ブッククラブニュース
平成29年5月号新聞一部閲覧 追加分

端午の節句について教えてもらった

 ゴールデンウイークは、どこかに出かけましたか? 暖かくなり、晴天が続き、行楽にはうってつけだと思います。
 我が家はどういうわけか女系で娘二人、そのまた娘も二人・・・男の立場はないのですが、端午の節句は男の子の節句です・・・菖蒲湯に入り、菖蒲酒を飲み、柏餅を食べて、鯉のぼりを泳がせる・・・これが夢。でもね、できません。
 そうしたら、知り合いの女性の大学教授が「あーら、ゆめやさん。この習わしはもともとは女がやっていた神事なのよ。武士の世の中になってから菖蒲=尚武の語呂合わせで男子の行事になっっちゃたけどね。男の子も女の子も区別なく元気で活発に育つように願えばいいわけよ。端午の節句は現代では『子どもの日』なんだから。」
 なるほど・・・そりゃそうです。鯉のぼりもちゃんとオスの鯉、メスの鯉、子どもの鯉が並んで泳いでいますよね。
 そしたら、「だいたい、これは元は中国から来たもので、黄河に竜門と呼ばれる急な滝があってね。その滝を登ろうと多くの魚が試みたものの登れたのは鯉だけで、その鯉は登り切ったら竜になったという話なのよ。だから元気の象徴で鯉のぼり。」と先生が教えてくれます。そういう勉強をしてないので、こちらは感心してうなづくばかり。我が家で立てれば真鯉は小さく下の方になりますが・・・ね。

多様性がないといけません

 「文化ってね。いろいろなものが混じることで活力が出るものなんだから、中国も日本もないし、男も女もないし、どんどん取り入れて、すたれるものはすたれる、残るものは残るにしていかないと・・・弱い文化になるわけ・・・日本だってどこだって『独自なもの』なんてないのだから、いろんなものが主張しあっていかないとかたくなな文化になってポキンと折れちゃうんだから・・。」
 たしかにね。中国がなければ鯉のぼりはなくて、平安時代がないと菖蒲湯はないわけで、武士の世がなければ柏餅は食べられない・・・うーん!多様性ですね。
 そこで、私が「話がズレますけどね。うちの会員の方が『ゆめやさんの間違いみーっけ!』と言ってきたんです。うちのこのニュースの上の方に年月が書いてあるんですけどね。二月はFebruaryなのにゆめやの新聞では間違ってFebruarでyが抜けている、と言うんです。私、英検1級ですからね。と、鬼の首を取ったように言ってきました。そこで、私。1月もJanuarで抜けてるし、12月なんかDezemberでcがzです。と言いましたよ。今月もMayがMaiになっている。まったく英語の綴りとしては間違いですよね。でもね、英語と思うから間違いで、これ全部ドイツ語なんです。横文字は英語ばかりではありません。」と言いましたら、その方「えー!」でした。多様なものを認めていかないと頭が固くなってしまうのですよね。
 そしたら先生が「そうよね。GWは黄金週間なんだけれど、こんな英語はないわけで、日本でつくった英語でしょ。日本の文化は多様なんだから、ダメなものは強引に押し通してもけっきょくすたれていくというわけ。いいものを残す目があれば生き残れますよ。」・・・・その通りだと思います。さて、来月・・・真剣にまた多様に新聞書いていきます。(増ページ一部閲覧 イラストは堤春生さん)

私の好きな一冊
(1) ごろごろにゃーん

 全員に配本というわけではないのですが配本体系の中に入っている1冊です。ナンセンス絵本の大家・長新太さんの作品です。赤ちゃん絵本として1歳後半に配本されることがほとんどですが、これが、ある意味、最初の「ナンセンス絵本」といえるでしょう。とにかく「ごろごろにゃーんととんでいきます」と魚の形をした飛行機にネコが何匹も乗り込んで空を飛んでいくのです。しかも繰り返し繰り返し「ごろごろにゃーんととんでいきます」が続きます。何の意味があるか?・・・ないのでしょうね。
 だからナンセンス絵本ですが、子どもたちには受けます。言葉を発しない子が、最初に言った言葉が「ごろごろにゃーん」だったなんてことはよくあります。日本人は、ナンセンスなものや詩的なものが好きではありません。「役に立つ知識が身につく」、「言葉をたくさん覚える」という立身出世のための教育心が刷り込まれていますから、無意味なものは「不要」という感覚を持ちます。でも、この無意味なものがいずれ役に立つのです。その解説は精神医学に任せますが、実用的なことばかり追い求めると最後は精神病になったりするらしいのです。で、私は、子どもが異常にならないように、定期的にこのようなナンセンスな絵本を組み込んでいます。(本の紹介のページ一部閲覧)

生活って?① 切り替えられる人とそうでない人
おはなし会で出たこと

 4月の後半に「おはなし会」の最終回を担当させてもらって、話したのですが、かなり強いことを言いました。
 ブログあたりで言えば「炎上まちがいなし」のしゃべりでした。まだ、そのときの会場アンケートが手元に来ていないということは、聴いていた方々の反論、批判が多かったからではないかと危ぶんでいます(笑)。最初は、時習塾という子どもが自然と触れ合う活動をしている名執真理子さんが「子どもの遊びの重要性」について語っていただき(これについては次号で要旨をお知らせします)前々回は心理カウンセラーの川邊修作先生が会場のお母さま方の子育てや家庭の問題について意見を求めてプレゼンしてもらうワークショップでした。・・・お母さん方から家庭や人間関係の問題、育児上で起こるいろいろな問題が発表されました。最近の若いお母さんは、そういう場での発言がとても上手で、うまくしゃべる力のない私などはタジタジになるのですが、とにかく「個別に抱えている問題をつかみとって、良い方向に生活を切り替えられるかどうか?」をガイドしていくワークショップでした。

それを、ひっくり返すゆめや

 で、その次の回は私と川邊先生とのトーク。川邊先生はカウンセラーですから、まず相手の悩みを聞き出し、それに対話を加えながら、相談者や発言者が自分の力で考え、自分の力で事態を改善していくように仕向けるのが仕事です。これまでの学校教育や行政の相談機関では、上から目線でありきたりのアドバイスをするだけですからカウンセラーの存在は悩む個人にとって、とてもありがたいものだと思うのです。
 ところが、私はヘソまがりなので、相談者や発言者を信用しません。「悩みや問題を出しても、それで終わってしまって、すぐに日常に流され、翌日には悩みも問題も忘れて解決への努力をまったくしないのではないか」と思うからです。
 自分が誤ったことをしていても、それを改めなければ物事はよくなりません。論語に、この名言があります。「過ちて改めざる、これを過ちという」・・・人間ですから過ちは犯します。しかし、誤ったら改めていくのも人間。改めなければバカかヤンキーです。「過ちて改めざる、これを過ちという」ほんとうに、その通りだと思います。
 せっかく自分から問題点を発表したのに生活がまったく切り替わらない、周囲がそうだから「しかたない」と思ってる人が多いというところから切り出したのですから、反感を買ったかもしれません。それに続いては、このニュース表面に書いたように働く問題や子どもを見失った生活について話したのですが、聴いている方々の頭の中は私に対する批判や不満が渦巻いたと思います。とくに働くお母さんはムカムカ来たと思います。それでもめげないのが私で、最後には「ブレた生き方をしないように言葉をまず発する」ことを唱えました。その言葉も印刷して配りました。みなさん、目が点になったかもしれません。またあるいは失笑して無視という状態だったかも。「おはなし会」二回目の詳細については、次回から書いていきます。そんなこんなで憎まれっ子、世にはばかる今年度のスタートでした。若い人々が少しも暴れないで妙に落ち着いているので、2017年度もまた年齢不相応に暴れたいと思います。ご支援ください。

大人になったら何になる

 4月末の日曜日に大月市立図書館で行われた写真家・大竹英洋さんのスライドトークを聞きに行きました。ブッククラブの会員で大月周辺の方々には、お伝えしておきましたが、何かとお忙しい休日に数名の方が会場にいらっしゃり、ありがたく思っております。ここで改めてお礼申し上げます。
 さて、大竹英洋さんは、アメリカとカナダにまたがる湖水地方「ノースウッズ」を舞台に仕事をする若手の自然写真家、動物写真家ですが、写真家になったいきさつについてのお話を聞き、「いまどき、自分のしたいことにこんなに情熱を燃やす人がいたのか!」と、おどろいてしまいました。
 いま、多くの大学卒の若者は、就職は企業のHPにエントリーして就活を始めます。それが世の中に出る唯一の道だと刷り込まれているかのようです。そして、その3割が3年後に仕事をやめる、2割はブラックな仕事を我慢し続けて働いている。異常な労働に日本社会はなってしまいました。
 しかし、大竹さんの話はまったく違いました。自然の美しさに魅了され、写真家になるためにナショナルジオグラフィックの高名な写真家に弟子入りしようとアメリカ・ミネソタ州まで会いに行くのです。そりゃあ、昔は、そういう若者がいました。しかし、今は前述のごとくで、なかなか、そういう情熱的でひたむきな人に出会いません。トークでのお話は、そのことでしたが、じつは、この3月に大竹さんは、その辺の事情を本にまとめて、あすなろ書房から出しています。ブッククラブの方は、あすなろ書房の本は幼児のころから中学生までいろいろ配本してますから知っていますよね。そこから、いわば大人向けあるいはヤングアダルトの本を出しました。「そして、ぼくは旅に出た。はじまりの森・ノースウッズ」(あすなろ書房・1900円)という本です。

憧れは人生をつくる

 オオカミに導かれて北米の森に踏み込む・・・大竹さんは、それが自分の人生を前に進めることのできるただひとつの行動だった、と言っていますが、本を読んでみると、それは人生を形作る大切な人々との出会いもつくっていったということがわかります。
 私もけっこうな年齢ですから、人生でいろいろな大切な人と出会ってきました。それは親から始まって友人、師、同志などさまざまですが、おそらく、そういう人たちとの出会いの積み重ねがいまの自分をつくったのだと思うと、物事に邁進していけば必ず重要な人と出会うということを、この本を読んで再認識できたのです。
 考えてみれば、私も大竹さんとひょんなことから出会ってしまったのです。年齢が半分も違う若い大竹さんから学んだものは自分の心に響く何かを求めていけば、枠を超えてさまざまな人と出会い、そこからまた何かを得ることができるということでした。この本を読んで自然や冒険とは程遠い人生を送ってきた私が、その出会いの旅には納得がいったのです。
 でも、現代の若者は、あまりにも損得勘定で人生を考えすぎて、逆に損をしてしまうのではないかと余計な心配も出てきました。安定志向、安全志向をしているうちに憧れも持たず、むしゃらに進むことも忘れ、いつかつまらない人生を送ってしまう。たしかに何かを目指すと、裕福にはなれないかもしれないし、自分の負担も大きくなります。でも、それに反比例して充実感とか出会いのすばらしさなども得ることができるわけです。もう少し、現代の若者も人生にチャレンジしてもらいたいと強く思います。

「ちょっと今から仕事やめてくる」と言える?

 とにかく「最近の若者は(この言葉はとかく老人が使いますが、私はレッキとした老人なので堂々と使います)」、とにかく最近の若者は、偏差値教育の影響で自分への評価ばかり気にして何も言いません。上にこびることのほうが多いのです。だからブラック企業へ入ったりすればこき使われて終わり。電通の東大卒の女性社員・・・ほんとうに悲惨な結末でしたが、何か言って抗ったらどうだったのでしょう。まさに成島出監督の映画「ちょっと今から仕事やめてくる」のように自分を自分で救い出す方法はあったはずです。評価ばかり気にして我慢ばかりしていると現在の企業は冷たいですからね。ハラスメントどんどんやってきますよ。人間は一度だけしか生きられません。なるべく圧迫された人生は送りたくないじゃあありませんか。子どもがそんなブラックの犠牲になったら泣いても泣ききれません。

刷り込みから離れて

 そうは言っても、学校や親が、子どもに無難な安全策を刷り込みます。たしかに、子育てや教育は、子どもを自立した大人にするのが目的です。そりゃ、あたりまえ!ですね。でも事件、事故が起こらないかぎり、すべての子どもは大人になります。だから子育ては、どういう大人になるか、するかということなのですが、じつは、それは親あるいは学校などの先生の側の考え方であって、大人になったら何になるかを決めるのは当の本人・子どもなのです。
 と、なると、「その何になるかを決定する心をつくるのが子育て」だと思われます。ところが、多くの親は世の中の常識という枠で子育てを考え、それこそ常識的に?周囲と同じに育てます。いい学校に入れて、いい大学を出して、いい会社に就職させる・・・それができれば「いい子育て」をした優秀な親ということになりますから、まるで子育ても偏差値があるように競うわけです。でも、どういうわけか大学卒の3割が就職した会社を3年以内にやめてしまうという事実が報道されます。半数の新卒が「この仕事をずっとしていたくない。」と思っていると・・・ここに教育や子育ての病巣があると思います。それでも、大人たちはまだ明治以来の立身出世主義に縛られて教育や子育てをしているようです。大竹さんは一橋大学出身ですが、共謀罪の条文説明ひとつできない法務大臣も同じ大学です。どちらが生き生きとした人生か・・・それは、そのうち「みなさんが決める」ことになるでしょう。
 遊ぶことが大事な時期に「はい、英語教室」「次は学習塾」「さらにはスポーツクラブ」・・・これでは独創的な心ははぐくまれません。決められた答えだけを覚えていくわけで、そこから英語やピアノの達人、すごいスポーツマンが、出たとしても百人に一人、千人に一人ということになるでしょう。そんなわずかな成功確率のために子どもをステージに上げたい親にはなりたくないですね。もう少し、子どもに任せることをしないと大変なのですが、刷り込まれたものから頭を切り替えること(福沢諭吉の思想から離れること)が大事な時代に来ていると感じています。(新聞一部閲覧)

なぜ本を読まねばならないか

「サブカルチャーが子育てに影響する時代」
遅すぎる発言

 今年の大学の入学式で、東大と信州大学の学長が「スマホに頼らず、本を読もう」と呼びかけた。学者の意見としたら遅すぎる呼びかけだろう。学者ならもっと早くから弊害に気付き、たとえ受け入れられなくとも自分の意見として主張する義務と能力が要求される。事故が起きてから「原発やめますか?それとも日本人やめますか?」というのは学者としては想像力がなさすぎることとなります。
 SNSが便利な側面と人間を壊す側面を持っていることは、あらゆる物にその両面性があるのと同じで、多くは悪い側面のほうが露出してくるのがふつうだということは学者なら知っていなければならないことでしょう。
 いまやスマホは小学生高学年まで使用しており、平均の使用時間は2時間半・・・当然、いじりっぱなしの依存も数多いことでしょう。学長が、これを言っても学生がスマホをやめて本を読むとは思えない。言うなら、これは政府や儲けている通信機器企業に向かって言うべきではないかと思われます。

サブカルチャーは頭が幼稚になる

 スマホは、現在の段階ではサブカルチャーの集大成です。
 サブカルチャーについては、その歴史、実態を後述しますが、まずその影響について述べておきたいと思います。
 サブカルチャーは「頭を大人にしない」という特徴があります。30歳くらいになればそれなりの現実に当たると、それを処理をしていく頭ができるのがふつうですが、サブカルチャーに影響されると「ひじょうに幼稚なことしか考えられない、言えない」という現象が起こってくるのです。あたりまえです。前頭前野、つまり前頭葉の抑制力が落ちるのですから深く考えて行動できない。人間関係においても生活においても子どものような対応しかできなくなることが多く、大人として扱っても扱い切れないところがでてくるのです。
 これが極端になると、自分の世界以外のものを拒否し始める。と言っても、その自分の世界についての確固たる意見があるわけではない。これは最近の代表的な事件で、他にも毎日のように交際相手の子どもを虐待死させる、ストーカーで殺すなどの事件が起きていることからわかるでしょう。相変わらず子殺し、親殺しは減らないし、轢き逃げ、暴行死、いじめ自殺なども続く・・・これは頭が大人になっていないことから発生する事件です。
 データ4(DT−4)は、私が二十数年前からまとめ始めた事件の表ですが、じつはこれも「代表的な事件」でまとめないときりがなくなってしまった。もちろん、すぐ忘れられるような事件ではなく、極端化して起きた事件なのですが、メディアは事件そのものを伝えるだけで、犯人像などほとんど知らせない。小さいころ何をしていたか、どのような本を読んでいたか、どんなゲームをし、どのようなビデオを見ていたか・・・・どういう交友関係だったか・・・このプロファイリングをすれば、これらの事件の犯人のほとんどが幼少期からサブカルチャーの影響をかなり受けて成人していったことがわかるはずなのですが、それをしない。ゲームが売れなくなる、通信機器が売れなくなる、アニメが文化として輸出できない・・・等々。儲け仕事に対する配慮なのか、長いものには巻かれる・・・なのか。とにかく儲けるためには何でもやり、売れなくなるようなことはしないというのが行政・企業のスタンスです。

生命に対する関心や性的な問題が突出する

 報道の一部からでも類推はできますが、あまりにも数が多く全体像をつかみにくい問題があります。熊本の女子高生殺人はネットの出会い系サイト、今市市小1猥褻殺人はPCから幼女の写真が出ていますから、あきらかに裏のアダルトサイトと関係があります。猫の首にICチップを付けた大嘘つきのパソコン遠隔操作犯人は、類推する必要もないくらいの顔を見るだけでわかるパソコン・オタクです。アイドルタレント握手会の犯人は、どう見てもアイドルオタクが精神を病んで自暴自棄になったとしか思えません。三重の中3女子強姦殺人もアダルト関連のサブカルチャーの影響を大きく受けた少年の犯行でしょう。三鷹女高生刺殺事件は、殺人の前にリベンジポルノをネット上に流し、殺人後はツイッターをしているのですからサブカルチャーの影響がないわけがありません。川崎の中一殺人は、サブカルチャーで育った犯行グループがLINEで幼稚なイジメを始めた結果の悲劇だと言えます。また名古屋大女子学生の異常な殺人衝動・・・これも前頭葉の欠落でしょう。このようなサブカルに影響された事件は枚挙のいとまがありません。
 ここで挙げたように犯罪の世界でもサブカルチャーが猛威を振るっていますが、事件は影響を受けた人たちの氷山の一角にすぎず、アニメやアイドルオタク、ゲームやネットショッピング依存症の主婦、出会い系を使う普通の中・高校生などが山ほどいます。ある意味、加害者・被害者の予備軍ともいえるでしょう。これは極端化すれば事件になりますが、しない場合は家庭内の軋轢や友人間の反目やイジメという小さな物事で終始します。これらの幼稚な精神が犯す事件は、見かけでは親子ゲンカ、イジメ、子殺し、親殺しなどですが、その背後がサブカルチャー原因であることがよく見えず、サブカルチャーがどのくらい世の中を悪くしているかを多くの人がわかっていないのです。

自分が現在いる位置を知る

 左に表示した本は、前回の概要で記した「西洋の没落」という本の1ページです。これは、オスヴァルト・シュペングラーという学者が世界史全部を分析して、現在の状態がどういうものであるかを示した本です。ここには、次のような表記があります。
 およそ今から百年前の1918年の出版です。その2000年〜2100年の予測
 世界都市な文明の出現。魂の形成力の消滅。生命自体が疑問となる。非宗教的な、また非形而上学的な世界都市の実用的な傾向。唯物的世界観。すなわち科学、功利性、幸福の崇拝の支配。
 内的形式なき現存。慣習、奢侈、スポーツ、神経刺激としての世界都市芸術。
 象徴的な内容もなく、急速に変化する流行(復活、勝手気ままな発明や声明、剽竊)。
 「近代芸術」。芸術「問題」世界都市意識を形成し、これを刺激しようとする試み。音楽、建築、絵画の単なる工芸への変化。今や本質的に大都市的な特性を具えた民族体は解体して無形成の大衆となる。世界都市と田舎。
 第四階級(大衆)無機的、世界主義。貨幣の支配(民主主義の支配)。経済力は政治的形式及び権利に滲透する。

 これは20世紀初頭に書かれた100年後予想のようなものですが、ノストラダムスの予言のようなチャチなものではなく、ズバリズバリと当たってくるわけですから、読んだ私の方は結果を追いかけてようやく文章の理解ができるようになったということです。これを私が読んだのは今から50年前のことで、当然、この意味がほとんどわかりませんでした。ところが30年くらい前からだんだん意味がわかるようになってきたのです。なぜならば、ここに書かれた現象が次々に目に見えてきたからです。さて、意味が分からないでしょう。これを現代的に読み直せばつぎのようになります。
 高層ビルが林立するグローバル化した都市が出てくる。 人間の心が反映されるようなドラマ、演劇、小説の消滅  医学の発展によりさまざまな治療法や防疫法が開発され、生命や死そのものが人間の意識から遠のき始め、生きる意味、生命そのものなどが疑問になる 都会的な生活で負荷がかからない利便性に頼る傾向。 物が絶対視される価値観の横行。化学がすべてを解決すると思う考え、生き方、生活の仕方で合理的な考えが増えてきて得になることばかりを考える傾向。楽しければいいというテーマパーク的、バーチャルな安楽を求める考え方が多くなる。
 中身のないものが増える(フィギア、実効性のない宣伝、理念だけの政治的発言) 前例やマニュアルだけに頼る傾向、身分不相応な金の使い方、豊かさの誇示、スポーツの繁栄、ポップアートやロックミュージックなどの神経を刺激する芸術の横行、
 ファッションやライフスタイルなどの流行が短期間で急速に変化する。 かつて流行ったものがまたブレークする。
 発明品の多くが意味のない開発で行われる 剽窃=コピペの横行(オリジナルをどんどんコピーする傾向、ネットによる加速) 何事にも無関心になる都会人の気持ちを刺激しようとする芸術らしきものが増える 音楽は感情を揺らすものではなく単純に流れているにすぎない音、個性のない建築物の増加。芸術性のない絵画。
 日本人とか日本のためとかいう意識の消えた何も考えない、感じない人間の集合体にすぎない社会。都会と地方の極端なへだたり。グローバリズム〈世界主義〉 貨幣の支配(金があらゆる価値に優先する) 政治理念で行われる政治ではなく、経済が政治のやり方の前面に出る。(ゆめや訳注)

粗悪な時代を生きる

 われわれがこういう現在に生きていることが、すでに百年前に予測されていたわけです。つまり、これを見ていくとメインカルチャーで生きていた時代から、サブカルチャーで生きている時代に変りつつあるわけで、人間がしだいに壊れ始めるということも意味します。これを現象として予測したのが百年前の歴史哲学者シュペングラーでした。
 こういう世界でわれわれは親になり、子育てをしていくわけですが、当然、サブカルチャーの影響を受けます。避けるわけにはいきません。ただ巻き込まれないようにしないと、家族の崩壊やヒキコモリなどから始まる一連の社会現象の中にハマって行ってしまう可能性があるのです。ですから、私は1980年から、ずっとサブカルチャーの危険性を述べてきました。しかし、スマホがもはや若者の手から離せないように、サブカルチャーを現代の子どもは体験しないわけにはいかないのです。
 おもしろいことに、これだけ影響の大きいものに対して学校も読書を薦めている大人たちも何も批判の言葉を発しません。学校教育にも危機ですし、読書の敵でもあるものに、あろうことか本にたずさわる大人、子どもの本や子育てにかかわる人が何も言わないので沈黙です。きっと、それは、ニンテンドーやSONYを批判することになり、言いにくいのです。さらにはネットで儲けている人々を批判することにもなり、あらゆることがなかなか批判しづらくなっている事実があります。わかりますね。これ「西洋の没落」で書かれている「貨幣の支配」なのです。人間にとって良いことより、儲かる方がいいという流れに学校も大人も逆らえなくなっていると言うわけです。
 さて、そういう中で子育てをどうするか・・・しかたがないと巻き込まれるか、今いる時代をすぐれた本を読んで考えることは子育て上、ひじょうに重要なことだと思いますが・・・・あなたがた、立身出世に洗脳されてわかるでしょうか。では、次の回で教育とさぶかるなどの関連とその変遷で現在を見てみましょう。(一部閲覧)



(2017年5月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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