ブッククラブニュース
令和元年(平成31年)
11月号新聞一部閲覧 追加分

発達に応じるということ

⑥4歳以降は、選べなければ・・・

 店売をしていると様々な本の選び方する人に出会います。会員は受け取りにくるだけですが、ふつうの来店客を見ているとじつに時代の変化がわかります。若い母親の中には、こちらに話しかけてきて相談して選ぶという人はほとんどいなくなりました。コンビニの販売方法の定着かもしれませんが、無言で選んでカウンターに持ってきて支払う・・・ここには「自分が選んだものが一番」「子どもが喜びそう」という自己選択の満足だけがあり、自信のない親は子どもに選ばせて責任を回避(「だって子どもが選んだんだもん!」という意識)するという気持ちも見え隠れします。例えば二歳の子どもに本を選ばせる人、子どもが喜びそうなものを第一印象で選ぶ人・・・と、いろいろですが、子どもは快・不快など見た目でしか選べません。たしかに適切なものを選ぶのはむずかしいのですが、選ぶ基準を失ってしまった時代には、選択はすべて個人の感覚にゆだねられてきたようです。
 借りてきた本は返さなければならない。
 ゆめやの店頭には子どもが一目で喜ぶような本は置いてありませんし、若い母親が「きゃーカワイイ!」というものも置いてありません。その意味では消費者のニーズに合わせた商売はしていないのです。

返したらないも同じ

 親としては、無駄が出ては困るので、図書館を利用します。行政が母親に「図書館で本を!」という運動もしています。行政のイベントを使うのがうまい世代はとくになんでも利用します。借りれば、反応がなくても返せば損はないですからね。しかし、タダより高いものはない。たくさん借りてきて返す・・・これってね。子どもにとっては読まなかったのと同じです。目の前を通過していくだけのことですからね。会員の方はわかりますが、子どもは何度も読んだあとようやく中身が自分の物になっているのがわかるということが見えますね。本棚に自分で取りに行きます。字も読めないのに正確に本を引き抜いてくる。これがすごいのです。中学生くらいになれば借りた本でも効果が出てきますが、幼児や小学生はそうはいきません。所有していなければ中身も所有できないのです。売りたいから言っているのではありませんよ。図書館族などもともと客にはなりません。言ってもわからないし、こちらからもあちらからも敬遠するよりないのです。でも、子どもってね、自分の本棚にある本はよくわかってますよ。大人が思う以上に。

時代の変化

 時代時代によって、世の中の物の見方は変わってきます。もちろん我々もその見方に大きく影響されます。だから選び方も変わります。バブルのとき土地は最も価値のあるものでしたが、いまではそうではありません。それ以後、「何でも儲けるために売る」という市場優先社会になって、物が溢れてきて、あまりに物がありすぎるために「何が良いものなのか」逆に探しづらくなってしまいました。売る側と買う側の対話もなくなってしまいました。何もかも何となく買って消費している感じです。さらにズバリと言えば、テレビ、雑誌、チラシなどの宣伝、広告に乗せられて「みんなが買っているようだから・・・」という漠然とした選択をしている人が多いのです。半分は(いやいやほとんどですかね)詐欺のような商法で、つまりは買わされているわけですが、この傾向に歯止めがかかりません。対話しながら信頼関係を持って選んでいくという昔は当然だったことがいまの若い人にはなくなってきてしまいました。哀しいですが・・・・。

選択能力が大人にもなくなってしまった。

 まず幼児に適切な物を選ぶ力はないです。快さやおもしろさで選んでしまうので、すぐ飽きてしまうし、内容が理解できないと、これまたすぐ嫌になってしまいます。おもちゃでも本でも同じです。かんたんにいえば幼児の選び方は大人の衝動買いと同じで、自分に合った適切なものを選ぶということはありません。しかし、売り手は、この性質も利用して玩具や本をつくって販売します。「ぐりとぐら」と「ピカチュウ」を並べておけば多くの子どもは「ぴかちゅう」を手に取りますし、「からすのぱんやさん」と「あんぱんまん」を置けば「あんぱんまん」に目が行きます。「プリキュア絵本」「ジブリ絵本」も同じ。手に取るように、目が行くようにつくられているのです。ですから、子どもに選ばせてはいけないわけですが、大人もまた何を基準に選択するのか分っていないことがあります。どうしたらなるべくベターなものを選ぶ基準をもてるのでしょうか。4歳からは本格的物語絵本です。この基礎がなければ小学校中学年で読書挫折が起こる。きちんと読み聞かせをさせたいです。(つづく)

大人になるということ

④だまされない力

 ここ数年、かかってくる電話のほとんどが勧誘である。たいていが「初期費用無料」「限定販売」「いまなら3割お得」というもので「安くなる」「便利になる」「もうかる」などおいしい話でいっぱいだ。もっとすごいのは得体のしれない宗教まがいのスピリチュアルな話の後に商品を売りつけてくるもの、一回しか経験がないが「オレオレ詐欺」の電話もあった。テレビショッピング、ネットショッピングも大嘘が多い。
 電話が鳴ったら騙しと思えである。スマホではそういう見知らぬ電話番号はブロックできるから、いきおい固定電話が狙いで一日のうち数回はかかってくる。あとFAXには貸金業者と飲食店の勧誘チラシ・・・都会はともかく、世の中は意外に不景気のようだ。
 で、その電話だが、相手が要件を切り出すと私は「電話一本で商売するなんていい度胸ですね。足で稼いでみたらいかがですか」などと軽くあしらう。おいしい話には、かならず嘘がある。
 先日など「塾の経営をやらないか。本屋なら子どもが集まるし一石二鳥だ。フランチャイズだから講師は派遣するし、少額の経営費用を出してくれればあとはみんな本部がやる。そのあとは収入が増えるだけ。」・・・・言葉巧みに中年の女性がまくしたてる。「塾で手いっぱいの子は本なんか買いませんよ。」と断った。
 うちはご承知のように宣伝も勧誘もしないで四十年近くやってきた。拡大して儲けようとするから嘘を言って騙さなければならないわけで、こういう商法は以前は嫌われたものだが、アベノミクス以来、悪質商法が大手を振っている。

世の中はダマシが大半

 子どもは、こういうキビシイ時代を生きていかねばならない。夢だ、希望だ、努力だ・・・などという甘い言葉だけでは渡れないのが、これからの時代だ。まさに倫理や法律が効かなくなった中世のようなもので、「派手な着物を着て歩いているとオオカミに襲われるよ」、「継母の言う通りになっていると捨てられたり殺されたりするよ」「金持ちの言うなりになると、とんでもないことになるよ」という「赤ずきん」や「ヘンゼルとグレーテル」「おやゆび姫」のような世の中を生きる。
 そればかりではない。中世では親に捨てられたり、家庭や家族を失った子が徒党を組んで悪事を働くということがあった。生きるためだが、当然、その子たちは明るい未来や幸福などは得られなかった。世の中に騙され続けるからである。教育が進み、豊かに食える現代でも信じられない数のそういう青少年が生まれている。起こる事件を見ていればわかりますね。
 だまされないようにするにはどうするか、先を見る力、人間を見る力、言葉を見抜く力が必要なんです。学校の国語では無理、大人たちの底の浅い会話でも身につかない。テレビ、雑誌では逆に力がそがれる。その力とは危険を察知する想像力・・・意外に「優れた本を読めば身につく」ものですけどね。親が読んでないからダメか。

本とともに過ごしてきて

 後藤田恭子さん 徳島県吉野川市・琴音さん(小6)
我が家の三姉妹の長女、琴音(六年生)がゆめやさんとのご縁をいただいたのは一歳になる少し前の頃だったかと思います。入会して間もない頃、何度も手紙でやりとりさせていただいたことを、昨日のことのように思い出します。長女はゆめやさんから届く絵本をとても楽しみにしていて、絵本が大好きでした。小さい時には私が、就寝前に、長女と二歳下の二女に、読み聞かせをしていましたが、年が離れて生まれた三女には、母に代わって、長女と二女が、絵本を読み聞かせてあげている姿が今もよく見られます。
 そんな長女は、3年生の時「百人一首」を国語の授業で習ったことがきっかけで競技かるたの世界へ・・・。よく「マンガの『ちはやふる』が、きっかけですか?」と聞かれるのですが、長女は、「日本語の美しさ、その背景にある作者の思い」に惹かれ、今現在でも百人一首に夢中です。彼女は「ことばの響きの美しさ」を度々、私に説明してくれます。これも小さい時から、本に親しんできたおかげだなと感じます。
 しかし、学年が上がるにつれ、読んでいない本が増えたこともありました。その時は、再び寝る前に、毎晩数ページずつ読み聞かせを再開したのですが、そのうち、「続きが気になって、もう最後まで読んじゃったよママ」と、読書の魅力に再び引き込まれたようでした。そのとき読み聞かせた「バク夢姫のご学友」や「菜の子先生がやってきた」は、私も読みながら大笑いした思い出があります。
 最近では、自分で夜遅くまで読んでいることがしばしばあります。目下、長女の大好きな本は「アサギをよぶ声」だそうです。思春期に差し掛かり、彼女の中でもいろいろな葛藤があり・・・その心を本が支えてくれているように思います。
 娘達と、「ゆめやさんお店に行きたいね。」と言いながら、伺うことができておらず、申し訳なく思っています。遠い四国徳島まで、配本していただき本当にありがとうございました。時折、徳島の話題や私の仕事・子育てのことなどを織り交ぜながらお便りをいただけることも、大変嬉しく、子育ての励みにもなりました。徳島から、十二年分のお礼を込めて・・・
 ゆめやより・徳島は行ったことがないです。琴音さんと会って百人一首をしたいですね。
 「瀬をはやみ岩にせかるる吉野川、割れても末は会はむとぞ思ふ(崇徳上皇)」(あれどこか違ったかな?)

低学年の読書
⑤大人の本が読めるように・・・

▼一節本活動▼

 じつは、仕事のかたわら半分は趣味で「一節本」活動と言うのを数人で行っている。ある本の一節で感動した部分を一節抜き出し、そこに短い感想を書く・・・それを読んだ人が「読んでみたい」という気持ちを持つようにといろいろな書き手を探して小冊子を出して行く活動だ。いずれ、会員の皆さんからも募集する。まず私のを出さないとダメだが、来月あたりは紹介できるかも。いわば、「一節本ゆめや版」というものだ。今回出すのは、英和中学校・高等学校(ゆめやの近く)の教師、生徒の30編のもの。なかなか皆さん、しっかりとよく書いてくれました。
 これは読書人がブック・コミュニケーターとなって、文章上で自己表現や思考の交換をしていくものだ。作家の考えも見る人によって違ってくる面白さもある。また感想では当然、自分の考えが出てくる。
 ここで展開したいのは大人の本だ。子どもの本にかかわる組織をいくつも見てきたが、読書活動、子どもへのアプローチはわかるが,携わっている人と大人の本で話し合ったことがない。と、言うよりは子どもの本は好きだが大人の本は苦手という人が多いのだと思う。子どもは大人になっていく。子どもに大人の本がガイドできないというのはなんとなく哀しいものがある。ひょっとすると大人の本が読めないから、子どもの本でお茶を濁すと勘繰りたくもなる。だから、子どもの本に携わる人はどこかで子どもに薦めたい大人の本を数十点は持っていなければならない。こういうふうにいわゆる文学や思想書、哲学書、科学書を紹介していく活動はないように思われる。

現状はあまり良い状況ではない

 前回(9月号新聞でも述べたが)本を読め!本を読め!と言っていた学校が手のひらを返したように読書を言わなくなる。これは中学校ではあたりまえのことで、本など読む暇があれば「勉強をせよ!」・・・まるで読まれては困るかのような手のひら返しとなる。文科省の意図はどういうことかというと、これはもう明治時代に戻ったかのように、物は考えなくていい、従順で逆らわない人間をつくるためにも部活や芸能活動、実学だけのお勉強をやればいい。それで学歴がつけば、あとは学歴の上下だけで競争社会をつくり、戦力にする。前回言ったようにマニュアルが解せればいいのである。上に行くのに人格や学識は不要と言うこと。漢字が読めなくても国のトップにはなれるし、M16ライフルの手引書が読めれば弾が撃てる自衛隊員になれる。金さえあれば人を動かせるのだから、うるさい哲学や思想書など不要ということだ。
 それに第一、働いてもらわねばならないから、100時間超の残業があろうとパワハラがあろうと疑問や批判が出ないようにしたい。そのためにも余計な本は読ませないようにしたいというのが文科省の考えであろう。なに、車と家のローンで追い立てれば子どもとのかかわりを薄くしてでも働く従順な国民だから、反抗しないためにも思春期あたりから真っ当な本を読ませてはならないのだ。つまり勉強とスマホでノータリンを作るのが一番ということである。
 その準備のためにも小さいうちからゲームや漫画に逃げられる体質を作り、それで依存になって頭がおかしくなっても自己責任、小学生をさらってもカッターで傷つけても自己責任・・・けっこう根は深いものがあるが、これは明治以来の立身出世主義で来た文部省がやってきたこと。その結果は殖産興業で富国、さらにその向こうには強兵がある。そのへんの仕掛けがわかるものが真っ当本なのだが、どういうわけか学校も大人もなかなか薦めない。字など読めなくてもいいらしい。働けば・・・なんでもいい、国や家庭が壊れても、なのかな。先があぶない。(新聞・一部閲覧)

いじめの構造 1

 先月、信じられない事件が発覚した。神戸・東須磨小の教師が同僚を子どもじみた方法でイジメていたというものである。いろいろ原因はあるだろうが、とにかく、やり方があまりにも不良中学生のおふざけレベルで開いた口が塞がらない。新聞やテレビの報道があったから詳細は書かないが、イジメを注意する側がイジメを行い、管理者である教頭・校長までもが陰に陽に関わっていた。教師のイジメは昔、東京・中野区の鹿川君事件というのがあり、自殺した鹿川君の葬式ごっこに教師がおふざけで加担していた例がある。以来、そういうことはなかったというが、裏では続いていたということだ。9月に図書館読書会で「わたしのいもうと」という絵本についてイジメの背景にあるものという分析を話させてもらった。これは個人的なイジメの構造についての考えだが、意外に評価されたので、ここでもう一度会員のみなさんにも考えていただきたいと思い、掲載することとした。ご意見も聞きたい。

いじめはいつまでもなくならない

 日本人の性質?イジメ問題は「集団が特定なターゲットに欲求不満を吐き出すもの」と考えたり、「個人が上下関係をつくるために力を誇示するため」と多くは考えられる。
 しかし、それなら社会規範や教育で是正ができるはずであり、イジメができないようにする社会通念はたやすくつくれるはずだ。当然、それで事件は減る。
 そう、減るはずなのだが実態はすこしも変わらず、同じようなことが繰り返される。
 「昔は、イジメはなかった」という人もいるが、それは嘘で、戦前も戦後も同じようなイジメが一貫してあり、少しも事態が好転していかない。組織的なイジメもあれば、個人間のイジメもある。
 なぜ続くのか・・・これにはイジメ現象の背後に、そんな表面的な人間関係の問題だけではないものが潜んでいるからなのではないか、と考えてみたことがある。いわば民族的な体質ともいえるだろう。
 そうでなければ子どもの世界ばかりでなく親、大人の世界でも排除や差別が平然と行われ、「イジメられる方も悪いところがある」などいうまことしやかな理屈が大手を振っている不思議があるわけがない。
 トーク中に説明するが東京・中野 鹿川君事件 滋賀・大津イジメ自殺事件を見ても担任教師、親なども入ってイジメが行われている。つまり、どこかでイジメを肯定している精神背景が大人も含めて心の底にあるような気がする。

異様な標的

 3・11原発事故の後、福島県民や避難家族に対するイジメは、正直、おどろいた。「きたない!」「汚れている!」「臭い!」という言葉がぶつけられ、その原因である原発そのものへの怒りが抑えられてしまっているかのようだ。実際、中学生の避難者にそういうイジメが行われ、いまでも福島出身というと放射能汚染という目で見られることが多い。さらに驚くのは、こういうイジメ現象にメディアが大々的な反対キャンペーンを張らないこと、真の標的はなんなのかを教えないことである。政権に忖度しているといわれるが、それだけではない根深いものがある。
 この背景に潜むものを考えるうえで重要なキーワードは、彼らに投げつけられた「きたない!」「汚れている!」「臭い!」だろう。これは多くのイジメ事件でイジメる側が発する共通の言葉である。これは、今日取り上げた作品「わたしのいもうと」にも出てくるもので、おそらく多くのイジメ事件で使われている常套句だと思われる。実際、放射能汚染などは、目にも見えず、臭いもないのだから、感覚的にこのような言葉が使われるわけがない。しかし、現実にはイジメる側は、これらの言葉を使っているのである。

イジメた側はどういうわけか「不起訴」状態

 これまでの主なイジメ事件を見てみよう。被害者は自殺、ひきこもりなどになっているが、加害者側には直接の暴行などの行為が認められない限り、ほとんど何の罰も与えられない。これは、あきらかにイジメる側の論理が肯定される社会風潮があるということなのではないだろうか。背後に潜む、イジメの構造は何なのだろうか。
 それを解明しない限り、イジメを減らすことはできないし、大人も子どももイジメられないように卑屈に行動する狭い考え方で生活していくよりないわけだ。イヤな人間とでも「和」を保つことが必要という、いじましい生き方を日本人は日常的にしているような気がする。いわゆる「世間の思惑」で生きる個人である。
 私がこれから言いたいことは、イジメでは誰もが加害者にも被害者にもなり、さらには大昔からあり、現在の社会でも、その意識で組織がつくられていることがあることをほとんどの人が知らないということだ。イジメる側がどんどん許される背景は何か。事件は、この誰もが自覚していない意識から生まれるのである。(次につづく)
 それを解明しない限り、イジメを減らすことはできないし、大人も子どももイジメられないように卑屈に行動する狭い考え方で生活していくよりないわけだ。イヤな人間とでも「和」を保つことが必要という、いじましい生き方を日本人は日常的にしているような気がする。いわゆる「世間の思惑」で生きる個人である。
 主なイジメ事件 (どういう事件かはこの名称をネットで引けば出てくる)

  • 愛子内親王不登校騒動
  • 愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件
  • 旭川女子中学生集団暴行事件
  • 尼崎児童暴行事件
  • 追手門学院大学いじめ自殺事件
  • 大津市中2いじめ自殺事件
  • 上福岡第三中学校いじめ自殺事件
  • 北九州市私立高校生ラインいじめ自殺事件
  • 桐生市小学生いじめ自殺事件
  • 高校生首切り殺人事件
  • 護衛艦たちかぜ暴行恐喝事件
  • 滝川高校いじめ自殺事件
  • 滝川市小6いじめ自殺事件
  • 中野富士見中学いじめ自殺事件
  • 名古屋中学生5000万円恐喝事件
  • 新潟県神林村男子中学生自殺事件
  • 福岡中2いじめ自殺事件
  • 丸子実業高校バレーボール部員自殺事件
  • 山形一家3人殺傷事件
  • 山形マット死事件
  • これらの事件では教師、上官、年長者がイジメる側に加わっている例が多いのである。しかも、メディアで一時的には、その「加わり」が問題になるが、その後はほとんど無罪放免である。これは、多数者としてのイジメる側を、さらにその外側にいる、なんらかの風潮(民族的な精神性)が擁護しているとしか思えない。つまりメディアも多数側の論理で動いているというわけだ。教師がかかわっているのも特徴だ。

    イジメの根底にある「穢れに敏感」

     先に結論を言うと、イジメの背景には日本特有の「穢れ」思想、ほかに「和」の思想、「祟りを恐れるがゆえに物事を隠蔽したり忘れたりする意図的な忘却」の思想という3本柱がある。
     起こった事件で、被害者からの報復(祟り)をなくすために、これは被害者が死んでしまうとさらに祟りを恐れるために「なかったことにする」という「信じられないほどの忘却」が起こる。
     関与を隠蔽したり、忘れることで事態の鎮静化を図る試み・・・・もともとが民族特有の精神性なので「罪はなくす、消す、水に流す」という発想である。当然、イジメることでの責任は感じず、責任を取るという考え方もない。
     また、悪いことをしたと感じても、穢れを祓うという発想で罪を払えば(消せば)問題はないという考え方をしてしまうのではないか。また自分を清めて禊(みそぎ)をすれば許されるという安直な考え方にもなっていく。第一、罪を犯して、禊をすれば消えて罪は消え、無罪放免などというお気楽なことがまかり通っているのは日本だけの話である。こんなことが認められれば、被害者はみんな泣き寝入りではないだろうか。

    加害も被害も穢れから生まれる・・・

     このことは食器で考えるとよくわかる。日本人は異常に穢れに対して敏感な感覚を持っている。例えば、食器で見てみよう。
     欧米人やアジア人の多くはスプーンやフォーク、箸などを使用すると洗うことは洗うが、洗った後は、誰が使ったか知れないものを平気で再度、口にする。ところが、日本では割り箸という一回こっきりの食事道具が広範囲に普及している。これは人の口に入ったものは汚い、あるいは穢れているから使わないという感性の表れだ。「日本人が綺麗好きだからだ」という考えもあるが、それでは物理的な汚れだけが問題になっているだけなのだろうか。
     第一、家庭の食器でも自分の茶碗やお椀は決まっていて、ほかの家族は使えない。これはまずヨーロッパではありえないことだ。しかし、じゃあ、きちんと区分されているかというと盛り皿や小皿は違う。誰の物という認識はなく、誰もがそれぞれ適当に使える。人の使ったものでもだ。あきらかに「穢れ」という感覚は個人的なものに限定されているというわけだ。
     私自身、ヨーロッパへ行って家庭料理を食べさせていただいたときに日本人的違和感を持った記憶がある。やはり、他人が使った食器やスプーンを口にしたくはなかった。いくら熱湯消毒してあってもだ。
     最近の若い人はそんなことはなく平気で他人の使った箸でも洗ってあれば口にするだろう。実際、ファミレスあたりでは使い捨てではない箸が置かれてもいる。これからは、だんだん気にする人は減っていくだろう。しかし、この潔癖感がすぐに根底からなくなるということはないと思われる。まだまだ根深い生理的な潔癖感は残っていくはずだから、その意味ではいじめもすぐにはなくならない。
     現代生活おける異常に衛生的な綺麗大好き感の突出は日本人の中に、いまだに穢れを嫌う感覚が根強く残っていることを示している。これこそが、特定の人間を「汚い」「臭い」「うざい」と封じ込めるいじめの原動力なのだと思う。穢れを作って穢れを祓うという世界にも類例のない文化の中にわれわれは長い間暮らしてきているのである。

    父の箸を娘が使えるかどうか

     例えば、あなた(親)が数年来、使ってきた箸を徹底的に日光で消毒し、アルコールで洗い、完全にきれいにして、あなたの子ども(娘や息子)に「これは私が大事にしてきた箸だ。お前にあげるから大切に使いなさい!」と言ったとしよう。子どもは、間違いなく「汚らわしい」と思う。汚い、穢れている、と思う。
     だからこそ前述のように家族でも箸はそれぞれ自分のものが決まっているし、他の者は使わないという鉄則が日本ではできあがっている。これこそが独特な穢れ感覚を生み出しているのである。
     実際に汚いから穢れとして嫌うのではない。漠然とした「穢れ排除感覚」なのだ。つまり、逆に言えば、穢れ感覚はひじょうにいい加減な抽象性で対象や基準を決めてしまうのである。

    いい加減な基準で決まるイジメ

     こうなると、イジメ被害者は、日本人の精神性を保つためのイケニエ(生贄)のようなもので、イケニエは原始宗教が存続するためには必要不可欠なので、ずっとつづくことになる。
     だから時代が変わっても形を変え、ケースを変えてイジメは続き、イケニエも続いていくわけである。
     では、なぜ、そんなイジメ現象が起こるのか。簡単に言えば「集団としての日本人が集団を維持するため」に、「常に多数派になって生き残りたい」、「位が上の者として生き残りたい」という意識を持つからである。
     だから少数者を特定して決めつけ、または下位の者が浮かび上がらないように下位として決めつけていく基準となる。学校(偏差値や成績順位)でも軍隊(上官と兵卒)、会社(上司と部下)でも、このシステムを本質として持っているから、イジメに教師が加わったり上官が兵卒をイジメたり上司が部下をパワハラしたりすることは平気で起こるわけだ。集団を保つためである。その時の基準は、じつにいい加減で、「みんなと同じでない」「命令を聞かない」「逆らう」などから「色が黒い」「髪の毛が黒くない」などなんでもいいということとなる。

    穢れはテキトーに決まる

     ある意味、少数者、下位の者として決めつけられればいいわけで、ウザイヤツ、デブ、ヤセ・・・、テキトーな基準でなんでもイジメ要素になる。このため多数者と上位の集団では、その基準で「和」が成立し、いいかげんな基準で組織内の絶対的な「和」ができあがるというわけだ。極端に言えば「おとなしい」「良い子」「勉強ができる」頭がいい」などもイジメの要素(対象)にもなりえるわけで、じつに非論理的、非道徳的な感覚と言っていいのである。排除そのものが和を保つために使われるという、なんともヒドイ話だが、ここには戒律を持つ高等宗教を持たない日本人の哀しさがあるが、少数の誰かをスケープゴートにして「穢れ」認定をするのである。

    みかけは美しいものが前面に

     ここでもおもしろい感覚がある。上位・多数を構成する「和」は、みかけでは、または語感では「感じがいい」イメージを持たされている。「和」といえば、逆らえないすばらしいものと思わせるためである。
     日本人に生まれると親や学校から「和を大切に」という考え方を徹底的に刷り込まれる。これは「周りとうまくやる」、「みんなとの絆を大切に」となっていき、何のための和なのか、何のための絆なのかは教えられることはない。和はなにかのため手段ではなく、和そのものが目的と化すのである。
     そして、やがて「結束(和)のための標的」をつくっていくことになるわけだ。異質、異様なものを標的にして自分たちの和を維持しようするわけである。具体的には肌の色が違うとか劣等民族だとかチビとかデカでもあるが、さきほどの放射能汚染のように、とにかく「穢れ」として相手を対象化してしまう怖い性質がある。「給食を残す」「服がダサイ」なども「穢れ」の理由づけになる。しかし、多くの刷り込まれた人間たちには違和感がない。その裏には、多数派となりうる穢れを嫌う動きがあるというわけだ。神道では、神様は清いので神社の結界に入るには、大衆に水での浄めを強制するというのを知ってだろう。あれと同じだ。さらに日本では、仏像や墓に水をかけて清める。綺麗好きなのか、穢れるのを嫌うのか。・・・しかし、最終的には穢れを祓う(きれいにする)のだと思う。
     これはCMなどで異常なほど清潔用品が売られていることと無関係ではない。

    対称化でわかるいじめの構造

     私が、よく出す例を挙げよう。一世を風靡したアンパンマンはバイキンマンを常に悪玉として標的にする。こういう図式が出来上がればアンパンマンは正義の味方となり誰もがアンパンマンを応援し、多数派となる。バイキンマンを支持する人間は少数者、下位の者として、当然、標的になっていく。
     では、冷静に考えてみよう。バイキンがいなくなれば、この世は物が腐らず、死体の山となるだろう。アンパンなどなくても人は生きていかれるし、アンパンばかり食べれば血糖値は上がり、メタボになってしまう可能性は高い。さらにいえばバイキンマンを嫌うアンパンマン自身もイースト菌という菌でできているではないか。このことが多くの人がわからないまま単純な見た目、聞いた感じで善悪を判別してしまうのだ。猛烈な矛盾があるが、多数派となれば自己分析もなにもなく大手を振って正義面をすることができるのである。この日本という国では・・・・。

    多数が正義となり、和で少数を囲む

     もう一例挙げよう。日本人が大好きな水戸黄門だ。はびこる悪を退治する良いおじいさん、天下の副将軍・水戸光圀公である。誰も反対などしない、いわば正義のシンボルみたいな人だ。これが明治以降、巨大な偶像となって大衆に支持されてきた。
     しかし、歴史的に分析するとそんな正義の味方とは言えないような人物である。辻斬りをやり、女性には乱暴し、政治的にも善政を行った人物ではない。「大日本史」などという荒唐無稽な歴史を編纂して異常な国家主義の根幹をつくった人物である。これをどういうわけか明治政府は持ち上げて、物語や芝居で多数の支持が集まるように仕組んだ。実際、明治以後は水戸黄門賛美が多数派をつくってきた。
     なぜだろう。なぜ、水戸黄門をそういうふうに祭り上げる必要があったのだろう。それは薩長閥政治への反対派を駆逐するために少数派に追い込む必要があったからだ。勧善懲悪の物語で善のシンボルにすれば多数派を構成でき、少数派を追い払える。その道具が水戸の御老公さまであったというわけである。当然、イジメル対象は親・佐幕派である。あるいは不満分子である。こういうものは穢れとして追い払わねばならない。
     穢(けがれ)は和(わ)で防ぎ、穢れたら祓(はら)う、そして防ぐときにやってしまった悪行も水に流して忘れればいいという考え方が水戸学や平田神道にはあるから、イジメは根拠のあるなし、正義のため悪を懲らしめるという認識はない。
     この日本という国、人々に染み渡った問題をどう解決するか・・・ひじょうにむずかしい、日本人の精神性に関わっているものを捨てないでいい方法を考え出せるか、それが問題だ。少数者(性的少数者、知的・身体的障碍者、外国人・・・・)はいくらでもつくることができるので、差別、排除は多数をつくり維持する格好の和(わ)と穢(けがれ)排除を生み出すこととなる。つまり、ここでは和と穢れは一体のものなのである。

    子どもだけでなく大人の世界も・・・

     2015年の国際調査で、「職場の同僚の関係は良い」と思っている人の割合は、日本が世界ではなんと最下位だった。しかもこの10年で大幅に悪化している。なぜ日本の職場はギスギスしているのか。子どもの世界もまた同じような風潮が出ている。職場より早くその傾向が出たといっていいだろう。そしてそれを改善する方法はーーないのである。
     イジメを起こさないと組織が守れないというひどい状態が起きてしまったからだ。古代の日本から連綿と続く和と穢れを祓う意識の流れ。多くの人はイジメ問題を話すときに自分はイジメる側ではないと思っているが、穢れの思想がある限り、イジメはされる側がする側にも回るし、その逆も多い。この意識を変えない限り、日本からイジメはなくならないとも言える。
     ここからは後日談だが、こう言っている間に神戸の東須磨小学校で何と教師が同僚をイジめるという事件が起こった。あきらかに一人(じつは複数)を異質な人間として標的にし、自分たちの結束を高めるための行為だったという。もはや、日本人は儒教が浸透させた倫理観を破壊し、同時に自分たちも壊れていくという異様な道をたどり始めたようだ。
     (九月一日・大月市立図書館 絵本「わたしのいもうと」のトーク 内容抜粋 絵本専門店ゆめや)



    (2019年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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