ブッククラブニュース
令和6年
11月号(発達年齢ブッククラブ)
2024年11月、12月の予定
定休日は日曜、月曜、祭日です。
11月は臨時休業はありません。日曜・月曜・祭日のみが休業です。
11月は3日、23日が祭日ですが、来店受け取りの方のために営業します。
12月は29日から1月5日まで年末年始休業です。
休業日・時間外受け取りは事前にお電話ください。
外出していないかぎりOKです。また前日のご連絡なら在店するようにします。
★通常日の営業時間は午前10時30分〜午後6時00分(冬時間)
受け取りの方で午後6時以降に来た方は電話かピンポンで呼び出してください。
なにしろゆめやは零細商店ですので「昭和」の感覚でお出かけください。たいてい在店していますので店を開けます。ご遠慮なく。たまに買いものに出かけているときもありますが・・・。
発送会員の方へ
11月からニュースを2ケ月まとめて送付ということになります。
封筒・文書用紙・印刷用紙など通信に必要なものの価格が約1.5倍に。さらにひどいのは郵便代の値上げ。ハガキ、封書を通信に使うゆめやにはたまらないものがありますが会費・通信費などの値上げはしないつもりです。開店以来44年間、一度も値上げをしてこなかったので、ここは踏ん張ります。せめてもの抵抗。
書籍の利益はひじょうに少ないので大変ですが、皆様にご迷惑がかからぬように工夫で乗り切るよりありません。このため2ケ月分ニュース・新聞をまとめて送ることにしました。毎月、ほしい方は別にご連絡をお願いします。
また振替・振り込みのお礼をハガキで行ってましたが、そのハガキは翌月のニュース・新聞に同封します。
●ですから、配本代の振替・振込は、できるかぎりお届け1ケ月以内にお支払いください。そうしないと返信が遅くなります。これまでは請求督促をハガキで出していましたが、お支払いが遅くなった場合は督促代を加算します。ご注意ください。
●振り込みの方は、振り込んだことをメールでお知らせくだされば確認は返信で連絡します。
すべてこれまでの政治の悪影響。国がすべきことをしないようにした郵政改革はしてはならないことでしたね
発達対応絵本 ⑦ 3歳-2
3歳では多くの子どもが周りの人と自由に会話できるようになります。つまり親子や家族とだった人間関係が、それより広がったものになっていきます。これと同時に表現する言葉が飛躍的に増えます。
言語には表現言語(しゃべって伝えようとする言葉)と理解言語(話では使えないけれど、聞いてわかる言葉)があり、3歳児では表現言語がおよそ1000〜1200語、理解言語は2500〜3500語と言われています。これだけあれば日常会話は大人並みです。
さらに大切なのは、会話でもそうですが、日本語は時に応じてひとつの言語が異なった意味表現を持つことがあります。場によって微妙に、またかなり違う使い方がありますので、これは教えごとでマスターできるものではありません。同音異義語も、言葉そのものよりそれが使われた時に「こっちだ!」と分かるものなので、それも母語として学ぶ上でひじょうにむずかしい要素があります。
しかし、不思議なことに日本人の子はこの違いやニュアンスなどを耳だけで5,6歳までにわかる力を形成してしまうのです。読み聞かせれば読み聞かせるだけ、その力がついてきますから、単純な日常会話しかできない人間にしないためにもどうか頑張って3歳以降の読み聞かせを多くするようにしてください。
言語環境は・・・?
もっとも、これは0〜2歳の時期に親と子が安定した時間を共有してきたという環境があり、言葉かけが豊富で、多様な人と交流があるという条件も必要です。閉鎖された成育環境では言葉はなかなか増えません。
上で述べた「表現する言葉」だけではなく「理解している言葉」もその背後で増えてきますから、3歳代ではかなりストーリー性の高い絵本を楽しめるようになるわけです。配本でも急に物語の絵本になって、おどろくお母さんがいますが、きちんと1歳のころから初めがあって終わりまでスジでつながる絵本を読み聞かせで何度も聴いているのですから物語絵本へは、どんどん入っていけます。しかも、この時期の絵本はすぐれた内容のものが充実していて豊富なので、段階を追ってうまく適合させれば、かなり話の運びが激しいもの、さらには、オチのある話も聞くことはできるのです。注意すべきことは、なるべく絵本の内容と現実の世界が結びつくような、いろいろな体験をさせることでしょう。自己認識も強くなるので性差を考慮したものを与えれば、さらに楽しむ力はパワーアップします。
読み聞かせはできるかぎりふつうに・・・
ここでも、読み聞かせ方法は特別にはなく、展開に沿ってふつうに読んでやればいいのです。1歳や2歳のときのように声色を変えたり、演出したり、パフォーマンスを加える必要はまったくありません。よく読み聞かせの会などでパフォーマンスや声色を変えたりする人がいますが、それは効果を狙うもの。いずれ自分で字を読み、文章を理解するのが「読書」で、「読み聞かせ」はその第一歩なのですから、ふつうに文を読めばいいのです。聞いた言葉から想像ができなかったり、理解できなかったら意味がありません。淡々と読むくらいでもいいのです。
選書では、ほとんど字がないような本・例えば2歳代の繰り返しものから一歩進んだ「ねずみくんのチョッキ」や「なにをたべてきたの?」、「ドアがあいて」などが入りますが、これも2歳代のものよりは内容が高度です。
性差はかなりはっきりしてきます
男の子には「しょうぼうじどうしゃじぷた」や「ぼくはあるいたまっすぐまっすぐ」、女の子には「ちいさいわたし」などが楽しめる一冊です。
季節ものでは、「14ひき」シリーズや「ぐりとぐら」のシリーズから季節に合わせたものを選書してあるので、配本順に読み聞かせていただけば、季節感は問題なく楽しめると思います。理解力の段階に応じたもので楽しめるようにしているつもりです。
それにしても子どもは本の物語るものに大きく魅了されるものです。例に挙げた「しょうぼうじどうしゃじぷた」ですが、いまどにこんな古臭い消防自動車はどこの消防署を探しても一台もありません。だから興味を持たないのは大人の方で、自動車オタクからはブーイングが出るでしょう。ところが、この物語は、その古臭い消防車の活躍を描きます。子どもはそこに冒険心とか勇気とか義務感を感じるのでしょうね。だから、長い間すたれないで来た本なのです。
大量に与えるのはやめましょう!
3歳の中半になったら、かなり楽しいストーリーのものや民話なども配本はそろえてあります。「ももたろう」や「やまこえのこえかわこえて」なども楽しい本です。3歳代の名作・推奨本はひじょうにたくさんありますが、だからといって次から次へと大量に与えることは避けたいものです。図書館から十数冊借りてきて一週間で読み聞かせて返すなどということはくれぐれもやめてください。
子どもの頭の中では言葉も話も右から左の通過状態にすぎなくなり、内容を味わうことができなくなってしまうからです。言葉のシャワーなど読み聞かせにはまったく無用です。それは早期教育者が主張する異常な手法に過ぎません。月に2〜3冊程度を毎日何度も読む。それが頭の中にも心の中にも溜まっていくのです。これが、この時期の読み聞かせのコツでしょうね。見知って分かりきった2歳代の本も持ってくるでしょう。読んであげることです。(ニュース閲覧より)
家庭はなにをするべきか
⑤ 親と家庭
この項は「個人的な意見」で、世間の流れから外れた考えです。そんなのはおかしい!世間一般の考えからズレている!と思う方は読まずに飛ばしてください。
私が世間一般の考えからズレているというのは、世間一般の考えが異常だと思っているからです。多く、世の中の流れに沿った考え方で、いま現在主流になっているものが絶対と思っている人は、この項目も他も読む必要はないのです。子どもを長時間預けて働く、流行りの玩具を調べて与える、脳科学者の育児や家庭構築を参考にライフスタイルをつくる・・・そういう方々には、おそらく反時代的な意見としか感じられないでしょう。
でも、オピニオンリーダーと呼ばれる世間の流れをつくろうとしている人々は、親としてとか家庭とは!とか人と人の交流とかは何も考えていないのです。要は、どうすれば儲かるか(すでに儲けてますが)、自分たちの名声が上がるか・・・そういうスタンスで持論を吐いているだけ。とても信用できません。
価値観と環境
子育てを左右するものは「親の価値観」と「家庭環境」だと思ってます。日本人の親は「みんなと同じが一番安全」と考えて家庭を作っていくが、それでさえ「親ガチャ」とか「家庭ガチャ」が生じる。本を一冊も読まない親が子どもに「本を読みなさい!」と言ったところで効力はないのです。いくら真新しい綺麗な家に住み、、子どもが欲しがるものをどんどん与えていても親ガチャなのだと思いますね。底辺で子どもの世話も何もしないほったらかしの親もガチャかもしれないが、経済レベルが上でも、子どもとロクに接さない親はガチャだ。ろくでもない家庭環境、なんでもありの家庭システムをつくっている親もガチャそのものだということです。
経済的上位は知性的上位ではない
一方、関わる親もいる。首もすわらないうちからリトミックをさせ、1歳ともなれば山のように早期教育をさせる・・・だが、すべて他にゆだねた子育てだから子どもとのゆるやかな接触は少なくなるということです。幼児期は親との関わり合いが大事なのに、わざわざお金を払って他にゆだねるというのですから異常です。小学校に入れば、さらに親とは長時間離れ始めますよね。学校と学童合わせて10時間近くの子どもが出現するというわけです。育てているようで育ててはいない。親子の時間は食事時間とたまのお決まりのテーマパークでは会話も粗雑なものになるしかないのです。
そうなれば言葉遣いの注意、行儀を教えるなどとうていできない。それを学校や学童さらには学習塾は教えてくれるのでしょうかね。
「そんな食べ方は品がありませんよ」と言ったところで、子どもは「うっせいなぁ!」で終わるだろう。「テメぇ!ぶっ殺してやる!なんて言い方をしてはいけません。」と注意をしても「みんな言ってるよ!漫画やアニメの言葉を真似ただけ。ほんとに殺しなんかしませんよぉ!」と返ってくるのがオチである。いまや指導者は子どもをきちんと叱ったり教えてはくれないのですよ。なにか問題が起きたら怖いからである。
こういう状態が6年で終わればいいが、中学に入ればますます親の存在価値は薄れる。しつけもできず、なにも言えずにあっというまに大人になってしまうというわけだ。関わっているように見えて関わっていない親もガチャなのである。
子育てはたった18年間だ。言葉の格闘技くらいしないと何も教えないまますぐに過ぎてしまう。(ニュース一部閲覧)
灰色男・時間泥棒のたくらみ
高学年秋にはエンデの「モモ」が入る。厚い本だが時間をかけて高校・大学・さらに大人になっても何度も読んでほしいと思う。なぜなら、だんだん物語の中身が何を意味しているかわかってくるはずだから。
単純に読めば、モモと時間泥棒の戦いだが、冒険ファンタジーのような敵味方の格闘の物語ではない。
自分の頭で考えてものが言えるか
最近の若者は本を読んでも(ほとんど読まないらしい)一度読んだら、捨てるか売るか、となるらしい。それでは「モモ」が何を言いたいかは考えられないだろう。パッと読んで「読んだよ」「灰色男という時間泥棒が出てくる話だよ」で終わる。そして、一回読みが「タイパ」だとか「コスパ」だと言う。少し、能書きが言える奴は、「費用対効果、時間対効果を考えれば一度読めばじゅうぶん」だとほざく。「タイパ」「コスパ」と言いながら自分が時間泥棒にやられていることがわからない。バカは死ぬまで言い続ける。まあ、しかたがない。かれらは子どものころから習い事や勉強で時間に追われて忙しい。息抜きにゲームで時間を潰し、スマホの「役に立つ情報」に目を向ける。
じつは、このことは「モモ」に書いてある。後半の方を読んでほしい。
子どもたちが「子どもの家」に集められ、決められた遊びをする。ところが、その遊びは「なにか役に立つことをおぼえさせる」もので、これって「学校?」とまで思えるような施設だ。のんびり暮らしていた人々を灰色男はタイパ・コスパで攻め立て、人々はますます多忙となる。
具体的にはどういうことか?
こからは「ゆめや版モモ」、時代は昭和40年の灰色男A、Bの対話となる。40年前というのは1970年代。いよいよ経済成長は始まっていたが、まだくだらない消費が行われていなかったときである。
子どもの遊びも伝統的なものが多く、まだまだ電子ゲームや携帯電話もなく、情報はテレビからで、そこから派生したのがプラモデル工作くらいのものだった。人口も多く、もちろん子どももたくさんいた。
しかし、高級官僚のなかには、そう遠くない未来に人口が減少し、労働力が不足することが見えていた人々がいる。当然、何か手を打たないと、国が衰退するという危機感があった。しかし、現実は好景気が続き、庶民には未来がバラ色のように見えていたので、そんなことは誰も考えず、車がなくても、持ち家がなくても、すべていずれいずれで夢の中にいたわけだ。そこに灰色のスーツを来て、国民から時間を奪うことばかり考える仕事を持った高級官僚風の男たちが動き始める。
* * * * * * * * * * * * * *
A 「戦後20年なんだが、なんだか、この国の人々はのんびりゆったりしてないかい?」
B 「急いでないし、あれが欲しい、これが欲しいって気持ちがないよね。」
A 「あと50年もすると人口が減って大変になるよな。」
B 「このゆったり人たちをいそがしくせねば!」
A 「たやすいことさ。まず学校を使って『いままで女性は虐げられてきた。女性には権利がある』と教え込むことだな。」
B 「それで時間を奪って忙しくできるのかい?」
A 「そうすれば職業を持って働くだろ。まずはそういう法律を作るのさ。」
B 「働くかなぁ。子育てもあるし、家族も維持しなければならんだろ。」
A 「それには、手がある。車や家、電化製品を『快適だよ、便利だよ』と煽るのだ。」
B 「それにつられて家・車・電化品を買うために働かざるをえなくなる。ローンで縛ればさらに効果的だ。返済を焦らせ、回りと同じ状態に追い込む。問題は子どもや家族だね。」
A 「接触時間は短くなるが、そこがつけめ。人間は他人より豊かであることを望む動物だ。ぜいたくな食事、便利な道具があれば無理をしてでも自分の時間を切り売りするさ。」
B 「宣伝、宣伝で消費させることが決め手だね。そうすれば時間に追われて、のんびりゆったりの家庭生活など考えなくなる。豊かが一番で納得というわけさ。」
A 「子どもは子どもで『役に立つことを覚えさせられる施設』で時間に追われて育つからいずれ同じような忙しい大人になる。あとはその繰り返しさ。」
B 「50年後が楽しみだよね。いま(昭和40年)は隣近所でワイワイ楽しく話をしたり遊んだり、これじゃ時間が盗めないからね。子どもなんか、お稽古事どころか外遊びばっかりだ。もっと気持ちをひきつける『機械』や『物』に没頭させないと、時間が盗めないもんなぁ。」
・・・と、まあ、日本の未来をなんとかしようとする灰色男たちが話し合っていたときがあり、すぐにそれは実行に移されたようだ。しだいに、人は余裕がなくなり、隣近所のつながりもなくなり、人みな物を求めるようになった。時間はどんどん盗まれていったということである。半世紀も経つと、その辺も人もみんな灰色男と同じにタイパ、コスパとなった。
エンデと出会えずモモと出会う
私が、ここ「モモ」を読んだのは多くの人より遅れていた。「モモ」は1974年刊行だが、読んだのは1983年、約十年後だった。1980年がゆめやの開店だから。必要に迫られて読んだということでもある。
ただ、エンデが「モモ」を書いていたころ、私は彼の家の付近を二度ばかり通ったことがある。最初は1972年ごろだ。ザルツブルグへの旅は行き帰りミュンヘンを通るのだが、ミュンヘンの南にガルミッシュ・パルテンキュルヘンという村がある。アルプスが良く見えるひじょうに美しいところだ。エンデが書いていたというガウティングという地区がどこかは知らないが、きっとこの近辺なのだろう。なるほど時間がゆっくりと流れている感じがする村だった。
で、エンデがここで書いていたのを後で知ったが、「モモ」を読んでも、この風景や村の情景が一度もフラッシュバックしなかった。静かで落ち着いた綺麗な風景が広がる村、でも、「モモ」の舞台とはかけ離れているように感じた。
おそらくエンデは、この村をそのまま舞台にはしなかったのだと思う。しかし、この場所だからこそ空想は広がる。「はてしない物語」も「魔法の学校」もこの村の空と山と森の記憶が生み出したのではないかと思う。コンビニはない、自動販売機もない、人で混雑していない。支払いはマルク札、おつりも硬貨のシリング、レジスターさえなかった・・・・1970年代の話だが、1998年に通り過ぎた時も同じ風景だった。いまもあまり変わりはないだろう。
終わりと戦う大天使ミカエル
それに引き換え、我が国は灰色男が大量に動き回り、あわただしく騒音の絶えない町が広がってきている。どこかから、この流れを止めるまっとうな人が出て慌ただしい時間を止める人は出ないだろうか。選挙に出る顔ぶれを見てもみんな「発展」「活力ある経済」「交通インフラ充実」で市民を煽る。市民もそれに乗っかっていく。
こういう発想で世の中に悪が満ちてくるようにおもうのだが・・・・犯罪は時間泥棒と表裏一体の現象だ。
ミヒャエル・エンデという名は、天使たちの中で最も偉大な大天使ミカエルと物事の終わりを意味するエンデがつながったものだ。人を襲う悪魔の軍勢と天使たちを率いて戦うリーダーのミカエル。それが終わりをもたらすのか、それとも悪魔たちを終わらせるエンデなのか・・・・モモがこの国の時間泥棒に勝てるか勝てないか、それによって子どもたちが成長していく未来は良くも悪くもなる。エンデとの出会いから半世紀・・・・良くなる方に一票投じてみるかな。(新聞一部閲覧・2024・10/25)
(2024年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧)