ブッククラブニュース
平成29年11月号(発達年齢ブッククラブ)

本が読めなくなる時代

 読書の秋とはいうものの、読書をしないから読書週間があるわけで、こういうイベントがあるかぎり、本は一般的に読まれていないということ。つまり、これは今に始まったことではないこともわかるわけです。
 先日、ひじょうにかなしいニュースが流れました。
 中高校生の多くが「文を読んでも理解できない」というものです。新聞でごらんになった方々も多いと思います。似たような文で内容が違うものを75%の中高校生がわからなかったというものです、さらに中3では「短い文の意味でも15%しかわからなかった」という結果でした。
 いいですか。この世代は「ゆとり世代」ではありません。勉強が詰め込まれ始めた時期の子どもです。小学校からきちんと授業を受けたのです。
 原因は何でしょうか。そりゃあ、いろいろあるでしょうが・・・。会話語だけで書かれた超短文のしゃべり言葉だけ(TVから始まり、アニメ、漫画、SNS…)に囲まれて育ったことは大きな原因でしょう。おそらく小さいうちから長文を読んだ経験はないと思われます。塾ではいかに効率的に覚えるかという丸暗記主義。考える訓練もなければ、想像力を働かす余地もありません。
 この背景にはいくつもの驚くべき現象があります。ブッククラブの会員の方には考えられないでしょうが、読み聞かせひとつしない家庭が「多い」のです。私は保育園から帰ってきて寝るまでアニメが大型画面で流されている家庭を知っています。会員の家では本箱に絵本がつまっていますが、与えるのも避けたいような本が数冊転がっているだけの家庭も多いのです。

サブカルが成育環境に

 さらにこれには大きな背景があります。親自身(団塊ジュニアとかバブルの影響を受けた人の子)が、本を読むより、遊んだり、オタク的なことにしか興味がないというものです。家庭でマンガを読む、アニメを見るのが日常茶飯事の世代、それが親になります。ここでは、子どもが読み聞かせや読書で育つという環境はないでしょう。文が読めなくなるのはあたりまえです。
 本が読めないと自分の考えができず、自分の考え方ができなければ「何でもあり」になり、当然、責任も取りません。一言でいえば「反知性」というもので、すぐにイケイケドンドンとなってあとには不幸が残ることになる・・・これが世の中全体に広がっているともいえます。この親世代が超高齢化で今から40年後には写真のような90歳代を迎えると言う冗談すらささやかれていますが、その子どもたちは言葉が通じなくなって原始人に戻ってしまうかもしれません。
 これに対して文科省や行政は、社会全体のサブカル化さえ講じていますから、ますます頭のおかしい人間が出てくるでしょう。すでにそれはもう始まっています。

書店の減少

 この反知性の証拠で一番良い例は「書店」の減少でしょう。17年前(2000年)には全国で2万店以上あった書店は現在では半分以下。1万店ちょっと。ちょっと減り方が急すぎますね。
 山梨県は47都道府県中44番目の約100店です。この中には店舗も開かず納品のみという業者もいますから、書店としては機能していない店です。山梨は最下位ではないけれど下から4番目というのはさみしい話です。
 現在営業している本屋の多くも教科書を納品したり図書館納入をする指定業者で、顧客でまかなっている店はほとんどないと言っていいでしょう。
 この中で児童書専門店は浮沈を繰り返しながら、また新旧の交代がありながらも子どもの読書を推し進める志を持って売れ筋より、良書を!という気概や志を持ってやっています。児童書専門店の草分けは名古屋のメルヘンハウスで1973年創業ですからかれこれ45年、ゆめやは37年ですから若輩もいいところで、メルヘンハウスはひとつの目標でもありました。ところが、ここにあるようにhttp://www.meruhenhouse.co.jp/8873.html閉店のお知らせがありました。目の前が真っ暗になりますね。これは大きな衝撃でした。
 これは一つの書店の閉業と言うことではなく、日本社会が知から遠ざかり始めたということも意味します。1980年代後半に書店から「思想・哲学」の棚がなくなったころがその始まりです。子どもに本を読んでやるよりスマホの読み聞かせアプリで子育てしようという親も出てきました。Amazonですべてを処理する。なんでもかんでもスマホに頼る。いずれ知性どころか人格崩壊も起きてくるでしょう。もう起きているかな。
 いまや、子どもの本を書店に求めに行ってもない。しようもない流行本ばかり。読み聞かせをしなければ子どもは読書する力どころか、文も読めなくなる・・・はてさて、物事が理解できない、意見が言えない人間の社会はどんな社会になるんでしょうね。どうやら日本の文化も「秋」の時代に入ったのではないでしょうか。
 反知性の冬がくるまえに冬構えをしなくては・・・。(ニュース一部閲覧)

紅葉が美しい

 紅葉の季節。春の桜もキレイだが、日本は紅葉が美しい。ヨーロッパの紅葉は黄色が多いので見栄えが悪いが、日本は落葉広葉樹の、いわゆるモミジの赤があるから目が覚めるような美しさがある。
 日本庭園の紅葉、富士山と湖の周辺の紅葉・・・みな美しい。
 さて、今年は皆さん、どこで紅葉を見ましたか。北陸新幹線も通ったことだし、富山や金沢・・・山もあれば名園もある。海の幸もおいしい。富山─金沢は鈍行で1時間、新幹線で20分。じつに近い。沿線には、けっこういろいろキレイな紅葉名所がある。
 立山から富山市まで下りてくる富山地方鉄道立山線の沿線は標高が低いところから高いところまで紅葉の変化も楽しめる。こういう風景は日本人の季節感や思考の穏やかさなど重要な精神性を作ってきたものなので、何よりも子どもに見せたいものである。金沢も丘陵もありよく手を入れた里山が広がる。また兼六園のような人工の自然があり、これはこれで見事な風景を醸し出す。やはり子どもの目に触れさせたいものである。

二つの都市の違い

 ところが、この二つの都市、大きな違いがあるのがわかりますか。富山はドイツのシュトラッセンバーンのようなきれいな電車が走り、美術館もお城さえも近代的なコンクリート建築。街並みも現代的な新しさなんですね。
 それに反して、金沢は駅前は別としてご存知のように古い町並みがかなり残る。大きな城下町なので道が狭かったり、わかりにくかったり交通が混雑したり、同じ城下町でもゆめやのある甲府の田舎町とはまったくちがう混雑。バス路線がぐるぐる回っているのは便利だけれど、一歩、メイン通りから外れると懐かしい家屋が立ち並ぶのも良い。
 富山と金沢、ここには大きな差があり、この差は観光客の数の差にまでつながる。金沢には欧米、中国、東南アジアから大挙して押し寄せてくるが、富山ではほとんど見かけない。なぜ、こういう違いが生まれるのか?

空襲があったか、なかったか

 それは空襲があったかどうかというたった一つの違いである。富山の空襲は敗戦のわずか半月前。174機のB─29が1機につき、それぞれ7トンの爆弾投下で町を燃やしつくした大惨劇だった。事前に米軍が、この日に予定の富山、長岡、水戸、八王子へ空襲予告のビラを撒いて注告したというのも凄い話だが、富山では警察がビラを集め回って市民の目にはほとんどふれなかったらしい。いつの時代も国は国民を守らない。一万二千発の爆弾で富山市街のほぼ100%が焼失し、二千人以上が死んだ。
 これは映画「少年時代」(篠田正浩監督・原作柏原兵三「長い道」)の中で、山の向こうの夜空が真っ赤になり、主人公たちが茫然とする場面があるが、都市の空襲としては壊滅率が日本一のものだった。焼夷弾によるまったくの無差別爆撃である。

いい国つくろう、何度でも。

 ところで、この二つの都市の差について、こんな意見もある。「空襲があった都市は近代的に模様替えできたが、空襲がなかった都市は古い建物が邪魔して、なかなか都市計画が進まなかった」というものだ。その典型は、名古屋の街と道路づくりで焦土の上の都市計画として有名だ。
 さらに「江戸の大火は公共事業を活性化をさせたから、燃えやすい町づくりばかりしていた」という説までつくられる。
 この考えで行けば、「災害や戦火はあったほうがいい」ということになる。スクラップ&ビルド・・・「いい国つくろう 何度でも」だ。それで一儲けしたいという人々がいるということなのだろう。
 ところが、観光客が見たいのは、近代的なビルや交通機関ではない。前述のように、そこ独自の自然の風景や歴史的建造物である。京都、奈良、会津若松、弘前・・・あるいは瀬戸内海や日本アルプスなどの山岳と海、田舎の自然、・・・富山でも立山、山梨では富士山など標高がいくら高くても観光客は来る。
 スクラップ&ビルドで儲かるという思想は近代の産物である。しかし、スクラップのときに大変な犠牲が出る。ビルドでは無駄な消費が起こる。
 「いい国をつくる」というのはどういうことなのだろう。「美しい国」づくりを叫ぶ首相は米国から高価な武器を買い入れる。一機で一都市の町並み保存ができる金額、一台で千人の教育資金となる兵器を言われるままに買う。また、この国を焦土にして「いい国つくろう 何度でも」なのか、そんなことをされたら、たまらないのはわれわれや子どもたちである。(新聞一部閲覧)

安野光雅展を観に行った

 南アルプス市立図書館(旧・名取春仙美術館)で12月3日まで安野光雅展開催中である。これを観に行った。絵本は原画が美しい。ここでは安野画伯の絵本の絵や随筆の挿絵の水彩画が多数並んでいた。
 今回は「おおきなもののすきなおうさま」と「わたしの好きな子どものうた」の原画展示がメイン。
 絵本「おおきなもののすきなおうさま」は、なんでも大きなものが好きで、歯を抜くときでさえも巨大なペンチを作らせる、という凄さ。とにかく大きなものが大好きで、大きなものを作らせていく話。そんな王様の欲を家来が「忖度」して、王様が言うなりになんでも作る。
 やがて王様は、大きな花を育てるために大きな植木鉢を作らせる。そして、家来たちは、とんでもなく巨大な植木鉢を・・・。でも、そこに植えられたチューリップはふつうの大きさだった。
 この話は、昔も今も権力者の欲望が限りなく、しかし、じつはやっていることに何の意味もないことを皮肉っている。さすがは安野画伯。エジプトの王は、ピラミッドという巨大な墓をつくらせたが、大きな花を咲かせることだけはできなかったという逸話もある。現代の王様も家来の科学者に潰瘍性大腸炎で死なないように細胞まで作らせる。しかし、どんなものができても人は死んでいく。生命を人間がつくることはできないからだ。

大きなものより小さいものが大切

 大きな植木鉢にふつうの花一つ、巨大な虫かごに虫一つ。ばかな夢は見ないで、身近なものの命がかけがえのないものであることを思わねばならぬ。しかし、いつでも、どこでも王様は大きなものが好きだ。小さいものに目を向ける

 「わたしの好きな子どものうた」の展示のなかには「この道はいつかきた道」があった。絵には懐かしい日本の田舎道が描かれている。キャプションは安野画伯の言葉。  ・・・「この道はいつか来た道」と、あれこれ昔の出来事を結び付けて考えるのは子どもにはできない。これは大人の心の中に残っている思い出が投影されているのだろう。さすがは白秋の詞である。童謡というものは、こういうものだと思う。
 軍隊にいたとき、思い出したように行われた演芸会で「♪〜この道はいつか来た道、ああ、そうだよ、アカシアの花が咲いている」と歌った友だちがいた。みんな声も出さずに聞いた。・・・・

 安野画伯が戦争も原発も嫌いなのがよくわかった。好きな人間がいるわけもないが、中には「人でなし」もいる。またこの国が「いつか来た道」を歩き始めているということは、老人の中にも若者の中にも「大きなものが好き」で「あとのことはどうでもいい」人間が多くなっているということだね。(一部閲覧)



(2017年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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