ブッククラブニュース
令和6年
7月号(発達年齢ブッククラブ)

2024年7月、8月の予定

定休日は日曜、月曜です。
 7月は15日が海の日ですが月曜なので休業です。
 8月はお盆休みが11日〜15日まであります。ご注意ください。
休業日・時間外受け取りは事前にお電話ください。
外出していないかぎりOKです。また前日のご連絡なら在店します。
通常日の営業時間は午前10時30分〜午後6時30分
 受け取りの方で午後6時以降に来てしまった方は電話かピンポンで呼び出してください
 なにしろゆめやは企業ではなく零細商店ですので「昭和」の感覚でお出かけください。たいてい在店していますので店を開けます。ご遠慮なく。たまに買いものに出かけているときもありますが・・・。まずは遠慮なく。

夏の想い出は世代によってちがう

 なんだか梅雨が明けるか明けないうちに甲府は38度、39度になり、今年はどうも40度越えの日が何日か来るのではないかと心配しています。
 すでに7月初めの一日で熱中症で運ばれる人が東京では百人越え・・・たまりませんね。
 メディアはクーラーを使え、使えと騒いでいますが、そのクーラーの排気が気温を上げているのでは!なんて思ったりします。そのおおもとの電源も原発では核分裂を抑える冷却用排水が世界中で海に流されてますし、巨大な消費が膨大なエネルギーを使ってます。宅配のトラックだけでもどのくらいの炭酸ガスが出ているのでしょう。楽で便利が大きな脅威になる時代なんです。
 私が子どもの頃は、いくら気温が上がっても35度で、夕方になれば涼しくなったものです。近所の子と行水を使って、かき氷を食べて横になります。夜は戸を開けっ放しにして蚊帳(かや)を吊って寝ました。小さい子はできませんが、小学2年くらいになると蚊帳が吊れます。大人になった感じになります。これは環境にやさしい夏の過ごし方です。

扇風機

 その習慣なのかどうか、現在でも我が家はどんなに暑くても夜は戸を開け、網戸だけで寝ます。まあ、お金持ちではないので泥棒は来ませんし、市街地から離れているので涼しい風で安眠です。
 あまり暑いと扇風機を出しますが、みなさんがみたらびっくりするような昔の扇風機2台を使っています。三洋電機(この会社がもうない!)のものですが、さすがに昔のものは壊れません。40年以上使ってます。これですら江戸時代にはなかった生活用品ですから時代の進歩が環境を変えているわけですね。
 扇風機とはいえ、これも電気で動きます。水力発電、火力発電の時代で何とかやれた時代でも進歩は小刻みにでもあり、それがやがて当たり前になると途方もないエネルギー消費になるというわけです。
 このことから考えると「進歩」というものが果たして理想的な進展で、人の生活文化をよくするものかどうか疑問が起きますよね。

クーラーの中で

 三十年くらい前のことですが、配本の配達に行くと子どもをお昼寝させるのにガンガンとクーラーをかけているご家庭があり、びっくりしたものです。われわれの世代では扇風機すらなかったんですからね。目を覚ますと、おばあちゃんやおかあさんがうちわであおいでいてくれていることもありました。最近、熱中症ですぐ担ぎ込まれる子がいるのは、クーラー依存症が生み出す病なのかもしれませんね。
 それはそうと子どもは何でも遊ぶものです。
 われわれの世代では、扇風機に向かって、こういうふうに←声を出して音を長く伸ばして濁音にしたり、「われわれは宇宙人だぁ・・・」と変な声にして遊んだものです。映画、三丁目の夕日の一場面でもありますが、多くの子どもがやっていたので覚えている方もいるでしょう。クーラー安眠世代にはバカバカしいと思われる遊びですけどね。とにかく夏は、子どもはなんでも遊びに変えてしまうものが多い季節でもあります。虫取りも川遊びも毎日の遊びでした。そこから得られる知識や技術はバカにならないものだったと思います。私は小学校低学年では昆虫博士になりましたし、スイミングスクールなど行かなくてもたった一日で泳げるようになりました。自慢ではなく多くの子どもが身近な環境から頭と体を発達させていたわけです。そのほとんどが遊びからです。

野菜と果物

 夏といえばキュウリとナス、モモとブドウ。いまでも毎年ゆめやは裏庭は菜園(右写真)にしていますが、果樹は植えられないので、モモとブドウはない。でも、サクランボ、モモ、ブドウは必ずどこかからもらえます。これは果樹王国居住の幸福ですね。買ったことがありません。
 今年も七月初めに、キュウリは毎日十本近く採れ、河童(カッパ)を飼いたいくらいです。ナスはこれから九月までかなりの数が採れます。余ったら知人に分け、知人からも何かをもらいます。相互扶助はまだ残ってます。ミョウガ、ミニトマト、シシトウ、オクラなども植えてあるのでひと夏は野菜に困りません。昔はかなり町の真ん中でも庭で野菜栽培をしていた家があったのです。これがなくなってしまったのは豊かになったということもありますが、手間ヒマかける余裕が人々になくなったことが原因でしょう。便利さが奪った豊かさなのかもしれません。

これからのためにも

 私が子どもの頃は植え付けも肥料やりも子どもの仕事でした。もちろん採集は子どもの役目。次女はいまや親を越す栽培技術の持ち主で、それをまた自分の子どもたちを手伝わせて伝える・・・・小さな庭ですが、紫蘇が手に入る今の時期は梅干しづくりが、彼女の子どもの仕事です。
 手で伝えるから「手伝い」・・・日本語はうまくできていますね。肥料が食べ残し・残飯であることも小さな子でもわかるはずです。スーパーマーケットに買いに行く子では、野菜がどういう手順でできるかもわからないでしょう。手伝いができなくなった子ばかりの時代ですが、それは手伝わせないからです。
 これから地球規模で温暖化の弊害が出てくるでしょう。科学の進歩は手軽で便利をつくってきましたが、近年を見ていると、どうも先行き危ない進歩になっています。お金で何でも手に入る時代からそうでない時代に・・・・進歩の行きつく先の暗い時代に行きそうですからね

おたよりは親子三代の会員の卒業

 以下のおたよりはどうしても取り上げたくて載せたものです。斉藤さんからのお手紙ですが、じつは彼女自身がブッククラブが始まったころの会員で、私にとっては明日香ちゃんです。左の写真の店舗にお母様と来てくれていた貴重な会員です。
 十五年前にお子さんが生まれてまた会員になってくださいまして、今春、下のお子さんが修了となったのです。振り返れば、親子三代で40年のおつきあい・・・ありがたいと思わなくて何を思えばいいのでしょう。今とは違って、あのころはよかったですが、ゆめやの基本は変わらないこと。大丈夫です・・・ご希望の新聞はまとめたものを定期的にお渡ししますよ。

斉藤さんからのおたより

 ご無沙汰しております。本当は子どもたちとご挨拶に伺いたかったのですが、なかなか揃って予定を合わせることができず…私と子どもたち、長い間お世話になりました。おじさんのお体、調子はいかがですか? 愛ちゃんから、お話している感じでは、元気そうだけど、体のほうは「まだ完治という訳ではないみたい」というような話を少し前に聞いていて、心配です。ご無理なさらず、ご自愛ください。
 4月から柑奈は、中学校へ、柊成も無事に高校生になり、2人とも楽しそうに学校へ行っています。
 ベッドで小さい2人に挟まれて読み聞かせをしていたころが懐かしいです。もう読み聞かせをしてあげることはないけれど、あのころから続いている時間、本をすすめたり、感想を言いあったり、同じ趣味を共有できることが嬉しいです。
 子どもたちに私の昔の話をするとき、「今とは全然ちがってね」と前置きすることがほとんどと言ってもいいほど色々と変わっている世の中ですが、そんな中で変わらずに“おもしろいおじさん”と“優しいおばさん”がいるゆめやさんからの本を楽しみに待ち、本の楽しさを知るという体験を親子で共有できたことは、私たちの幸せな記憶ですし、子どもたちのこれからにきっと活きてくると思います。
 いつも素敵な本を届けてくださったお二人と四十数年前、ゆめやさんを見つけて、私たち姉弟に絵本を与えてくれた両親には感謝しかありません。どうぞ、お体をお大事に、お二人ともお元気で、まだまだ長く「ゆめやさんがあってほしいな」と思います。お店にもまた伺います。これから、ゆめやさんからの本も夢新聞もないと思うと、本当にさみしいです。今までありがとうございました。(ニュース一部閲覧)

さて今年の夏は・・・

 まだいくらか感染症が残っているとはいえ、今年はウイルスをあまり気にしないで動けるようになりましたね。
 でも夏はいくら暑くても外に出る季節、大きな旅行を計画している御家族もいるでしょうが、子どもにとっては外での遊びがいちばん楽しいことでしょう。時間に追われてアタフタするより、何か楽しいことをしたいものですね。
 ぜひ、事件・事故・熱中症や消化器病には注意して、楽しい夏休みをお過ごしください!
 夏休みにはいつもより内容が濃かったり、長い物語だったりする配本を組んでいます。時間をかけてもいいので、ゆっくり中身を楽しんでください。

なぜ子どもは遊ばないといけないか

 と、毎度おなじみのことを言うのは、「人は顔と顔をつきあわせるコミュニケーション」が個人の成長でも大切だから。これは「世の中を生きる上でコミュニケーションが、『共同体』がおかしくならないようする気持ちをよみがえらせ、『公衆意識』を芽生えさせ、『個人の生き方』を固める基礎だからだ」と思っているからです。
 このことは、わずか数年のコロナで子ども、若者(大人も)、会って、話すことが減った結果、勝手な言動、行動が目立つようになったことでわかるでしょう。今の子どもは対面で相手を学習しないのです。だから、学校教育は、そうした対人関係の気持を再生させる役目もあるが、カリキュラムに追われて集団意識を蘇らせる「遊び」を増やしません。顔を合わせ会話をし、相手がどういう考えなのか、なぜそういう行動をするのかを考える基本が遊びなのです。朝から晩までゲームをしてユーチューブを見ていたら、そういう学習はできないでしょう。そうなると、人間を見る関係がなくなります。

この結果が出てきています

 このため個人行動が大きくなり、所属する仲間や組織を重視しなくなっているわけです。一方では成績絶対主義が働きますからね。民主主義を育てる『新たな公共性・公共空間』を作れないので少年の犯罪は増える・・・自分だけしか考えず「集団を見ない人間」が増えてくるばかりです。
 長い目で見れば、現代の教育の中で、明治以前に存在した「村の自治」や江戸の町人が作り上げた「共同体」が否定され、当然、子どもの中に共同性が育たず、いじめがはびこるような社会になってしまったとしかいえませんよね。
 個人主義と共同体への思いを混じらせるべきだったのですが、近年は、個人主義はねじれた形で根付いて「自分さえよければいい」、というふうになりましたね。個人の尊重とは、私もあなたもハッピーにならないといけないということ。つまり多様性の尊重。夏の行楽も、できれば複数家族でどこかに行って、それぞれの家庭の子どもたちが交わって楽しむとか、大人の決めた活動ではないものをたくさん子どもたちがみんなですることでないと、その子たちの将来の人間関係が薄く小さいものになると思うのです。

家庭は何をするべきか

②親は意識を変えてみることも・・・

 人工知能(AI)の発達などによって、機械が人間に置き換わる分野は増える。このような時代で、子どもが将来、職業を得ていくことを考えると、得意な科目、興味ある分野や個性を伸ばしていく教育の重要性は増してくるだろう。一方で、小学校や中学時代には、子ども本人が、自分が本当にやりたいものは何なのか、得意なことは何なのか、まだわからないことも多い。
 早熟か晩熟かにかかわらず、自らの得意なこと、やりたいことを「発見」したときに、柔軟に切り替えができる学校とか教育制度をつくるべきだと思うのは私だけではないだろう。もう出世競争をする時代ではないと思う。
 その意味で、社会人になっても学び直しや、一生学び続けられるような教育制度の受け皿も不可欠なのである。ところが、まだまだ画一的な学校制度が残っていて親は従わざるを得ない。東京芸術大学に入学するのに、数学がある共通テストを受けなければならないが、芸術家を育てるため大学の科目として数学は必要なのかとも思う。また入試科目に科さなくても、理系でも文系でも、哲学を学んだり、古典を読み込んだりすることはあったほうがよいと思う。将来、科学者になるにしても、こういう素養が必要だからだ。いや科学者だからこそ哲学や社会思想、文学が必要なのである。

昔のことを言うと否定されるが

 かつて民俗学者・柳田国男は「江戸時代や明治のごく初期には「群れ」の教育があり、子どもたちが自ら集団のルールを作り、リーダーをつくり、そして集団の秩序をつくっていった」と書いている。いわゆる藩校教育とか、その前段階の民間の寺子屋教育のことだ。
 このように「群れ」の中で上の子が下の子を教えたり、きまりを守って個性を認め合う関係を子どもたちが作り出していくような姿は社会を安定させるうえで必要だったのだ。これが明治に立身出世で崩れ、戦後は成績主義で壊れた。だが、群れの教育を現代に復活させる方法はあるはずだ。江戸時代のような「寺子屋スタイル」、複数学年にまたがる生徒同士の「遊び」や「教えあい」の手法も、広げていく必要があるし、やっている学校もある。こうした改革が行われないと、縮んでいく日本の復活を支えることにならないと思う。遊びから始まる学びは大切なのだが、今の社会を見ていると何でもありの自由奔放で絶望感のほうが強い。昔のことを言うと「古い!」と否定される。古いものはだめという思い込みをつくったのは近代だからだ。歴史をしらない人間が増えたからまた出世主義や戦争に向かってしまうのではないだろうか。

躾(しつけ)が保つモラル

 上が教え、下が習い、教える人がいて、それを考える人や教えを受ける人がいる。かれらが礼儀を守りながら大きくなれば、モラルの崩壊もなくなるだろう。
 最近の事件を見ていると、すべてモラルがない結果のものばかりではないか。高学歴なものがセクハラをする、パワハラをする・・・・親を殺す、子を殺す・・・・なぜこうなっているかはまた書くが、簡単に言えば「してはならないこと」を躾(しつけ)られなかったからだ。親も学校も地域も躾けられない時代が、「何をしても自由」の名のもとに四,五十年続いた(6月号新聞で述べた)結果である。
 言っておくが「子どもの躾(しつけ)とは親の価値観を押し付けることである」、そうではないという親も日常自分の価値観で子どもに接しているはずだ。それでいいのだ。「子どもの個性尊重!」とか「子どもの権利を守れ!」などと声高に叫ぶ「進歩的な親や人」にはわからないだろうが、子どもは社会的存在などではない。だから少年法があり、それで守られているわけだ。判断や行動が未熟だから、つい犯してしまう失敗や誤った行動を少年法で守ってもらって、まっとうな大人になるように導いてもらうわけだ。ところが、しつけられなかった子がとんでもない凶悪事件を起こしたら少年法もなにもない。

では、どう躾(しつけ)たらいいのか

 ・・・という人もいるだろう。これは、それほどむずかしいことではない。
 親や他人の言うことはよく聞く、人と会ったら挨拶をする、嘘は言わない、卑怯なことを言ったりやったりしない、小さい子や弱い者をいじめない、食べたり話したりするとき、だらしないことをしない・・・
 こういう、ごくふつうのことを教えればいいのである。もちろん、すぐに言うことを聞く子は多くないだろう。逆らうのが好きな子もいる。それでも、言い続け、限度を越えたら叱る、そうすれば時間が経てばわかってくるものである。なるべく反抗期になるまえに躾けは終えたいものである。
 もし、親の言っていることが間違えていたり、躾が異常なものだったりしたら、子どもは抵抗するだろうし、成長した段階で親のようにはならないとなる。
 現代の訳知り顔の評論家の「やさしさだけが子どもをよくする!」「子どもは自由でなければいけない」などということは信じない方がいい。自由も個性も金科玉条にしたら、躾けられなかった子どもは暴走し、とんでもないことでも平気でやる。教師が児童に性的虐待をしたり、いい大人が酒を飲んで人を傷つけたり、金のために人を殺したりすることは自由や個性などでは弁護できるものではないだろう。
 オピニオンリーダーやインフルエンサーがどのような理想論を掲げても、やってはいけないことは何があってもいけない。理屈ではない! やってはならないものはやってはダメなのだ。「ならぬものはならぬ!」なのである。(新聞一部閲覧)



(2024年7月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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