ブッククラブニュース
令和5年
5月号(発達年齢ブッククラブ)

2023年5月と6月の予定

定休日は日曜、月曜、祝祭日です。
 5月の定休・臨時休業のスケジュール
5月は3,4,5日が連休で6日の土曜日は営業をします。
6月は定休日以外休業日はありません。
 (いずれもいつもどおりの営業です)
 時間外受け取りは事前にお電話ください。
 外出していないかぎりOKです。また前日のご連絡なら在店します。
通常日の営業時間は午前10時30分〜午後6時30分
 受け取りの方で午後6時半以降に来てしまった方は電話かピンポンで呼び出してください。たいてい在店していますので店を開けます。ご遠慮なく。

銀河鉄道の父

 5月5日(子どもの日封切り) 20:40からのレイトショーを観た。予測通り、封切り日なのに観客なんと10人以下。
 ・・・観に行った映画館はシネコンなので、いくつも上映されている。でも他の映画は若者であふれていた・・・「銀河鉄道の父」は閑散。
 「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」、「名探偵コナン 黒鉄の魚影」、「劇場版 TOKYO MER〜走る緊急救命室〜」、「聖闘士星矢  the Beginning」などは満席に近かったが、日本人の愚劣さが目立つ時代になっている。ドリンクやポプコーンを買いに並ぶ若者たちもすごい。ピンクの毛、金髪、銀髪、飛んでもなく大きな目の女性、タツゥーの目立つ男性・・・・「ここ日本?」「ここに本が原作の映画」など場違い(笑)だ。この国は変わる・・・いや終わる?かな。
 さて、そんな喧騒はどうでもいいので座席について観始めると、意外におもしろい視点からとらえた賢治像だった。賢治を宗教に傾倒する過激な青年、政治結社に飛び込むファナティックな青年としてとらえたから、家族からは困り者の破天荒な存在なのだ。それをなんとかしようとする周囲の温かさが、現代の壊れていく家族像の修復方法のひとつに重なって思わず引きこまれてしまった。

親友・保阪嘉内は・・・

 成島出監督、今年二度目の作・・・前作『familia』は「壊れ、変わりゆく家族」の形、今回は、壊れないよう必死で守る「あるべき親の姿」・・・『ソロモンの偽証』といい『八日目の蝉』といい、ここのところの成島監督の一連の作品は、日本が直面している分断・孤立をテーマにした社会派映画といえる。以前、ブッククラブの会員に保阪さんという方がいて、お子さんが高学年になったときに岩崎書店の「宮沢賢治童話全集」全巻12冊のご注文をいただいた。当時は、宮沢賢治は絵物語、画本タイプではない活字ばかりの厚い本。「すごいなぁ!」と思いながら韮崎にある御自宅まで配達した。
 「宮沢賢治のものはなるべく揃えたい。子どもにもいつか読んでもらいたい。」ということだった。そんな話の中で、そのお子さんのお父さんが、なんと保阪嘉内のお孫さんに当たる方だと知っておどろいたことがある。
 保阪嘉内とは、宮沢賢治が花巻農学校時代の親友で、一説には嘉内が賢治へ童話のアイディアを提供したのではないかとも言われているほどだ。
 なるほど、韮崎には急勾配の坂があり、夜にはそこを登る蒸気機関車は銀河鉄道を行く列車に見える。韮崎の北には又三郎を祀る神社もあるようだし、空もきれいで「よだかの星」も見える。保阪嘉内は賢治に話や手紙でそれを語ったのだろう。
 あるとき、山梨県立文学館で賢治→嘉内宛手紙の大量展示があった。「日蓮宗に改宗したこと」、「国柱会に入ったこと」などを伝えた数多くの書簡が展示されていた。私はさらに知りたくなって5年前に岩手・花巻の賢治記念館を訪ねたが、なんと、そこには嘉内の手紙は一通もなかった。嘉内も文筆家、頻繁に返信もしたはずなのに。これは、とても不思議なことだった。

視点を変えてみると

 さて、賢治という人は思い込んだら命がけの人で、考えも行動も過激。保守的な風土の東北で彼のような生き方は、まさに異端だ。周囲も家族もひたすらハラハラ、困惑の極みだったと思う。こういうファナティックな人が家族にいると大変だ。とくに親は困る。映画の寅さんは人気者だが、家庭内にあんな人がいたら、家族にとっては頭痛の種だろう。「出ていけ!」となる。賢治も同じだ。後日、作品が評価されて大作家になったが、成功せずに死んだ彼は、身近な人々から見れば、破天荒な人間で困り者だったといえる。
 その視点から映画化したのが、この「銀河鉄道の父(原作は直木賞・門井慶喜・著)」だ。成島出監督の今年2本目の作品で、ともに家庭の問題を描いている。

親はつらいね

 賢治は、生まれたときから親の愛に包まれて、当時としては裕福な家庭で育ったのに、家業は継がない、父の愛を無視して勝手気ままに生きては挫折しては家に戻るドラ息子だ。
 「変わった子を持つ親とは何とつらいものだろう」と思う。
 それでも親は子を慈しみ、なんとかしようとする。映画では描かれないが、父は賢治を宗教から引き離そうと、あるいは性癖を変えようと二人で関西まで神社仏閣を回る旅行までしている。
 最近の統一教会問題では宗教2世(子)の苦しみが話題になっているが、賢治の場合は宗教0世(親)が苦しんだようだ。それでも、親というものはどこまでも子どもを見捨てることはできない・・・と思っているのは私の人間過信で、現実の世界では統一教会のような子を踏みにじって狂信や狂気に走る親もいる。戦国時代の少年非行集団「悪党」、幕末の「えじゃないか」運動の家庭崩壊、終戦後の浮浪児問題・・・・そして、現代の漂流する少年少女問題・・・・いずれも親が子を慈しむことを捨てた結果生じている事態で、これはもう政治の破綻の以外の何ものでもない。

親はいつも子どものことを・・・・

 映画の最後で賢治の死を看取る父と家族の哀惜が描かれる。そこでは賢治作品(「風の又三郎」「春と修羅−永訣の朝」「雨ニモマケズ」)を介して迫力ある親の愛が描かれる。父役・役所広司が死の床にある賢治に「雨ニモマケズ」全文を迫真の演技で語りかけるくだりは、思わず涙が出てしまった。
 いま、子どもを顧みない親が増加しているという。親が「自分の自由」のために子どもをないがしろにする。あるいは「個を尊重する」という建前でけっきょく親子のつながりが希薄になっているのも現実だ。だが、いつの時代も、親は子どもが病気になれば心配し、性格が悪いと困り、なんとかしようとひたすらあがくものだ。全身全霊で、ひたすら心配する。親とはつらい存在である。
 それが、この映画で再確認できたような気がする。
 ところで、冒頭の保阪さんに戻るが、お母様が重病になってお子さんが介護しているという話を聞いた。これも「銀河鉄道の父」効果がきっと出ているのだろう。親と子はそうありたいものである。

みんなちがって、みんないい・・・

 五月は新緑が美しく、散歩しながらいろいろな木々を見て春はすごいなぁと思っています。ゆめやの庭も花と木々で囲まれ日影ができ始めたので、HPのトップページは新緑にしてみました。6月まで掲げておきます。ゆめやの庭で主な木は沙羅、菩提樹、サザンカ、ハナミズキ、ウツギ、ツツジ、ビワ、ザクロ、柿などですが、一斉に若葉をつけると心が和みます。みんな形が違う葉ですが、どれも子どもの肌のようにツヤツヤしていますから。
 こうした木々は日陰を好む木、、日が当たる場所が大好きな木、水はけのいい場所を選ぶ木、湿った場所で育つ木・・・それぞれの場所をうまく選んで成長しています。
 ほんとうに日本の植物は繊細で多様です。いろんな樹木・草花がどっと目立つ季節ですが、この時期は若木の美しさが際立ちますね。いろいろなものが目に飛び込んできますが、スマホばかり見ているとそれも楽しめません。その植物をスマホで撮影して見るよりは肉眼で見た方がはるかに脳にも心にもいいんですけどね。植物がどんなところでどのように生きているかまでわかりますから。

世界も人もいろいろ

 これは、おそらく人間もそうで、それなりの個性に合わせて、成長する場所を選んでいくと思うのです。と・・・いうと、そんな生やさしいことはなく、人間は嫌でもやらねばならぬこと、努力して嫌な場を抜け出すことなど大変なことが多いから、夢が実現できるように大変な場でもがんばろう・・・・と言う声も聞こえてきますが、どうなんでしょう。
 ある程度成長した大人を見ていると・・・・それぞれ得手・不得手があり、個性もいろいろで、できる人もいればできない人もいる、活発な人、静かな人、おおらかな人、神経質な人・・・まったく千差万別で、それがこの世の中にあふれかえっていますよね。
 もちろん、同じタイプはいても、すべて人は差も違いもみんな持っています。これを同じように取り扱おうとする動きは危険だと思いますが、学校や行政はなるべくひとまとめにしたいと思っているようです。

ひとつの物差しで測るな!!

 ところがですね。最近は子どもの成長を杓子定規で測るのが、常識化してませんか? 「一歳ならこの時期の発語はこのくらいする」、「二歳ならこぼさずに食べる」、「三歳ならこのくらいはわかる」、「この程度の字や言葉は4歳なら読める」・・・そして、これを鵜呑みにした標準モデルができ、成長マニュアルができて、検診などに行くと保健師さんが「ちょっと遅れていますね。ふつう、このくらい言葉を言えるものですが・・・」などと脅しまがいの判定をされると、「学習障害や発達障害があるかも!」と親がノイローゼになりそうになります。
 まだまだ成長の初期の段階、言葉が早い子もいれば遅い子もいる。運動能力がいい子もいればそうでない子もいる。わがままな子もいればやさしい子もいる。絵の上手な子もいれば下手な子もいる。それを一定基準で進んでいる・遅れているの判定では無理と言うものです。子どもについては差や違いに周囲も親も敏感ですから、どういうわけか親の側でも基準で見てしまう傾向があるのです。
 これも親が学校で成績主義や同一行動を強いられた結果、刷り込まれた体質なのかもしれません。これが同調圧力の対象になって、ついつい「遅れているのではないか?」「変わっているのではないか?」「ついて行かれなかったらどうしよう?」と思い込んで、個性も独自性も無視した子育てに走ってしまっている人が多いように思うのです。
 これはある意味、均質社会を目指した高度成長期の悪弊かもしれません。

手をかけていれば大丈夫

 ふつう、親が手をかけ、言葉をかけて生活していれば、子どもはどんな差があっても育っていくものなんですね。
 差や違いがあるのは自然なこと・・・・ですから、心配することはないのです。個性重視教育だなんて言っていたのは、かなり前ですが、少しも違いや差を考慮した教育など行われず、すこしは差や違いを標準化したことくらいやれよ!と思うのですが、面倒なようです。まあ、そこでいろいろ悩む子がいて、それが成長につながれば、いいのですが・・・・
 私など小3で無限小数の意味が分からず、小5では分数の通分の意味が分からず、中一ではマイナスにマイナスを掛けるとなぜプラスになるのかわからないで考え込んで、右往左往でした。まあ、いずれにしろ大人になれば、少数の専門家しか使わない知識でもあるし、そんなもので決まった成績や学歴を使って生きなければならないのはさびしいものです。焦らせる塾や学校や園(行政も)は要注意です。
 これは算数・数学以外のどの分野でも同じです。

他人の決めた尺度で生きるのは

 あんまり神経質に標準にこだわると2歳の子は2歳の標準でないとダメということになります。成績主義・学歴主義で来た社会はもう限界に来ています。成績がよかった人、学歴が高い人が悪いことをいっぱいして、責任も取らないで逃げる世の中がいつまでも持つわけがありません。まずは、そういう世間の波に負けない子にするには、まず親が手をかけバックアップしないとかわいそうですよね。
 寸刻みの標準に惑わされて焦り、変な育て方をしないことですね。自然に育てばなんとかなるものです。我が家も肥料のやりすぎはしません。樹木には肥料もやりません。ふつうにしておけば、多くはきちんと育ちます。成長は、人間の自然・・・放っておいてもそれなりに育つものです。

発達に応じた選書 いつから読み聞かせ?

 この世界はまったく不思議で、人間は誕生するまで生物が四十億年かかって進化したプロセスを再学習しながら生まれます。、たった十か月で単細胞が多細胞に・・・エラが出て無くなり、足が出て、手が出て、毛が生えてすぐ抜けて・・・・哺乳類まで進化して誕生です。
 でもまだ人間になっていません。ナマケモノのような下等哺乳類で生まれ、かなり経ってから四足歩行動物と同じに(生後6〜9ケ月)なります。で、だいたい十か月前後から二足歩行に入ります。つまり立って歩く。ここで直立猿人まで進化するわけですね。
 ゆめやの配本は、この発達に沿って組み立てられています。ではどこから始まるか。最初の原生人類の出発点が生後10ケ月ということですからまずはここからです。それ以前にはするべきことが他にありますから、それをしなくては読み聞かせもすんなり入って行かれないかもしれませんよ。配本は、もちろんワンパターンではなく、男・女、環境の違い、家族形態なども考慮してます。

配本は生後10ケ月が起点

 この時期から系統的な言語(意味を持つ言語、それまでは音としての言語)を獲得し始めると思います。出生からさまざまな変化の時期には時期に合った対応(それなりの子育てが必要で)が必要で、触覚での認識が主になっているので、おっぱいを飲むから寝返りを打つ、這う、つかむ、触る、などしっかり触覚での認識が訓練されないと、あとで本を破ったり、もてあそんだりして手間がかかります。
 まずは抱く、背負うなどのあたりまえのスキンシップは、体を接する刺激が大脳に働きかけ、親であること、愛されていることなどを感じとる力がインプットされます。そして自己肯定感も育ってきます。類人猿が子どもを背負って移動するとき、子どもはその安心感のなかでゆらゆらと「自分は大切にされているんだ!」と感じているのでしょう。
 人は抱っこされたり、背中に背負われたりしたとき、親に歌を歌ってもらってきたのですが、このゆるやかな動作の中で、優しいリズムの歌(子守歌)を聞くことはとても大切なことだと思います。まずは、読み聞かせの前に、そういうスキンシップを大切にしたものです。
 直立猿人になったということは、これから文化を獲得していくときになったということです。獲得の仕方によって人は変わります。どういうヒトになるか・・・・それは成育環境次第ですね。

どんな本から読み聞かせは始まるか

 この時期には、まずページ画面に集中するように見開きで一場面のものを選んでいます。とにかく注意力散漫ですから、すぐ他のものに目が移る、ページをめくるのが楽しかったり、積み重ねるのが好きだったり、差はあるもののなかなか聞いてくれないこともあります。最初から聞ける子もいますが、1歳半くらいにならないと場面に集中できない子もいます。でも、毎日、読み聞かせれば聞くものだということがわかりますから、早い時期に読み聞かせ習慣は根付くと思います。
 1歳最初は実物に近い絵(写真絵本はダメ!)の動物や食物などへ反応するので、この関連のものを入れます。あと1歳前は、リズム(音や動き)に反応が高いですから、音(擬音)を読み聞かせるのもいいでしょう。
 あとは前述の子守歌、体を動かしながら、寝かしつけながら母親が歌う(父親でもいいが母親の方がもっといい)リズムとメロディに子どもは大きな安心感を持ちます。ロックじゃだめですよ。スピードのある言葉が詰め込んであるような最近の歌もダメです。やはり、それなりの適した歌でないと・・・この「歌聞かせ」は3歳ごろまでOKです。

学年最初に入れる本

わかるところから入ってわからないものを知る

 ときおり変えるが、学年最初に入れる本は、比較的関心度が高く、読みやすく、なるべくシリーズになっているものという選書基準がある。
 ところが、これにはお母様方から賛否両論があり、なかには「ゆめやの選書としてはいかがなものか」などというご指摘を受けることがある。
 弁解を言うと、配本は内容がじょじょに長く、高度になっていくので、それに慣れるための長さと一定レベルの言葉があるものを最初に置いて慣れてもらいたいわけだ。全部を高度な本にしたいのはやまやまだが、子どもはそれでは読むのがつらくなる。最初は息抜きをして慣れないと・・・という思いから上記のようなものを配置する。
 しかし、中には理想形の配本を希望される親もいて、「いかがなものか」感が出るのはゆめやとしては、つらいところだ。年間十数冊で、読書力をアップするのはなかなか至難の技でもある。ただ、上のような軽い、読みやすい本ばかり一年間続くわけではないのでかんべんしてほしい。
 ただ、この配本コースはBのベーシックの構成にすぎない。高いレベルのD(Difficult)コースを選べば、そのレベルの配本構成になっているので、満足されない方はDをお選びください。あくまで一般的な子のための読書力グレードアップのためのコースがBコースなのだ。

読めないからといってレベルの落とし過ぎは

 読めない子を読ませるために「オシリ探偵」や「かいけつゾロリ」級の本を選ぶわけにはいかないし、それをやれば「読書の途中挫折」は見え見えで、配本も漫画やラノベまで落とさなければならなくなる。ここがブッククラブのつらいところで、これはもう救えるものしか救えないということで我慢してもらうよりない。
 上記のような本から始めて、「どう読書力を高めるか」はもはやお子さんが養ってきた七、八年の力に頼るしかないというわけだ。

知りたい気持ちが時空を超える

 たとえば今年は「紫禁城の秘密のともだち」を入れた。紫禁城といっても難しい中国史の話ではなく、他愛のない筋書きのものだが、使用漢字、言葉、長さなどがこの時期の子どもには行けると思ったので選んだ。すいすい読めるはずの本である。
 紫禁城(子どもには見慣れない言葉だが)は、言うまでもなく中国の歴代皇帝のお住まいである。そこで本のストーリーが進むのだが、むずかしい歴史は抜いてある。
 でも、これを知れば、いつか最後の皇帝が「愛新覚羅溥儀」で、映画「ラストエンペラー」の主人公であり、その悲劇の後ろには「産めよ、増やせよ」と言って武器を増産し、満州を植民地にして過酷な結末に導いた国の歴史も見えてくるかもしれない。
 あるいは、その映画音楽を作曲した人が故・坂本龍一「教授」で、「戦場のメリークリスマス」や「八重の桜」のような映画・ドラマ音楽を作曲した人で、どのような考えを持っていた人かということもわかるかもしれない。本は知識から考えを生むとっかかりのようなもので、膨大な知識を持っていても生き方・考え方につながらなければ知識は「無用の長物」、「成れの果てはクイズ王にすぎない」と言うことになるだろう。(ニュース一部閲覧)



(2023年5月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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