ブッククラブニュース
平成28年9月号新聞一部閲覧 追加分

堤春生画伯の個展

 ゆめやのニュースの紙上を飾ってくれている堤春生さん。ほっとするかわいい絵が続いていますが、これがですね、画伯に変身したとたんに素晴らしい芸術を生み出すのです。私はそのギャップ(失礼な言い方ですが)におどろきます。この堤画伯が日展会友として10/31〜11/5まで東京・銀座スルガ台画廊で個展を開きます。東京の近くの会員で絵に興味のある方はご覧になってください。銀座スルガ台画廊(銀座能楽堂近く)下のような絵ですが日本画のジャンルらしいです。だいぶ画風が上と下で違うでしょ。私はロシアとか東欧の聖像画のような感じがするのですが、なんとカンバスに描いているのではなく、板に直接描かれているのです。これもびっくりぽんです。そんな方に毎月、季節のイラストをお願いして書いていただいているのです。申し訳ないような気がしますが、書き下ろしです。

天候不順の月見団子

 今年の秋は天候不順でした。甲府では十三夜も十五夜もお月様が見られませんでしたが、我が家は例年通り、庭で刈ったススキを飾り、お団子15個・・・・ショウガとクリを備えてみました。これまでは夫婦二人でお団子も減りませんでしたが、今年は二人の孫がパクパク食べました。季節の行事はいいものですね。月を愛でるという習慣は欧米にはあまりないように思いますが、あるのかな。子どものころ、団子釣りというのをしました。枝の先に糸を垂らしては曲げた針のようなものをつけて、近所の縁側に出ている月見ダンゴを釣るのですが、これで釣ったものは食べても叱られないということでした。
 しかし、こんな仕掛けで釣れるものではありません。自分の家の団子で実験してもまったく釣れないので、この話は「嘘」のような気がしました。
 いつごろからでしょうか、日本には「施す」という習慣がありました。お地蔵さまに供えたものをおなかを空かせた村の子どもや旅人が食べる、お盆の供物を川辺に置くのもホームレスのような人に食べてもらう意図があったのかもしれません。また、秋に柿の木から柿を収穫しても、ひとつは枝に残す「一柿」・・・食物が少なくなった冬初めに鳥に食べさせるために残す習慣です。こういう習わしががいつごろからかなくなってしまいました。明治時代あたりから、だんだんなくなっていきましたが、福祉の基本になるような「施し」・・・復活させたいですね。

たかが絵本、されど絵本
D 3歳の読み聞かせ

 1歳から読み聞かせが楽しめた子は3歳過ぎるとおもしろいほど物語に食いついてきます。親としては、それに気が付かないで「あたりまえじゃん!」と思うかもしれませんが、1歳のころの絵本の読み聞かせを思い返してみてください。あんな単純な絵本からもう大人自身が「おもしろいな!」と思える絵本を楽しめるようになっているのです。最初の読み聞かせからたった2年・・・多くの子どもは大人と自由に会話ができ、意志の疎通もちゃんとできるのです。子どもの成長のあまりの速さにおどろくばかりです。
 3歳代の絵本の特徴は、確実に進むストーリー、展開のあるお話、読み聞かせた後に楽しくなる結末・・・という絵本の3要素がじゅうぶんに入っています。物語絵本は、これから後のすべての読み物の出発点ともいえます。配本選書しているものは個別に季節に応じ、また月齢に合わせたものです。特定の分野に偏ったものは入れてありませんので、順次、配本を楽しめるように読み聞かせていってください。2歳の読み聞かせの時に説明してありますが、なるべく好奇心、関心が特定のものに向かないように・・・「物語のおもしろさ」を味わえるようにすることが読むポイントです。くりかえしになりますが、絵本の楽しみは、そこに描かれる世界を子どもが「体験」することです。頭の中でもいいし、真似た「ごっこ」遊びでもよい。子どもには、その世界は「本当のこと」なのです。 

気をつけたいこと

 男の子で、2歳の最初ごろから車、電車など特定のものにしか目が行かない子が出てきます。好きで覚えるからと図鑑攻めする親もいますが、物語絵本に乗せていきたい3歳では、これは避けたいところです。関心が特定のものに偏ると多くの楽しみが半減します。オタクのような「ある特定のものにしか関心が出ない」頭をこの時期からつくってしまうのはどうかと思いますので、バランスよく物語が楽しめるようにしたいですね。
 また、女の子でもテレビやキャラクターグッズの影響から「プリキュア」などのサブカルに傾く子も出てきます。子どものころは何をしてもカワイイですが、大人まで続くとね。気持ちが悪い。これも避けたいところです。とにかく、ひろく物事に関心を持つ傾向がなくなり、特定のものにしか関心がでなくなったら

効果をあげる演出はやめよう

 3歳前半では、多少の演出(抑揚や声色、手振り、身振り)などを入れてもいいですが、なるべく早めに淡々とした読み聞かせに切り替えることをお勧めします。配本では、かんたんな内容のものでも、もう文章語の物語ばかりです。読み聞かせは読み手が目立つための派手なパフォーマンスではありません。やがて読書に入っていくための準備です。読書とは絵がなくなり字を追うものです。追った字が言葉になり、言葉が頭の中で想像力を使って世界を描くわけですから、まずは言葉からの想像力を高めること。そのためにも言葉から想像する訓練が必要となります。これがテレビやお芝居とは決定的に違うことです。言葉からイメージする訓練がされないと読書の土台ができません。演出やパフォーマンスで表現するのではなく、言葉から内容がイメージできるような状態にしたいものです。映像や劇の感動は感覚的なもので、やがてマンガとかアニメにしか目が行かなくなる可能性が大きくなります。だから、楽しく聞くことは忘れずに・・・ですね。 (ニュース九月号一部閲覧)

寄稿のお願い

 忙しい時代ですからお願いするのも気が引けますが、高学年の会員に「本とともに過ごしてきて」の寄稿をお願いしています。小学5年以上の会員ならどなたでもけっこうです。また上のお子さんがもう卒業してしまった方も歓迎です。原稿は500字前後。寄稿方法は、FAX、メール、手紙・・・なんでもけっこう です。メールのアドレスは、7月号、4月号など大判の夢新聞表紙にあります。FAXやメールアドレスは新聞上部にあります。就学児会員の方はアドレスをご存知だと思います。もちろんメールでもOKです。内容は、どのようなものでもかまいません。よろしくお願いします。あて先はゆめやですが、お手紙は〒400-0017山梨県甲府市屋形3−3−7絵本専門店ゆめや です。

遠くからのお客さま

 みなさんは今年の夏休み、秋の連休を楽しめたでしょうか。甲府が暑かったのは7月初旬で、意外に熱帯夜がなく、たしかに日中は暑いのですが、35度越えは数日のみ。いきなり秋風が吹き始めて天候不順。
 ゆめやは夏休みがないので、九月の連休に恒例の高原の風を楽しむ予定でしたが、旅行に行った3日間は初日台風、翌日雨、その翌日は霧と靄つまり何も見えない状態の旅行でした。日ごろの行いが出ますね。何も見えない・・・うん・何も・・・日光に行ったのですが、中禅寺湖は真っ白な靄の中、男体山は霧に覆われ、いろは坂は一台前の車の後ろがかろうじて見えるくらいの視界。「でも東照宮や輪王寺は見られたでしょう」と言われましたが、なんと陽明門は修復工事中で覆いが・・・眠り猫も三猿もレプリカ、輪王寺は巨大な覆いで何も見えず。まあ、これは2019年まで続くらしく・・・ついていないもいいところでした。調べもせずに行く方がバカですが・・・・。

遠くからのお客さま

 夏から秋のゆめやには、県外からも何人か会員の方が来ます。今年は海外からも。ゆめやではいつも子どもたちのテーブル上の遊びが流行りますが、おじさんの手品や魔術?はネタ切れの晩夏でした・・・でも、今年は、工作遊びやボードゲームが流行っていました。
 県外のお客様は、ゆめやの固い新聞ばかり読んでいるので、ゆめやのおじさんは四角四面の怖い「びゅんびゅんごまがまわったら」の校長のように思っている方が多いのですが、じつは子ども相手にくだらない「ダジャレ話」をしたり、魔法を使ったりするソフトタッチなんです。おばさんなど、仕事そっちのけで、連続切り絵をやったり、指が抜けなくなる木の皮を編んでできる蛇を作ったり、大忙しです。
 子どもたちに大うけ。小学生どころか三歳児まで「もっとやって、もっとやって!」と大賑わいでした。こういうふうに手を変え、品を変えて、子どもたちの反応を見ていると、テレビゲームがなくても、けっこう遊べるものだなあと思います。

 店内には二十年も使っている木のパズルやしかけおもちゃがありますが、子どもたちはあきもせず毎回挑戦するのです。電子ゲームや電動のおもちゃなど大人が手抜きをして遊んでやらないための道具なのかもしれません。子どもは二人以上になれば自分たちから遊び始めますし、一人でもヒントをあげたり、きっかけを作れば楽しく遊びます。むずかしい切り絵や紋切りに挑戦する子ども達も多いのです。テーマパークめぐりをしたり、イベントめぐりをしたりもいいですが、同じところで、いろいろ遊ぶのもいいかもしれません。「つまらない」を連呼するような子どもにだけはしたくないですからね。今年は甲府は快晴の日がなかった九月でした。月も見られず星も見られず・・・これじゃ体調崩れます。

「人はなぜ星を見上げるのか」

 昨年、おはなし会を一番手で引き受けていただいた高橋真理子さんが本を出しました。
 本を読んでいて時折、書く専門家たちは「おもしろく」「刺激的に」「受けを狙って」という姿勢があるな!と感じます。もちろん、エンターテイメントだから、そういうことも大切です。しかし、読み手としては嘘臭いものも感じ取ってしまうのです。行為や思いがともなわない絵空事が描かれるとディズニーランドの催しものにだまされているような感じと同じものにもなります。
 でも、強い思いが現実の行動と一致している本に出会うと、こちらの心が揺さぶられます。事実は小説より奇なりはほんとうで、そこにノンフィクションの魅力があるのでしょう。先日、そういう本を読ました。みごとに一人の思いが多くの弱者に寄り添っていくエピソードです。作者が実際に行動した結果の物語というのは心を打ちます。嘘のない、現実をはるかに超えている思いも感じました。
 3・11で心がうつろになった人々、病と闘いながらも心が折れそうな人々・・・その人たちに星空を見せる・・・ 人々が星を見上げる・・・現代人がうつむいてスマホばかりみている世のなかで、星を見る行為は何かを見つめなおすとても良い方法なのではないか、と思わされたのです。現代人はなぜ星を見上げないのか?・・・星を見ても悩みの答えはでないが、見ることで別のものが.見えてくるような気もするのです。(増ページ一部閲覧)

むかしばなし裁判 C・・・姥捨て山 あらすじ

 ある藩の殿さまが、「高齢者は国には不要な存在」として山に捨てるようにと「お触れ(命令)」を出します。母一人子一人で育った若者もお触れには逆らえず泣く泣く老母を山に捨てようとしますが、けっきょく捨てることができず、ひそかに家の床下に隠して住まわせていました。しばらくしてから、その藩には、大変な問題が起こり、それらの難題を解かないと国が滅びかねない状態になりました。ところが若者が隠して住まわせていた老母が問題の答えを出して、みごとに解き、自藩の崩壊や隣藩の無理難題をしりぞけることに成功します。老人には長い人生の中で培われた知恵があり、それが粗末にできぬものがあります。現代では豊かさボケで知恵がなく詐欺にひっかかる老人も多いです。
 もちろん、この話は現代のことではなく食べることもままならなかった昔のことです。生産力にならない、あるいは労働しない老人を生かしておいたら国が貧しくなってしまう、また前回のヘンゼルとグレーテルのように子どもを捨ててまで総活躍しなければならない時代のことですので、現代のことだと思わないでください。

お裁き

 これは、奉行所が起訴したものではなく、村人の訴えから始まりました。「殿さまの判断や藩が作った法律が理屈に合っていない」と訴えたのです。
 村人の訴えは、こうでした。「これまで、この国では老人も生まれてきた子どもも同じように大切にする掟がありました。ところが新しい殿様が勝手に掟の一部を自分の解釈で改めました。高齢者は山に捨てたり、勝手に戦(イクサ)を起こすことができたり、都合のわるいことは伝えてはならないという掟を作ったりしたので、みんなが困りました。」
 すると、お奉行さまはこう言いました。「そうは言うが、新しい掟も藩の3分の2の者が賛成して決まった法律なので、守らねばならないぞ。掟は掟だからな。」
 村人「しかし、私らの村でもたくさんの問題が起きています。地震で家が壊れて住めなくなったり、カマドが壊れて汚い水が流れ出したり、戦(いくさ)に使うお金が多くなって、年貢をよけいに納めるようになったり、いろいろな問題があります。でも殿様はお金を他藩にバラまくだけで、問題を解決する知恵が出せないのです。」
 奉行「それはだな、地震など想定外のことだし、壊れたカマドの汚い水はきちんと管理下にあると殿様がおっしゃっている。戦に使うお金も隣の藩の三代目の藩主が、この村まで届く大砲をつくったからしかたがないのじゃ。」 
   村人「しかし、問題を解決するには経験者や知恵のある者に聞かねばわからないではありませんか。殿様の考えが間違えていることもあると思います。殿様は、お城の中の長老の意見お聞き入れないのでしょう。
 奉行「では、村の老人に聞いてみることにしよう。どんな名案があの老いぼれた者たちにあるというのかな。」
そこで、老人数名が奉行の質問に答えることとなりました。
 老人A「お答え申し上げます。昔も大きな地震がございましたが、そのときの殿様はお城にある食料を出し、家を建て直す事業を藩が指導しました。治山治水と申しまして、大工たちに誘導をしない自然災害の対策、それが殿様の主な仕事だと存じます。」
 老人B「壊れたカマドは容易に直せないので雨が降ると汚い水が流れ出しますが、海に流れだすのは絶対に止めなければなりません。時間がかかっても漏れ出すところを止めていくことです。雨降って地固まるまるというくらいで、カマドを覆い尽くすまでやらねばならないでしょう。カマドづくりは今後はやめたほうがいいでしょう。」
 老人C「殖産興業で経済を成長させ、富国強兵で軍事費を多くし、立身出世で子どもたちを競争させて大きな戦いになったことが前にもあったではございませんか。三代目が家を潰すということわざもあります。隣の藩だけではなく、こちらの藩も三代目かもしれません。わが藩が負けたあの大きな戦のときも三代目。三代目が国を潰すなら、なお気を付けていろいろやっていかないと大変なことになります。知恵を聞く耳と世間を見る目を持った殿様になってもらいたいと思います。」
 老人D「誤った教育を受けるから上に立つ者が掟を守らず、自分に都合のよいことばかりやるのです。まず子どもたちも大人も人としてどうあるべきかという人の道を学ばねば村も藩も国もよくなりません。」
 上に立つ者が掟を守らず、自分に都合のよいことばかりやるのです。まず子どもたちも大人も人としてどうあるべきかという人の道を学ばねば村も藩も国もよくなりません。」
 これを聞いた殿様は、お触れを撤回し、それからは、老人を大切にするようになったということです。(増ページ一部閲覧)

学校図書館をどう利用するか
C 貸出競争で読書力はつくか
営業売り上げじゃないんだから

 学校が読書推進をし始めると、判で押したようにどこでも貸出競争のようなものになる。これについてはいつも述べてきたが、まるで企業の売り上げ競争と同じようになってくる。もっとも学校もある意味、お役所と同じで物事を必ず計測しようとする。だから何か数字がほしくなる。「何冊借りた」、「何人借りた」という統計的な数値が「成功」「不成功」を示すと思っているから、とにかく数字がほしい。成績をつけるときの偏差値という言葉ももともとは教育用語ではない。経済統計などで使われる経済用語だが、教育もどんどん市場原理主義に飲み込まれているのだろう。
 教育委員会の読書推進の実施要領は「国語力をつけるための読書活動事業」というものがほとんど。「事業」なんですね。国語力をつける「事業」なんです! もっとも、これは私の言葉へのこだわりすぎで、ふつうの保護者は何も感じない。事業は、読書記録カードとか誰が何冊借りたかという表をつくり、まさに企業事務や行政事務でやるようなものである。読書などどこまでいっても個人的な体験で、あれこれ他人から操作される読書なんて読書じゃないと思うが・・・。世間一般、それで一応は時間が過ぎておしまい。高学年になれば読書どころではなく、まずはお勉強が大事になっていく。だから、ほかの建前もある。「調べ学習のため」とか「家庭での対話を増やすため(親子で同じ本を読む)」とか・・・。

家庭の会話量を増やすための読書?

 たとえば、美輪明宏さんが読書について、こういうことを言っている。
「言葉が足りないのは本を読まないから。美しい言葉に触れ、素敵だと思った表現を自分の中にストックする。お互いの意思の疎通はこの言葉によって行われる。」・・・たしかに家族。友人、その他周囲の人と、「程度の高い言葉」を使って会話を交わすには本は有効な言葉の源になるだろう。彼の迫力のある言葉は、本を読みこんだことからくる教養から出ていると思われる。
「本の内容や心に残ったことを親子で話し合って会話を広げる」・・・個人的な考えだが、読んだ本の内容を親と話し合うなどという気持ちの悪いことがほんとうにできるのだろうか。
 子「ねえ、なんで青鬼はわざと悪いことをして赤鬼が村の人から好かれるようにしたの?」
 父「赤鬼が村の人と仲良くしてもらうためには、自分が嫌われ者になるしかないと思ったからじゃないか。」
 母「なにも、友達を助けるために嫌われ者にならなくてもいいのにね。あなたはそんなことしないでよ。」・・・
 こういう会話が増えることを学校は望んでいるのだろうか。いけないとは言わないが、「大人になるということは、取ってつけたような会話はしなくなるというもの」だということを、子どもの読書活動事業をする人はわかっていないということでもある。美輪さんがいうように、言葉は、自分でストックして、場に応じて使っていくものだからだ。

本を読まない人の三大特徴

 七月号の夢新聞で、本を読まない人とは・・・
(1) 形容詞だけでものをかたる
 「かわいい!」「うつくしい」「しっかりとした」など漠然とした言葉、抽象的な言葉を繰り返す (2) 言葉や事柄を定義できない
 ある言葉についての意味や事実の説明ができない。ベラベラと言葉をたくさん連ねて説明したように見せる (3) 5分以上論理的に語れない
 筋道立ててひとつのことを論理的に語れない。5分以上語ると同じことを繰り返したり、矛盾したことでも平気で言う

 ・・・と書いた。読書推進活動では数が目標で、質は二の次、三の次である。どのような本を読むのか、選書リストもなければ、ガイドラインもない。だから「質より量」、「質より数」になり、内容が子どもの心にも頭にも残らないことになる。結果、子どもの読書は高度な方向へは向かわず、読みやすい文章の短い絵本や軽い読み物で数を競うことになってしまう。まだ、それなら良い。この新聞の五月号、六月号、八月号で述べてきたような劣悪な本が置いてある学校図書館もあるから、子どもがそれに流れていけば読書推進は、悪書推進にもなりかねないのである。@ABのような若者が増えている。いやいや若者だけではない。いい年齢の政治家でさえ(1)(2)(3)だ。

読書力と国語力はちがうよ!

 ショーペンハウエルという哲学者が言ったことだが「良書を読むための条件は悪書を読まないことである」というじつに単純な答えである。本を読んでいけば、何が良書で何が悪書かはかんたんにわかってくるものだ。本を読まないから、くだらないお笑い番組や底の浅い漫画・週刊誌に流れる。
 しかし、高度な読書ができる子どもでも、学校の国語の成績があまりよくない子がいる。教科の国語というものは解答しなければならないものなので、テーマや意図を感じ取ることとはまったく関係がない。だいたい、高度なテーマの本は、はじめから答えなどない。第一、読書は楽しみであって、その付随的な効果として言葉への感覚や言葉が増すだけである。国語の解答能力が高まることとは比例しない。その証拠に本を一冊も読まない子でも成績の良い子がいる。偏差値の高い大学の学生と話してごらん。ほとんど本など読んでいない。おそらく、役所の方々も学校の推進運動をする人たちも本など読まなくて成績がよかった人だと思う。だから「国語力を挙げるために読書競争ってどうもねぇ」と思う。学校の国語力など、本など読まないでタブレット導入してデジタルで効率よく答えをどんどんプログラムし、決まりきった国語の問題と解答を「この問題の答えはこれ」と暗記したほうがずっと成績が上がるのではないだろうか。もっとも社会規範を守る意識なんか消えてなくなるだろうが・・・いまの政治家や企業幹部のようにね。(増ページ一部閲覧)



(2016年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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