ブッククラブニュース
令和元年(平成31年)
10月号(発達年齢ブッククラブ)

台風お見舞い

 被害の全容が、この記事を書いているときでも判明していません。当該地域で被災された方には(ハガキでお見舞いを出していますが)心よりお見舞い申し上げます。地域が広すぎてまだ全部特定できていませんので、お便りが届いていない方もいるかもしれません。
 巨大台風19号が大きな爪痕を残していきました。気象庁は「最大級」、「記録的な」、初の「大雨特別警報」、「速度が遅いので一晩中暴風雨」「数十年に一度、経験したことのないような。」などと言う言葉を真に受け、ガラス戸や外回りの飛びそうなものの片付けなどに忙殺されていました。ところが、甲府は台風鳴動して小川チョロチョロ?だったのですが、ここは例外中の例外、とんでもなく広範囲に被害は広がっていました。甲府は午後9時には、雨など一滴も降らず、月まで出ていたのです。いったい、家を守るための強風、豪雨対策は何だったのか、後悔しきりだったのですが、それは外側の甚大な被害がわからなかっただけのこと。報道の遅さは相変わらずです。15日になってもまだ全容がつかめていない状態。当該地区の会員にはハガキでお見舞いを出しておきましたが、状況がわからないので洩れた方もいるかもしれません。またお知らせください。
 それにしても警報級の被害は甲府ではなく、北関東や長野、東北だったのです。知らずに被害に遭ったところが多いことでしょう。「おい、気象庁! もう少し正確に警報出せよ。長野・関東北部・東北にこんなに被害が出るなんて誰も言っていなかったぞ。それとも、これは緊急事態宣言の訓練なのかい?」と言いたくもなります。 これでは、誰もが「洪水など取るに足らぬもの」と思ってしまうわけで、被災した人も寝耳に「水」だったでしょう。もはや、うっとうしい大げさな情報洪水のほうが人間を水没させています。
 千葉の台風被害のときも、政府のお偉方は冷たかったような気がしますが、今度...「数十年に一度、経験したことのないような。」と言っているのにひどいものです。そこでちょっと

注文の多い料理店

 山梨県立文学館が開館30周年記念企画展とやらで「宮沢賢治展 ようこそイーハトーブの世界へ」をやっている。11月24日までやるというから長い展示だ。近くの人は見に行ってください。
 イーハトーブ。本では読んでいるが、いったいどんな世界なのか・・・これは見てみないとわからない。イーハトーブも架空の世界、グスコーブドリも架空の人といわれるが、きっと現実を写し取った物語の風景や人なのだろう。
 賢治の物語はどんな風景の中で紡ぎだされたのか? イーハトーブはまだあるのか。百聞は一見にしかずだから見るのが一番、電話は二番、三時のおやつは山猫軒クッキーだ。
 2016年に文学館では「賢治・嘉内展」が開催され、賢治から来た膨大な手紙・ハガキの展示を見に行ったのを記憶している。
 しかし、展示されているのは賢治から嘉内に来た手紙ばかり。嘉内から賢治に出した手紙がただの一通もないのである。賢治に出した嘉内の手紙・・・ない。
 問題は、これだ。こういうことがまったく公に出ない。ネットの一部で語られるのみである。なにかマズイことがあるのか。2016年に保阪嘉内に宛てた賢治の書簡が山梨県立文学館展示室いっぱいに並んでいた記憶がある。だが、嘉内から賢治への返信が一通もないというのはまったく奇妙な話だ。嘉内が筆不精だったのか? いやいや、あれだけ大量の文章を書いた嘉内がハガキ一枚、賢治に返さなかったというのもおかしい。うーん。

イーハトーヴの秋

 では、そのへんのことを調べに実際の風景を見に行ってみるか、と思って花巻へ行ってみた。なるほど黄金色の稲穂が風にそよぎ、まさに日本の秋。青い空と黄色い稲穂は美しい。まだ紅葉していない森や林の緑もコントラストを高める。こりゃあ、たしかにイーハトーヴだ。
 しかし、夜空に登っていく汽車があるような起伏のある地形はない。冬にならねば空っ風も吹かない。賢治は、どこで「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」のような物語を着想したのか。
 明治40年代は私の父親が生まれたころだが、この風景は日本中どこでも見られた風景だと思う。いまだって、ちょっと農村部に入れば見ることができる。山梨でも韮崎市郊外では、稲穂が実る田んぼが広がっている。
 「銀河鉄道の夜」は韮崎の七里ケ岩をスイッチバックで登る夜汽車がヒントだともいわれている。岩手県生まれで山梨県に来たことがない賢治の作品に八ヶ岳や富士川の名がでてくる(?)。「風の又三郎」も親友の保坂嘉内(韮崎出身)から聞いた「三郎風」の話をヒントに書かれたのでないかと類推するむきもある。しかし、嘉内の名は表立って賢治年表には出てこない。嘉内からの手紙…返信の手紙・・・当然のことながら展示などされていない。

無視されている?!

 実際、花巻の賢治記念館は保阪嘉内その人を完全に無視、賢治交友図に(保坂嘉内とだけ名の振られた、上左の嘉内の写真を切り取った)小さな丸い写真がひとつだけだ。
 なぜ、こういうことが起こるか。なぜ、嘉内を隠す必要があるか。それは、近代史をさかのぼれば想像できないことはない。ある時期、賢治は法華宗(日蓮宗原理主義)に傾倒し、右翼団体・国柱会に参加していた。
 ここは、なんと日本で一番最初に「八紘一宇」を唱えた宗教団体。戦争に入るための前振れのようなものだ。「仏教なのに神道?」と思うかもしれないが、法華神道と呼ばれる宗派。まあ、新興宗教だ。これに賢治は死ぬまで参加していた。宗教団体なら周囲の人を勧誘をするのは当たり前、賢治は親友・保阪嘉内を誘ったのではないか。ところが、この嘉内は「天皇制批判の文を書いた」ということで盛岡農業専門学校を放校になっているのである。これを知れば合点がいく。嘉内は、賢治を諫(いさ)めたのだ。返信の手紙、ハガキは諫めの言葉でいっぱいだったはずだ。

そして戦後

 賢治は戦後、大児童文学者として浮かび上がる。取り巻きにとって、「賢治が右翼団体に入っていた」、「それを諫めた友達がいる」・・・というのはマズイ話だ。マズすぎる話でもある。となれば、嘉内から来た手紙の「消去」にかかっても不思議はない。当然、手紙は賢治派によってみんな始末されたというわけか・・・。
 その辺のことを猫の事務所で尋ねてみたが、猫たちは忙しそうで(笑)何も答えてくれなかった。
 以前、保阪嘉内のひ孫にあたる兄弟がブッククラブ会員だったことがある。よく読書をするお子さんたちで、高学年になったとき岩崎書店の「宮沢賢治全集」全巻を韮崎のお宅まで届けたことがある。保坂家は広い田畑を持っていた。「このあたりで嘉内が新しい農法を広めたのか!」と感慨深い思いに浸ったのを鮮明に覚えている。嘉内は賢治とは全く違う方向で、地道な生き方をしたのだと思った。保阪嘉内は「花園農村」と名付けた模範農村の実現を目指したり、農村改善と青年教育の取り組みをしたりと、賢治が考えていたことと似たようなことを先行して実践していたことはわかっている。彼は、農学校に入る前には山梨県立甲府中学校(山梨県立甲府第一高等学校)に進んだ。星の和名に詳しい野尻抱影に英語を教わり、また文芸同人誌に作品を発表していた。返事も書けない筆不精ということはありえない。中学入学の年にハレー彗星の最接近を観察し、スケッチをつけていたというから星には多大な関心があったのだろう。

それでも、賢治文学はスゴイ!と思う

 こう言ってくると賢治批判と思われかねないが、そうは言っても、私は個人的には賢治の作品は好きだ。どれをとってもチマチマした日本の文学のせせこましさを越えた大きな構想力を感じる。「銀河鉄道の夜」など壮大な哲学書のような気がする。とにかく世界の骨組みを深く考えている作品が多いのだ。これは子どもにも大人にもいくつか読んでもらいたいと思っている。児童文学なのに「死」を取り扱う作品というのも深さを感じる。近年、宮沢賢治の人気が落ちてきたのは、夢と希望で生きるという異様な民主主義教育の結果なのだろうが、やはり「死」の意味を考えなければ生きていくことはできないだろう。また、隠された悪や自然の摂理についても賢治文学は深さを持っている。
 たとえば「注文の多い料理店」など現代を読んだと思われるような作品だ。有名な話だから誰もがスジは知っているだろうが、こういう話、つまり・・・鉄砲で猟をしにきた東京人が山猫のレストランに入って、うまくだまされ、食われそうになる話なのである。幸い死んだはずの猟犬が助けに来て逃げることができるが、これまでは自然破壊へのしっぺ返しと解釈されてきた。

比喩を深読みすると・・・

 しかし、山猫軒を国家に置き換えれば、裕福な東京の青年は国民でもある。あの手この手で騙され、身ぐるみ剥がれ、最後には食われることになる、と考えることもできる。「キャッシュレスは便利ですよ」「遺伝子組み換えでも、とてもおいしいですよ」「スポーツや芸能で悩みを忘れて楽しんでね」「プラゴミなんて、いくら出しても大丈夫。科学の進歩でなんとか  なります」と誘ってくる。
 出された注文書通りに国民が従っていくように、そして、なにも考えさせないようにテレビはスポーツとお笑いを流し、ごまかす。気分が高まるように「お祭り」を次々に行う。バカな国民は五輪、五輪と大騒ぎ、ハロウイン、ハロウインで盛り上がる、総仕上げは、即位の大礼だ。これには学校もマスコミも子どもや大人に煽り運転だ。裏では原発利権で上は大儲け、下は詐欺を働いて大儲け、まじめな庶民は食われるばかり・・・そして親を殺し、子どもを殺し、・・・いま起こっている事件が続く。遺伝子組み換え食品があふれ、海には放射能汚染水が広がり、水は外国に売られ、武器が買われている・・・・。
 やがて、国民は危険を察知する力まで失い、体には病原が広がり、それでも頭はイケイケドンドン。そうなれば自由がきかなくなり、税金で搾り取られて、憲法が変われば徴兵制が敷かれ、食べられてしまう状態は完成する。国民を助けに出てくる猟犬は死んでしまっている、なんてことになるだろうね、まちがいなく。いまこそ、想像力が必要なのだが、みんなまだ浮かれている。敏感な若者はゲーム漬け、スマホ漬け・・・「なに、台風なんて、過ぎてしまえば大丈夫!」と考える程度だ・・・・。
 賢治にはなんとか良い世界をつくろうという遠大な創造力があったが、嘉内には時代を読み取る力があったので、まじめに土に親しんだ。この二つを取り戻さない限り、山猫軒からは出られない。もっとも私は山猫軒で洋食を食べ、足りなくて鹿踊りそばまで食べた。 ま、いろんなことを考えたある秋の花巻でした。(新聞・一部閲覧)

チンプンカンプンをありがたがる?

 今年のお彼岸は、この一年間で、亡くなった方が何名かいて、お寺まわりが忙しかった。私より若い方が亡くなるとほんとうにさびしい気持ちになる。昔と違って歳の順ということがなくなり、若い人も亡くなることが多い、時代というものなのか・・・。
 そして、葬儀に参列して、長い長いお経を我慢して聞くわけだが、じつは子どものころから聞いてきて、意味を理解したためしがない。自分のお寺のお経もほとんど意味が分からないで、この歳まで来てしまった。原語がサンスクリット語で、それを中国で漢訳したものが、そのまま伝わってきたわけで、そりゃあ秀才の空海さまや最澄さまは理解していたと思われるが、われわれ凡人にはチンプンカンプンだ。わかるわけがない。
 で、しかたがないから、お墓参りに行っても墓に手を合わせるだけ、お地蔵さんや馬頭観音に手を合わせるだけ・・・ひじょうに原始的な「信仰?」で自己納得するよりない。しかし、庶民は頭が頭で、尊いお釈迦様の教えがなんであるかなどわからない。東大を出ようが山のように読書をしようが悟れる人間など出るわけがない。
 お寺さんのほうもわかってもらおうと小冊子などで世の中の困りごとを解説したものを配ったり、法話を催したりするが、大学の学者先生の小むずかしい説明と同じで、なんとなく「わからないことがありがたいのだ」というような感じにさせられてしまう。
 一般人の悩みや生活での困りごとなど、さほどむずかしいものではなく、相談でき、話を聞いてもらい、励ましてもらったりすれば、用が足りるものでもある。
 昔は、お天道様に手を合わせ、道祖神に頭を下げ、旅の無事を祈ったり、病気が治るように頼んだものだ。ところが、いつごろからかチンプンカンプンのお経や祝詞(のりと)をありがたがるようになってしまった。つまり、この風潮が行政文書や学術文献でも同じで、妙にこねくり回した意味不明の「難しい」ものが「立派」「権威がある」と思わせる土台になっているのである。これでは人間は救われない。

瀬戸内寂聴の寺

 だから昔から、世の中のことを真剣に考えている宗教者は、わかりやすく説き、やさしく人に接するのがあたりまえで、変な権威を振りかざすことはない。しかし、宗教は(いや宗教だけではなく日本では学術界も、画壇も俳壇も歌壇も生け花も茶道も政治家も)教団とか家元制度とか権威で序列を作るから、見た目ではなにやらわからぬ得体のしれない難しいものをありがたがる風潮をもつ。まあ、これで生きているのが日本人でもある。
 しかし、なかには衆生のことをほんとうに考え、このやり方で、現在人気があるのは小説家でもある瀬戸内寂聴さん。彼女の法話は、ほとんど宗教臭さがなく、人々のなかに入り込んで、そのへんのおばあちゃんが生き方や悩みの解決法をしゃべるがごとく、下世話な話も混ぜ込んで、わかりやすく語る。
 この人が住職になっている寺・天台寺が岩手の二戸にあり、たまたまブッククラブの会員の丸本さんが伽藍(がらん)の修復を担当されていて、そろそろ完成というお知らせがあった。「行ってみたい」と言うと快く見学を受け入れてくれた。行くとお嬢さん方も一緒に出迎えてくれて、感動。とてもうれしかった。
 天台寺は奈良時代に創建されたというからとんでもなく古く、さすがは最澄の天台宗!比叡山延暦寺並みに山深いところにあった。

欲をかいたら・・・・

 部材を一枚一枚新しいものに取り換えていく作業は修復まで五、六年もかかるという。「一機130億円の戦闘機を100機も爆買いするなら、こういう文化財や心の教育に費やせば、おかしな犯罪も減り、みんなが安心して暮らせるのに!」と、思った。こういうことは寂聴さんも言っておられた。「あまり経済、経済と欲を掻いて道を踏み外すと地獄に落ちまっせ。」てね。
 国民も欲で動き、欲を煽る政治家を野放しにするのが現代で、仏の教えも染みわたらないヒドイ世の中だ。この数年はとくに異常な犯罪や精神病的な人間が出現し始めた。それもこれもみな欲が生み出したもの。便利に、豊かに、かんたんに・・・・スマホがこの欲望を加速させている。だが、その結果、人間が壊れ始めてもいる。やはり、説法をしないと人は地獄に向かっていくのかもしれない。
 もちろん、この日は寂聴さんはいなかったが、彼女の大きな写真が何枚もあった。ポートレートではない。近郷近在の老若男女を集めて法話というか雑談をしている様子を撮った写真だ。人気のほどがわかる。
 安置された一木造りの素朴な彫りは温かさを感じさせる。ご本尊の慈愛に満ちたお顔を拝見しながら(このお顔はじつは二度目、丸本さんから教えていただいて上野の国立博物館で見たことがある)、「仏の顔も三度」にならぬようじっくり拝ませていただいた。

蒟蒻(こんにゃく)問答

 昔は、むずかしい仏教の教えを人々にかんたんに教えることを落語や講談、歌舞伎などが請け負っていた。


 たとえば落語に「蒟蒻問答」というのがある。
 ある寺の住職が出かけるときに門前のコンニャク屋に留守番を頼む噺だ。
 「旅の修行僧が来て問答を返せなかったら寺を取られてしまうから留守番を置く」と住職は頼むが、コンニャク屋は「そんな頭があったら田楽など売っていない」という。
 しかし、住職は「大丈夫だ。仏の道の修行には『無言の行』というのがあって黙っていれば、むこうは行に入っていると思って帰るから。」と言いつけて出かけてしまう。
 すると、そこに、若い旅の僧が乗り込んできて、「無言の行とお見受けした。行をやっているなら手まねで質問をするから手まねで答えよ。答えられねば寺はいただく!」と大声で言う。
 そして両手を開き、指十本を見せる。するとコンニャク屋は顔をしかめて片手を出し、指五本。
 「へへぇ参りました。」と若い僧。しかし、僧は、今度は指三本を出す。
 コンニャク屋は指一本で目の下を押す。また若い僧は、「参りました!」と頭を下げ、ほうほうのていで外に出て行ってしまう。
 帰ってきた住職にコンニャク屋はこういう。「若い坊主が来て、どうやらワシの商売を知っているらしく田楽十本でいくらだ?」と言ってきた。「五文だ。」と言うと「三文に負けろ」と言いやがる。だからアカンベェ!ってやってやったのさ。」
 それを聞くと住職は、「そうではない、そうではない。指十本は十方世界・この世のことだ。それはどうすれば保てるかと聞いて来たのだ。十方世界は五戒で保つのじゃ。殺してはならぬ、盗んではならぬ、犯してはならぬ・・・とな。」 するとコンニャク屋は「じゃ三本指はどういうことで?」・・・
 「それは三尊の弥陀はどこにおられるか?と聞いたのじゃ。三尊の弥陀は、人の目の前にいるが、見ようとしても見えぬ目の下にあり・・でな。」こういう話で、江戸時代の人々は、字が読めなくてもむずかしいことをわかっていたというわけである。現代人・・・字は読めるよ。がんばってわかろうじゃないか。世の中の仕組みを見誤らないように知る。そして、悪事を見抜き、子どもを守ろう。悪政の下で悪人が増えているのだから。

本とともにすごしてきて

 神奈川県 亀井 英利子さん カレラさん(小6)
 私は結婚を機に、京都から主人の地元である神奈川県の鎌倉市に引っ越してきました。初めての場所で知り合いも全くいないなか、主人の会社の社長の奥様である小林さんがいつも私のことを気にかけてくださいました。
 恥ずかしながら私はあまり本を読んで来たとは言えませんが、子どもには良い絵本で読み聞かせをしてあげたいと思っていました。
 その後、娘を授かり、その時に小林さんから「ゆめや」さんを紹介されました。小林さんは「この絵本を見ると、その時のことを思い出すのよ」といわれていました。絵本の選び方も分からなかった私は、すぐに「ゆめや」さんに配本のお願いをしました。
 いつしか定期的に「ゆめや」さんから届く絵本を、私も娘も楽しみにしていました。亀井家では配本された本に西暦・配本月を記入します。
 読み聞かせをしていたら、とても悲しいお話で私が泣いてしまい、途中で中断してしまったこともあります。また娘がゲラゲラ笑うので、その部分を何度もリピートして読んだお話もありました。いま娘に聞いてみると残念ながら少ししか覚えていません。私は鮮明に覚えているのですが・・・。
 その中でも一番嬉しかった事は、娘が六歳の時に、初めて私に絵本を読んでくれた時のことです。その絵本は「わたしのワンピース」でした。嬉しくて、「ゆめや」さんにも自慢をしてしまいました。
 そして娘の学年が上がるに連れて、読みたい本、興味がある題名の本、「ロアルド・ダール」の本を配本に追加や入れ替えて欲しいなど言ってくるようになり、娘の成長を知らず知らずのうちに感じてきたものです。
 今、娘は小6です。そして、いつもまにか私も本を好きになっていました。今では「ゆめや」さんから配本されて来る本を「娘から借りて」全て読んでいます。
 「ゆめや」さんからの配本でいっぱいになった本棚を見ると、その時、その時の色々な娘との思い出が蘇ってきます。
 「この絵本を見ると、その時の事を思い出すのよ」
 十数年前に小林さんが言っていた事が、私にも実感として分かるようになりました。写真でもビデオでもないすてきな思い出を作ることができています。
 ゆめやから 長い間のご利用をありがとうございます。よく、お便りをいただき、その筆で描いた字にも魅了されていました。お母さまのお気持ちはお子さんにどんどん伝わっていくと思います。それから一度、ご主人がご来店くださいました。すごく記憶に残ってますよ。小林さん・・・・。懐かしいお名前です。もう、お子さんは立派な社会人になっていると思います。よろしくお伝えください。



(2019年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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