ブッククラブニュース
令和6年
9月号(発達年齢ブッククラブ)

2024年9月、10月の予定

定休日は日曜、月曜です。
 9月は22,23、24日が臨時休業です。ご注意ください。
 10月は臨時休業はありません。日曜・月曜のみが休業です。
休業日・時間外受け取りは事前にお電話ください。
外出していないかぎりOKです。また前日のご連絡なら在店します。
通常日の営業時間は午前10時30分〜午後6時00分(秋彼岸から) 
 受け取りの方で午後6時以降に来てしまった方は電話かピンポンで呼び出してください
 なにしろゆめやは企業ではなく零細商店ですので「昭和」の感覚でお出かけください。たいてい在店していますので店を開けます。ご遠慮なく。たまに買いものに出かけているときもありますが・・・。まずは遠慮なく。
 いやはや今年は9月になっても暑さがおさまらず、大変な日々です。会員のみなさまもお体につけてお過ごしください。

なぜ2歳までに始めるか?というと・・・

 よく3,4歳のお子さんを持つお客が来て、「どんな本を読み聞かせれば?」というので、年齢対応の標準的な本を薦める。半数以上は二度目に来ることもないが、何人かは、またやってきて「子どもが興味を示してくれなかった」とか「どんどん自分でめくって終わり」ということを言ってくる。
 本に興味を示さないのは他の媒体(アニメやキャラクター絵本、テレビやyoutubeの影響だろうが、3,4歳で「めくって終わり」というのは1歳並みの対応でなんとも悲しい。
 ふつう3,4歳になれば内容の好き嫌いに関係なく、読み聞かせれば聞くものだからである。読み聞かせを1歳からしている子は、問題なく3,4歳のレベルの本はほとんどしっかり聞く力がついている。こういう絵本になれていない子たちを見ているとやはり、「読み聞かせは1歳から始めれば問題ないんだがなぁ」と思ってしまう。ふつうは親が読んでくれる読み聞かせは子どもにとって快いものだ。慣れた声のやさしさと温かさ、抱っこや横に寝そべって聞く安定的なやさしい感覚、それが習慣として定着するから2歳以降はどれを読んでやっても抵抗なく聞いているのが普通である。

意地悪な質問をしてみる

 そこで逆に「どういう目的で絵本を読み聞かせたいのですか?」とたずねる。
 すると「言葉をたくさん知ってほしい」「字が読めるようにしたい」「生活習慣を身につけさせたい」などという親の都合のような答えが返ってくる。
 「そういう役に立つという意味の絵本の読み聞かせは適切ではないと思います」と言うと、中には「じゃあ、絵本は何のためにあるんですか?」と言う人もいる。私は「楽しむためですよ。親と子が。」・・・と言うが、その意味が、わからない人も・・・・。『え、楽しいだけ?』としか思えず、何か他の成果を期待している感じだ。頭が良くなるとか、字を早く覚えるとか、言葉が豊富になるとか・・・。
 だが、幼児は何か体験したあとに「どうだった?」とインタビューされると、判で押したように「楽しかった」という。つまり、子どもにとっては「歯磨きのしかたを覚える」とか「字を覚える」「言葉を学ぶ」などはそうそう楽しいものではないのだろう。
 読み聞かせを好むのは、親の膝の上で、あるいは横で親の息遣いや温かみを感じながら、本が描く世界に入り込むことで楽しさを感じていると思う。これは子どもにとってかなりの幸福感なのである。
 幼児は本は耳で聞くもので、「これを見てごらん」と絵本を与えてもただの物・紙の束でしかない。読んでやる時間と回数が、中身を楽しみ、分かる決め手となるのである。
 快い状態で、さまざまな話を聞き、いろいろ想像する体験が、読む力ばかりでなく、人格や性格の形成にプラスの効果を生み出すのだが、成績主義と偏差値の影響をもろに受けている世代にはこれがわからない。

破綻に持って行かないために

 5月号の新聞で、今年の春、小2、3で「本が読めない」状態の子が続出し、相談を受けたがすべて配本は打ち切った。その全員に理由を聞いたわけではないが、交流の深かった6人のお母さんにメールや話で原因を聞くと、そのすべてが「読み聞かせする時間が少ない」ことに共通性があった。
 週に1回か2回しか読み聞かせの時間がなかった人。1冊で終わってしまった人・・・、ウチの子は字が読めるから4歳ごろから自分で読むようにしたという人さえいた。そんな状態ではとてもランク上の本にはいかず低レベルのアニメ本へ気持ちが向いたり、youtubeにハマったりしてしまうのだろう。
 いずれ十年以内に、デジタル教育の破綻がはっきりし、現代の平均的家庭の子育ての問題も露出してくるだろう。その責任は政府も学校もとらないのだから、せめて自分の子は文が読め、物事がわかる子にしたいものである。

発達対応絵本

⑤ 2歳から3歳まで

 2歳という歳は不思議な年齢で、いきなりなんでもわかるようになります。中には2歳前半から大人と自由に会話ができる子もいるし、言葉が遅い子でも十分多くのことがわかっています。一年前のことを考えてみましょう。注意力が散漫で、全体的にボーっとしていたり、逆に落ち着きのない動きをしていたのですよ。それが、たった一年で、ものすごい成長なのですが、親は当たり前と思っています。でも、言葉が通じる=「意志の疎通」が言葉で可能になる、これはすごいことです。語彙が少なくてもちゃんと通じますからね。

自分を認めさせたい時期 認めてあげましょう!

 また、本人は何でもできると思っているので、実際、なんでもしようとします。できると(あるいはできないことでも)「見て!見て!」と自分をみとめてもらおうとする攻撃も始まります。何かすると「お母さん、これ見て!」です。積み木を積んでも、道具を並べても、何をしても自分のしたことを自慢気に「見て!見て!」。また男女の差も微妙にありますが、「これなに?」「なんでこうなの?」「どうして?」攻撃も2歳半ばから始まりますね。ハッキリ言えば大人にとってはうるさいことですが、2歳児はとにかくかわいいので、よほど限界を超えたことをしない限り叱ることなどできません。ことごとく大人(親)は対応して説明しましょう。誰かに任せたら、親として子を育てる権利の放棄かも。
 むずかしく言えば「大脳の旧皮質が完成まじか」なのですから、人と人のつながりをつくる基本がここで出来上がる時期。親と子を結ぶ重要な時期です。

読み聞かせは?

 では、絵本はどういうふうに与えればいいかというと、これがまたかなりむずかしいのです。なぜなら発達が速すぎて、どういう状態かがなかなか大人にはわからない。1歳のときとちがって「自分」というものができつつあるので、じょじょに好き嫌いも出ます。しかし、なるべく好き嫌いを抑えないと3歳の物語絵本につながりません。読み聞かせが大好き!という状態に育てたいものです。
 一方では、しゃべらない子もいますが、聴力に支障がないかぎり、読み聞かせた言葉や日常の言葉がどんどん頭に入っているので、言葉に関してはまったく心配することはありません。
 しゃべり始めのときに絵本の中の言葉を、また日常生活から得た言葉を、場に応じて信じられないほどうまく使いますよ。
 まだ、この時期は読み聞かせの快さを体験させる時期です。教え込もうとか、覚えたかどうかの質問もご法度です。よく、「これはなあに?」とか「おじいさんの次にカブを引っ張ったのは誰?」とかテストのような質問をする親がいますが、これはやめたいものです。子どもには好みのことではなく、そんなことが続けば、読み聞かせのおもしろさから遠ざけてしまうことになります。

どんな絵本を?

 まず日常生活に関連するもの、食べ物関連、人間(もちろん動物も含めた)関係のもの、あとは乗り物。人間はどういうわけか食べ物には関心が強いものです。食べ物のこと、乗り物のこと、人との関係などの内容がほとんどです。2歳児もこういうものから関心が強く出ますので、やはり関連したものが出てくる本を与えるのがのぞましいです。だいたい標準的なものを配本に組んでいます。
 また、想像力が高まるため、2歳児は見えないものが見えるという特異な力を持つ年齢でもあります。暗闇を怖がるのは、大人は「何も見えなくて危険だから怖い」のですが、2歳児には「物が見えてしまうから怖い」のです。つまり想像力の増加です。
 これを生かした本も何冊か配本では組み込んであります。だから、ただ読んでやり、子どもがしゃべってきたら、中身を題材にした会話をすればいいわけです。

性差はじょじょに出てくるので

 この時期には性差がはっきりしてくるので、性別を考慮した選書もしなくてはならないと思っています。
 ここで挙げたのは「はっぱのおうち」「でんしゃにのって」(女子)、「でんしゃにのったよ」(男子)ですが、まだまだ配本には入ってます。
 性差が出て、子どもの中でそれが高まると、その本は大好きな本になるはずです。基本配本では、バランスよく組み込んであります。2歳前半と後半では、読み取る力も言葉の獲得速度もまったく違いますから、配本もそのように組んであります。
 なにしろ、2歳の本は3歳代の本格的物語絵本へ入る前の重要な時期のものです。読む回数を多くしてくださいね。冊数より回数なんです。(ニュース一部閲覧)

ありがたいことが起こることも

 ゆめやは、こんな広告宣伝の時代に一度も広告を出したことがない。テレビはもちろん新聞も雑誌もネットにも何も。
 なぜかというと、ひとつは書籍販売は利益が少なすぎるので広告費など出せないのが最大の理由。また広告は客集めのために「おいしいこと」を言わねばならないからほとんどが「ウソ」になる。
 いまやほとんどの商品広告が大げさで虚偽に近いことを流しているので皆さんもしっかりわかっているだろう。薬品、美容品、食品などTV.ネットで流れるCMのほとんどがウサンクサイ。私は嘘がつけないので、広告など出せない。
 だから信頼できる第三者がウチを何かで評価してくれると、これはもう広告以上にありがたいことだ。
 そんなことがこのほど起こった。読売新聞東京版の「ホームルーム」というコラムで絵本作家の仁科幸子さんがゆめやのブッククラブに触れてくれたというわけ。以下記事全文

活字に触れ 読解力を育む

 世の中は何でもスマホで、人と人とが顔を合わせなくても、仕事も買い物も成立してしまう時代になりました。しかし、「いやいや、新聞がなければ始まらない!」と、そんな人々もたくさんいます。
 先日、甲府の絵本専門店ゆめやが開店44年を迎えました。店主の長谷川さんは「ここまでやってこられたのは、むやみに規模を大きくせず、お客様とのつながりを大事にしてきたから」とおっしゃいます。先に商品を渡し、後払い、手書きの便りによる交流。こうした手間のかかる、一見無駄とも思えることを丁寧にやっていく。まさに人間同士の信頼やつながりが一番の強みになっているのです。
 今、出版界で一番問題になっているのは、小学3年生くらいの子どもが一気に本を読めなくなったことだといいます。勉強ができないわけでなく、物語の本当の意味が読み取れないのです。昔の児童書には道徳や哲学があり、そんな本を読む中で、いつの間にか子どもたちは道徳的な心を育てていたのかもしれません。
 この冬、大雪が降った朝にも新聞が届いていて、新聞配達の仕事は本当にご苦労だと思いましたが、子どもの頃に本を読めないと、大人になって新聞を読もうとは思わないでしょう。
 すると、そんな中、新鮮なアイデアで頑張っている新聞店があることを知りました。「新しい新聞配達づくり」として「活字・紙媒体の良さを体感してもらうため」「思いや考えを言語化する手伝い」との趣旨で、絵本やビジネス本をレンタルしているのです。こうした丁寧な企画が、新聞を身近に感じさせ、読める人を育てていく気もします。

悪い人はそうそういない

 ・・・・これを読んでありがたかった。見ていないだろうと思っていても、意外に人は見ているということ、これがわかると「手が抜けないなぁ!」と思わざるをえない。世の中はウソや誇大宣伝がまかりとおる騙し社会でもある。一番われわれにとって重要な「国」「政府」「政治家の先生たち」ですら、まっとうなことをしていないばかりか、ウソをつき、悪事を隠し、平気で強引な国民イジメをしている時代である。しかし、なかには真面目にやっているところもたくさんあるのだ。
 ネット記事の波、虚偽広告、誇大宣伝に騙される人も多いのだが、きちんと見極めて、その姿勢や視点を子どもに教えていく必要はあるだろう。いつまでもゴマカシは続かない。企業が騙しをやれば、消費者も悪くなって買い逃げも起き、世の中が悪くなる。

家庭はなにをするべきか

④ みんなと同じがいいか悪いか・・・・

 前も述べたように、この項は「個人的な意見」で、世間の流れから外れた意見です。そんなのはおかしい!世間一般の考えからズレている!と思う方は読まずに飛ばしてください。
 人口が多い時代は、何か変わったことをしないと目立たないので世の中で上に行くために変わったことを言ったりやったりした人がいた。ただ見かけの派手さとか訳の分からない意見を言うとかが多く、さほどみんなの役に立つ行動や意見ではなかったような気がする。中身の充実がないから、行為や言葉が浮き上がったものになって、ただの「流行」にすぎない状態だったのではないかとも思う。まあ、「自由」という意味のはき違えであろう。なにをやっても自由、何を着ても、何を言っても自由という動きが世の中を混乱させている。しかし、だんだんそれが悪い意味で叩かれるようになってきている。
 それがZ世代にはわかっているし、SNSが発達してきて、何か変わったことを言うと叩かれたり、炎上したりする怖さがあるので・・・変わったことが言えなくなったというわけだ。だから若い人は世の中の流れにのってふつうに行動し、ふつうに意見を言うようになっているのだと思う。「人と違うと嫌われる」と思うから独自の意見が言えず、人と違うことができない。その反動なのか変なファッションや「異常が正常になっている世の中の流れ」には乗ることはするようだ。
 これは成績や偏差値が生み出したものではないだろう。いまや、社会の上層部?にいる高学歴で成績がよかった人や偏差値が高かった人がとんでもない言動や行動をしているのだから、それを真似るバカさ加減より、そういう人たちと「違う生き方」のほうがいいとは思う。もういい加減に「どこそこの大学を出たから優秀」とかの価値観に振り回されず、子どもは、世の中で何をしていくかに基準をおいて勉強や体験をさせたいものである。

自分の考えと行動は必要だが

 不思議なことに日本社会では違う考えを出すと、それを押さえつけて多数と同じにさせる「同調圧力」というものが働く。簡単に言うと、少数派に対して多数派が自分と同じようにすることを強制すること。従わない人には、ヒドい場合は排除する。まあイジメもこれと同じ原理ですね。
 これが恐ろしいので、なかなか自分の考えで行動ができない。意識的にやっている人は多くないが、無意識にやっている人はたくさんいる。隣近所の影響もあるかもしれないが、学校が同調圧力の原理を植え付けていることも考えられる。「みんな同じ」が楽なので多数決のりくつを働かせて少数を抑え込む。考えや行為を評価しないで、「数が多い方に合わせよ!」というものだ。多数派が間違えていることもあるのにね。これは政界を見ていれば分かりますね。間違えたことをやっても多数派が押し通してしまうことはよくあるでしょ。あれです。
 さて、独自の、あるいは個性的な考えとはどこにあるか。
 それは本にあるのです。本は作家が独自の考えを表現したもの・・・とくに多くの人が読まない作品は多数の考えとは違うことが書かれているわけで、それが読めれば多数派の薄っぺらい考えも見抜けるというものです。
 だから、ブッククラブの配本を通じて、薄っぺらい考えを避けるための読書力をつけてもらいたいと思うわけです。

比喩で描かれたものを読み取る力

 前回、古典文学のことを書いたが、そこには登場人物を通してテーマを描くうえの「比喩」がある。読むには、それを読み取る力が必要になってくる。むずかしい!と思うかもしれないが、絵本のことを思い出してみよう。「スイミー」はほとんどの会員に入っている本だし、教科書にも載っている。他に「じぶんだけのいろ」や「あおくんときいろちゃん」を配本しているから読んだ子もいるだろう。これらは、比喩は容易にわかる。力の強い悪者にはみんなが力を合わせて戦わねばならないことが描かれている。「じぶんだけのいろ」は、状況によって変わってしまう自分でも、自分なりの考えや行動があることをカメレオンの比喩でわかるというものだ。「あおくんときいろちゃん」などは、青・黄を合わせると緑になるということで混血の問題や母と父から誕生する子どもなど多様な比喩が込めている。

古典文学では大切なものの比喩が

 これは古典文学もそうで三銃士は「団結」とか「正義のため」とか「勇気」が比喩として描かれる。ガリヴァー旅行記も荒唐無稽な国を旅するのではなく、その国々の人が、じつは人間のさまざまな性質を描いているということがわかるだろう。Yahoosという、しようもない人間の国、リリパットなどは歴史上実在のイギリスの国をどう守るかの政治的な話でもある。巨人国では、いかに人間というのは行動的に不潔で倫理感がない存在かが語られ、「人類はかつて地球上で生きる最も哀れな種族である」ことが語られる。
 これはとても幼児、少年が読み取れる比喩ではない。それまで、さまざまな段階の読書を経てようやくわかる物語でもあるわけだ。もっとも大人でもスイミーのテーマさえ読み取れない人もいるが(笑)、これは頭が世俗に侵されてどんよりしてしまったのだからしかたがない。
 人間は、いやあらゆる動物は一回しか生きられず、必ず死んでいなくなる。それを考えたとき欲だけで生きてyahoos人間になるか、友情を盾に正義のために戦う三銃士になるか、失敗をしても立ち直って幸福を求めるラ・ミゼラブル人間になるか・・・・あらゆる例が古典文学の中にはちりばめられている。短い人生・・・若いうちに読んでおきましょう。(新聞一部閲覧)



(2024年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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