ブッククラブニュース
令和元年(平成31年)
5月号(発達年齢ブッククラブ)

いってらっしゃーい いってきまーす

 子どもたちもだんだん園に慣れてきたのではないでしょうか。登園拒否の子もいるかもしれませんが、それも個性、すぐに慣れてしまうことだけが良いということではないですからね。焦らず様子見というところです。朝、出かけるときグズったり、行きたくないとツッパったりする子はいつでもいます。親が送っていっても離れるのを嫌がる子もいるかもしれません。楽しい通園風景にするにはどうしたらいいでしょうね。個性は多様。親がどう楽しく送り出せるか・・・自分の子ですから考えていかねばならないと思います。もちろん、帰園もね。
 かなり、多くの子に、この時期、↑のカットにある本「いってらっしゃーい いってきまーす」という本を入れています。人は出かけるときに、この言葉で送り出されます。当然、帰ってくると「おかえりなさーい ただいま」で迎え入れられるでしょう。これらの言葉は一日の行動の始まりでもあり、行動したあとの終りを示す言葉でもあります。1歳のころは、「おはよう」と「おやすみ」だった始まりと終わり。3歳では「いってらっしゃーい いってきまーす」と「おかえりなさーい ただいま」になるわけですね。

同じことが繰り返される幸福

 毎日、同じことが繰り返されるわけです。毎日の始まりから終わりまでには感動や感激は少ないかもしれないですが、始まって終わる・・・この単純な繰り返しが「ひとつの幸せ」を意味するということになるのだと思います。朝から「早くしなさい!」「ほら、遅れるわよ!」「なにしてるの?」「わすれものない?」という言葉ばかりで追い立てられていたら子どももだんだんイヤになるか時間にルーズになるか、とにかくあわただしいとろくなことがありません、合理的でないといけないという生活はおもしろくもなんともないのです。「早くしなさい」を子育てで要求し続けたら、やがて子どもの耳には「早くしなさい」が「早く死になさい」に聞こえてしまうかもしれません。世の中全体が効率的なことばかり求めて、早いことが合理的、速いことが便利になっています。それに従っていると、あっという間に人生も終わってしまうことになりかねません。時間刻みの生活ほどおもしろくないものはないのですが、そういう生活に慣れてしまうと、充実感も感じなくなるかもしれません。
 ただね。世の中には「いってらっしゃーい いってきまーす」で始まった一日が「おかえりなさーい ただいま」で終わらないこともあります。

おかえりなさーい ただいま

 最近、頻繁に起こる自動車による人身事故・・・幼児や小学生が犠牲になるという痛ましいことが日常化しているかのようです。池袋の87歳の元官僚の事故は酷すぎました。それなのに逮捕もされない。許せん!と心から思います。 大津の右折事故では即刻逮捕だったのに。元官僚だから逮捕されないというひどい世の中です。便利で合理的な道具・車が引き起こした悲惨な結果で、自動ブレーキなど夢のまた夢。いくら精密に機械化されても人が操る限り事故が起きます。まして老齢化社会。老人がハンドルを握らねば生活できない状態をつくったのは政治なのです。便利さのために犠牲になっていいもの・・・そんなものあるわけないです。ところが、そういうもので一瞬で消えてしまうのも命。「いってらっしゃーい いってきまーす」の後は「おかえりなさーい ただいま」でなければいけないのに・・・。残された肉親の気持ちがどうなのか想像するだけでもつらいです。
 たしかに事故は不可抗力。事故が起きたら犠牲になることを避けることはむずかしいです。一秒が境目だからです。だからこそ前もって安全を確保する・・・これは、小さい子を持つ親の義務です。子どもが安全な社会は大人も安全なのです。ここ数年、治安はあきらかに悪くなっていますね。気を付けましょう。怖い車と通学路。(ニュース5月号一部閲覧)

おぢいさんのランプ

 私が好きな童話作家に順位をつけると3位は宮沢賢治(岩手県花巻市)、浜田広介(山形県高畠)、第1位は新美南吉(愛知県半田市)だ。「ごんぎつね」の作者である。
 その新見南吉作品では配本は基本配本では「てぶくろをかいに」の1冊だが、私が好きな作品は「おぢいさんのランプ」だ。百年前(20世紀初頭)の古めかしい話なのだが、今に通ずる世の原理と流れが描かれている。
 21世紀に入って世の中はあわただしい。時代や生活のスピードが年々速くなっている。その中で古いものが消え、新しいものが生まれる。
 100社のうち創業十年後に残っている企業は20%もないという。
    ゆめやは、じいさん、ばあさん二人で40年もやっている零細店だが、その意味では例外的存在なのかもしれない。すべては皆さんのお陰なのだが、周囲では同業者が消えていく。昨年は児童書専門店の大手で草分けの名古屋のメルヘンハウスが消えた。時代の潮流? 物事が長続きのしない時代になったと思う。ITの影響もあれば、生活様式の変化もあるだろう。便利でかんたんなものに流れる時代では、人間にとって重要で大切なものは消えていく。消えていくものにはそれなりの運命があるのかもしれない。さて、よんだことのない人に「おぢいさんのランプ」を・・・。

知らない人のために《あらすじ》

 東一という少年がかくれんぼをしていて、蔵の中でランプを見つける。形を面白がった少年たちが蔵から持ち出して見ていると、おじいさんは「そんなものを持ち出すな! 電信柱でも何でも、遊ぶものはいくらでもあるだろう!」と叱る。そして、夜、おじいさんは少年にある話をする。
 時は明治の終わり頃。村に巳之助という子がいた。彼は両親も親戚もいない全くの孤児。だから子守りや米搗きなど何でも仕事をし、村に置いてもらっている。ある日、町に行った巳之助は、初めてランプという物を見た。その明るさに感動した彼は、村の夜を明るくしたいと考え、ランプを仕入れて売り始め、生計を立てていく。

ランプは新しい利器

 ある日、売り口上で「畳の上に新聞をおいて読める」と言ったが、じつは、巳之助は字が読めない。その文盲が恥ずかしくなって、区長に字を教わり、書物を読み始めるのである。
 ランプ屋として成功した彼は家を持ち、家族もできて幸せだった。ところが、いつしか村に電気を引くという話が持ち上がる。電灯が灯されればランプは不要になる。ランプに生活をかけていた巳之助は電気に反対するが、村への電気を引くことが決まってしまう。
 彼は恨んで、電気導入を指導した区長の家に火を放とうとする。手元にはマッチがなかったので、代わりに火打石を使うが火がつかない。いらだった彼は、「古くさい物は、いざというとき役に立たねえ」と怒鳴ってしまう。その瞬間、彼は自身の誤りを悟る。「今やランプは時代遅れなのだ」だと・・・。
 そして、彼は、家にあるすべてのランプに灯油を注ぎ、木にぶら下げて火を灯すと、泣きながら石を投げつけて、すべて壊す。そしてランプ屋を廃業し、町に出て本屋をはじめるのである。もちろん、その巳之助は少年の祖父なのだが、 最後に、こう諭す。
 「・・・世の中が進歩して自分の商売が役に立たなくなったら、すっぱりそいつを捨てるんだ。昔にすがりついたり、時代を恨んだりしてはいけないよ。」と。

子どもたちの時代は・・・

 さあ、現代では電気の変わりはパソコン・スマホなどITだ。郵便、テレビ、映画館、商店・・・時代遅れになっていくものは無数にある。当然、人間は便利に走る。南吉は、そこまで見通していたというわけだ。その意味で私の心を強く打った作品でもある。深い話ですよ。
 これから、この国はめぐるましく変わる。欲に駆られた為政者たちが、古きよきものを捨てて、目先の新しいものに飛びつく。かつて人間の心をつくってきたものは、どんどん打ち捨てられていく。なんだかんだ言いながら、ほらあなたもスマホを持っている、ろくに使いこなせないじいさん、ばあさんが孫の写真だ、家族の誕生日だ、結婚式のシーンだとSNSでやり取りする・・・そのうらでとんでもない心の劣化が起こっているということもしらずにね。タブレット、スマホ、AI・・・・便利なものが幸福をもたらすか、どうか・・・それを考える時が来ているように思う。さてそういう便利な兵器は、子どもたちにどういう「明るい時代」をもたらしてくれるのだろうか。本屋は次に何屋になればいいのだろうか。(新聞5月号一部閲覧)

子どもたちがあぶない!

 最近、毎日のように子どもが虐待され、酷い場合は傷つけられたり、殺されたり…の報道が目立つ。「いったいこの国はどうなっていくのだろう」と思うのは私ばかりじゃないはずだ。そこまでいかなくても放任されている子、家を出て行ってしまう子は山のようにいる。小学生でさえ家庭内滞在時間が睡眠時間+3時間という家庭も出て来た。親と子のつながりはあきらかに薄くなっているね。子どもは社会が育てる?古来、子どもは親が育てて来たもんじゃなかったっけ?それが、親の勝手で置き去りにされたり、感情をぶつける対象になったり、動物以下のものになりさがってしまったのが一部の現代の親だと思われる。
 親とは子どもを心配し、ときには庇い、ときには躾け、時には救いに走る・・・ものだと思ったが、この愛情行動を猫や犬にされてしまったのでは、なんとも人間として恥ずかしいものがある。人間を万物の霊長と言ったのは誤りだったようだ。
 実の親が子どもに信じられない虐待をする。強くたくましい大人に育つようにと思ってやることととはまったく違う次元の最低のしうちである。

「悪党」いう言葉

 人を大切にしない社会は、子どもが打ち捨てられる社会らしい・・・猫の子が親から捨てられれば泥棒猫になるように人間だって多くが悪事を働くようになるだろう。悪事と言えば「悪党」という言葉がある。「あいつは悪党だな。」なんて使うが、誰もがこの言葉をただの普通名詞だと思っている。いやいや普通名詞ではあるが、これは歴(れっき)とした歴史用語だ。中世の西日本の港町で発生した悪事を働く少年集団を指した言葉だと言う。戦乱で親が死んだり、捨てられたりすれば、生き抜くためには子どもは何でもする。それが「悪党」と呼ばれたということだ。中世では、西日本の港町は人の出入りが激しく、地域が流動的になった。そこに飢饉や戦乱となれば。子どもは親にとっては厄介者、放たれた子どもたちは悪党となる。2000年前後から、凶悪な少年犯罪が増えている。神戸の酒鬼薔薇事件、西鉄バスハイジャック事件、長崎のカッターナイフで同級生女子首切り事件、同じく長崎駐車場からの幼児突き落とし事件、光市の母子惨殺事件、名古屋のトンカチでの老女殴打事件・・・なるほど、そういえばみんな西日本の港町だ。

猫にも劣る・・・いや誰にも劣る

 しかし現代は東日本の港町でも同じような事件が起こる。川崎の中1少年刺殺事件などいまや多数・・・はじめは「子どもが殺人をするなんて!」と思っていたが、最近は日常茶飯事だ。これも大人が子どもの面倒を見る余裕がなくなってきているのだろう。考えてみれば日本には「港町」など文字通り全国津々浦々にある。
 南青山で児童相談所建設予定地の親たちが、「地価が下がる」「そんなところの子が学校に来ると学校がぁ!」と、とんでもない身勝手なことを言う。遊郭を造る、賭博場を造るというのとはわけがちがうのに、自分の子どものことしか考えない、それはやがて自分の子のことも考えなくなるだろう。たしかに、30年前に比べれば児相は大忙しだ。親が自分のことで手一杯で、子どものことなどどうでもよくなったのだ。これはもはや中世に逆戻りしているというわけさ。
 これでは、この写真の猫の親にも劣る。さて、子どものことより目先の金のことばかりを考えている人よ!・・・どうする、この世の中を。そうか、あんたには子どもはいないか。いいなぁ、武器を買ったり、国を売ったり、子どもや孫の心配もせず、強い国に張り付いてしたいほうだいができて・・・。うらやましい。



(2019年5月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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