ブッククラブニュース
令和6年
5月号(発達年齢ブッククラブ)
2024年6,7月の予定
定休日は日曜、月曜です。
6月は祝祭日休業はありません。、7月も通常通りです。
休業日・時間外受け取りは事前にお電話ください。
外出していないかぎりOKです。また前日のご連絡なら在店します。
★通常日の営業時間は午前10時30分〜午後6時30分
受け取りの方で午後6時以降に来てしまった方は電話かピンポンで呼び出してください。たいてい在店していますので店を開けます。ご遠慮なく。たまに買いものに出かけているときもありますが・・・。
まずは遠慮なく。なにしろゆめやは企業(会社ではありません)零細商店ですので「昭和」の感覚でお出かけください。
子どものころは見えていた・・・・
大人になると見えなくなったものを子どもが見ていることがある。いま考えて見ると、子どものころに、いろいろなことがわかっていたような気がするのは私だけなのだろうか。たしかに見えていたし、聞こえていた。だからわかっていた。もちろん言葉で説明できるようなことではなく、ただ頭(心?)でわかっていた、それも、きちんとわかっていた感じがする。
ところが、成長するにつけ、しだいに「世間の常識」がほんとうのことのような気がしてくる。大人の言っていることが正しいように思えてくる。学校が教えてくれることは真実だと思ったりする。まあ、全部が偽りや誤りではないにしても多くはどうでもいい正しさ、真実なのだが・・・なんか違うな!ということのほうが多い。
そういうときに「そうではなくて・・・」と子どものころ知っていたことを持ち出して疑問を持てばいいのだが、たしなめられたり叱れたりするのが嫌で、また、うまく表現できない言葉の不十分さもあり、いつのまにか世間の言う通りの知識や考え方を受け取ってしまう。、すぐに、それが、どうやら「大人になる」ということらしい。はてさて、この写真の子どものような心境にほんとうになれるだろうか。なりたいとは思う。
たくさん所有、いろいろできるは幸福か?
子どものころは、何も持っていないことはさほど怖いことではなかった。ところが大人になると、車を持っていない、家を持っていない、スマホを持っていない、貯金を持っていないということで不安が出てくる。いつのころか、どこかでそう教えられ、そう欲しがるように仕掛けられたような気がする。
最近などひどいもので、流行っているものを持っていない、食べていない、遊んでいないというだけで深く悩む若者が出てきている。
幸い私には雨露をしのぐ家だけはあるが、車もなければ、スマホもない。もちろんガラケーもなければ自転車さえ持っていない。ほしくはないものは持たないからだ。それでも、ものは溜まる。本、書類、仕事上の道具・・・・断捨離をするつもりはないが、[この世のものはあの世にもっていけない]ことはなんとなく分かりはじめている。
多くの日本人が考える時が来ている
人間はスーパーマンではないから、「すべて何でもできるということはない!」ということを知るべきなのだと思う。それがわからないのは若いからか、バカだからか、欲が深いのか・・・それはわからない。
しかし、寿命が残り少なくなってくると、「いま持っているものを次の時代に持っていけない」というのがわかってくる。なんのことはない。何も持っていなかった子どもの時に感覚がもどっていくというわけだ。
ところが、世の中には最後の最後まであの世に持っていけないものにこだわり、人を騙し、人を虐げてもまだまだ増やそうとする人たちがいる。ヒトは、これを何千年繰り返してきたのだろう。
テレビやネットの「買え!買え!」「あれをしろ!これをしろ!」という攻勢をしりぞけて、自分なりにゆっくり生活する方法を考える必要はあるはずだ。
手のかかる子どもを一日の大半、子ども園長時間保育へ遠のけてまで、自分がしたいことをすることは大切なことなのか。それが権利だという人もいる人もいるが、子どもと過ごす時間は必要だと思う。親子関係も対人関係も生活観もいま大きな曲がり角に来ていることを毎日の事件が見せている。
発達対応絵本
①生後10ケ月以前
いつから読み聞かせができますか?ということは、よくたずねられますし、「生まれる前から耳が聞こえるのだから生まれたらすぐに始めていいんじゃないか」という人もいます。「生まれたらすぐ読み聞かせできる」なんて人もね。とくに早期教育を受けた世代の親は、何事も早く、なんでもやれば能力が増すという「信仰」を持つ人も多いし、それを煽るネット情報も多い。
かなりまえに「ソニー名誉会長の井深大の早期教育反省事件」をほとんどの人は記憶していません。「幼児教育は生まれてから一日も早く始めなければいけない」と言ったのです。高度経済成長期に理科系の教育で優秀な人材を作る必要があったからです。しかし、乳幼児にほんとうに必要なことは知的教育ではなく、「人間づくり」や「心の形成」であることがわかり、早期教育を反省することになりました。過度な詰め込みをすると、それが人間性の崩壊や暴力事件に結びついていったからです。もっとも、今、その結果が一部では事件として起きていますよね。「知的教育は言葉がわかってからでいいというのが当時でも結論でした」
優秀な子にしたいのはわかるが・・・・
でも日本人はなにごとも参考や反省の道具にしない国民です。太平洋戦争でさえ都合よく解釈して反省しない政治家もいます。国民も教育や生活について平気で矛盾したことや失敗を繰り返します。原発事故など典型例ですが、ネット社会でパズル・クイズ型の教育もまた復活しています。文科省に「物を考えない国民にする!」という深謀遠慮(笑)があるのかもしれませんがね。
最近はネットで広告宣伝をして、たいていは誇大広告や虚偽宣伝。そこで効果があるといわれれば、親や周囲はその教材や玩具や絵本がもたらす悪影響など考えもしません。「与えれば頭が良くなる」と信じてますからね。キャラクターいっぱいの赤ちゃん教材、DVDのアニメで教えるパターン・・・これこそが分かりやすい教材だと思い込みます。中身はひどいものですが、初めて赤ちゃんを持った希望いっぱいの親はなかなか気がつきません。
最近、おどろくのは、ネットで「人気がある絵本」「よく売れている」などとニュース状で流された本を買う人がいることです。こういうものが複数の申し込み客に共通に入っているのはネットの影響でしょう。
発達、成長に適したことをしていく
何も焦ることはないのです。授乳もダッコもみんなそのときそのときの体験で、人間はその積み重ねを経て、バランスの取れた成長をしていきます。0歳児に大脳新皮質で行う知識集めができるわけもありません。
するべきことはものを握らせ、しゃぶらせ、おだやかに接する。まずは現物を触る、握る、確かめる力をつけることで、赤ちゃん本人がやる力を発揮します。何も生後一ヶ月で読み聞かせなんかしないで、やさしく話しかけてやればいいのではないでしょうか。顔を見て、目を合わせて、何か語りかける・・・読み聞かせをする生後十ヶ月などすぐにやってきます。そこまでは、抱っこした子との交流を楽しまねば損です。ふつうの言葉かけでいいのですよ。自然な感じは赤ちゃんに安心も与えます。
まずは皮膚感覚・触覚が0歳児の重要なポイントです。固いもの、やわらかいもの、まるいもの、四角いもの、熱いもの、つめたいものの判別を口や手、皮膚を使って行うのが0歳児です。これで快感や不快感を使って判別していきます。それに類した言葉かけをすればいいのです。
ゾロ目のはなし part2
3月号で、ゆめやはゾロ目の日に縁があることを述べた。良いことの方が多いが、我が家ではゾロ目の日には思いがけないことが起こったり、始まったりする。3月号でゆめやが昭和55年3月3日に開業したことは書いたが、そこで書き忘れたのが、私の祖父のこと。祖父は文久3年3月3日に生まれた。巳年の3月3日だから名前を巳之助と名付けられた。お雛様のような優雅なことはなく、この人の人生は波乱万丈だった。
文久3年と言っても・・・想像ができないだろうが、まだ徳川の将軍様は14代である。その前から長州のテロリストが暗躍し始めていて、祖父が生まれた月にテロ退治の新撰組が結成されたというからすごい時代だ。祖父は江戸の東部で生まれ、明治維新のころは本所というところに住んでいた。戊辰戦争のころは5歳だから上野戦争、江戸城明け渡しなどは肌で感じていたかもしれない。
私の父は、明治44年に13人の兄弟姉妹の8番目に生まれた。その数年前にラフカディオ・ハーンが日本に来たので、外国人も多くなり、いまと違って人口がどんどん増えていく時代である。祖父もだが、父はもっと大変な人生で子どもの頃、神田で関東大震災に遭い、上野まで逃げてなんとか助かった。大きくなってからは東京大空襲で被災し、甲府に嫁いだ姉を頼ってみると甲府空襲(七夕空襲1945年7月7日)まで体験することとなった。
私は、そんな大変な話をずっと聞かされて育ったが、なにしろ昭和22年生まれである。平和になった日本でノウノウと育ったのだから、空想は本の中、悲劇もお芝居や映画からでしかない。幸福と言えば幸福だが、祖父・父の体験した時代がまた来ないともかぎらない。
大作家、ご来店!!
というようなことを思っていたら、この5月5日に絵本作家の仁科幸子さんが年配の外国人女性をお連れになって来店した。聞くとアイルランド生まれ、カナダ育ちの作家ということ。代表的な作品はあの「妖精王の月」!O・R・メリングさん!! こんな作家が片田舎の小さな絵本屋にやってくるとは・・・・
こういう方は、さすが好奇心や知識欲が強く、店内のいろいろなものに目をやる。ゆめやで出している新聞を手に取り(写真)、質問されても英語がよくわからない私は片言で単語を並べるだけだが、それでもなんとなくわかってくれた(?)。聞くとカナダに住んでいるようで、なぜカナダに?と言うと「アイルランドは狭い国で移民が多い」という。私はよくわからず、「そういえばタイタニック号もアイルランド移民を乗せてましたよね。」など文学とは程遠いことを言う始末である。日本は大好きのようで折詰の和食弁当を「おいしい、おいしい」とペロリと食べてしまうのだから、あと百冊はファンタジーが書けそうだ。
だいたい現代の日本人は、妖精はもとより精霊とか幽霊の話にはなじみがない。
過去の日本文化は、能も歌舞伎も物語もそういうものがあふれていたのだが・・・。明治初期までは残っていて、あのラフカディオ・ハーンはその話を求めて出雲の国に住み着いたのだった。そういえば、ハーンもアイルランド人だ。人が生きる上で精霊・妖精など異界の存在は必要不可欠のものなのだろうね。
さて私は、メリングさんの作品は実は2冊しか読んでいない。「夏の王」と「妖精王の月」。日本人にはフェアリー(妖精)という概念がしっくりこないので、現実と妖精の国の交流がどうもわからない鈍さがある。
アイルランドという国もカナダも行ったことがないし、文化も知らないのでアイルランドやカナダのことも尋ねられない。考えたら昭和55年7月7日生まれの長女は卒論がたしか「アイルランド史」だったと思ったが、東京の東部に住んでいるから電話して呼ぶわけにもいかない。もっと英語を話せる訓練をしておけばよかった、妖精文学をたくさん読み、アイルランドも行っておけばよかった、とつくづく反省である。
先を読んでいたゲゲゲの女房
最近はテレビドラマをまったく見ない。でも10年くらい前は見るものがいくつかあった。大河は「八重の桜」で見終えた、朝ドラは「ひよっ子」でおしまい。あとはまったく見ていない。見る時間がないといえば言える。最近はともかく、以前はドラマの出来もよかったように思う。たとえば、もう15年くらい前だが「ゲゲゲの女房(2010年)」という朝ドラがあった。子どもの頃、水木しげるの「河童の三平」というすぐれた漫画に引き込まれた経験があったから観ることにした。
その朝ドラの一場面・・・・紙芝居の下絵を水木に教えてくれた先輩が商売がうまくいかなくなって道具を売りに来る。そこでのセリフが
「どこへ消えちまったんだろうな。紙芝居に夢中になっていた子どもたちは・・・・」というものだ。これは、電子書籍元年と言われた2010年だから加えられた場面でセリフもタイムリーだったと今にして思う。
昭和の子はテレビと漫画に向かったが
ただ、シナリオライターが心配したような電子書籍はまったく不振で子どもたちの関心は動画と漫画へ向かっていた。紙芝居とは、絵と語りの合体したもので、いわば読み聞かせのようなものだ。これは1960年ごろまで街角で行われ、子どもは駄菓子と語りにつられて聞きに行ったものだ。だが、急速増える漫画雑誌とテレビの出現で紙芝居はすたれていった。
そこで消えたのは紙芝居だけでなく、紙芝居屋のおじさんとのやりとりや年齢差のある子どもたちとの交流である。つまり現代的なものは、人と人のつながりを断ち切る性質を持っているようだ。
そして今年同じセリフが電話から流れて来た・・・・「どこへ消えちまったんだろうな。読み聞かせに夢中になっていた子どもたちは・・・・」これは児童書出版社の友人の言葉である。再び同じことが起きている。絵本が売れなくなっているのは15年前も同じだが児童書全般が売れなくなっているようだ。「ゆめやは読み聞かせから一貫してやっている大丈夫だろう!」と言われたが、とんでもない! 今年の春は低学年(2.3年生)で「本が読めない! 関心が向かない!」という理由で配本打ち切り者が激増した。
この対応で時間が取られものすごい多忙。4月5月の新聞の発行まで遅れる始末だ。「打ち切りたい」という御要望は引き止めることはなく、そのまま受けた。読めなくなった原因を会員からも言ってきたが、多くはスマホの動画が原因、低学年でyoutubeが趣味ということは大変なことになるような気がするが、これはそこの生活の問題、生活が変わらねば本を読み続けることはできないからだ。読む時間が取れないという理由にはスポーツも学習もあって、そういう状態では、長文を読むのが困難になるのだろう。小3になれば配本は長文化する。読めない子には読めなくなる。こういう環境では読書挫折は必然的なものになるだろう。ゆめやは途中入会者がほとんどいないから先行き危ない感じがあるが・・・しかたがない。
テレビドラマ「不適切にもほどがある!」
ここでは、タイムマシンを使って昭和に戻った社会学者が、また帰ってくると平成生まれの娘に「どうでした、昭和は?」と聞かれる場面がある。この答えがおもしろい。
「なんか人が全体的にうるさかった。昭和の人は無駄なことを語り合っていた。いまは、多くの人がイヤホンでいろいろ聞いているし、わからないことは人に聞かずに検索しているから静かなもの。」 なるほど、これはまさにその通りだ。
昔は電車に乗ってもみんな喋っていたり、新聞や雑誌を読んでいたからにぎやかだ。いまはスマホをあやつるだけだから静かなものである。
ここでもシナリオライターは現代の課題を読みとって表現したというわけだ。
現代は子どもが遊んでいても静かなもので迷惑にはならないかもしれない。しかし、こういう状態は、私には「不適切にもほどがある」ことなのだ。人は集まれば話し合うものであり、そこで出る考え方や比較は事前に本を読んでいなければ身につかないのである。ネットから得た情報は山ほど知っていても、それを語る若者の話のなんと薄っぺらいことか。
なかなか気が付かないことなのだが
さて、本を読むことをやめてしまった子どもたち・・・・まあ、時代に乗って行ってもなんとかなるだろうが、この時代が終わったときに気をつけてくださいね。
なんでもそうだが、人は起きて見ないとわからない存在でもある。高齢化問題がいろいろ言われているが、じつはこれはもう1990年には起こることがわかっていたのだ。少子化問題は、ここ十年で逼迫した問題として捉えられているが、これも30年以上前に十分予測できていた。
さまざまな事件、社会現象も同じ。子の親殺しは40歳代から50歳代の子が高齢の親を殺す、親の子殺しは30歳代から20歳代の親が子を殺す・・・・その背後にどのような社会的な流行があり、その影響をどう受けて来たかなどは調べるまでもないほど明らかなことなのである。ところが原因となるものをなかなか事前に止めることが出来ない。流行・世の中の流れに逆らうことになるので、とりあえずはのっかっていくという日本人の体質がなせることなのだろう。さらには、悪影響を受けるのは少数で、大多数は大丈夫だという思い込みがあることも否定できまい。
もうすこしネット情報やゲームから離れて落ち着いた生活をしないと、この手の事件は社会現象になってしまうかもしれない。もう少し、親が子どもの生活環境を考えないとね。(新聞・一部閲覧)
(2024年5月号ニュース・新聞本文一部閲覧)