ブッククラブニュース
平成31年9月号新聞一部閲覧 追加分

発達に応じるということ ⑤ さあ物語へ

3歳になると・・・

 2歳の天才能力発揮の時期は終わり、社会を見る力がつくと同時に、何でも否定したり、親の言う通りには行動しなかったりはじまります。1歳のあの従順な、すべてを親にゆだねて言うことを聞く時期が嘘のようです。自我が出てきて首を縦に振らないことが多くなります。女児はさほどではないですが、男児は言うこともきかないことも出てきます。親は慌てて「うちの子は!なんという・・」と思いますが、なんのことはない、「世界を自分と一体にして感じていた時期」から一歩進んで、周りから自分を引き離して客観的に見る動きです。これがイヤイヤ期の正体で、自我が出る・・・つまりは大きな成長でもあります。なかなか対話で自分の考えを表現できないので、本人もじれたり、親も子どもの変化に驚いたりしますが、すべての人が通る道です。
 でも、3歳になれば、もうじゅうぶんに周囲の人たちとのコミュニケーションが可能になり、言葉は増殖していきます。会話語、おしゃべり言葉の量は飛躍的に増します。だから安定はしてきますが、まだまだ世界を理解できないので、きまりやものごとのきまりは教えていかねばなりません。そして、いよいよ本格的に書き言葉=文章語の世界に入っていくわけです。1歳から読み聞かせをしてきた子は自然に書き言葉「〜しました。」「〜です。」という文の世界に入れますが、テレビやアニメ絵本で育った子は文章語事態に違和感、緊張感があってなかなか踏み込めません。

さて、書き言葉の世界では

 書き言葉というものはかなりロジカルなもので、「だからこうなる」という要素を持っています。もちろん、絵本自体がはじめがあって終わりがあり、その間を論理的なスジがつないでいるのですが このおもしろさを経験できない子にとっては、論理的なスジ立てを追うのが苦痛になることもあるのです。(すでに1歳半の「もこもこもこ」をみれば、これが物語の最初と言うことが分かりますね)
 ですから、1〜2歳の読み聞かせ(認識絵本や繰り返しの物語)の充実が、ここで「論理的なものを知るために役割を果たしていたことに多くの親が気がつくわけです。3歳半にもなれば展開の大きなスジ、物語のオチまでわかります。
 配本では絵本の佳境ともいえる3歳〜4歳にかけて多様なものを組み合わせています。順を追って丁寧に何回も読み聞かせてください。
 定番である古典的名作の「ぐりとぐら」や「ももたろう」、親の別の面を見せる絵本の「よるくま」・・・また初期の数概念が出てくる時期ですから「かぞえてみよう」などの絵本もはいることがあります。

ただし注意!

 「さあ数える時期ですよ、お勉強せよ!」などと煽るものではありません。数というものがどういうものかを知るだけでいいのです。ここでは勘定のしかたを教えてあげることだけでいいのです。犬は2匹、木は3本、車は4台、お家は5軒、鳥やうさぎは6羽・・・・これが最近は大人でも数え方を知らないで、なんでもかんでも「〜個」なんです。羊羹や箪笥の数え方しってますかぁ〜!! 子どもが数を他の子より早く数えると鬼の腕でもつかんだように自慢する親もいますが、そういう子の多くは数学ができなくなるものです。
 ひとつ言えることは計算などだれだってできるものです。ほとんどの人が3ケタくらいの足し算・引き算はできますし、割り算・かけ算も筆算すればできます。そんな力はたいしたことではないのです。同じことは「ひらがな」を教えて、子どもが読めると、これまた鬼の首でも取ったような言い方で私に行ったり書いたりしてくる人がいます。当然、「それはよかったですね。」と言いますが、そんな一年生の一学期が終わればたいていの子が書けたり読めたりするもので自慢してもしょうがないところがありますね。

♪ ここから始まる物語・・・

 絵本の読み聞かせは、このへんから親のほうもおもしろくなってきます。いずれもおとらぬ名作が山のように重なります。これは、子どもにとっても大人の親にとっても至福の時間になりますね。読み聞かせをしてきたお母さんが口をそろえて「あのころが一番楽しかった」というのが3歳〜4歳の読み聞かせなのです。
 ここでは、まだ社会性や相手をおもんばかることができないでいる自我の塊に読むバランス感覚を保つ内容の絵本も入ります。例えば「ガンピーさんのふなあそび」や「ドライブ」「ゆらゆらばしのうえで」など人間関係のバランス感覚を養うための本も入ってきます。
 相手のことを考えたり、どうしたらみんなとうまくやれるかを考えていく本です。他にも女の子には「どうぞのいす」など男の子には「ぼくはあるいたまっすぐまっすぐ」など盛りだくさんの多様な配本・・・が入ります。
 とにかく楽しく楽しむ!・・・それでOKです。「たくさん読み聞かせればいいというものではないです。」まずは同じ本を何回も(子どもは要求するものです)読み聞かせる。ここでも量より質を重視しないと、物語がすーっと頭の上を通り過ぎていくだけとなります。手間がかかりますが、同じ本を何度も読んでほしいです。(ニュース増ページ一部閲覧)

低学年の読書 ④ここが分かれ目!!

日本人はどのくらい本を読むか

 ふつうに会話をしていると、読書をしてきた人とそうでない人ははっきりわかる。したから良い、しなかったから悪いということではない。読書をしてきた人は考えながら自分の意見を話す。読書経験が乏しくて社会活動をしてきた人は、ほぼ経験主義で意見を言う。そして、どちらかと言うと同じような言葉を羅列する後者のほうがわかりやすいので、読書してこなかった人は、そっちのほうに引きづられる。だから、少しも世の中がよくならない・・・・と思うのは私だけかな。
 政治家がどのくらい本を読んでいるか知らないが、第一水準の漢字が読めなかったり、官僚が書いた文を棒読みしているのを見ると、「ああ、これは本を読んで自分の考えを固めていないな!」と思う。「島は戦争で取り返せ!」などという人が東大出というのも皮肉だが、答えを丸暗記する力があっても思想を丸暗記できなかったのだろう。これなら知識などない方が善人になれるというものだ。
 では、その方向がいつ決まるかというと、小学校低学年が分かれ道。それも2年くらいで決まると思われる。ブッククラブでも読書挫折はあり、たいてい中学年に起こる。「月1冊の本が読めない」、「内容がむずかしくてダメ!」というのが理由だ。いつも言うように原因はスポーツやお稽古事で時間がないというところから起こるが、低学年でアニメや漫画に流れてしまっている例が多い。昔は学校図書館で真っ当な本読みを妨げると問題になっていた本は「ズッコケ3人組」だったが、「おしり探偵」や「ゾロリ」に比べれば、いまなら「推薦図書」の金ラベル付きになるだろう。それだけ水は低きに流れている。学童保育によって、もっともっと低レベルのアニメ、マンガが蔓延しているから、多くの子の読書の未来は暗い。親が読書経験が乏しいのだから本の重要性もわからないところがある。じつは、これは学校の先生も同じで、重要性はわかっていても基本的な本を読んでいない人がひじょうに多い。それは前述のように、教科の答えを覚えるのが試験を通る最短の道なので、よけいな本は読まずに勉強だけすればいいという結果かもしれない。

読書会で

 昭和12年生まれの方と読書会をしている。敗戦のとき8歳、お父さんがその時は亡くなっていて、中学までしか行かれなかった人である。すぐに電信電話公社で働き始めて勤めあげた。50歳のころに知的障碍者の福祉施設を立ち上げて、いまも理事長である。私も名ばかりだが理事になっているので、日ごろ、よく話をするが並みの老人ではない。考えが違う。読書会をいっしょにやっているが、ほとんど日本古典、古事記とか日本書紀のようなものを取り扱う。
 しかし、解説書も含め関連本も年中読むので漢字は読める、あの世代に特有の語彙の豊富さ、分析力のすごさ・・・舌を巻くことが多い。「なんで、そんなに読むのか?」と尋ねると、「生きていくうえで重要なことを知るのは本しかないが、若いころ、ろくに買えなかったから」と言う。だから必死で読んでいたのだろう。いまでも飽くなき挑戦があり、好奇心高く難解な本に手を出している。老人のほとんどは教えを乞う必要もない人が多くなっている時代だが、理事長は話をしているだけでおもしろいので、頻繁に体験談や考えを聞くことにしている。本を読んで自分の考えがある先人が身近にいるということはとても気持ちが豊かになるものだ。高校にも行っていない人が漢文を読めるというのも、読書の成果なのだと思う。教養などお勉強ではつかない代物である。大人になって、老人になってようやく人間関係を豊かにするものが教養で、読書は立身出世の道具ではないということでもある。

手のひら返し

 本を読め!本を読め!と言っていた小学校(とくに低中学年)が高学年になると手のひらを返したように言わなくなる。これは中学校ではあたりまえのことで、本を読むくらいなら「部活に力を入れよ!」 「勉強をせよ!」・・・まるで読まれては困るかのような手のひら返しとなる。文科省の意図はどういうことかというと、大学入試改革を見ればわかるし、大学改革基本方針を見てもわかる。文系学部の廃止、国語のテストはマニュアル(機械などの手引書)と取引書類(納品書などの伝票)が読み取れればいいというものだ。理系重視、文系軽視にシフトされている。これに学校および教師は唯々諾々と従うことになる。
 もっとも、これは今、始まったことではなく、50年くらい前から、「理数の成績がいい=頭がいい」「文系志望は成績の悪い子」という観念を刷り込んできたのだから、その仕上げというものだろう。
 実際、笑ってしまう例がある。なかなか本が読めず読書挫折した子の親が、「どうも国語は苦手なようで、算数はよくできる。ウチの子は理数系が強いとわかった」などという。内心苦笑いだ。国語も塾や学校の勉強では答えを1対1対応で教え込むわけで、理数の方が答えは単純だから容易に覚えられるものなのだ。文系すらそういう詰め込みにしてきたのが学校。結果、よく言うことを聞く犬やウサギ、沈黙する羊が大量生産されてきた。では、それで次を乗り越えられるか。放射能は海に流せばなくなるか。マイクロプラスチックは科学でなんとかできるか。IPS細胞で人間は死なないようになるか。
 いまや、科学でどんな問題も解決できるか? そして夢や希望で生きられるか?という時代に入ってきたが、現在の子どもは次の時代を生きる・・・はてさて、大丈夫かね。答えの丸暗記で。赤信号もみんなで渡れば・・・になるのかなぁ。(新聞増ページ一部閲覧)

大人になるということ ③困難をくぐりぬける力

 「打たれ強い」という言葉はありますが「打たれ弱い」という言葉はなかったのです。それは打たれ弱い人間が少なかったからでしょうね。ところが近年、打たれ弱い人が増加してきました。ちょっとしたことでひきこもったり自殺してしまったり、現実にさらされると小さくなってしまう人が増加しているというわけです。もちろん、私はそういう人が弱いからダメだ!というわけではないです。なぜなら、そういう弱さを持たされてしまう仕組みが、この社会にはあるからです。一方、いつも言うように夢や希望で煽る人々がいて、一握りにすぎない夢や希望を達成した人を祭り上げて、それを目指させという動きも、あまり好ましい動きとはいえないのです。誰もが金メダリストになり、大芸術家に、あるいは大実業家になれるわけがないのが現実だということをまず知ることなんです。ところが、どういうわけか子どもを夢と希望で煽る風潮があります。このために、自分はダメだと思い込んで現実の困難を避けたり、立ち向かわなかったりする傾向が強くなりました。これを支えるのは親であり、家族であるのですが、その関係も年々希薄になっています。お金がすべてだという社会が生み出した孤独であり悲劇でもありますね。

マッチ売りの少女

 アンデルセンのマッチ売りの少女の話は知っていると思います。これについて詩人の寺山修司がこう言いました。
 夢の長さはマッチ一本分でしかない。そして、夢がなくなってしまうと少女はこごえて死んでしまうのだ。私は、この童話から「夢による救済のはかなさ」を教えられたように思った。(寺山修司・「さかさま世界史怪物伝」)
 いつの時代も飢えている子がいます。戦後の浮浪児の時代だけではありません。AMAZONに頼めばなんでも手に入りそうに見える現代でも飢える子はいます。学校は、「夢を持って努力せよ」と言いますね。「希望を持てば生き抜ける」とも言います。しかし夢と希望で腹が膨れるわけはないのです。フードバンクや子ども食堂など「現実の救済」が必要だということはだれもわかっていることでしょう。ところがたった1円の寄付もしないし、残った食料を渡すということもないのです。そのくせスーパーは余った食品を捨てています。アンデルセンの童話は夢も希望もない暗い話ですが、この「マッチ売りの少女」ひとつとっても、寺山が言うように「人にはまず現実の助けが必要」ということを忘れてはいけないのです。
 寺山や私が生まれたころは町におなかをすかせた戦争孤児や戦災で親を失った家庭が身近にたくさんありましたので、その子どもたちをよく知っています。その時代は助け合いがあり、貧しい家には余ったものを渡したり、お互いにやりとりしていたことも多かったのです。70歳以上の人は、この時代を知っているはずなのですが、それを伝えることなく豊かさの中で冷たい人間に変化していっているようです。

悩みと困難はついてまわる

 どんな人間、どんな家庭にも悩みはあり、困難なものはあります。それを乗り越えるには、現実がどういものか知らないと「え〜、こんなはずじゃ!」となります。夢が破綻して自暴自棄になっている人が引き起こす犯罪が増えてます。カリタス小、京都アニメーション、煽り運転・・・みんな、夢を打ち砕かれた人の暴発です。こういうときが世の中が悪く変化するときです。仕事が忙しくて、家庭が寝るところに化している状態では、周りを観察する暇もなく、家族のつながりも希薄に。
 そんなふうになるわけがないとタカをくくっていると、ジワジワと進行してきたものが混乱に進み、一気に酷い方向に行くことは歴史も証明しています。
 例えば最近、災害に政府がすぐ動かない感じがしませんか。報道もきちんと伝えないので、ごまかされています。5年前の山梨の大雪、ひどい状態なのに救援の命令はものすごく遅く出ました。昨年の岡山、広島豪雨も。今年の千葉の台風も。
 冷たい社会の後ろで、異様な変化も着々と進んでいます。たとえば、左の図鑑。なんの変哲もない車の図鑑ですが、5年前にはこういう図鑑はなかったのです。
 「そんなわけないだろう! あったよ。」と言う人は観察力が鈍い。5年前と決定的に違う点。表紙左にある自衛隊車両は銃を構えた隊員を載せています。別の図鑑では戦車が「はたらくくるま」として載っているのです。それが何か?と言う人は、残念ながら社会に忍び寄ってくる危険を察知する力が欠けています。ジワリジワリと戦争をしようとする勢力が増えているのです。これは私たちが助け合いをする力を失っているからで、バラバラになったものを従わせるのはたやすいこと。若者は無関心でオタク化しているか金儲けに走っているかどちらかです。彼らに貧困を与えればたやすく自衛隊に入ることでしょう。困難を潜り抜ける力がないと近未来にやってくる破局に耐えられない人が多くなってしまうような気がします。

子どもは何が好きか?
③ 持って行き方で変わる・・・

 前回のニュースや口頭で薦めたせいか、杉山亮さんのご自宅で行う夏のトークに参加した家族が予想以上にいたのには驚きました。まあ、夏の八ヶ岳山麓は涼しい。甲府の炎熱地獄から逃れるにはうってつけのところです。でも、もう秋の気配が漂っている。日曜日に行ったらススキがゆれて、もう秋でした。夕方には寒い風が吹いてきましたが甲府に変えればまだ30度前後の夕方・・・高原の秋を半日楽しんだだけでしたが、良かったです。
 巨大なカブトムシやクワガタの話は聞けましたかな。それともクソとミソを間違える話になったでしょうか。子どもは、お話が好きですが、おもしろいお話はとくにすきです。
 そうして、おもしろい話をたくさん頭の中にためて、思考力をつくっていくのだと思います。こういう上質のおもしろい話で育った子は物事を深く考えるようになるのでしょうね。杉山さんも子どものころから落語のようなおもしろい話が好きだったそうです。おはなし迷路や軽妙なトークはみんな落語が出発点なのかもしれません。私は子どものころ世間にテレビがなかった世代で、聞いていたものはラジオ。ラジオは講談や落語をやってましたので、これは聞きました。
 就職して会社に行ったら、なんと会社の前に人形町末広という寄席がありました。下足番というのがいて靴を脱いで上がるのです。噺を聞きながら鮨の出前なんか取れるという古い寄席で、6時ごろから8時過ぎまで、週1,2回行ったものです。三遊亭圓生や桂文楽を生で見た最後の世代かもしれません。だから、けっこう落語の話は、人と話すとき軸になっています。話すときに思考力を高めるからです。

原点は落語や歌舞伎

 なんで、落語のようなものが思考力を高めるかと思われるでしょうが、おもしろい話は深いのです。たとえば「おおおかさばき(大岡裁き)」って知ってますか?
 三方一両損で有名な話です。ある人が三両の金を拾う。落とし主にもっていくと、その人は江戸っ子で「一度落としたものは受け取れねぇ!」なんて意地を張るのです。その仲裁に入ったのが大岡越前守・・・一両、足して、四両にして、二両ずつ分けさせるという見事な裁きです。話が面白くて、最後でなるほどと思う落語なのですが、これを何度も聞いて大人になった時、考えます。大岡越前守の出した一両は公金だったのか、それともポケットマネーなのか、お裁きとあるからには公金でしょう。公金で物事をこういうふうに処理していいものかどうか・・・はじめは楽しいお話が、それだけで終わらない深さを持っているというわけです。
 「こんにゃく問答」など、その最たるものですね。高僧の身代わりになった門前のこんにゃく屋のおやじが、乗っ取りにやってきた旅の修行僧を追い払う話ですが、無学なこんにゃく屋が知識だけのクイズ王を打ち負かす話です。
 おもしろおかしくやり取りされる宗教問答・・・「十個でいくらだ?」「五文」・・・これが「仏教の教えの十方世界は五戒で保つ」につながるのですが、聞き手は仏教のお勉強までできてしまいます。「三文に負けろ!」「あかんべえ」・・・これが「三尊の弥陀はどこにおわすか?」「目の下にあり」とはね。おもしろすぎて、深い仏教知識まで身に着きます。江戸の庶民は楽しい話から深い哲学話まで何度も聞くうちに頭に叩き込まれていったのでしょう。

底の浅いおわらいでは・・・

 最近のお笑いはバカバカしいので私はまったくテレビを見ません。まるっきり見なくなって数年になりますかね。お笑い芸人の質が落ち切っています。とにかく深さがないのです。瞬間芸や無意味なパフォーマンスで無理やり笑わせ、ひどい場合は楽屋ネタという身内の話題で盛り上がる・・・芸とは呼べないようなものばかりです。
 まあ、かんたんいいえば品のなさで売る芸でしょうか。実際、パンツ一丁のハダカ姿で笑いを取ろうとする芸人さえ出てきています。
 こういうものばかり見て育つと、本物が何かわからなくなり、楽で手っ取り早く楽しめるものに偏っていきます。そうすると、頭も深く考えなくなり、人生、流されて終わりということも起こるでしょう。
 くだらないものに幼児期から浸かっていると、こんなことが起きます。これが、ほんとの統計かどうかもわかりませんが、上の図のような将来の夢を子どもが持つようになります。ほんとかな、疑いますが、あり得ます。
 子ども(小学生男子)が描く憧れの職業・・・それがこの図表です。堂々の第一位が「Youtuber」と思いきや、なんとなんと「働きたくない」がトップ。働きたくない・・・疲れ切った親を見ているからなのか、世間を見ているのか、こりゃあ、もうペシミズム蔓延ですね。
 2位次点は「プロゲーマー」・・・ゲームの影響はわかりますが、これで儲かるという事例があるからでしょう。その次は株式投資家(FX取引)・・・祖次はパチプロ・・・・お父さんがやっているのを見ているからかどうか・・・まあ真っ当な職業ではないですけど。6位でようやくまともな商売(商材屋)が出てきたと思ったら、字面で私が思い違いしただけ。もしやと思って調べたらPDFや動画、パワーポイントのファイルなどを送って儲ける詐欺的な要素の大きい業種らしい。ヤバさばっちりです。あとの紹介は省略・・・小学生が夢見るものではありません。最後10位が「生活保護」というのも凄い話、これはぜったいやらせで電通あたりが作らせた企画ネタでしょう。統計の出所が知りたいです。最後の生活保護狙い。もはや絶句です。小学生が知っているとは思えませんのでデータ自体が嘘かもしれませんが、こういうものが平気でテレビで流されれば子どもは楽なものに流れていくでしょう。
 品のないお笑い、質の低い生育環境、何でも自由にしていいという親にかこまれていれば、夢もこんなものです。先行き、どんな大人になるか見えてしまいますね。クワバラクワバラ。(ニュース一部閲覧)



(2019年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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