ブッククラブニュース
平成28年1月号(発達年齢ブッククラブ)

あけましておめでとうございます。

 今年も多くの皆さまからたくさんの年賀状をいただきました。中には新年の祝詞だけでなく、お便りも書かれているものがたくさんあり、すべてに返信したい私としては何とも心苦しいものがありますが、なにぶん下に掲示したように数が多く、とうてい返信できません。なにとぞご理解のうえ、ご容赦ください。HP上で失礼ですが、2016年の会員の皆様の安全と幸福な日々をお祈り申し上げます。そして、年末から年始・・・HPに異常が発生、なんとか修復しましたが、ご迷惑をおかけしました。いきなり繁体中国文字一色で、どこからかハックされたかと思いましたが、事なきを得ました。なかなか大変な時代になってきました。その安全や幸福を少しも考えない人々が上から下まで増えてきたような気がします。一億総活躍・・・なるほどスローガンとしては文句の言えない五文字熟語ですが、女性労働力も欲しいために子どもの安全や幸福をないがしろにするような動きも進んできました。「豊かな生活」という物で釣るようなことで、働かせる・・・子どもの幸せは後回しで0歳児が朝から預けられて、家庭での滞在時間が2時間あるかないか・・・あとは家庭にいても寝ているだけ・・・親と子の接触もなにもありません。これでは小学校や中学校が荒れるわけです。そういう手に引っかからないように注意深く一年を過ごしていきたいと思います。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます

 毎年ほとんどが写真年賀状で、ゆめやの壁面は、この時期、ひじょうに華やかになります。お子さんや親御さんの笑顔が満ちているというのはとてもいいものですね。立春まで展示しますので、ご来店の方は、ぜひご覧になってください。これは、ゆめやの新春の風物詩でもあります。
 この写真の笑顔だけ見ても、絵本を与え、本を読む子どもたちの家庭・家族は、現代の悲惨な事件を起こす階層とは大きな違いであることがわかります。この意味でも以前に比べて貧富の差が大きくなり、ふつうの家庭が減ってきたように思います。
 原因があれば結果がある・・・良い結果ではないものが増えてきました。
 2016年・・・どうなっていくのでしょうね。最近気になることは、以前は始業式の前にはお子さんとお母さまのご来店が多かったのですが、外で働くお母さんが増えたせいか、年末、年始はご来店のお客様がかなり減りました。
 昨年は年間通して来店客が土曜日に集中することから見ても、どうも「灰色男」の「時間強盗」に影響されて、子どもや未来のことより「自分の時間を泥棒されている人」が多いような気がします。なんだか危ないものが迫ってきていますね。もう、その現象が末端では起きています。
 まあ、国民のレベルに見合った政治しかないのですから、国民もすぐに煽られてこの程度になるのでしょうね。もう少し先を考えてゆっくり生きたほうが子どものためにも何事のためにもいいような気がしますが・・・・子どものいない灰色男など目先の利益ばかりしか考えていませんからねぇ・・・。危ない!
 そういうことも考えて小さな試みですが、毎月「おはなし会」を開いて、さまざまなテーマでお母さん方にいろいろな真実を伝えてきました。なんとか、いまある明るい現在の部分を将来も持続させたいのです。

36年目の結果は・・・・

 ゆめや個人としては、たくさんの明るい家庭の様子や観光地で楽しんでいる年賀状で、まだ会ったこともないご家族やお子さんを見ることができるのはほんとうに幸福な感じです
 忙しい現役のお母さん方とは話す時間もない年末年始でしたが、逆に大学に入った子、成人式を迎えた子、就職して久しぶりに帰省した子などブッククラブの卒業者がやってきて、中には、結婚の報告とか新夫・新婦の紹介、そして、新たにできた赤ちゃんに「10ケ月になったら配本を!」という気の早い申し込み・・・。まったくうれしいことが続いています。
 私やブッククラブが老齢化しても、まだまだ新しい子どもたちは次々に出現します。私たちの寿命がどこまで持つか心配(笑)でもありますが、どこまで行っても夫婦二人でやってきている小さな店です。なにもかも二人でやるのは大変ですが、ある意味、おもしろさもあります。二人でやれる商売の顧客数が限度があるので、増やせませんが、できるかぎりコミュニケーションをとるようにしてますし、実際、あらゆるお便り、ご連絡には個別に返事をしています。
 この一つの例が、年賀状ですが、さすがにこれは同時期に返信は無理。いずれになります。うれしい風景がお正月の店内で展開するというのもありがたいことです。まだお目にかからない遠方の会員の方も、コミュニケーションはきちんと取りますので、ぜひいろいろなことを私たちにお伝えください。今年もよろしくお願い申し上げます。

ブックトーク「かさじぞう」

 大月市立図書館ブックトーク1月24日・・・今月は時季に合わせて「かさじぞう」というのがテーマで、何度も言いますが、この話が出た時からゆめやとしてはひじょうに困っておりました。
 民話学もやったことがなければ、絵本屋のくせにですね、昔話というのは苦手な部類に入っているんです。なんでかというと、明治以降に再話された昔話はよきにつけあしきにつけ、どこかで学校を始めとして、文部行政などが、じつに巧妙に国民の価値観をつくる基本軸に据えていることが多いのです。立春出世に・・・抵抗をさせない・・・・おだやかに・・・善意を要求して、おためごかしをやる。ですから、どうも好かない。で、どういうふうにブックトークで意見を言うか、ということでかなり考えたのですが、なかなかいいアイディアが思い付きが出ません。しかたがないので話の一番バッターですから、ひじょうに勝手に解釈した考えを述べさせていただきました。つまり、かさじぞう的な話はほかにあるのか・・・・ないのかということです。どういうことかというと石、木など動くはずのないものが動くというのは物理学を越えた「超常現象」です。超常現象というのはなかなか信用されません。そういう話は「かさじぞう」以外にあるのか・・・いろいろあるのですね。奈良には「亀石」という石がある。これが動くと大地震が来て日本が壊れるなどいう話もあります。

わからない若い方々には、

 横の映像をお見せしますので、ご覧ください。この眠っているかわいい子の顔を知っている方はいらっしゃいますか。これが上のかわいい男の子です。この会場には若い方ばかりですので、おそらく知らない顔だと思います。トークの映画からの写真で、その映画は「汚れなき悪戯」というものです。次の写真会場には若い方があまりいないようですが、タイトルがあります。私くらいの老人なら多くの方が知っているスペイン映画です。
 あらすじを言うと長くなるのでハショリますが、この子は捨て子でして、純真むくな少年で、修道院で育てられ、・・・・とにかく純粋でかわいらしいことをやるのですが、納屋にある(この写真ですね)十字架のキリストが、痩せていて空腹そうだからといってパンやワインを持っていくのです。すると、このキリストが動いて手を差し出してパンを食べ、ワインを飲む・・・・で、この子、マルセリーノっていうのですが、
 そうそう 映画の主題歌はこの、マルセリーノ、マルセリーノで始まりますが・・・この子がキリストにお願いをするわけですね。お母さんに会いたい・・・と。するとキリストが抱っこをしてくれてマルセリーノはそのまま微笑みながら死んでしまうわけですが、つまりお母さんは天後に行ってしまっていたのです。この様子を修道士が見ているのです。木のイエスが動いてくるわけですから、これはもう修道士はビックリ。いわゆる奇跡ですね。つまり超常現象です。涙なくしては見られない映画です。

アナトール・フランスは・・・

 また、19世紀の作家ですが、次の写真はアナトール・フランスという人です。芥川龍之介にも大きな影響を与えた作家ですが、「聖母と軽業師」という小説を書いています。これを絵本化したのが、この「神の道化師」というトミーデパオラの絵本です。
 これは、じつに面白い小説でして、主人公は軽業師なのですが、サーカスで軽業をやっていると、修道士たちが来て「そういうバカなことをして人を笑わせて何がおもしろいのかね。人生というものは貴重なもので、勉強をしなくては人間の価値があがらない。」と言って修道院へ入れます。
 でも軽業師だから軽業しかできないわけです。ラテン語の勉強とか神学・・・信仰のお勉強ですね・・・そういうものは頭がついていきません。でも根が真面目なので礼拝堂にこもってお祈りはします。あんまり長くこもっているので修道士がこっそりのぞくと、なんと聖母マリアの像の前で軽業をしているわけです。怒った修道士が取り押さえようとすると、・・・・・・石でできた聖母マリアが歩み寄って軽業師の額の汗を拭くという奇跡が起こるのです。テーマは、知識だけのお勉強で、本当の信仰や人生はおさめられないというフランスの皮肉なのですが、これも奇跡を描いたものです。
 つまりむずかしいラテン語や神学をおさめても、それは信仰ではなく、たんなる知識あつめで、その向こうには何もないわけです。これをフランスは見抜いた。だからこそバカな軽業師こそ必要な信の信仰者だったということです。
 これは東大を一番で入ってでも、頭の良さとは違うということでもハッキリわかります。たたき上げの職業人のほうがはるかにすぐれた成績の東大卒とはくらべようもならないほどすぐれているとううことです。百の能書きより、一つのじ次、実践ですからね。

宗教の力

 さて、こういう話の共通するのは宗教性です。まじめにきちんとすればかならず良い報いがある。・・・・これは私には何ともうさんくさい話です。私が民話があまり好きではないのは、この押しつけが教育の中で行われ、国にも利用されるということが多いからです。「ももたろう」などは典型的な押し付けですからね。立身出世、恩返し・・・・一見なんでもないことに見えますが人間性会では矛盾も生じます。

 つまりですね。この奇跡の話に出て来るおじいさん、おばあさん、捨て子、軽業師は、社会のひずみの底辺にいる人です。その人たちが何らかの形で善いことをすれば良い報いがあるということですね。いまでは、かさじぞうになりかわって物を届けるのはフードバンクとかタイガーマスクのランドセルですが、どこかでひずみの底辺を見ている人もいるわけです。
問題は、これが奇跡として利用されると底辺にいる人も善意を持てばなんとかなる、良いことが起こるということになりますが、それも為政者の操作のようなものかもしれません。

単純な超常現象

 映画トリックの上田次郎教授と同じく、私もその意味では「どんと来い!超常現象」です。奇跡はとかく利用されるので信者獲得のために。オームの麻原は座禅のまま空中に浮かびましたが、これは嘘でした。
 このように「かさじぞう」では石の地蔵さんが動くわけですが、それは実は奇跡に見せかけて信仰を煽るものです。善を施せばよいことが起こる・・・それ自体は否定しません。問題は誰かが意図的に吹聴することです。「汚れ悪戯」で、完全に修道士の作り話っぽいですが、とにかく「かさじぞう」の老夫婦にしても、「汚れなき」の少年マルセリーノにしても社会的な弱者です。それが奇跡によって持ち上げられる・・・これは決して超常現象などではなく、関係者の作り話でしょう。お地蔵さん信仰は高まるでしょうし、修道院は霊験あらたかなキリスト像に多くの参詣者がくるようになるでしょう。
 ただ、まちがえてはいけません。私は、そういう超常現象ではなく、善意ある人間は社会的弱者に善意のアプローチをするということです。つまり超常現象ではなく人が人を助けるということですね。

現代版かさじぞう

 たとえば山梨県の南アルプス市にフードバンクという団体があります。ここでは食料を集めて、恵まれない家庭に送っているのです。送ってくるのは石の地蔵ではなく小さなトラックや自家用車ですが、ここには善意があふれています。寄贈する人、分別する人、運ぶ人・・・・その人たちの運び先は弱者。この社会的弱者は政治が作り出したものです。
 また有名な例ではタイガーマスクがランドセルを送るというのがあります。もちろん、一人の伊達直人ではなく、多くの伊達直人がいるわけです。
 これは人が善意で相互に行うもので、やはり人の善意は大切なのです。っ悪いことをしている人間にはいいことがやってこないように、ここの善人たちは、心の中に何か「善を信じる」ものを持っているのです。
 ですから我々はお地蔵さんに手を合わせ、精霊をあがめ、木や石に宿る万霊に敬意を表してきました。それが善意を生むからです。

ところが、欲にかられると

 最後に「夜の神話」という本を例に引きますが、これは現代人がお地蔵さんとか石仏、精霊の宿る木などに手を合わせなくなった結果、科学の暴走で仕返しを受けるという話です。それで起こった原子力事故を精霊が自分の身を犠牲にしてなんとかしてくれるというものですが、まさに大きな現代人の精神の問題を描いたものです。(1/24大月市立図書館 視聴覚室 トーク抜粋)

今年はサル年・・・・

 さて、今年はサル年・・・人間もサルから進化してきましたが、最近の世の中を見ているとサル以下ですね。進化なのか退化なのか、新人類なのか人間が壊れてきたのか・・・・サル知恵は使わず、サル者は追わず、見ざる言わざる聞かざるを決め込まず今年一年を過ごしたいと思います。
 さて、今年はサル年、それも丙申(ひのえさる)・・・運気が下降曲線を描いて落ちていく年だと言われますが、サルというのはどうも人間さまがバカにしている動物らしく、表紙でも述べたように国語的にはあまり良い表現がありません。
 「サルは人より毛が三本足りない」(あの毛深いサルがそんなことはないのに・・・)「サルも木から落ちる(得意げに調子に乗ると失敗する)」・・・
 なるほど、最近、得意げに調子に乗っている人も見かけますね。いずれ転げ落ちるでしょうが・・・。しかし、何か問題が起きても責任を免れるために「見ザル聞かザル言わザル」という人々もまた多いわけです。
 では、今年はどんなことが起こるのか。干支では申ですから、雷が直撃する意味を持っています。方角は南西が危険。雷のようにストレートに上下に突き刺さる現象・・・なんでしょうね? 噴火?首都の南西ではなく京都の南西・・・というとどこなのかな。
 そういう一般的な予想はともかく、個人的に見た2016年を前にした夢はこんなこんなものでした。

夢・・・正夢/逆夢

 私が昨年の年末に見た夢。うたた寝しているときですから短時間の夢なのでしょうが、なんとなく怖い夢でハっとしてすぐに目覚めました。どういう夢かというと、砂なのか瓦礫なのかそういうものがどんどん崩れ落ち、ズルズルと自分が落っこちていくわけです。こういう夢は怖くて目覚めるものです。周りが崩れ落ちていく・・・これはなんだろう?と思いました。土砂崩れ、岩盤崩落、いえいえ経済の落ち込みかもしれず、なんだか少しもよくわからない、あいまいな怖さでした。
 翌日の新聞を読んでいたら、歌手のさだまさしさんが偶然にも夢の話を書いていて、「日本人は夢が当たると良いこととして考え、悪い夢を見ると逆夢(さかゆめ)と言ってその反対に良いことが起こると考える」と言っていました。つまり、日本人は何事もよく考えてしまう習性があるということです。なんだかなぁ?!という話でした。
 でもねえ、「崩落」・・・これはいったい何なのだろう。逆夢にしたいとは思いますが、いまでも気になっています。それにしても今年は国の形が変わるかもしれない重要な年です。嘘で固める政治に見合った「みザル、言わザル、聞かザル」の国民になっていきませんように・・・・気を引き締めて見たり、言ったり、聞いたりしたいと思います。(ニュース1月号 一部閲覧)

良い年にできるか・・・

 就学児の方々からも楽しい年賀状をたくさんありがとうございました。年の初めに、皆さんから寄せられる年賀状を見るときに、数年前の年賀状ファイルを開きながらいつも見比べてみます。まったく子どもたちの成長は速いですね。
 「この子は小さいときと顔が変わらないのにずいぶん背が伸びたなぁ!」と思ったり、「まったく大人っぽい顔つきになってしまった!」と思ったり・・・年齢、年齢で変化が大きいことがわかります。それでも数が多いので、ファイルにある名と壁に貼った写真を見比べるのは大変。でも、こういう作業はゆめやの年頭の楽しい風物詩でもあります。
 そして、ときおり、子どもたちの笑顔を見ながら思います。「こういう子どもたちの未来を大人が壊してはいけないな!」と・・・。この笑顔が消えたら、この国も危険にさらされているということです。しかし、大人は

情報はあてにならない・・・?

 世の中は、とんでもなく変わりつつあります。同じひとつの事柄(オリンピック、リニア新幹線・・・それに安保法案)でも良くなっていくように見える人もいれば悪くなっていくように見える人もいるでしょう。人の価値観は、その成育過程でつくられますが、どうも日本人の価値観の鈍感さは、どういう成育過程から生まれたのでしょう。目先の利益だけで右往左往する、なかなか事の本質をみようとしない・・・・予測ができない・・・・。
 それぞれ自分の頭で考えて判断するわけですが、2016年をどう見るか。今年が、子どもとって良い現在になるのか悪い未来の始まりか、それは親や大人個人個人の考えで違うことでしょう。でも、そういう判断や予測は新聞やテレビの報道や関連の本を材料にしていかないとなかなできないものです。ところが、嘘っぽいものもあれば突っ込まずに避けて通っている薄っぺらい報道もあり、判定がむずかしいです。最近のNHK・TVのニュースはハッキリと政権寄りで、「こりゃあかなり息がかかっているな!」と思いますが、そう見ているのは私であって、「NHKは正しい!」と思う人もたくさんいるでしょう。しかし、私には、どうもNHKが独自の意見で解説したり、分析して報道しているようには見えないのです。
 また、最近、政権に厳しい意見を言うテレビのキャスターが次々に降板して(させられて)います。これでは、報道が大政翼賛になってしまって、国民はだんだん真実が見えなくなっていきます。
 それでは新聞の方はどうか、と、いくつか読んでみました。もちろん、多様な意見が述べられていますが、公平なフリをしながら発表されたことをそのまま載せているものも多く、なかなかきちんと世の中を見ている感じのものがないのです。そんな中で元日の山梨日日新聞に社長の野口英一さんが論説「霧の先へ 足元から光を」という文を書いていました。これがなかなかの独自の意見をおっしゃっていて目を引きました。

先を見通す考え

 この論説は、干支の「丙申」の例を引き、「変革の年」だと書き始めています。「過去の申年もかなり重要なことが起きた」とありました。そして、安倍一強の強引な決定手法が民主主義の危機を招き、好ましくないことだ、と続けます。「政治は国民のもの」という精神を「ないがしろ」にせずに政権運営をしてほしい、と注文をつけています。またリニア、中部横断道、富士山の環境保全は行政の役割だ、とも述べておられました。
 さらに注目すべきは、1956年の「丙申」の年に首相になった石橋湛山さんの「小日本主義」に触れている点です。これについては年末のゆめやの「おはなし会」の対論で山梨平和ミュージアムの春日正伸教授と話した内容なので後日紹介したいと思いますが、石橋湛山は一貫して外に出ていかない小国主義を取り、平和国家、日本の在り方を追求した人です。野口社長は「今こそ、小さくとも平和の火を掲げてきた日本の役割を、時代を越えて光を放つ湛山精神で見つめなおすときではないでしょうか。」と主張します。
 さらに、その1956年は山梨の作家・深沢七郎が「楢山節考(姨捨山の話)」を発表した年ですが、現代の高齢化・老齢化社会や家族の在り方を予言したものでした。「親を捨てるか、子を捨てられるか」がテーマの物語ですが、まさに現代的な問題です。いまや、そんな事件がいっぱいですよね。国が目先の利益ばかり追い求めて先を見通すことをしないからでしょう。これは一軒の家、ひとつの家庭も同じですね。野口社長は、「一人一人が自らの問題として知恵を絞る必要がある」,/font>と言います。その通りだと思います。そして「新聞報道は、民主主義や文化を守る責務の大きさを肝に銘じて、読者の信頼と期待に応えたい」と結んでいます。
 山梨日日新聞は、小さな県の地方新聞ですが、この政権圧力の大きいときでもけっこう物申しています。

反省するならサルでもできる?

 基本的な読書ができなくて自分の考えができていない国ではメディアの影響力は大きいものがあります。お笑いバラエティばかり見ていれば、頭がモンキー(いやいや、それではサルに失礼、ヤンキーの間違いでした)になってしまうのはしかたがありませんし、スポーツや芸能ばかり見ていれば考える力は失われます。「すぐれた本を読んで考えをまとめろ」とまでは言いませんが、少なくとも新聞くらいは読んで無関心から関心を芽生えさせるくらいのことはしたいものです。新聞は「考えて書かれた文章」ですから、読めばそれなりに考える練習になります。新聞にはまだ力があると思われます。
 じつは、暗躍する力が利用するのはスポーツと芸能です。何かを隠したいときに、メディアに大々的にスポーツや芸能の報道を流して目くらましをするのです。そういえば、ある芸能グループの解散の問題が国会で言及されましたが、これも臭いですね。たかだか芸能人のグループの解散という「芸能ネタが新聞の中にもスポンサーや政権におもねって真実を隠したり、捻じ曲げたりしているものもありますが、ことは、子どもたちの未来にかかわることです。大人は真実を読み取らねばなりません。平気で嘘を言い、言ったことの責任を取らない人間を野放しにしていたら、いずれ不幸になるのはわれわれであり、子どもたちですから・・・・。起きてから反省するならサルでもできますし・・・・。

正念場(ここぞという大切な場面)

 文章でできた新聞の力はまだ残っています。前回の安倍一強政治をつくった一昨年の衆議院選挙で、山梨では自民党公認が三区で三人立ったのですが全滅でした。これは、沖縄県と山梨県だけの現象です。安倍政治に物申してきた山梨日日新聞の力がひじょうに大きかったと思います。投票率は50%弱でした。しかし、投票に行った老人たちは多く地方新聞を読んでいる人たちで、若者は新聞を読まず選挙にもいきませんでしたからね。痩せても枯れても新聞を読んでいた老人力の成果だったのです。
 「2016年が分岐点だった!」「あそこでおかしな方向に行かなければ・・・!」と後で思っても後悔は先に立たないものです。念頭に当たってたかが小さな絵本屋が言うことでもありませんが、怒涛の如く世の中が崩れていくのは見たくないのです。本は何のために読むのか・・・この命題が迫ってきています。壁面の年賀状からあふれるみなさんのご家庭の明るい様子、子どもたちの笑顔・・・これが安保法案や武器輸出政治で曇っていくのは何とかしなければなりません。お金儲けをしたい人は勝ち馬に乗りたくて、政権支援かもしれませんが、あと少しでその結果も出てきます。そのお金・・・経済もいよいよほころびが見えてきています。
 さて、丙申の年・・・大変革の年ですが、世の中が崩れ落ちていかないように小さな力でも努力したいものです。でも、漫画とアニメとゲーム、さらには消費欲を煽られ、大切なものを失い始めてオツムテンテンになってしまった日本人・・・どう考えて、どう取り組むのか・・・今年は、「日本人全体が考えなければならない」正念場になると思います。(新聞1月号一部閲覧)



(2016年1月号ニュース・新聞本文一部閲覧)