ブッククラブニュース
令和2年
9月号(発達年齢ブッククラブ)

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9月20,21,22日は連休となります。
コロナ終息まで

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 お子様のマスクは熱中症を誘うこともあるので緩和します。
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 当分の間、飲み物のサービスは中止させていただきます。
 頻繁に消毒・換気もしますが気になさらないでください。
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 ゆめや店主 9月1日

秋来むと目にはさやかに見えねども

 蝉の鳴き声が終わり、夜、虫の音が聞こえてくると暑くても秋だなと感じる。しかし、この虫の鳴き声を「声」として認識できるのは、世界中で日本人とポリネシア人だけらしい。欧米人には聞こえない?!
 不思議な話だが・・・。人間の耳では、左耳から入った音は右脳に行き、右耳では左脳に行くという交叉構造である。左右の耳に同時に違ったメロディーを流して、その後で、どちらのメロディーを聴きとれたかを調べると、常に左耳から認識され、右脳が感じる。言葉は同時に聴かせると右耳から。つまり左脳が認識する。多くの人が右耳に受話器をあてるのは、このためだという。
 左脳と右脳の違いを調べると、音楽、機械音、雑音は右脳、言語は左脳。だが日本人と欧米人では大きく違うという。母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、楽器音などを日本人は言語と同様の左脳で。西洋人は楽器や雑音と同じく右脳で聴くらしい。日本独自の「自然観」が、脳の働きにも影響しているのかな?虫の音は欧米人は聞こえないというのもおどろきだ。
 だいたいにおいて欧米では虫はmosquito蚊、fly蠅、bee蜂が代表で、みんな害虫だ。秋の夜長の風情ある虫の音なんて趣味は聞いたことがない。欧米では、虫には悪い語感がある。insectは「虫けらのような卑しい人」という意味だし、bugは「てこずらせる」、あのPCソフトの「バグ」だよね。虫は無視なのだ。日本語なら、ノミ蚤、シラミ虱「虫けら」というところ。

鳴き声は言葉

 日本では虫の音に聴き入る文化があるが、西洋には虫の音を楽しむ習慣はないらしい。日本では童謡で、小さいころから訓練される虫の音を聞く習慣。ほとんどの日本人は知っている歌である。
♪あれ 松虫が鳴いているチンチロ チンチロ チンチロリン あれ 鈴虫も鳴き出した リンリンリン リンリーンリン 秋の夜長を鳴き通す ああ おもしろい 虫の声・・・・・・
 この伝統は昔の和歌にも多くみられる。「さまざまの虫のこゑにもしられけり 生きとし生けるものの思ひは」などと、日本人は虫の音だけでなく、そのほかの動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎまで言語脳で聞いているというわけだ。この能力は読解力にまで影響しているはずである。
 日本の子どもが犬の声は「ワンワン」と言うのは、親が犬を指して「ワンワン」と教えるからで、猫は「ニャーニャー」、牛は「モーモー」、豚は「ブウブウ」、小川は「サラサラ」、波は「ザブーン」、雨は「シトシト」、風は「ビュウビュウ」。自然物はすべて「声=言葉」をもっている国になるというわけである。
 台風が来た時に、風のうなりや雨音がひどくなる。そうすると、老人たちが、「これは天が怒っているからだ」「政治が悪いから、自然が怒りの声をあげている」とか言ったのを聞いたことがある。と、すると老人たちは、ビュービュー、ごうごう、ザーザーという音は、言語として聞こえていたのかもしれない。
 欧米人の耳に虫の音や雨音が聞こえない、雑音でしかないというのは信じがたいが、これが文化と言語が人間の成育過程で特性を生み出す母国語による差異なのかもしれない。

人種ではなく幼児期の母国語

 ただ、自然音を言語脳で受けとめるという特徴は、日本人や日系人という「血筋」の問題かというと、そうではない。日本語を母国語として最初に覚えたかどうかで決まるということらしい。ほかの言語も同じ。
 その例として、南米で日系人10人を調査したデータがある。これらの日系人は1名を除いて、ポルトガル語やスペイン語が母国語の人々で、その脳は成人するとすべて西洋型だった。
 唯一の例外は、父親が徹底的な日本語教育をして、10歳になるまでポルトガル語を知らずに過ごした女性。その後、ブラジルで大学まで出たが、この女性だけはいまだに自然音を言語脳でとらえるという完全な日本型である。逆に中国人・韓国人はもともと西洋型なのだが、日本で日本語を母国語として育った二世、三世の人々は、完全な日本型になっている。この意味でも、人種差別はまったく意味がないという証拠となる。
 こう考えると、西洋型か日本型かは人種の違いではなく、育った母国語の違いであるということがわかるだろう。「日本人の脳」というより、「日本語の脳」と言うべきだ。日本語と同じパターンは世界広しといえどもポリネシア語でしか見つかっていないという。(新聞一部閲覧)

不思議な国のアリスと時間泥棒

 ときおり人は、無意識に時代を先取りした「言葉」を考え出すことがある。もしかすると思いが時空を超えて先に現れるのかもしれない・・・・
 また、ゆめやが、わけのわからないことを言っていると思うかもしれないが、実は「不思議な国のアリス」という本の内容がずっと分からなかったのだ。現在でもよくわかってはいないが、なんとなく時間とお金について言っているのではないかと感じた。漠然と「アリスのお茶会」の意味を不思議に思ってきたが、「アリスのお茶会は、終わることがなく際限なく続く」。この「ずっと終わらない。」というのが不思議だ。
 三月うさぎが、「お茶会が終わるかどうか」を考えるが答えが出ない。困り果てて、「このお茶会は終わらないの?」と、10シリング6ペンスと値札が付いたシルクハットをかぶった帽子屋に尋ねると「終わりってなんだっけ?」という虚ろな答えだ。誰もここで時間とお金のことを考えないのもおかしい。
 三月うさぎは、「時間て、誰も見たことがないのに、ある、ない、なんてどうして言えるんだ?」と疑問だらけだ。うさぎには、だれもが言う「もう時間がない」「いや、まだ時間がある」ということがわからないらしい。
 そこで、帽子屋が「終わり」について懐中時計に尋ねると、カチカチと前に進む音だけで始まりも終わりもない。しかし、彼は「この時計だけが頼りなのだ。止まってしまったら我々はもうおしまいだ。」と思い込んでいる。(ニュース一部閲覧)

モダンタイムス

 なるほど現代社会は、ただ前に進むだけの時間に支配されている。コンピュータには時計が内蔵され、「早くしろ、時間が無駄だ、もっと速く、もっと合理的に・・・」と煽ってくる。その後ろで灰色男が「ほら新しい車、立派な家、豪華な食事、・・・・欲しければ、時間をうまく使えよ! もっと稼げよ! 時は金なり!」と囁(ささや)いている。
 むかしは、こんなことはなかった。一日はもっとのんびりしていて、待つことなどなんでもなかった。
 「ゆるやかに暮らす幸せな生活とはなんなんだろう?」と、三月うさぎは考える。そして、思う。「この時計たちは狂っているのだ・・・・時間をまともにするにはどうしたらいいんだ!」と。
 その横で「にせ」海亀がつぶやく。「お笑い芸人の愚劣な言葉と食い物の映像が果てしなく続くテレビのお茶会は時計の異常が生んだものだ」
 「みんな自己主張と自己表現ばかりじゃないか!」と。
 「ゆっくり歩く僕は馬鹿にされるだけなんだ!」と海亀の目の涙は止まらない。
 ここは、同じ亀でも「モモ」のカシオペアが登場しなければだめなのだろう。
 カシオペアは30分先の未来がわかる能力があり、時間泥棒と戦うモモを、ここという時に助けていた。カシオペアは「時間とは、生きるということ」「人の話に耳を傾けろ」と言いながら、知恵の源・ポラリス(北極星)を指し示す。しかし、子どもが本を読む力が残っているかどうかが問題だ。未来を生きるのは子どもだから。
 はたして、人は、またのんびりと暮らせる時代を取りもどせるのだろうか。まだまだバカげたお茶会は続くが、ひょっとすると、このバカなお茶会を終わらせる答えは、話ではなく本のなかにあるかもしれない。だって、ルイス・キャロルは産業革命で変わってしまった英国人を見て「アリス」を書き、エンデは高度大衆消費で変わってしまった人類を見て「モモ」を書いたのだからヒントは物語の中にきっとあるのだろう。(ニュース一部閲覧)

時間泥棒とは?

 帽子屋も時間に追い回されている側の人間かもしれないが、かれらを操っている時間泥棒とはだれなのだろう。産業革命が始まって物が無制限に製造され、また買われ始めたことは誰もが知っていることだ。産業革命は18世紀半ばにイギリスで綿・毛織物工業の製造が機械化されたことから始まったと言われる。特に重要な変革とみなされるものには、綿織物の生産過程におけるさまざまな技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられる。これによって工場制機械工業が成立し、また蒸気機関の交通機関への応用によって蒸気船や鉄道が発明されたことにより交通革命が起こって行った。だから19世の初頭には欧州では産業革命の嵐が吹き荒れ、ほぼ全土に機械工業や鉄道化の波が押し寄せて社会を変えていったのである。と、まあ、ここまでは歴史のおさらいだが、一般には近代化の発端として良いことのように言われている。しかし、これこそが人間から時間と心を奪っていった張本人なのである。

日本を見た人々

 幕末の1850年ごろだが、このころから、かなりのイギリス人・アメリカ人が日本に来ている。もちろんフランス人もドイツ人も来始めたが、英米人は精密に日本を描き出した著作をたくさん残している。チェンバレンやイザベラ・バード、タウンゼント・ハリスなどだが、当然、ラフカディオ・ハーンなどもその中に入るだろう。維新前後の日本を見て、彼らが日本人の道徳観や生活様式の素敵さに驚いた記述をしているのは、なにもエキゾチックな趣味からばかりではない。
 この人たちの多くが日本を称賛する表現をしている。はじめは不潔で汚い国と言っていたバードですら、人の心に触れるにつけ、その清々しさに驚いていく・・・産業革命で変わってしまった欧州人を知っていた彼らは日本で、産業革命前の日本人に出会って産業革命以前の子価値観が変わる前の欧州人の心を思い出したかのようである。
 と、いうことは時間泥棒というのは殖産興業や富国強兵を推し進めた人たちであり、産業主義、自由競争を進めた人たちでないかと思われる。ずっと150年それが続き、最近では小泉政権の下で、本来なら国がやるべきことを自由競争の名で民営化して人を使いつぶすことを始めた人たちがいる。それが殖産興業なら、安倍政権が進めたことは富国強兵でもある・・・・なんだか明治維新をなぞっていくような時間泥棒の所業ですね。(新聞一部閲覧)

読書感想文は出しましたか?

 夏休みの宿題で一番四苦八苦するのは読書感想文。低・中学年の子は自分の考え、感想などが固まっていないし、どう書いたらいいかもわからないから苦痛な課題の一つだ。私もそうだったから、低中学年の子に「さあ、書け!」とはとても言えない。これは半分は親の仕事である。
 学校が書き方を教えてくれるならともかく、「自由に感想を書いてください」では、子どもは困るばかりである。ちゃんと本を読んできて、自分の考えができあがらなかったら文など書けるものではない。ちゃんと書ける年齢は、やはり高学年くらいからだろう。
 その読書力の成果が出たものとして、この感想文を取り上げてみた。ブッククラブの会員だが決して我田引水ではなく、感じ方、まとめかたに際立ったものを感じたので紹介したいと思った。彼女が取り上げた本は配本のひとつだが、お姉さんが中3なので、この美波さんは妹。本は、副読本・弟妹配本に入るものだった。ある意味、内容的に難易度が高い本でもある。「時のむこうに いまここにいる」(偕成社)・・・。タイムスリップものだが、なかなか、テーマも深い。現代の小学生が戦時中に時間移動して、あまりの違いにおどろく内容だ。これを自分の現在の生活と比較してうまく一つの考えとしてまとめているもので、毎日新聞社賞を取るのも当然かなと思った。「本を読んで生活体験を重ねていけば、こういう考えも育ってくるのだなぁ」と確信した。これも、長年の読み聞かせと読書の成果だと思うと感慨深いものがある。世の中は、ますます本離れだ。思考の格差も大きくなるだろう。

毎日新聞社賞・小学校高学年の部

 志村美波さん(小6)入賞作品「当たり前にありがとう」(「時のむこうに いまここにいる」)山口理・作  最上さちこ・絵

 ある日の夕食のときのこと。私は苦手な食べ物を目の前にして、はしが止まった。「体にいいものだから、少しはがまんして食べなさい。」
 少し強めな母の声を聞きながら、仕方なくそれを口に運んだ。「無理してまでこれは食べなくてはいけないものなのだろうか」そう感じるのはいつものことだ。
 そのように感じている日々の中、『時のむこうに』という本に出会い。私は活を入れられたような気持ちになった。主人公の翔太は、今の時代をうとましく思い、昭和にあこがれていた。ある日、翔太とその妹の理子が買い物に行くと、なぞの光に包まれ、昭和の時代にタイムスリップしてしまう。今より昔の方がいい時代だと思っていた翔太だったが、現実は想像していた以上につらく厳しい時代だった。
 かれらがタイムスリップした場面では、これからどのような体験をするのだろうとワクワクした。しかし、読み進めていくうちに、その気持ちはふきとばされてしまった。かれらがタイムスリップしたのは戦時中だったのだ。(中略)
 「おれが、やっとのことで手に入れてきたのに・・・。いいか、お国のために戦っているみなさんはもっとひどいものしか口にしていないんだ。出ていけ、この非国民野郎!」かんそうトウモロコシを口にして箸が止まった理子に浴びせられたこの言葉が、まるで自分に言われた言葉のように私の心にずしっとのしかかった。かんそうトウモロコシを食べたくないと言った理子と私が重なったからだ。(中略)
 考えてみると、食べることに限らず、私が当たり前だと思い込んでいることはたくさんある。例えば、すずしい部屋でずっとすごしているとすずしいことが当たり前に思えてくる。そればかりか、部屋をすずしくしてくれている家族のありがたさにもどん感になっている。いつも身の回りにあって当然のように感じていることに対してはそのありがたさを忘れてしまいがちだ。(中略)
 私は、この本を読んで、目の前の物事だけでなく、その向こうにある「誰か」や「何か」の存在にも気持ちを向けようと思った。「当たり前」に思ってしまっていることひとつひとつに「ありがとう」という気持ちを忘れず、これからを過ごしていきたい。

2022年

 だいたいにおいて、多くの国民は重要なことは知らされない、というより、知ろうともしないから自分で考えて行動するより、「みんなと同じでいいじゃん!」・・・何か起きたら「しかたがない」となる。子どものころから回りと同じで育てられた結果でもあるが、こういう生き方は先を読めなくなると危ない。
 たしかに、これだけ「悪」が満ちてくると、個人の力など小さすぎるが、本を読むというのは古今東西の知恵を知るということでもある日本は急速にこの十年で「悪」がはびこりはじめた。ナイフで突然刺すとか、電話詐欺とかいう悪ではない。そういう悪も増えてはいるが、嘘が横行し、知らぬ間に悪が現実化するという問題。コロナで恐怖を煽っておいてワクチンで一儲けしようとか、食の安全のための厳格基準を壊して、食品表示基準から「人工」、「合成」の用語を削除するとか、国語教育から文学をなくして使用説明書・マニュアル・伝票が読めればじゅうぶんという国語とか、もんじゅ廃炉のあとにまた同じ新原子炉とか・・・これが一斉に2022年に現実となる。実態をだれも知らないうちに・・・・。 
 次世代の安全より、いまの儲けが最優先というのもスゴイ話だが、ものが考えられなくなった国民ほど操るのがたやすいものはない。みんなを芸能とスポーツに振り向けておけば抑え込めるというものなのだろう。(増ページ一部閲覧)



(2020年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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