ブッククラブニュース
平成28年10月号(発達年齢ブッククラブ)

ママ友も大変である!

 知り合いのカウンセラーの先生と親子や家庭、親同士の付き合いの問題についてご意見を聞いていたら、最近の子どもたちも親たちもなかなか「付き合いが大変」なようだということがわかった。それぞれが問題を抱え込んで頭を悩ましているらしい。で、先生は「もめごとを母親同士で解決しないように」と言っていた。なぜ?と思ったが、「同じような考え方では問題の解決どころか、人間関係のゴタゴタのもとになる」と言うのである。
 私の世代が子育てしたときは昭和の終わりだったがママ友など一人か二人、それも子どもの年齢が同じ近所のママだから、濃密に付き合える。子どもたちを引き連れて海水浴に行ったり、忙しい時は互いに子どもを預けたり、そんなこんなをしているうちにお互い孫がいるババ友になっていたりする。こういう関係ではもともとゴタゴタは起こらないし、特定のママをのけ者にしたりシカトしたりすることもない。
 ところが、現代ではママ友の間で確執が生じて子どものケンカから親同士が気まずくなって大変らしい。つまらぬ人間関係にこだわる時間があれば子どもと向き合ってつきあってやればいいのに、LINEだことの回覧メールだことの・・・おかしな情報に振り回されるのも現代の母親である。

友の数が多さは・・・

 最近のママは、どういうふうにママ友となるのか見てみると、産婦婦人科で、あるいは公園で またお稽古事で、さらには幼稚園や学校で、母親同士の付き合いができる。子どもが幼いうちは、母親が仲良くなることで子どもたちも交流して仲良くなることも多い。だから集団化したりする。それまで面側な付き合いを避けてきたという人も、子どものために何とかして「ママ友の輪」に入ろうとする。
 実際、育児中の母親同士は話が合って楽しいし、貴重な情報交換や悩み相談の場にもなるから、それはそれで有益なことだと思う。しかし、問題も起こる。例えば・・・こんなケース。
 娘がお友だちのことで悩んでいた。相手の母親とは仲良くしていたのであまり深く考えずに相談の電話をした。しかし、想像以上に相手の母親の気分を害したらしく、娘の方の問題は解決したもの母親同士は何となく気まずくなった。またその後、今度は弟のことで、やはり仲の良いお母さんから電話をもらった。立場が入れ替わった同じような内容の電話だった。母親は、息子に実情を問いただしたことで相手の電話の内容にカチンときたのである。

一時的な交友であることを・・・

 いくら気心が知れているといっても、「ママ友」はあくまで子どもをはさんだ友人関係である。また、なぜか母親は自分の子どもを非難されると自分が否定されたような気侍ちになることがあるらしい。子どもと母親は全くの別人格であるとわかっていても、自分の育児に自信もあり不安もあるから感情のもつれはどんどん高まってしまう。必要以上に親密になろうとしないで、適度に「そういう人もいるわね。」くらいに思いながら、見ていた方がうまくいくと思う。「友」などというものは「多いから良い、少ないから良くない」ということはない。生涯に一人だって友ができればいいというものだ。複雑な問題は年長の経験豊富な人に相談すれば事がすむこともある。「100万回生きたねこ」の作者・佐野洋子さんも書いている。「友達は無駄である」と。
 でもまあママ友はパパ友よりはいいかもしれない。パパは仕事に精を出しているうちは交友関係もあるが、退職すると話し相手もいない人が多くなるらしい。価値観が違えば交友関係もなかなか続くことはない。仕事上の義理で付き合っても、仕事がなくなれば付き合う必要もない。孤独な老人男性が増えているのも、ほんとうの友人を一人もつくれなかったからだろう。ママ友も一時的なものと割り切って付き合えばそれでいいのではないか・・・なかなか生涯つきあえる人を何十人も増やすことはむずかしいと思われる。(ニュース十月号一部閲覧)

なぜ本を読む必要があるのか!?

 もう30年くらい前になるけれど、ある人と「情報が多いことがいいか悪いか」公の場で話し合ったことがある。
 その人は「情報が多ければ選択肢がたくさんになり、より適切なものが選べる」と言った。私は「そうは思わない」と応えた。聞いていた多くの人は「ある人」の意見の方を支持していたようだ。
 私の考えは「人間の判断力などいい加減なもので、たいていは知られているものや分かりやすいもの、強く発信されたものに流されやすい」というものだった。当然、多くの人は、私の消極的な意見より積極的に挑戦して前向きに受け止める方に好感を持つものだ。
 さらに、多くの人間は、わかりやすい方に傾くことも証明されているから、短いフレーズや単純な表現に引きずりこまれる人が多いこともわかる。
 よく、「ゆめやさんの新聞は長たらしい」「むずかしいことが書いてあってわかりにくい」という話を聞く。たしかに文は下手だし、感覚的に魅了する内容も書いてない。ただ、まじめに説明をしているだけである。
 思うに、現代日本人は「長い説明」「長い文」を読む力が失われいているのではないか。テレビやネットはキャッチコピーや刺激的な短文フレーズで攻めてくる。内容などどうでもよくて、いかに引き付けるか・・・この究極はネーミングしたものの連呼である。

キャッチコピーに弱くなる

 で、長文は誰も読まなくなり無視される。この行きつく先は映像で感覚を刺激するだけの原始的な世界である。で、ゆめやのこのホームページは、このブッククラブで出している新聞の5倍くらいの量を書くからおそらく誰も読まないだろう。「この文だって、最後まで読む人は少ないと思われる。なかなか考えとは伝わらないものだな・・・」と思っていたら、絵本作家の安野光雅さんが以下のようなおもしろいことを言っていた。(  )内は私の感想。

 『走れメロス』に「人の心を疑うのは最も恥ずべき悪徳だ。」とあり、それが嫌悪すべきテロリストを美化していることを疑いもせず、今の中学国語教科書の全てに載っている。人の心こそ疑わねば危なくて生きて行かれない。人の言葉を信じて、犯罪の餌食になり、情報の巧妙な演出を見破れずにダマされたと言う人も後を絶たない。ダマす方も悪いが、ダマされる者にも責任がある。(まったくその通り。)
 なぜそんなことになったか、人が本を読まなくなって、「疑う力を失った」からである。
 テレビCMには、毛がにょきにょき生えてきたり、患部に薬が浸透して見る見るうちに腫れがひいたり、クリームを塗っただけでやせるなど、上げればきりがないほどの嘘の映像が流され、それが「イメージ映像」だと一言で逃げる。

ダマされる脳

 ドキュメントの再現場面の映像にも、事実にそっくりの「お芝居」がある。(つまり、われわれはテレビや週刊誌に化かされているというわけです。)
 なぜ、こんなことになったか、もう一度いう。多くの人が活字を読まなくなったからだ。「疑わない、考えない、みんなで渡れば怖くない」と思いはじめ、われわれは指揮棒のままに動く羊になってしまった。
 本は売れず、有能な書き手も机から離れ、危機的な状況が目前のこととなりつつある。活字に関わる人間の生活保障が問題なのではない。大きく言えば、この国の未来が心配なのだ。(明らかに嘘だとわかっても言いくるめられてゴマかされる人も多い。単純な詐欺から政治家のゴマカシまでどれも国の未来を壊す悪事が見逃されるということ)
 本を読み、考える力、疑う力を確保しなければ、今や情報の奴隷になるほかない・・・。ああ、何という矛盾だろう、この欄を読む人は、本を読む疑い深い人間だろうから、この文章は何の意味もないことになるか・・・。
 (私もまったく同感だ! 安野光雅さん御年90歳・・・本を読んできた安野画伯はポケモンGOでフラフラ歩く若者よりはるかに「自分の道を歩いているな!」と感じています。50歳にもなって、夫婦でポケモンの出現スポットに毎日行くバカさ加減もだが、日本全体がそういう人種で無思考化していくのをみるとゾっとするのは私だけだろうか。)

《新聞10月号一部閲覧》



(2016年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

ページトップへ