ブッククラブニュース
令和2年
9月号(発達年齢ブッククラブ)

来店受け取りのお客様へ

コロナ対応について
 マスクはいまのところエチケットていどでかまいません。
 お子様のマスクはまったく強制しません。
 マスク着用はお顔が判別できないので、お名前をお願いします。
 密になったばあい、飲み物のサービスは中止いたします。
 念のため消毒・換気もしますが気になさらないでください。
 受け取り可能時間(10:30am〜18:00pm冬時間)です。
発送切り替えも可
 発送も可能です。その際は県外会員と同じく3ケ月一括発送になります。
 ご利用ください。発送のご相談は メールでも受けつけます。
 お振り替えは郵便ATMか銀行振込のどちらかをご利用ください。
 ご理解のうえご協力ください。
 ゆめや店主 10月1日

来る者は拒まず?去る者は追わず! 

 ゆめやのブッククラブは入るのが大変で、出るのは、かんたん(笑)。たしかに、入るのにはかなり制限があり、「来る者を拒む」こともけっこうあるが、これも時代から生き残る方法のひとつである。
 巨大消費時代では時代遅れのやり方だが、クリック、ポンのネット通販では、交流が生まれない。ならば、交流できるお客を選ばなくては! 客が店を選ぶなら、店が客を選んでもいいのではないかなんて考えた。「お客様は神様だ」というのは高度成長期の考え方で、では、時代が移って店が衰退期に入ったとき、その神様が店を助けてくれたかというとそんなことはない。だから信頼できる「お客様」を店が選ばねば地方経済など軽く終わってしまう。
 中には「8歳ですがブッククラブの配本を!」なんて言ってくる人がいるが、読書履歴も傾向もわからないで配本などとてもできない。こっちは最終的にまっとうな本が読めるようにシステムを組んでいるのだが、そんなことなどお構いなく「本が好きになるような」配本などできるわけもない。
 だから、「うわ、残念、出会いが遅かったですね」で排除(笑)することも多々ある。SNSなら「炎上」しかねない商売だが生き残るためにはしかたないし、実際、それで生き残ってきた。でも、冷たいだけではなく、相手を吟味すれば長く良いおつきあいできるからでもある。長ければ、お互いの気持ちもだんだん通じるようになって、いろいろ伝え合いながらよりよい選書もできるというものだ。子育てとはそういう気長なものでもあるし・・・。

長いおつきあい

 しかし、長くなることはままある。40年もやると長く付き合っている人が山のようだ。実際、十年以上のおつきあいというのはざら。終わってもつきあいは残り、また十年、二十年もの人が何十人、いや何百人もいる。極力、デジタルを使わないので、アナログだが、そういう人は当然長いおつきあいだ。デジタルでは人間関係は浅くなるというのは皆さんも経験があるだろう。もちろん長く付き合っていても、一度もお会いしたことのない人もいるから、人の出会い・つきあいとは不思議なものだ。
 最近は、かつてのブッククラブの卒業生が結婚して、子どもができ、また入会という例が増えてきた。昨年から今年にかけての入会者の半数以上がそういう人たちだ。紹介者が「お母さん」。「40年もやると、こういうことが起こるのか!」とびっくりである。だから、私の仕事の大半は、手紙やハガキを書いたり、メールを打ったりである。
 「短い人生、出会った人とは、できるだけ長く」と思うから「来る者は拒まず?、去る者は追わず」ということになる。その気のない人、合理的に得るだけのものを得たら「さよなら」という人は去るに任せればいい。短い人生、人が出会う数はそうは多くない。ゆめやは通販会社ではなく「店」、お客さんとは会話を交わすのが仕事である。
 でもある人に言わせると、新規顧客が停滞と言うことは先行き危ないということでもあるらしい。でも、それは経営学の考え方。危ないなんて開店以来ずっと危ないのだから慣れてます。まあ、アベノミクスはかなりきついが、ここで失業が広範囲になればたしかに危ない。でもそれはゆめやのせいではない。
 利益のために一回だけの客を集めるネット通販が好きな人は、そっちへいけばいいのである。いわば「去るに任せな」・・・・そうでなくて、子育てはコミュニケーションを通じてと言う人は知恵ある「猿に任せな」である。

時代遅れ?時代に迎合?・・・むずかしい選択

 先年、閉業した専門店大手の名古屋のメルヘンハウスさんは、一時期、年間3万人のブッククラブ会員がいたそうだ。そして3万冊を店舗に常備していた。
 閉業するとき、創業者の三輪さんが、嘆いていた。「スマホで本の写真を撮り、Amazonに送って配送してもらおうという来店客が増えたのが閉店の原因」と。
 「時代が変わると人も変わる。業態を時代に合わせて変えないと・・・」とも言っていた。なげかわしい客の商業倫理だ。しかし、それが客と言うもの、客もしつけねば(笑)荒れた客ばかりになる。
 ゆめやは40年やって1万人をようやく超えただけ。哀れなものだが、バブル崩壊、リーマンショック、コロナ禍でも続けている。
 続いているのは、会員と濃密なつきあいができているからにほかならない。つまり、これまでずっと、そういうお客さんが支えてくれたわけだ。物と金のやりとりで互いの利害・・・それだけでは味気ないじゃないか。
 いまどき、商品を先送りして後で支払ってもらうところなど、どこにあるだろう。ゆめyは40年前からやっている。お客を信頼しなくては何を信頼するというのだろう。いまどき入会手続きや配信・交信が郵便なんてところはないだろう。デジタルが人から心を奪っているからアナログで踏ん張る・・・
 ウイスキー屋ではないが、ゆめやは何も足さない、何も引かない。40年前のまま。時代遅れかもしれないがやっている。
 「それでだめなら、時代のほうが悪い! 客の方が悪い!」と悪態をついて、やめてやろうと思う(笑)。

こんな絵本もあるよ(3)
ちのはなし

 十数年前から父親が配本を取りに来る例が増えた。毎月必ずお父さんが来るのはこの九月に甲斐市市長選に40歳代の若さで出たYさん、もう五年も毎月受け取りに来る。こういう人を首長にしたかったが、まだまだ田舎は保守的、いいところまで善戦はしたが76歳の現職が勝ってしまった。地方都市は高齢者が多すぎる。
 ところで、父親とは、母親たちと違う視点で、いろいろ話が弾む。父親の受け取りは、20年前は皆無だったから日本も変わったと思う。父親の配本受け取りの最初はKさんという外科の先生だった。毎月、いろいろな医療のエピソードを聞くのが楽しみで、病院の休憩時間に(笑)受け取りに来る先生と長話(笑)をしたりした。
 あるとき、展示してあった「ちのはなし」に話題が及んだ。K先生は、幼いころ、この本を読んで外科医を目指したという。すごいね。血を見たらひっくりかえってしまう私は、この本を読んでも治す側に回るという発想は逆立ちしても出てこなかった。
 本をきっかけに天職を得る人は多い。もっとも、私はいろんなものを読み過ぎて天職は見つけられず、転職ばかりしてしまった過去があるから大きなことは言えないけれどね。
 K先生の話を聞いてから、子どもが何かを目指しそうなタイプの本を必ず配本に入れてきた。名医に、大小説家に、優れた福祉事業家に・・・なる子が出てくるかもしれないね。ま、「どろぼうがっこう」もルパンのような大泥棒になるならけっこうなことだ。ゆめやの卒業生で、警察や探偵を煙に巻く大どろぼうが出るのもおもしろい。でも、政治家はダメだな、二度も政権を放り投げる未曾有(ミゾユウ)の無責任な人間は出てほしくない。もっとも、字も読めないのがそういう政治家。ブッククラブ卒業生なら字はきちんと読めるから大丈夫だ、云々(デンデン)。みんな、何かのヒント、生きる上のヒントを本から見つけてほしい。

本とともに過ごしてきて

 茨城県土浦市 坂本悦子さん 楓太くん 高1 いなほさん小6
 ゆめやさんには息子が10ヶ月の時からお世話になっています。小さい頃は同じ本を繰り返し読み聞かせ、本の世界を親子共々楽しんでいました。繰り返しながらも、新しい本が楽しみで、次の月が待ち遠しかったものです。
 読書をすることで想像力が育ったからでしょうか、本以外にも興味が広がりました。5年前に初めて落語会に行き、意味はよくわからなくても話芸に引き込まれ、すっかり落語好きに。他にも、演劇やチャップリンの映画、杉山亮さんのものがたりライブなど、声や身体を使った表現が大好きです。 
 我が家の子どもたちがゲームやテレビがなくても平気なのは、それより魅力的な世界を知っているからなのでしょう。
 息子は高校生になりました。部活動が多忙で少し本から遠ざかっていますが、ゆめやさんからもらった土台があるので心配はしていません。
 娘は読書より体を動かすことの方が好きでしたが、次第に読書に集中するようになってきました。今は「精霊の守り人」シリーズに夢中です。私も読んでみたら物語に引き込まれてしまいました。就寝前のひととき、親子で同じ本を読み、感想を言いあえること、親として本当に幸せです。
 子どもたちは「ゆめやさんの本がなかったらここまで本好きにはならなかった」と言っています。そして、ゆめやさんを紹介してくれた兼本さんには本当に感謝しています。これからも本とともに過ごしていきたいと思います。ゆめやさん、本当にありがとうございます。 
 《ゆめやより》もう15年のお付き合いになりますか! ご来店くださったのはまだ楓太くんが小学生の時。よく覚えていますよ。もう高校生なんですか。早いなぁ。落語は私も一番好きな噺芸なので、楓太くんとはまた会って落語の話をしたいですね。話芸の楽しめる日本人が少なくなりました。話芸こそ生きる上で大切な芸なんですが。兼本さんがご紹介者でしたか!よろしくお伝えください。

読書の秋? 読み人知らず!? 

 この時期、必ず新聞で「読書の秋」、「読書週間」などの言葉が躍る。これは、どう考えても、みんなが読まないから、「せめて過ごしやすいこの時期に本でも読んでもらいたい」という気持ちの表れなのだろう。そして、読み聞かせおばさんや教育行政の人たちが声高に「本離れ」「活字離れ」という言葉を、そのあとからつけたす。
 しかし、へそ曲がりの私は、昔から「ほとんどの人は活字離れ、本嫌いだったじゃないか!」と思っている。
 言っている当のおじさん・おばさんたちは読んでいるのか。
 そりゃあ、週刊誌も本、新聞も活字、How To本も漫画も書籍だから、厳密には活字離れではないだろう。だけどね・・・それでは考えも育たない、育たなければ自分なりの生き方はできない。回りと同じように、まわりよりちょっとbetterにというくらいしか考えられないだろう。学歴のための知識・識字・・・なるほど、これがいままで。これからはちがうと思うよ。知識や識字などはAIのほうがすぐれているのに決まっているからだ。
 学校は、うまく場をまとめる訓練やマニュアル的な知識の教授はするが、自分の考えや意見を固める学習をしているだろうか。いや、そもそも日本では小学校から自分の言葉でしゃべる教育など行ってはいないのではないか。自分の考えが出るので、意図的に高度な本を読ませないようにしているのは勘繰りというものだろうか

学校は本気で本を読ませたいのだろうか

 以前、学校はうるさいように「本を読め!」と言っていたが、最近は、トンと言わない。マスコミも読書推進活動を報道しなくなった。
 学校のほんとうの狙いは物語や文学の鑑賞ではなく「識字」であり、「知識が増えればいい」のだから、それなら本などより受験型勉強やタブレット学習でOKと言うわけだ。書くなら文ではなくて、アニメの絵でじゅうぶんというところなのだろう(笑)。
 読書感想画というのが出てきたのには驚いたが、そんな感性で読書したことになるのか。文を書き記すには考えを持たなくてはならないから、そんな面倒なことより知識量と識字数で判定しようということかな。2022年から実学指向で、文学・詩歌鑑賞がなくなっていくというのに学校や教育者はあまり騒がないのは、こういう理由があるからで、危機感はまったくない。
 国語(母国語)が尊重されない教育と言うのは、未来がとても危ないことを示しているのが歴史だ。いま、中国は、周辺国家の言語をみな中国語にしようと圧力を高めている。モンゴル語を捨てさせ、中国語に、ウイグルにも強要している。ところが日本は政府が国語教育をおざなりにしようとしているのだ。
 考えてみれば明治初期、学校令を発布した森有礼は、なんと「日本語を捨ててすべて英語にしよう」というとんでもない発想をしていた。しかも英語は時制変化が不規則なものがあるので全部規則変化にする、と。こういうバカげたことを、この国の近代を作った長州藩勢力は試みていたのである。

まともな本は、中学年から読めなくなる

 いまでも、雑な読書教育のため子どもは本が読めなくなる。これを、どうしたらいいのか。お母さんたちは「幼いころ読み聞かせた本の中身を子どもがみんな忘れている」とこぼす。たしかに読んだ本の内容を10%も覚えている子はいないだろう。
 だが、読み聞かせで知った言葉や物語は心の底に沈んで、やがて「考え」や「感じ方」のもとになるものだ。大人の言う記憶や知識の積み重ねなど読み聞かせにはない。自分で読み始めた本こそ「その読者自身の言葉になっていく」のだが、これが大人や親たち(先生方もふくめてね)にはわからない。すぐれた言葉を豊富に持っている人の方が心や行動が豊かになると決まっているのだが、知識や成績で計量したがる人には絶対わからないことでもある。
 まったく個人的な意見で、異論もあるとは思うが、もう一度言いたい。学校は本気で子どもに本を読ませたいと思い、その試みをしているのだろうか。それとも、子どもが自分の考えを持たないように意図的に思春期に本を読ませないようにしているのだろうか。

各学年の配本選書で私の心に残った本(4)

「ビロードのうさぎ」(小2)マージェリーWビアンコ作 酒井駒子・絵
 開業以来、ずっと入れている配本だ。最初は「ビロードうさぎのなみだ」という絵本の体裁ではない単行本だった(下の写真)。それを酒井駒子の絵本が出たときに切り替えた。文章内容はほぼ同じ。長い物語がきつい小2には絵本のほうがいいと思ったから、新刊が出たとき、すぐに代えた。
 主人公は男の子で基本は男子配本である。同じタイプのものを女子では「ジェインのもうふ」で入れているが、「ビロード」が、いい本なので副読本で女子でも読んでいる子がけっこういる。この本では性差はまだまだ関係ない。
 クリスマスのプレゼントでビロードのウサギをもらった主人公が、ともだちのように大事にして、ボロボロになるまで相手になるところは感動的だ。
 しかし、子どもは大きくなっていく。やがて別れる時がやってくる。だが・・・物語はそこでは終わらない。
 この世の中に本物というものはあるのか。本物は求めれば手に入るのか。物事に高をくくって流行りものに飛びつく年齢の子では感じ取れない考え方、また、一方では、いくら絵が良くても、このお話が理解できない幼児ではちょっと効果が期待できない。

効果はあるよ

 ある母親が、この本を読んで感動し、涙がこぼれたと言って、手作りのぬいぐるみのウサギを持ってきてくれた。自分も子どものころ大事にしていた人形があり、それはボロボロになった今でも自分の部屋に置いてあるという。十数年前のこと、その方のお子さんはもう成人した。忙しい仕事なのに私のところにいまでもその子からメールやはがきが来るので、何の問題もない成長をしたのだろう。いい親に恵まれた子はまっとうな人間になる。悪い親から生まれた子は不幸になるどころか下手をすると命さえ失う。
 小さいころの心の体験はほんとうに大切だと思う。忙しくて読み聞かせもできない親が増えている。そういうある親は「何といっても、この世はお金がないと不幸になりますからね」と豪語する。当然、子どもも同じ考えに染まっていくだろう。はてさて、人生で「物ではない心の本物」を得る子どもはどのくらいいるのだろう。子どもに復讐されないように、心して時間を割かないと、子どもはあっという間に成長してしまう。

サブカル問題⑦

 九月の初めに小4の9歳女児の誘拐事件が横浜の青葉区で起こった。監視社会だから防犯カメラ映像のつなぎ合わせで、二日後には東京・葛飾に住む38歳の男がすぐ逮捕され、女児は保護された。
 問題は、誘拐のきっかけである。二人はオンラインゲームで知りあったというのだ。で、男が横浜まで誘いに行き、女児は車に乗って男の自宅へ・・・男自身は、家庭内暴力で母親とは別居、一人住まいである。小さいころからゲーム三昧でろくに職にもつかなかったという。よくあるケースだ。問題は少女のほうである。9歳で親のスマホを使って対戦型オンラインで交流する。声をかけられれば、たやすく、ついて行ってしまう。こんなことが現実に起きているのである。これは男の親も、女児の親も先をまったく見ないで育てた、あるいは育てている状態であって、親の育て方そのものが悪いといえるのではないか。

家庭の問題だね どちらも

 ゲームを通じて毎日のように共通の体験をすることで、面識がない人とも仲間意識を持ちやすいのは大人でも同じことである。親が『知らない人とは会わないで』と言っても、ゲームの中で親しい友達になっていたら、子どもはそうはいかない。第一、自分をかまってくれる暇もない親より、楽しいゲームで遊んでくれる見知らぬ人の方が親近感は出るのはあたりまえだ。疑う力のない子どもは、聞かれれば住所でも電話番号でも自分のことでもなんでも話してしまうことだろう。
 携帯型ゲーム機やスマートフォンなどで楽しむ近年のゲームは、インターネットを使ってプレーヤー同士がコミュニケーションできるものが主流だ。人気のバトルゲーム「フォートナイト」は、世界で4億人以上が楽しんでいるという。設定によって面識がない人とも遊ぶことができ、イヤホン・マイクなどを使って会話をしながらゲームを進める。これは危ない!!総務省調査2019では、6?12歳の80%がインターネットを利用し、35%がスマートフォンを利用している。ネットの利用目的は、13?19歳の6割弱が「オンラインゲームの利用」を挙げているのだ。上記事件は、幸い過酷犯罪にはならなかったが、「下層階級のやったことだから関係ない!」で、逃げていられるだろうか。(新聞・ニュース一部閲覧)

いじめの構造⑦…番外編
現代につながる古代の悲劇

 いま日本を覆っているのは、さまざまな異様な事態、現象だ。軽い言葉、おかしな考えの大人、子どもとは思えない子ども、わけのわからない事件、天候不順、季節感消失、・・・それなのに、いや、それだからなのか妙に浮わついている世の中。意味のない笑いネタや感覚だけを刺激して記憶にも残らないスポーツ、支離滅裂な芸能とSNSに煽り立てられる購買欲、そこで芽生えているのはヤンキーな風潮だ。頭で考えないで、何かに乗せられて動く気持ち・・・。かんたんに言えば、扇動されやすい精神である。
 信仰心のかけらもないような若い親が七五三で自分も子どもも着飾る。初詣はそうしたヤンキーのねえちゃん、にいちゃんでゴッタがえす。祈りに行くわけでもない。教えを受けにいくわけでもない。まして戒律なんてあったらとんでもない。
 そして、このような国民の精神背景をもとに多くの反対があるはずの原発の再稼働は強引に進められ、特定少数の決定で高額な軍備が進められる。究極は選挙。一部の邪悪な勢力でさえも票を集めてしまう・・・無関心とイケイケドンドン。これはアリスの不思議な国だ。それなのに誰も気に留めない。おかしい?! 原因は何なのだろう? 米国に占領されて精神までアメリカ化したからか?いや、これはたかだか七十年ちょっと前から起き始めたことだ。

もっと深いところに

 これとは違う原因があるのではないか。どこかもっと底の方で、おかしなことを平然と進める何かがあるはずなのである。パワハラ、セクハラ、虐待、イジメ、衝動殺人、親殺し、子殺し・・・こういう罪を犯しても平然とできる精神の背景があるはずだ。
 下は、「六月の晦の大祓(みなつきのつごもりのおおはらえ)」の祝詞というものだ。この前文には、この国ができた経緯が描かれている。いわば国作り。この国は男女の神が矛(ホコ・武器)で海をかき回してできた国だと言う。武器で国ができる。すごい話だ。そして、その神々が九州に降りてきて、もともといた人々に「国を譲れ!」「国を譲れ!」と迫ったのことがある。神話だとバカにしてはいけない。その神話を基礎にした神社が日本中には山ほどあるからである。
 しかし、古事記・日本書紀そのたの古代文献には、どんな戦いがなされたかは書いてない。だが、祝詞には、その「国を造った人たちの犯した罪」について以下のように記している。

おどろくべき悪行の処理方法

 難解な原文は下に掲げるが、むずかしい文なので先に要約しておこう。(要約でもむずかしいかもしれないが。)
 「この国では罪というものがなくなるように、罪を風や霧のように吹き払い、船を解き放つように海に押し出し、それでも残っている罪がないように祓い清める。すると、流れの速い川にいるセオリツヒメという姫神が海に持ち出してくれる。次には、海の潮賂にいるハヤアキツヒメという姫神が罪を飲み込み、気吹戸にいるイブキドヌシという神が根の国・底の国にふっと吹きはらう。そして、根の国・底の国にいるハヤサスラヒメという神が罪や穢れを持って行ってすべて消し去ってくれる。そうなると天皇はじめ官僚たち、全国すべての人たちは『今日から何の罪も存在しない』と祓い、清めたことを知ることとなる。
 これはものすごい発想だ。「罪はどんな罪でもみんな海に流してしまおう」というものである。何をしても、そんな罪は全部、自然の神々が消してくれるという、なんでもありの世界である。
 ここで流してもらう罪はものすごい。前文を読むと、それは農業破壊(畔放ち・溝埋め・頻蒔き)動物虐待(串刺し・生け剥ぎ・逆剥ぎ)環境破壊(屎戸=汚物まき散らし、許多=数を多くする)から始まり、猟奇的虐待や先天的異常(生膚断ち、死膚断ち、白人=しろびと、母や子を犯す、獣姦)自然災害や邪道な行い(虫の発生、空からの神や鳥の災い、家畜を殺す、まじないをする)などである。 これって、形を変えていまでも起き、行われていることではないか。「そんな罪でも海に流してしまえば問題ない」というのがすごすぎる。こんなお気楽な宗教は世界広しと言えど、そうそうない。では、放射能も法律破りもみんな海に流せば祓い清められるということではないか。

事の発端は出雲征伐

 この大祓の祝詞はなんのために作られたか? 古事記・日本書紀はさらりと国譲りのことを書き、脅した結果、すんなりと出雲が国を譲ったとある・・・そんなわけはないよね。侵略者に徹底抗戦をして、完膚なきまでにやっつけられたはずなのだ。そのとき侵略者側は何をやったか!? それは戦争の常、略奪・強奪・強姦・非戦闘員(高齢者や子ども)の殺戮だろう。問題は、それが酷すぎた結果、やった側の兵士の中にたくさん罪の意識にさいなまれ、一種のPTSDが起きたのではないか。それは、ベトナム戦争やアフガン戦争から戻った米軍兵士が銃の乱射事件を起こしたり、覚せい剤漬けになって殺人や放火を繰り返すのをみればわかるだろう。イランのサマワに駐留して直接戦闘に参加しなかった自衛隊員の帰国後の自殺数が群を抜いているのを見てもわかる。戦争とはこういうものだが、日本ではアメリカのような事件がさほど起こらない。
 例えば、150年前の戊辰戦争(とくに会津戦争)だが、ここでもひどいことが行われた。強姦、略奪は言うに及ばず、敵側(会津藩士)の死者は路上にそのままにし「葬ってはいけない」などの禁令を出したため屍は半年も腐るに任せたとある。武士の所業とは思えない残虐なことが平然と行われた。しかし、明治時代初期に、そのPTSDや乱行が官軍従軍者に起きたという類例はない。5世紀の磐井の反乱鎮圧やアテルイ征伐、平将門の乱でも同じだったろうが記録には鎮圧側の負の遺産はない。責任は解除され、勝てば官軍なのである。
 その最たるものは太平洋戦争である。復員した兵士はほとんど黙りこくり、何をしたかを話した例が少ない。これは非戦闘員で満州や朝鮮に行っていた人でさえ残酷な場面を見て、あるいは自ら残酷なことをして精神的におかしくなるということはないように思う。731部隊の生き残り(早く敗戦を知ったので本土へ逃げ出した数は多かった)は何も口にしていない。この背後には、つねに神道がある。つまり罪は「黙っていればなくなる」というわけだ。

戒律がない国

 このことについては心理学者や社会学者からいろいろな見解や説が出ているのだろうが、私は、この現象は「祟りを恐れるがゆえに大祓という気楽な思想に逃げた結果」と考える。どんな罪を犯しても、その罪は水に流せば消えるという考え方があればこれは楽だ。実際、古代の乱を鎮圧した側は相手を神に祀って怨霊封じを行い、自らは禊や祓いで免責である。
 実際、官軍側は靖国神社という神社を新たにつくり、官軍側は英霊として祀りながら、賊軍側は祀らなかった。これは明瞭な精神面での免責で、賊軍の霊は怨霊だから会津に閉じ込めておく必要があったのである。怖れるあまり、首切りやさらし首を廃止していった。自分たちに降りかかってこないようにである。平安時代もこうだったろう。
 しかし、それでは、不満や怒りが出てくるので武士が「責任を取る・取らせる(切腹や処刑)」ことで罪を明白にする時代が来たが、まだまだ背後にはお気楽な戒律なしの祓いで罪を消す神道がうごめいていたのである。そして、それを復活(平田神道など)を復活させて国をつくったのが明治政府だったというわけである。以後、国家によるハラスメントの多くは容認され、いじめは、受けるほうも悪いというあいまいな判断で、いじめた側の免責はまかり通っている。ここを乗り越えない限り、教室内、地域内、企業内のいじめはなくならないだろうし、いつまでたっても近代国家にはなれない。

【以下参考原文・『六月の晦の大祓』】

 (岩波古典文学大系・「古事記・祝詞」・・・上記書き下し文の原文」
 「・・・天の下四方の國には、罪といふ罪はあらじと、科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝の御霧・夕べの御霧を朝風・夕風の吹き掃ふ事の如く、大津邊に居る大船を、舳解き放ちて、大海の原に押し放つ事の如く、彼方の繁木がもとを、焼鎌の敏鎌をもちて、うち掃ふ事の如く、遺る罪はあらじと祓へたまひ清めたまふ事を、高山・短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織つひめといふ神、大海の原に持ち出でなむ。かく持ち出で往なば、荒鹽の鹽の八百道の、八鹽道の鹽の八百会に坐す速開つひめといふ神、持ちかか呑みてむ。かくかか呑みては、気吹戸に坐す気吹戸主といふ神、根の國・底の國に気吹き放ちてむ。かく気吹き放ちては、根の國・底の國に坐す速さすらひめといふ神、持ちさすらひ失ひてむ。かく失ひては、天皇が朝廷に仕へまつる官官の人等を始めて、天の下四方には、今日より始めて罪といふ罪はあらじと、高天の原に耳振り立てて聞く物と馬牽き立てて、今年の六月の晦の日の、夕日の降ちの大祓へたまひ清めたまふ事を、諸聞しめせ」と宣る。」



(2020年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

ページトップへ