ブッククラブニュース
令和8年
6月号(発達年齢ブッククラブ)

2026年6月、7月の予定

定休日は日曜、月曜、祭日です。
毎年3月3日から9月20日まで営業時間は
★午前10時30分〜午後6時30分(夏時間)です。
6月は定休日のみの休業です。
7月は海の日の7月20日が休業日です
 受け取りの方で時間外に来た方は電話かピンポンで呼び出してください
 休日も事前にお電話をいただけば店を開けます。
 ゆめやは零細商店ですので「昭和」の感覚でお出かけください。
 休業日でもたいてい在店していますので、ご遠慮なく。
 電話番号は、ニュースの表面に書いてあります。また事前にメールをくださればできる限り、ご指定の時間に対応できます。メールは新聞の表面にあります。買いものに出かけているときもありますが・・・そのときはごめんなさい。

親たちの言葉にあせる?!

 園に入る・・・すると親同士の会話が耳に入ってきます。
 「Aちゃんは一歳から英語教室に行ってるんだって!」「Bちゃんは四歳なのに足し算ができるんだよ!」「勉強って三歳までに始めないと脳の発達が遅れるんだって!」というような情報が飛び交っています。
 これは私が子育てしていたときもあった話で、つまり半世紀くらい、ずっと言われて続けてきた話です。
 まあ、高度成長で豊かになり、バブルでリッチになったので自分の子は成功させたいという親の思いが生み出したものでしょうね。でも「相手を気遣う子にしたい訓練は、どこで?」とか「三歳までは親がしっかりと世話をしないと性格破綻が起きるんだって!」という話は出ません。

「三高」という目的

 そのころ「三高」という言葉が流行ってました。高学歴・高身長・高収入。それは受験・スポーツ・高偏差値を目指せ!ということです。いまの親世代の方々は、そういう中で育ってきた子ではないでしょうか。
 良くも悪くも生活のなかにしっかり根付いた価値観です。当然、同じことを繰り返す人たちも出てきますね。
 ところが今世紀に入って世の中が変わりました。でも、なかなか考えを変えられない。だから冒頭のような話を聞くとあせる人も多いはずです。
 「三高」が語られなくなったにもかかわらず、身に付いた考えは消えないものです。生活や地位上昇の道筋が壊され、多くが将来への展望を持てず、理想を言うより生存することだけが目的の時代になっても考えだけは消えない。「三高」自体が時代遅れになったわけではありません。「三高」を夢見られる社会が、時の流れから消されてしまっているのですね。

できる・できない成績とは・・・

 我が家は、店を始めたときに子どもが連続して生まれました。自営なので、手は掛ける時間はあるが、習い事にやる金はない。本屋の利益は信じられないほど低いのです。そこで、江戸時代のように親が教えるよりなかった。計算も習字も教えたが、上に行けば教科もむずかしくなる。数学も英語も私の頭の限度で教えたが、子どもは嫌だったでしょう(笑)。でも、そのお勉強は七・八年ほどで短かったので、なんとかやれました。
 問題は成績ですが、それが目的ではないので、気楽なものでした。ある程度の常識的学力がつき、おかしな人間にならなければいいわけです。
 成績アップについては、どうにかする方法がなかったのです。教えた経験のある人はわかると思いますが、子どもは「教えたからできるようになるわけはない」のです。
 早い話、勉強が「できる」子は教えなくてもできるし、勉強が「できない」子はいくら教えても、なかなか「できるようにはならない」という、身もふたもない事実に気がつきますよね。
 「できる」子は、教えた知識や事項を自力で整理してまとめ、頭に入れていくのですが、「できない」子は、整理させてまとめるようにと教え方を試みますが、それでもなかなかできない。
 この原因は、いろいろ考えましたが、小さい頃に「整理してまとめる力がつかなかったからだ」と思いました。
 その大きな原因は「親の存在」でしょう。親があせって、ああでもない、こうでもないと口を出し、子どもの自立(まとめ、整理する力の成長)を邪魔してしまうのです。
 「ここはこうでしょ!」「それはこうして!」・・・と底の浅い自分の経験で、せっかくの子どもの把握力・整理力を抑え込んでしまうというわけです。
 かんたんに言えば「子離れができない」ということです。そういうことは赤ん坊程度の子に教えること。頭ができあがってきたら「自分で考えて!」と、突き放したほうが「できる子」は育つのです。(ニュース一部閲覧)

①読み聞かせ・なぜ生後10ケ月からか・・・

 読み聞かせ開始時期には、いろいろな意見がありますが、ゆめやは読み聞かせのスタートは生後十か月前後だと思っています。これはヒトの歴史を見ればわかることで類人猿は言葉化された言語をもちません。だいたい脳の容積が1500ccくらいの人類になって言葉を持ち始めます。それまでは、物の認識や音や光に対する反応が主です。赤ちゃんは生まれたときは四足歩行もできない哺乳類ですが、だいたい十か月後には言葉に反応できるほどの直立猿人(笑)になります。それまでは声をかけたり、歌を唄ったり、物に触らせたりする準備期間が必要ですね。
 物にさわらせておかないと、本を物にしか見ないで、叩いたり、破ったり、積み重ねたりする子も出てきます。それが1歳半まで続くことも。これでは困るので、場面を見て聞くための準備は0歳前半から始め、1歳近くに赤ちゃん絵本に入るのが常道でしょうね。

最初の配本

 ですから配本は原則生後10ケ月から始めています。
 とはいえ、個人差はあります。個性ももう出てきますので、そこは親が調整です。
 これからあとは、発達特徴に合わせた本になっていくので変化が大きいです。まあ、たいていのお子さんはそれなりに反応して楽しめます。もちろん、0歳の最初からでも親との対話は重ねてください。耳は聞こえますからね。笑顔や快い声掛けは効果がありますよ。その状況の動作関連の言葉をうまくかけるのがいいですね。配本ではまず最初は実物に近い絵(アニメや漫画っぽい絵柄ではなく写実的なものを使いたいですね。ゆめやからは月齢に合わせて「どうぶつ」「くだもの」「みのまわり」「動作」などの適切と思われる配本をしていきます。

絵本作家さんの考え② 長谷川摂子さん

 考えてみると長谷川摂子先生とはもう30年以上前に出会ったこととなる。この写真の日付が1991年なので40年近く前かもしれない。
 苗字が同じ「長谷川」なのでお互いに名前で呼びにくく、私は「先生」と呼び、先生は「ゆめやさん」と言うことになった。
 御出身は島根の宍道湖の西・平田市。で、出雲の神話に花が咲いて、いろいろなことを教えていただいた。本もたくさんお書きになっているが、博識で絵本論もすばらしかった。
 そりゃそうだ!東京外大仏語科卒で東大哲学科。太刀打ちできるどころか、ひたすら話を聞くばかりのお付き合いだったが・・・。
 だから、その知識と考えを私たちが立ち上げた「山梨子ども図書館」の講座の講師になってもらい、語ってくれるよう依頼してみた。
 好評だったので2度もお願いして講義していただいた。ここで語られた話は貴重な絵本論である。これの記録を事務局は作ったのかなぁ、作っていないとすればもったいない話である。
 こういうことからお付き合いが続いたが、残念なことに大病を発して2011年の秋にお亡くなりになった。いま御存命なら朝ドラの「ばけばけ」の話で盛り上がったのに!と残念でたまらない。
 出雲大社の話を聞いたときに「そういう神社だったのか!」と思ったことがあるし、山陰地方の昔話の背景も出雲族の滅亡と関係があるような話もされた記憶がある。
 そのつながりで摂子先生からは、島根と鳥取の昔話についての多くの話を聞いた。摂子先生の絵本にはいろんな妖怪が登場する。次に挙げる絵本は、次の2点の絵本も昔話的妖怪話である。どちらもおもしろい。

カッパやキツネなどの妖怪が出てくる

 なぜ出雲、鳥取に怪談話のようなたくさん残るかというと、出雲も伯耆(鳥取)も天孫族に滅ぼされた地域で、悲しい事実がたくさんあって、それが怪談的民話として残ったと教えていただいた。しいたげられた民がつくりだす話は、妖しく悲しいテーマが民話として出てくる。これは出雲だけではない。東北地方の民話もその要素がある。
 民俗学者・柳田國男の「遠野物語」、「妖怪談義」はまさにその代表と言えるだろう。東北も蝦夷征伐で悲惨な歴史をもった地域で悲しい事実が多く存在し、それが物語になったといえる。その化身が河童や座敷童になるというわけだ。征伐した側にとっては、彼らが怨霊となり祟ることを恐れたと思う。だから神社を建て、祀る。押し込めておくのも祟りのもとだから年に一度、おみこしに載せて運動不足を解消させ、すぐまた押し込める。うまく考えたものだ。表向きはお祭り。裏では祟りの恐ろしさを怪談や民話で伝え残す。

出雲もそうだったようだ

 摂子先生のいうことには、怪談・奇談の多くは祟り信仰があったからだという。つまり出雲では主神オオクニヌシもものすごいタタリ神ということだったわけだ。だから拝殿には普通の人は入れない。天皇ですら入れないのだという。
 なるほど、朝ドラ「ばけばけ」でも出雲大社にラフカディオハーンと妻・おトキさんが参拝するところがあるが、拝殿には入れず、八足門という外部の門のところまでだった。つまりは、タタリ神がいまでもいるのですね。
 この拝殿がまたスゴイらしい。だれも入れぬが、通説では、オオクニヌシは拝殿内部の壁の内側に押し込められ、その出口はアマテラス系の神々5神が出られないように守っているとのことだ。つまりタタリ神は押し込めておくにかぎるというものである。しかも、この拝殿は平安時代でも高さ16丈(48m)あったそうだ。国教の仏教の伽藍で一番大きい大仏殿や政治の中枢・御所の紫宸殿よりも大きいのである。倒して殲滅した国の主を祀る神殿が・・・・だ。

タタリを恐れる文化を持つ国

 「悲しい歴史を持つ国では、怪談や怖い説話が残る」という言葉に、「なるほど出雲・鳥取・東北で怪談が多いのはそういうことだったのか!と納得した。水木しげるの「墓場の鬼太郎」も鳥取の妖怪たちなのだが、きっかけは前述の柳田國男の「妖怪談義」を知って、妖怪の漫画を描き始めたという。「こなきじじい」「いったんもめん」「ねずみおとこ」「すなかけばばあ」など・・・漫画だから怖い妖怪ではなく、ユーモラスな姿だが、その背後の歴史には征伐された住民の悲しい経験が見え隠れしているように感じる。
 座敷童子にしても白戸三平の漫画では、忍者集団から脱走した「抜け忍」のじいさんが、自分を大切にしてくれている家族に姿を見せずに世話をし、百姓一揆を率いた主の家族のために戦う姿を描いている。さて、ここの写真の右に立っているおじいさんは、日本最大の妖怪「ゆめじじい」ですよ。(ニュース一部閲覧)

泣く子と地頭には勝てぬ

 社会科で教わった言葉ですが覚えてますか?
 「泣く子と地頭には勝てない」・・・教わらなかった人にちょっと説明ね。
 「泣く子」はわかりますよね。火のついたように泣く子をなだめても泣き止まない、ギャアギャア、ピーピー・・・寝かそうとフトンに下ろすと火のついたように泣きだす。抱いていても泣く・・・交代で背負っても泣きだす・・・手が付けられない、どうにもならないという表現です。
 泣き始めた子でこういう子は多いのです。手が付けられない状態になりますね。
 次の「地頭には勝てない」の地頭は鎌倉・室町の地方行政職「守護」に並ぶ権力者です。地方を治めていて警察権・徴税権の強い力で民を押さえつける人でした。領民が、逆らっても勝ち目はない。すぐ国家機密法のようなもので捕まえて拷問。庶民はいつの時代でも、こういう権力者の横暴には痛めつけられますね。・・・・だから「地頭には勝てない」という言葉が生まれました。
 しかし、泣く子と同じく、そういう権力者は頭がよくない人が多いので、うまくあやす方法もあるのです。これが日本という国ではなかなか機能しないで、正攻法で頭の悪い権力者と戦ってしまいます。これでは武器を持つ相手にはなかなか勝てません。庶民も頭のよさで地頭相手に対抗する必要があるのです。
 それが地頭(ジアタマ)の良さというものです。庶民も、このジアタマをよくしないと不要な税金を取られ、痛い目に遭いぱなしになりますからね。

地頭 「ジアタマ」と読んでね!

 でも、今回はそういう歴史の話ではない「頭のよさ」について語りましょう。。
 地頭は「ジアタマ」と読みます。ジアタマというのは、知識があって、その力を応用して理解力を高める頭脳です。
 これは学習や訓練だけで伸びるものではなく、小さいころから、言葉の理解・遊びを通して、物事の関係を学び・読書を通じて考え方を集め・対人関係を会話でうまく築く、アイディアを出して実行する・・・これがやがて何かできることにつながります。こういう人を「地頭が良い人」といい、これは学校の単純な勉強や暗記で身に着けられないものなのです。ジアタマの良い人の会話を聞いていると、話が飛ぶことが多いのですが、しっかりと解説もできる人でもあるので聞いていて思いがけぬことがわかることもあります。

偏差値を上げる?

 「頭が良い」のは「偏差値が高い」と思っている方がいます。それは、まちがい。頭のよさは、成績が良いこととイコールではありません。
 受験勉強をした方はわかると思いますが、偏差値を上げる効果的な方法は「不得意科目を勉強して全分野で高得点を得ること」です。得意科目で点を取るのではなく不得意科目で高得点を取れば全体の偏差値はまちがいなくあがります。あたりまえですよね。数学95点でも国語55点では偏差値は低くなります。数学85点、国語80点の方が偏差値は高くなる。
 一般に高得点(高偏差値)を取る生徒は不得意科目の点を高くする勉強をします。不得意科目は、その子が嫌いな科目です。それをコツコツ努力して嫌いなものに耐えて努力した子が高い偏差値となって「報われる」。これが高い偏差値になるということ。でも、それは重要なことではないのですよ。
 偏差値絶対時代の学校(成績)や企業(仕事)では、この努力や苦労が高く評価されていました。しかし、いまや、企業では不得意科目征服型の学習は役に立たなくなりつつあります。
 消費者が望んでいるものを探す、客が抱えている問題に向き合うなどに対応できない頭になるからです。「なぜなのか?」「どういうふうにしたらいいのか?」という頭が働かなければ解決できません。専門的な知識や経験を振り回すだけでは仕事にならないのです。

考える力・考え出す力

 泣いている赤ん坊をどうすればうまく扱えるか? 無用な税金を課されても払うのか? 「赤ん坊は泣くものだ」、「税金は払うものだ」となれば、我慢ばかりで対策は生まれません。仕事でも同じで、なぜこんな大変なことをしなければならないか、顧客の悩みに対応するにはどうしたらいいか・・・などいろいろな発想が出てこないと、顧客対応していくことができません。
 この時代は、不要な知識を積み上げるだけではなく(そんなものはAIにまかせればいい)、新たな発案がどうしても必要な時代なんです。
 そのためにも子どもはまず、人と遊ぶこと、ものを作ること、まともな本を多様に読むこと、さまざまな人と話すこと・・・この4点が地頭形成に必須事項なのです。 まあ昔ながらの子どもの成育をすればいいわけです。考えてください。江戸時代にろくに寺子屋にもいかなかった子の方が識字率が高く、中には遊女・花魁まで黄表紙のような漢字だらけの本を楽しめたのです。そして、その物語の中から多くの人間像を学び、自分の生き方や考え方に使って行ったのでしょう。それを指導したのは、寺子屋の学頭もいたでしょうが、周囲のおばさん、おじさん、父や母だったのです。その人たちは生身の人ですから、自分の人生で得た知識や考えを伝えたと思うのです。
 AIは、聞いたことに答えてはくれるでしょうが、それはありきたりの回答例にすぎません。なにしろ生身の人間ではないですから、質問者の様子や考えのプロセスなどは把握できません。答えは冷たいものとなります。
 前述のように小さいうちから、日々、人と接する、物を扱う、いろいろな考えを頭に入れる、難しいことではありませんよ。ふつうの家庭であれば当たり前に身に付くことなのです。子ども園に12時間も預けて、入浴と、食事、寝かすだけの家庭では地頭はよくなりません。
 そうでない普通の日常をつくってみましょう。いや、つくらねば、この国は衰退してしまいます。(新聞一部閲覧)

言葉が壊れ始めた・・・・

 だんだん日本語が壊れている感じがするのです。ネットニュースの下に出るテロップがおかしい。文の言葉でよくわからんものが多いわけで。例えばですね。
 ●バスは鑑賞ドラムにぶつかり、・・・・
 (鑑賞ドラムなるものが磐越高速道路にあるのか?)
 ●上皇ご夫妻は葉山御用邸で西洋に入られました。
 (葉山御用邸からいきなりヨーロッパに行けるのか?)
 ●死亡したのは十人の田中すみえさんで、・・・・
 (同姓同名の田中さんが十人も死亡するのか?)
 日本語には同音意義語が多数存在する、この表記を間違えるととんでもない文になる。意味がわからなくなるわけである。緩衝ドラム、静養、住人が適語なのだが。
 こういう文を読んでいく子どもや若者が、だんだん学習上、仕事上でわけのわからない言葉を使い、間違えても平気になる可能性がなくはないか!
 誤った字使い、言葉使いがネット文や巷(ちまた)の広告にはとくに多い。子どもへの影響はとくに大きいなぁと感じるわけです。争いのもとにならねばと祈るばかりです。
 昔、世界一高い塔を造った国の王さまが、天に向かって弓を引き、矢が神さまに向かって行ったので、神さまが怒って塔を壊したら、作っていた人達の言葉が乱れて意志の疎通ができなくなったというエピソードがありました。中東のバビロニアの話ですが、いま中東ではアメリカや日本より高いビルを造っています。なるほど意志の疎通ができなくなって戦乱が起き始めました。アメリカや日本もなんとなく危うい。言葉は大切なんです。

品名表示のミスがひじょうに多い

 例えば、商品の表示はラベルライターやPCで打って印刷する。言葉や字、意味合いを知らない人が打つとわけのわからない表示が出る。困ったものだ。
 これはスーパーマーケットの果物売り場の商品表示。たしかに「苺」と「毒」は似ているような漢字に見える人もいるが、まったく違う字である。
 苺はフルーツ。毒は怖い薬。
 これを表示して、だれも気が付かないというのは不思議な現象である。打った人は「いちご」と打ったのではあるまい。例えばWORDで「いちご」と打てば「いちご」「イチゴ」「苺」「一期」「壱語」「一語」「一悟」と出る。「毒」は出ないから選択しようがない。ということは苺という字を見て「毒」に似ているから「毒」を選んだとみるしかない。もちろん、多くの消費者はこのラベルを見て笑うだけだが、在留外国人や子どもは「これがイチゴという字か!」と思うことだろう。

手書きのマチガイ

 手書きは間違いが多い。これは、ある意味、むかしからあることで間違いを指摘するよりないのだが、左の表示は、あきらかに辛子を幸子と間違えている。ヒョイと間違えたのならいいが、現物のオニギリに「辛子明太子」とあるのだから、ただの書き間違いだろう。辛を幸と見てしまったわけだ。
 冗談として考えれば、辛子メンタイコは辛い。だが、小林幸子栽培の幸子メンタイコは甘いのか辛いのかわからん。ラベルライターを打ったり、手書きをする従業員の「識字率を調べたい」ものだと思う。
 まあ、許せる「手書き間違い」でもあるが、この人は明太子をメンタイコと読めるのだろうかと余計な心配まで出てくる。聞いてみたいものだ。
 「メイタイシ」「メイタコ」「ミンタイシ」・・・日本語の読みは多様である。売れ残ったものを40円も値引きしてくれる御奉仕精神には敬意を表すが、少し辛い漢字勉強をして、辛くも難問を読解できるよう、私の辛辣な意見も聞いてもらいたいものだ。言葉が崩れれば、人間関係も崩れていく。それが言語の本質なのだから・・・・・。

同音異義語の極まり

 日本語は同音異義語の山である。このタイトル「同音異義語のキワマリ」と打ったら「同音異義語の窮まり」と出た。なるほど、この言葉の方がタイトルに適していると思った。でも、まあ妥当に「極まり」にしておこう。
 さて、写真は秋田県産のブドウだ。こういう商品表示をされると秋田では企業がブドウをつくっているのではないかと思ったりする。山梨ではブドウはみんな葡萄農家がつくる。しかし秋田では企業がつくる。うまく作れないと社員は大量に首を切られるらしい。だから社員マスカットか・・・。 こわいね。
 人気のある品種らしいが、生粋の甲州人である私には皮ごと食べられるブドウなどブドウの風上にも置けない代物だ。それにたいしてうまいものでもない。CMに煽られてうまいブドウと思い込んでいる消費者が多いのだろう。だいたい値段が高すぎる。ひと房で2000円なんてブドウは邪道も邪道。こういうものを作って売る連中は大量に首を切りたくなる。

意図的なマチガイか!

 さて山梨県はぶどうの産地だが「巨乳」という品種はない。「巨峰」というおおきな甘みの強い黒い葡萄はあるが巨乳はない。これはあきらかにこの商品表示者が思い込みを字にしたものだろう。「巨」と来れば「巨人」か「巨乳」しか思いつかない人が打ち込んだ品名としか言えない。
 私がこのチラシを作っても、こういう間違いはしないはず。ゆめやのおばちゃんは貧乳だし。会員のお母さま方でも巨乳は多くない。山梨県産なら巨乳はありえないと思う(笑)。
 だから、私には頭のなかに巨乳願望がなので、こういう打ちミスはないというわけである。巨峰と巨乳を間違えること自体があるわけがないことで、頭の中に「巨+〇」の単純な熟語しか思いつかなかった人のしわざである。

焼き魚と鮮魚の区別は?

 これが「鮮魚」なのか。焼きたての鮮魚はないだろう。
 もうこうなると、ラベルライターが外国人実習生かと思ったりする。こどもがこういう言葉を覚えてしまうと、もはや教養の問題になる。
 どこをどう考えて、このタイヤキが「鮮魚」なのだろう。この表示を打った人は外国人なのかまるっきりの無教養なのかわからないが、「鮮魚」という言葉の意味が分かれば、タイヤキに、この言葉を表記できるわけがない。
 まさか鮮魚が「あざやかな色をした魚」とでも思ったのだろうか。今後、字を知らない、言葉をしらないという現象が社会現象になると思う。言葉はお互いの意思疎通のツールである。わけのわからない言葉が多くなるということは、その社会で混乱が始まるということでもある。

無教養なのか新知識なのか・・・

 字の間違いはないが 「子持ちシシャモ」といえば卵がお腹の中にあるメスのししゃもである。まあ、卵がたくさん入っている魚だから、あぶっただけでもおいしい。
 ところが、ここには「子持ちししゃも(オス)」とある。???最近の養殖ものでシシャモを性転換する高度な技術が行われているとしたら、指摘した私の負けになるのだが、そんな技術はあるのかないのか。それにしてもオスの子持ちししゃもとはね。
 まあ、科学の進歩はハンパでないからオスが卵を腹の中に持つ時代になったのかもしれないのだが・・・・まず、そんなことはあるまい。
 このように言葉ひとつで、そんな奥深いことまで考えなくてはならない面倒な時代になったということなのだろう。それとも「こういう細かいことなど気にしないで生きるのがグローバル社会というものなのだ」と言う人もいるかもしれない。「こだわりすぎですよ!」とのたまう人もいるかもしれない。言葉というものは、ほんとうにむずかしい。一つの言葉の背後に、さまざまに考えなければならない要素を含んでいるからだ。
 単純な使い方ミス、字の選択ミス、意味の取違いミスが起これば読み取りも会話も成立するのがむずかしくなる。いま、ブッククラブ内部でも「漢字の多い本は嫌い」「長文の本は嫌い」という傾向が強まっている。もちろん、アニメや漫画、youtubeドラマの影響だ。絵で見てわかる・・・・そうなると日本語は、あるいは漢字文化やアルファベット文化は、だんだん古代エジプトの象形文字文化に変化していくのではないかとも思ったりする。

意味不明の標語

 横浜の港北区綱島に立てられた看板。まあ、標語と言えば標語である。港北区の保護司会の人が書いた言葉らしい。
 「悪いこと 教えてあげれば 大親友」とある。言葉に間違いはないが、文の意味が分からない。あなたはどう読み取ります?
 おそらくこれは二重の誤りがある。本来、作者は「それは悪いことだと教えてあげれば 大親友になる」という意味を言いたかったのだろう。しかし、標語は五・七・五で書くと良いという日本語の習慣的な罠にはまったのだと思われる。「悪いと教えてあげれば 大親友」ならば「それは悪いことだよ、やめな!と教えて、以後、仲良くなる」という意味に取れる。
 だが、「悪いこと 教えてあげれば 大親友」であれば、「裏金はこういうふうに作るんだよ、うまくやって仲良くしようぜ!」という意味にしか取れないから、これは、こんな道端に立てる看板ではない。国会の廊下か、どこかの党の食堂にでも立てれば意味が分かってもらえるだろう。
 こういうものが、この国に満ち溢れないような時代にしたいものだが、最近の傾向を見ていると、言葉をきちんと使う時代は遠のいているような気がする。(新聞・一部閲覧)



(2026年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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