ブッククラブニュース
令和2年
5月号(発達年齢ブッククラブ)

来店受け取りのお客様へ

コロナ終息まで原則 店頭あるいは店先で配本をお渡しします。
 いらっしゃるときは早めにお電話くださればご用意できます。
 ドアは原則、開放しておきます。雨・風の日以外。
 感染を防ぐため 終息までマスクをつけてご来店ください。
 お顔が判別できないこともあるのでお名前をお願いします。
 店に入らずに店先で、その時間にお渡しできます。事前連絡を。
 当分の間、飲み物のサービスは中止させていただきます。
 頻繁に消毒・換気もしますが気になさらないでください。
 受け取り可能時間 (10:30am〜18:30pm)
 発送も可能です。その際は県外会員と同じく3ケ月一括発送になります。
 ご利用ください。発送のご相談は メールでも受けつけます。
 お振り替えは郵便ATMか銀行振込のどちらかをご利用ください。
 時代遅れかもしれませんが、零細店なのでキャッシュレス決済は導入しません。
 ご理解のうえご協力ください。ゆめや店主

不思議な春

 今年の春は、とても不思議な春だ。いやいや、不思議というより「春らしい春」と言っていいかもしれない。開花は早めだったが、きれいに梅も桜も桃も花を付けた。空がきれいに澄んでいた。四月は裏庭から毎日富士山が見えた。最近の四月はそういうことはめったにない。それにとても静かな春だ。まず車の走行数が少ない。なにより感じたのは空から飛行機の爆音。消えた!静かな空に戻っている。
 まだ、ある。
 朝から子どもの声が聞こえる。この近くにこんなに子どもがいた? 親子で真昼間の道を歩いている。そんな風景はここ二十年くらい見たことがなかった。すくなくともこんな感じの静かで穏やかな春は40年ぶりくらいのような気がする。
 人間が生産活動をやめると、あっという間に自然が回復するというのもスゴイ話だ。中国・大連に住む知人が3月に「空がとても青い」とメールをくれた。これは、外国会員からも同じようなものがたくさんあった。車の騒音が消えたとか、風が都市の匂いがしなくなってさわやかとか、フーン、短期間でもそうなのか!と驚くほどのお便りだった。 

コロナがつきつけたもの

 そういえば、福島の帰還困難区域は数年で周辺環境が昭和の初めにもどったらしい。北海道では左の写真のありさま。(人のいなくなった公園を占拠しているエゾシカ・5/5北海道)
 こういうことから考えると、人間の経済活動は自然のサイクルををはるかに越えてしまったのではないだろうか。それを新型肺炎が教えているような気がする。先月も書いたが、新型コロナは人間に向かって「集まるな」「交わるな」「動くな」「行くな」を要求してきた。そして「鎖国」や「封鎖」をせざるをえなくなった。これはいったい何を意味しているのだろう。
 新たな生き方を考えることが「要求されている」。しかし、仕事に行けなくなった人や集まらないと稼げないスポーツ・芸能の世界では「それでは食えない」「あれもしたい!これもしたい!」と叫びだす。 

また戦時中?

 なかには「コロナは敵だ、打ち勝とう!」「敬意、感謝、絆があればウイルスは克服できる」などと、「どこの宗教だい?」と思わせるような言葉を並べる人もいる。これじゃ、戦時中のスローガンやB29に竹やりとバケツで戦う精神主義と同じである。日本人は、こんな危機でも少しも変わっていないようだ。たしかにコロナはB29と同じで善人も悪人も関係なく絨毯爆撃してくる。これに対して鬼畜米英・・・同じ発想しかない政府、国民。とても21世紀とは思えない。
 すぐに熱狂したがり、周りが動けば何も考えずに同じ方向に向かう。挙句の果ては「悪疫退散」の祈祷までが行われる。これまた戦時中だ。
 考えるということをしないで、強いものにつき、得になることばかりになびいていく国民は、あの300万人が死んだ戦争ですら十年もしないうちに忘れ、繁栄ばかり追い求めて、不安定な世の中をつくってきた。まだそれを続けようとしている。すこしも命のことを考えない精神・・・それはまさに、あの特攻隊の精神、神風精神がまだ生きているという証でもある。 

ある投書

 命についてのある新聞投書が目にとまった。
 「今までの生活ではダメなのだ。ちょっとぐらいという感覚ではダメなのだ・・・ふつうに老いて死ぬことが当たり前でない今、一人一人がすべきことを考え実行するときではないか。(山梨日日新聞・5/5付・長谷部美佐子さん)」まさに考えること、そして変わることが提唱されている。
 しかし、こういう人も中にはいるが、多くの人は日々の生活に追われ、「子どもをどこに預けようか」、「一日中、夫や子どもがいるとストレスが溜まる!」「クビになったらどうしよう?」という不満や悩みがまず頭に浮かび、考えるどころではない。それもこれも含めて、これからの人生を今までと同じにするのかしないのかも考えられない。今まではその困難や悩みを今まではスルーしたり、行政や外部に委ねたりしてきたわけだが、コロナは「それも考えろ!」と言ってきている。しかし、無理かな。私は、最近、日本人にあまり期待が持てなくなっている。あまりにも鈍感だし、あまりにも正義感、潔癖感がない。欲を追求することが正しく、悪でも平気で肯定するようになってしまった。ソドムとゴモラの例を出すまでもなく、なんとなく天罰をくらいそうな感じがしている。命を大切に考えない種族は亡びるだろう。
 命は人生のことだと思うが、人生は人とのかかわりだ。生まれたら親と出会い、その周囲の人と出会い、成長する中でまた誰かと出会う。人間が一生のうちに出会える人間の数などたかが知れている。友人や取り巻きが多い人もいるが、多ければいいというものでもないだろう。数が増えれば増えるだけ関係は希薄になる。
 日本人は、この困難を考えたり、生き方を変えたりすることができるだろうか。金と便利の代わりに、人とのかかわりは面倒くさいと捨ててきたのが現代人だ。少し考えを変えてみれば、何か失ったものが戻ってくるかもしれないが、ダメだと思う。全世代・・・切り抜ける力が不足してしまっているからだ。(ニュース一部閲覧) 

丈夫な頭と賢い体を持たねば!

 この2ケ月、新コロナウイルスに翻弄されていたなかで、じつは偉い人たちもほとんどウイルスがよくわかっていないことがわかってきた。もっと見えてきたのは国会も学校も働き方制度も、その実体がなんとも頼りないものだということ。これは不謹慎ながらとってもおもしろかった。
 だいたい有識者と言われるなんとか機構の人が陣頭指揮だが、みるからに何もわかっていなさそうな退職役人が目を泳がせながら説明をしている。天下りで大金を得ている人々。庶民が危機にある切迫感はない。
 初めは、「人の命より五輪開催ごり押し」だった政府もいきなりヤバさを感じて方向転換するという荒技。学校も家庭も何も言わず追随して大混乱だ。しかも、よく考えると全然コロナ対策になっていないという大笑いものでもある。学童は許可、学校は休校・・・すごい矛盾だ。園は登園OK、だけど自主判断・・・全部、「働かせたいがバタバタ倒れられたら困る」というご都合主義の慌てぶりがすごい。大都市はともかく、いまのところ地方ではなんとか切り抜けているが、第二波ではどうなるだろう。 

子育てを立身出世でいくのは

 だいたいコロナウイルスは、首相であろうと国会議員であろうと教育委員会であろうと忖度なしに迫ってくる。そして、極小の物体が豊かで安全と見えた社会を裸にして実体を見せてくれたというわけだ。
 大胆な経済政策の「成功」でお金は山ほどあると思っていたら、各国がやっている休業補償さえ出ない・・・「ほんとはお金ないんじゃない?」と思ったりする。一人一台タブレットで、すぐに遠隔授業が開始されるかと思ったら全然。教育インフラは民間まかせ。場当たりすぎて「あぶないなぁ」と思ったりする。50年前なら考えられないほどの学生が医学部を出てお医者さんになっているというのに医療崩壊? 1機130億の戦闘機100機分の金を医療インフラに流せば「ベット数の確保や看護師の待遇もよくできるのに!」と思ったりする。
 でも、暴くと「ヤバい」ということをわれわれは小さいうちから刷り込まれているから、「羊たちの沈黙]だ。
 親は焦ってこう言う。「こんなに学校が休みになったら学力が落ちる!」。私は「半年や一年、学校に行かなくても学力なんか落ちない」と思ったりする。まあ、成績については自慢できない(笑)。中2まで、ほとんど勉強をしなかったし、高校も部活と読書だけ。だから、零細の本屋にしかなれなかったが、東大を出ればね。無策でも厚労大臣になれるし、その下の官僚も墨塗や改竄や隠蔽、いい加減な陽性率統計などに学力の高さを発揮している。
 しかし、これでほんとうに学力があるのか? 学力を心配するお母さんと話していても大した考えも教養もないし、第一、高校までに身に着けた知識さえ忘れているような人も多い・・・「立身出世」という明治時代の背後霊をしょっているような気がする。「学校を出ることが絶対」という刷り込みがあるんだよね。
 こういう矛盾やごまかしをコロナはあぶりだしてくれていると思うけど、なーんも感じないで元に戻ってしまうんだろうか。耐えれば卒業証書、修了証書、そして退職金へと続く安心? で、疲れちゃって、考えるのをやめちゃう? 考えるのって面白いはずなのに。それを繰り返してるうちに、自分が何がしたいかわからなくなっちゃって。誰かに見てもらって点数つけてもらって休暇と給料をもらう。これは「社会の学校化」、「学校化社会」だ。
 仕事は体を使ってするもので、「キツい/キツくない」は自分の判断です。でも現代人は、体の素直な感覚を無視する生き方になってますね。社会の不安ってそういう好きでもないことをやっていることで巻き起こってるんじゃないかなぁ。昔は、職人、商人、農民・・・貧しくても仕事は好きだったと思う。いまは好きなことで仕事をやってる人がとても少ない。子どもの頃から学校や大人が「好きなことで食べていくなんて甘いよ」と言って来るし。でも、それって、自分ができなかったひがみだと思いますよ。
 そんなに人生は長くない。ストレスを娯楽でごまかす人生より、ごまかさず、悪事を働かず、清く、正しく(笑)。
 やはり子どもには社会にやられない丈夫な頭、苦しい状態を切り抜ける賢い体を育てたいですね。 

コロナは何を狙っているのか?

 さすがにテレビ嫌いの私もコロナではテレビニュースを見るようになった。お笑い芸人のくだらん番組や能天気なスポーツなどはまったく不快だから普段もニュースは見なかった。でも・・・見るようになったのは東日本大震災の時以来だ。
 でも、なんとなく違和感を感じる。ニュースでは飲食店が営業自粛で苦しいという。利益率が高い商売なのに2ケ月も持ちこたえられないとは!! そんなに自転車操業なのか? 家賃補助金が50万円出ても足りないという。そんな高い家賃を払っても営業してきたということはふだんはボロ儲け以外のないものでもないではないか。しかも、そのオーナーは数店舗所有しているという。なんか取材相手が違うような・・・・。
 フィットネスクラブやスポーツジムも客が来なくて大変だという。リラクゼーション・ルームも濃厚接触だから客が来ないらしい。ライブハウスなど感染源にもなったから人が近寄らない。イベント・コーディネート会社も催しものがないので仕事が次々にキャンセルだという。ファミレスやファストフード店が客が来ないのでドライブスルーやテークアウトに切り替えて昼食用にサンドイッチを売り出したという。一個1000円・・・東京ではそんな昼食を食べる人がいるのか!と思う。
 もちろんインバウンド目当てのホテルやアパレル販売店は大打撃だ。ドラッグストアも売り上げが激減だという。ここまで読んで気が付いた方もいると思うが、カタカナ商売がやられているのだ。もちろん、そのほかにも狙われている職種はあるが目立つのは、近年、台頭してきた職種である。ほとんど50年前にはなかった仕事だ。

半世紀前の話

 不謹慎なようだが、我が家ではテレビを見ながら夫婦でこういう会話を交わした。
 「50年前にはなかった職業よね。」
 「外食なんて一年に一度か二度だったな。」
 「仕事が運動で、お金払ってまでしなかったわ。」
 「散歩もしなかったな。」
 「マッサージなんて今でも行かないもんね。」
 「痛けりゃ湿布するか風呂に入るかでね。」
 「豊かになったということかしら。」
 「いや原発と同じで、一度できてしまうとね。」
 「その仕事の裾野で働く人が必ず出るから」
 「その人たちの職を奪うことになるから、だれも反対できないということ?」
 「儲けたいがために仕事を巨大化すると、人は馬車馬のように働かねばならなくなる。
 「ミハエルエンデが『モモ』で言っていたことだね。」
 半世紀前、世の中はいろいろ事件もあったが、原発事故もなく、津波もなく、地震も噴火もなかった。社会的不安はまったくなかった。パソコンもスマホもなかった。電子レンジもクーラーもなかった。空も海もきれいだったし、まだ人と人の間にはつながりがあった。なにより安全があって、小学生が一人で地方から都会へいくこともできた。豊かになるということは、それに比例して危険も大きくなるということか。国が欲を膨らませると、人も欲を膨らませる。
 教養も知性もないような小娘が卒業旅行だと称して外国に行き、「パリのロジエ通りのカフェがおしゃれでね・・・」とのたまう。金満老人が「なんていっても豪華な旅はクルーズ船で、港々に寄っておいしいものを食べ、船の中のカジノやシアターを楽しむのが最高よね。」と自慢げに話す。何事も自由だ。それもよかろう。批判すればヒガミだとせせら笑われる。(それは自由なの?勝手なんじゃない?)
 しかし、コロナはそれにも襲い掛かる。容赦がない。行き来は禁止され、都市は封鎖だ。国は鎖国をせねばならず、生産活動まで止めなければならなくなっている。この意味を考える知性があれば、コロナ後の世界は良い方向に動くだろうが、このまま無理を重ねて欲を暴走させたら未来は必ず砕け散る。
 その未来にいるのは、私のような老人ではない。子どもなのだ。その子どもから未来を奪うのは欲や身勝手や無知だと思う。それにコロナはNO!と言ってきたわけだ。さあ、どうする。人類! 抑えられるか? 日本人。科学は、すべてを乗り越えて勝利できるか? 2020年は、知性の分岐点になっているぞ。(新聞増ページ一部閲覧) 



(2020年5月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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