこない。それでどうした、だからどうなんだ・・・いつもの感覚。なんで、こんなものにみんな食いつくのだろう。ふつうの人間関係なのに荒唐無稽感がありすぎ。村上読みはこの本で終わりにしようと思った。
   

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