ブッククラブニュース
令和3年
9月号(発達年齢ブッククラブ)

来店受け取りのお客様へ

コロナ対応について

 緊急事態宣言が首都圏に出ていて、山梨も2桁で感染者数が増えてきています。人口が少ないうえ閉鎖的な地理環境なので微増ですが、感染者が少ないことが逆に首都圏からの息抜き観光の場所となり、県外ナンバーの車がひっきりなしに走っています。また半月後の数字が怖いです。宣言も延長になってます。
 ご来店の際は、マスクをつけて御来店ください。
 お子様のマスクは強制しません。
 マスク着用はお顔が判別できないので、ぜひお名前をお願いします。
 土曜日は混雑するため飲み物サービスは中止します。
 通常日も密になったら、飲み物サービスは中止いたします。
 次の来客があったら、恐縮ですが入れ替わってください。
 念のため毎回テーブル消毒・換気もしますが気になさらないでください。
 恐れ入りますが、混雑したらぜひ新しいお客様に席をお譲りください。
 事前にご連絡いただけば、2〜3ケ月分は用意できます。
 受け取り可能時間(10:30am〜18:00pm 10月1日から)
発送切り替えも可
 発送も可能です。その際は県外会員と同じく3ケ月一括発送になります。
 ご利用ください。発送のご相談は メールでも受けつけます。
 お振り替えは郵便ATMか銀行振込のどちらかをご利用ください。
 ご理解のうえご協力ください。?ゆめや店主 9月10日

言霊(ことだま)の国

 見渡せば花も紅葉もなかりけり・・・・(定家)
 秋来むと目にはさやかに見えねども・・・(敏行)
 魂の たとへば秋の蛍かな・・・・(龍之介)
 黄落や とどめおきたき色もあり・・・・(敏夫)・・・秋には名歌、名句がいっぱいあります。
 日本人は長い間、言葉で心を紡いできました。その意味では言霊を信じる国なのかもしれません。万葉集のように早くから詩歌を盛んに持ち、千年も前から源氏物語のような長編小説を持っている国は世界中を探してもないと思います。その感性がやはり日本人には染み渡っていて、よくも悪くも「配慮」する言葉遣いとなっています。これも言霊を信じるからでしょう。若い世代の方々は、そういうことに無頓着かと思ったのですが、2000年間刷り込まれた意識の変革は、そうそう一世代、二世代ではなくならないようですね。どこかで安心しています。

コロナという言葉が出てこない!!

 毎月、たくさんのお便りをいただきます。振替用紙の通信欄もですが、こういうSNSの時代でも手紙、ハガキなども多いのです。もちろん、ほとんどの方に返信しますが、お子さんから来る手紙はとくに大切にします。幼児のころから手紙やハガキをくれる子もいて、なるほどこういう習慣やしつけをしているご家庭のお子さんは「大きくなってから、きちんとした人間関係が保てるだろうなぁ」と思ったります。
 さて、お母様方のおたよりは千差万別です。「どんな本にどんな反応を示したか」、「こういう読み聞かせをしている」、「時間に追われていてなかなかきちんと読み聞かせできない」「遠出のできない夏だったので工夫して遊ばせた」などなど・・・・生活の様子や配本への反応までいろいろなお知らせしてくださいます。
 これにも、できるかぎり返信をしていますが、この一年、来るおたよりを読んで、ひとつ気が付いたことがありました。おたよりの中で「コロナ」という言葉をほとんど見かけないのです。感染拡大が進んでいる大都市圏の方からも、もちろん地方の町に住む方々のおたよりも、ほとんど「コロナ拡大」「コロナ禍」という言葉がありません。もちろん、その言葉がないからといって「不安や心配がないということではない」と思うのですが、不思議でした。

忌み言葉を避ける

 で、いろいろ考えてみました。これは、きっと昔からなんでしょうね。
 日本には太古の昔から言霊信仰というものがあり、「不吉な言葉を出すとそれが現実に起こってしまう」という恐れが強い気持ちがあるのではないか、と思ったのです。俗に「忌み言葉」と言います。結婚式のスピーチで「切る」「別れる」という言葉を使ってはいけないというのは知ってますよね。言葉が現実を引き起こすという恐れがあるのからです。それと同じで、この社会では「死ぬ」「罹(かか)る」は禁句なわけです。だから、その元になる「コロナ」そのものを使わないようにするわけです。そうすれば、言霊が実際に動いて現実にならないと思うからでしょう。
 例えば、万葉集の中で絶対に出てこないものがあります。「蝶」なんです。いろいろな植物や動物を詠んだ万葉集なのに、蝶がひとつも出てきません。いなかったわけはないでしょう。蝶を古代人は死霊の魂と考えていたので、歌の中でも言葉として出すのを控えた代表例です。出てこられては都合が悪いことが起こると予想してたんでしょうね。現代人には考えにくい発想ですが、同じようなことや思いが、じつは現在でもわれわれの気持ちの中にあるのでしょう。だから、コロナ=厄災→罹らないように・・・・という図式で、言霊となる「コロナ」を使うのが避けられるのでしょう。

夢や希望が実現する?

 ということは、現実に起こっては困る言霊の言葉ではなく、「起きるといいな!」「そうなるといいな」という言葉だけが日本人には逆に好まれるということでしょう。夢や希望に満ちた言葉をどんどん使えば、「そうなる!」という思いが強い民族。言霊信仰をしている日本人の特徴かもしれません。
 スポーツの場でも「負ける」「消える」という言葉は、なかなか使わないでしょう。アスリートたちは「絶対金メダルを取る!」というような威勢のいい言葉(時には大言壮語)しか使いません。これは戦争のときを見ていればわかります。「敗戦」など言おうものなら特高警察が飛んできます。そこまででなくても、現代はテレビでも忌み言葉がほとんど使われません。現実に起こると困るので、悪いことにつながらない言葉ばかりが使われるのです。
 幼稚園や学校でも夢や希望の言葉がたくさん使われますね。お笑い番組が盛んになるのも、聞きたくない言葉を避けて、気分が良くなるものだけ使われるということでしょう。言霊の国ではこういう不思議な現象が話し言葉でも書き言葉でも起きます。
 では、そういう夢や希望だけを言っていれば良いことばかり実現するかというと世の中はそんな甘いものではありません。現実では悪いことは起こります。やはり見据えていないときちんとしたことができなくなり、明るくきれいな言葉だけがフワフワと周りを飛び回る嘘くさい世の中ではこまるのです。日本人が厳しい状態に耐えるために暗い言葉を使わないようにしているのは大切なことかもしれませんが、けっきょく問題の解決にはつながりません。大言壮語は嘘にもつながりますしね。

夏休みの宿題

 小学校時代の夏は楽しい思い出もいっぱいあったが、八月の終わりになると宿題のことで頭が重かった。作文も工作も自由研究もみんな「やっつけ仕事」で、新学期になんとか間に合わせた。
 ある時、それを反省して、「7月中にやってしまおう!」と考えたことがある。遊びたいのを我慢して7月の終わりの数日で宿題をまとめてやった。もちろん、これも全部「やっつけ仕事」である。八月は文句なく山や野、川で遊び狂うことができた。
 作文は、野口英世の伝記のあとがきを写して400字くらいにふくらませた。工作などはひどいもので、箱にセロファンを貼って魚の形に切った(紙を重ねて切ると一気に何枚も同じものができる)ものを糸で吊るし、色を塗るのが面倒だから魚には漢和辞典の魚偏のついた字を書いておしまい。これで水族館の出来上がりである。自由研究は家の庭で育てていたナスの苗から実が付くまでを一枚の紙に書いておしまい。あとは日記だがこれもひと夏全部を一日でつけ終わり、9月1日に提出した。
 しかし、「やっつけ仕事」は先生の目にはすぐわかるもので、「ハセガワくん、この作文は誰かの文を写しただけじゃないの!」「これはちょっと雑な工作!よ。 色くらい塗らないと! それに『鮑』はお魚じゃないわよ。」「毎日『晴』の?マークがついてる日記だけど、雨が降った日も何日かあったわよね。」・・・大人の目から見れば見事に雑な宿題だったのだろう、いま考えれば赤面だが、一生懸命やっつけ仕事をしたことはまちがいない。
 こうして考えると、小学校の夏休みは嫌な思い出ばかりで、楽しかったのは遊びに行ったことだけである。

ところが、雑ではない小学生が

 7月、小4のカリベ君がやってきて、聞きたいことがあるという。
 「甲府盆地が大昔は湖水だったことを自由研究で調べてみたい、どう調べたらいいか教えて!」だった。
 で、大人としては知っている限りのことを話してあげた。「水がなくなったのは、伝説ではデイダラボッチという巨人が足で山を蹴って水を流したという話があるよ。市川というところに蹴裂明神(けさくみょうじん)という神社があってね。そこから湖水の水を静岡の海の方に流したんだって。こういうことは図書館に行って、神社関係の話を調べるといろいろわかるようになるよ。」などと、昔の雑な自分は棚に上げて調べ方を教えてあげた。ここは年の功である。ま、説明も雑な亀の甲のようなものだったが・・・。
 すると、8月の終わりにカリベ君は、なんとA4用紙5枚にいっぱいの図面と文が書かれた自由研究の結果(写真参照)を持ってきた。これを見ておどろいた。自分の住む地域の穴切神社が水の神さまで、その関連の神社が全部調べてあり、甲府盆地の湖水伝説でまとめてあった。誰が見てもカリベ君自身の手で調べたものである。この文字数を書くだけでもすごいものだと思った。研究のきっかけから結果までがびっしり書かれていた。調べ方に深みがあるのがわかる。最近の4年生はすごいなぁと思わざるをえなかった。
 こういうやり方を身につけていけば精密な仕事がきっとできるようになるだろう。人の話が聞けて、それをもとに自分で何かを生み出せるというのはひとつのりっぱな「力」なのだ。
 隣近所の迷惑もかえりみずバスケットボールやサッカーに狂うのもいいが、路上練習でバンバン音を立てて顰蹙を買うより、大人になったときに生きる指針となる考えを身に着け、技術練習をしたいものである。もっとも、そういう子はまともな本など読むことはないし、親も親だから注意も指導も聞く耳はないだろう。そんなヤンキーな人間になりそうな子どもの未来はあぶないものを感じる。

発想を固めていく力

 いま、そういう生きていく基礎になる思考方法や技術を学ぶことができない子が増えているという。与えられたものをこなすだけなら多くの子はできるかもしれないが、カリベ君のようにに、独創的な「仕事」ができる訓練を学校は与えてくれている部分があることも事実なのだ。それなのに子どもたちはなかなかできない。
 ズルをして通過してきた私のような子がまだまだ多いのかもしれない(笑)。発想というと大げさだが、手足を使って調べ上げ、思いつきを理屈の通ったものにする力は大切だ。
 近所の大学の先生が言っていた。「最近の学生は、レポートがほとんどコピペです。調べたり、比較したり、自分の意見を入れている形跡がない。これはSNS時代の最大の問題かもしれませんよ。」・・・
 なるほど。今でも私のようにズルをする人間は多いようで、きちんと資料や本を読んで固めていく技術がなくなっているようだ。でも、まあ、捨てたものではない。いつの時代でも物事を論理的にまじめにきちんと仕上げる人はいるものだ。
 私もやっつけ仕事のズル人間は廃業して、そういうことを目指す子どもたちの手助けができたらいいな!と思う。みなさん、がんばってください。(一部閲覧)



(2021年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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