ブッククラブニュース
平成27年8月号(発達年齢ブッククラブ)

残暑お見舞い申し上げます

 甲府は相変わらずの暑さで、いつもと同じようですが、ニュースを見ているとサメが出たり、クラゲが出たり、やはり異常気象なのでしょう。子どものころ、この甲府でさえ35度を越える暑さはなかったように思います。考えて見れば、周辺にはたくさんの水田があり、この水が気温を下げていたように思います。海も原発の排水などがなかったので水温が低かったのでしょう。
 まあ、これも便利さと消費生活との引き換えでしょうね。いずれ、それもどこかで限界が来て、至るところで破綻が起こると思いますが、そうならないと自然環境は元に戻っていかないかもしれません。
 中國もいよいよ元の切り下げ・・・輸出で儲けたいということは内需が危なくなってきているのかもしれません。昔はアメリカが咳をすると日本が風邪を引くと言われましたが、今は中國が咳をすると日本は肺炎を起こすのかもしれません。欲の掻き過ぎどこで限界となるか、子どもの未来がひどいことにならないように祈るほかはありません。

アメリカひじき

 それにしても、この暑さ甲府だけではないでしょうからたまりませんね。このニュースを書くのも億劫(おっくう)になります。甲府は夜も暑いので夜間にニュースを書く私は汗ダクダクです。絵を描く集中力もないのでけっきょく雑になります。もともと雑だからわからない?! 扇風機に当たりながら、冷えた紅茶ばかり飲むのでお腹はガボガボ、全部汗で消えます。
 でも、飲むもの、食べるものがある時代は暑さくらい我慢ができます。食べ物がない時代はどうだったんでしょう。
 野坂昭如さんの本に「アメリカひじき」という小説があります。「火垂るの墓」に所収されている話なので読んだことがあるでしょう。70年前の夏、日本に米軍がドラム缶に入った食料を落とすのです。それに飢えた日本人が群がります。いろいろな食べ物の中に袋に入った「ヒジキ」があって、鍋にいれて炊くのですが、苦い汁ばかりが出てまずいのです。みんな「アメリカのヒジキはまずいなぁ」などと言っているのですが、これがじつは「紅茶」。たしかにヒジキに似てますが、知らないということは自分の習慣でしかとらえられないという例の笑い話です。さらに「火垂るの墓」を読むと、飢餓というものがどのくらい酷いことかもわかってきます。
 数年前に日向寺太郎監督の映画「火垂るの墓」を観ましたが、CGを使わない地味な映像から伝わってくる大きなものがありました。監督は戦後生まれ。空襲シーンもほとんどなく淡々と描かれていますが、たった数年で世の中がひどいことになっていくのが分かる映画でした。
 出征兵士を送る行列とすれ違う兄妹のシーンがありますが、観客が子どもなら何の行列かもわからないでしょう。天皇の写真を火事で焼いて、一家心中する校長のこともとくに説明がありません。初めから「戦争はいけないんだ!」ではなく、その時代を観客が考える映像になっています。原作者の野坂さんも「小説では伝えきれないもの伝えている」と言っていました。
 その野坂さんが8月14日に新聞に「再び破滅に進むのか!」と題して寄稿しています。さすがの意見で頭が下がりました。残しておくためにも全文引用しておきます。

「再び破滅へ進むのか」野坂昭如

 かつて日本は戦争に負けた。この事実を知らず、日本が戦争に負けたことすら知らない若者もいる。敗戦からしばらくして、戦後と呼ばれるようになって、戦争反対、平和が大事というスローガンが、あらゆる音頭取りの中心に使われていた。だがそのほんの少し前、戦中の世の中では、一億一心、皇軍必勝が何かにつけて枕言葉となっていた。
 戦中にしろ、戦後にしろ、ほとんどの日本人が当たり前に思っていた。つまり、人間とは変りやすく、また忘れやすい生きものなのだ。
 当然忘れることも大事である。前に進むには、暗い過去にとらわれてぱかりいてはいけない。それにしても今の日本。今日あるが如く明日もあると思い込み、すべて人任せ、一方で自ら戦争を迎え入れようとしている。
 戦後70年だという。70年に意味はない。少なくとも、ぽくにとって区切りでも何でもない。毎年この季節になると、日本人は突然、かつての戦争について何かと喋りだす。その数日、反戦の気持ちを新たにすれば、それでこと足れりとでも思うのかもしれない。
 かつて日本人は、大日本帝国の管理のもと、戦争に突き進んだ。戦後は占領軍にいいように扱われ、制度としての民主主義、平等、平和、自由の理念がアメリカによって下しおかれた。日本人はこれを受け入れ、豊かさに邁進。
 一戦争について立ち止まり、振り返ることのないまま、70年を経た。気がつけぱ、かつて 大日本帝国が急速に軍国化の一途をたどった時と同じ、世間がぼんやりしているうち、安保法案が衆院を通過、国民に説明不足といいながら、破滅への道を突っ走っている。
 ぼくは、今の憲法が全て良いとは思わない。だが変えるのは反対である。今のままで良い。戦前の大日本帝国憲法がいかに窮屈だったか。安全保障の枠組みを変えてはいけない。
 昭和20年8月15日、日本は 戦争に負けた。14歳のぼくが感じた敗北感。敗北感だけじゃない、家も家族もすべて失った。もともと勝てるわけなどなかったのだ。圧倒的な軍事力の差。文明もまた、日本とケタ違いだった。戦後日本は謝り続けた。勝った国に、侵略した国に、世界中に。
 自己主張はできない、許されない、これが今も続く。
 しかし負けたからこそ頑張れた、とも言える。「不戦の誓い」をもつ国だからこそ、豊かになった。憲法9条を変えてはいけない。憲法9条は日本を守る。
 日本が戦争に巻き込まれたら兵士として殺されることも覚悟しなければならない。そしてそれは、若者や子供たちである。徴兵制度に近いものが再び実施され、世間の暮らしは途端に窮屈なものになるだろう。戦争になったら、食べものも入ってこない。食べものを外国頼みにしてしまった日本。飢えて死ぬのは弱い立場の人間たちから。
 言っておく。国は国民の生命、財産について保障などしない。国が守るのは、国家、国体である。かつて愚鈍なり―ダーの下、大日本帝国は崩壊していった。戦後70年、今 再び日本は破滅に向かって突き進んでいる。安保法制は、戦争に近づく。血を流すことになる。世間はそれを承知なのか。(2015年8月14日 山梨日日新聞)

 世間は約48%承知しています。しかし、背後にアメリカがいるので政権はかなり強引なやり方で戦争法案を通すでしょう。黙っていても60日ルールで法案は通過すると高をくくっているのです。「野党の抵抗などたいしたことはない。国民など抵抗どころか、ろくに声も上げないだろう。手始めに、多くの反対意見がある原発再稼働をやってみようじゃないか。ほら、再稼働出来た! ならば戦争法案も同じだ。黙っていても法案は成立する。これから戦死する自衛官は靖国神社も合祀しないと言っているんだから、これはこれで先の大戦とはちがうのだ。」と現実は進んでいきます。つまり原発も戦争も誰かが儲かるからやるわけです。ばかを見るのは国民です。これは野坂さんが言う通り、国は古来、一、二の規模の小さな戦いの例を除いて国民を守ったためしがありません。

誰も責任は取らない

 私は大学生の頃に「アメリカひじき」を読んだのですが、相手のこともろくに知らないで戦争を開始した日本のバカさ加減は笑えましたし、「火垂るの墓」では節子の骨がドロップの缶の中で音を立てるところで泣きました。
 空襲や飢餓で死んだ300万人もの命に対して誰も責任を取らず、敗戦直後でも葉巻をふかし、ステーキや目玉焼きを食べていた人たちもいたのです。同じ敗戦国のドイツは戦争の負の遺産を残して反省材料にしているのに、日本の政府は都合の悪いものは隠す、忘れさせる、取り上げない・・・しかも教科書では歴史を捻じ曲げる、あったことをなかったことにする・・・どこかに悪い人がいるんですね、今も。
 戦後生まれの政治家がまたいつか来た道を歩き始めています。懲りませんね。たった数年でとんでもない状態になっていくのが誰も想像できませんから、いまが良ければいいというわけでしょうか。日本人は、怖いことは想像したくない。見たくないそうで、ヒロシマの語り部も話す場がなくなっているそうです。学校の校長が「悲惨なこと、残酷なことは子どもに語るのはまずい」と言っていますから、学校でも語り継げないのでしょう。
 こうしてみんな過去を忘れ、ゲームや漫画で育った子が「殺してみたい」「誰でもよかった」と事件を起こします。赤ん坊のころからサブカルチャーに触れていれば何もかもバーチャルで、責任も取らずリセットということでしょうか。これからの子育て・・・これもむずかしくなっています。
 でも一方で、この夏、ひじょうにかわいそうな話もありました。鹿除けの電線で川遊びの人を感電死させてしまった人が責任を感じて自殺しました・・・いまどき貴重な責任感の持ち主です。そういう立派な感覚を戦争法案を作った人にも持ってもらいたいですね。戦争に駆り出して、犠牲者が出てもそんなことは知りませんとうそぶく人では困ります。もっとも責任感の強い人なら初めから戦争法案などつくらないか!たかが、小さな子どもの本屋がこういう社会問題を取り上げたところで微力も微力、屁のツッパリにもなりませんが、一人でも二人でも共感者がいれば、子どもの未来を考える原点にはなるのです。
 明治維新以来の長州政権の責任を取らないで強引なことをする政治手法について、あるいは教科書での事実の捻じ曲げについて、多くの人がよくわからずごまかされています。そこで、どうせ微力ならといま、現代の異常な社会とその原因である長州政権の本質について連続的に講座を組んでお母さん方と話し合いを続けています。来年(2016年)の二月まで連続講座があります。ご希望の方はご参加ください。(ニュース8月号一部閲覧)

天動説の絵本

 現代では、ほとんどの人々が太陽は地球の周りを回っているのではなく、「地球が太陽の周りを回っている」ことを知っている。しかし、見た目には太陽は東から昇り、西に沈む。今日など猛烈な日差しを庭に落としながら、けっこう速く東から西に移動している。小さい子どもに聞けば「お日さまがあっちからこっちに動いているよ」と言うだろう。子ども向け天文講座の説明でも「東の空から太陽が昇り・・・」となる。大人向けでもそうかもしれない。今でさえ、感覚は太陽が動き、大地は動かないのだから、昔は誰も太陽の周りを地球が回るなんて思わなかっただろう。
 ご承知の通り、中世のヨーロッパ人は太陽が地球の周りを回っていると信じていた。ローマ教皇は異論に対しては「教皇が間違ったことを言うわけがない」と主張し、「天が動くというのが、りくつに合っている。こう考えるのが安全だ。」と言った。そこにコペルニクスが現われ、地動説を唱えた。教会も国々も「コペルニクスは異常だ!」と彼の考えを「異端」としたが、ガリレオもコペルニクスと同じ地動説を唱えたため捕えられて裁判にかけられた。この宗教裁判でもガリレオは説を曲げずに、「それでも地球は動く」という名言を残しているが、真実を述べると罪人にされるのである。これは日本でも同じで建前を述べていればなんとかなる社会で、本音や真実を述べると囲い込まれてやっつけられることが起こる。

思い込みとほんとうのこと

 こういうふうに無知蒙昧(むちもうまい=おろかで物の道理がわからないこと)な人間が、権力を握ると怖い。「自分は総理大臣だから正しい」とか、「合憲で安全だと確信している」という主張は傲慢な教皇と同じレベルである。一人の人間の「確信」は「狂信」にもなりうる。確信の強さなど、その人間が信じている事柄の正しさとは無関係なのに、権力を持つバカが信じ込むと平気で押し通すから怖い。多くの人が中身を知らないから、もっともらしく聞こえるが、現実には「それでも地球は動いている」。
 このことを安野光雅さんは「天動説の絵本」という面白い本で表現した。ほとんどの人が地球の周りを太陽が回っていたと思っていた時代のことである。
 客観的な意見など無視して、自分の思う通りにしたいのが天動説信奉者である。そして多くの信奉者がその後ろにいるから始末が悪い。刷り込まれたものは常識となり、コペルニクス的な人やガリレオ的な人を囲い込んで自分の正しさを押し通そうとするから困る。見た目だけを信じて、真実を考えるということができなければ天動説論者に組するよりない。真実は、多くの人が持つ常識とは違うところに存在するからだ。
 前述の野坂昭如さんが寄稿した8月14日・・・70年の首相談話が発表された。いかにも官僚が作文した奥歯に物が挟まっているかのような「主語が明確でない」「自分の意見としてではなく過去形でしべて述べる」・・・あたりさわりなく相手が追及できないようにして、言葉を免罪符のように使い、「とにもかくにも戦争法案を通したい」という気持ちがみえみえのもので、心が感じられなかった。誰が侵略したのか、おわびは誰がしているのか、植民地支配はだれがやったのか・・・・主語がなければ雰囲気でわかるよりないが、これは逃げ道が用意された作文でもある。責任を取りたくない官僚らしい作文である。

天動説につくか地動説につくか・・・

 天が動くという説明してくれれば、それに対する反論も見えてきて、たとえ中世でも天動説は成り立たなかったことだろう。これは安保法案も同じだ。ことは言葉の問題なのである。議論が成り立たなければ、真理には近づけないのが論理というものである。政権が多くの民衆の意見を考慮しないように、実際はコペルニクスやガリレオの意見など聞く耳を持たなかったのが教会だった。それを聞いたり見たりしている民衆も、きちんとした考えを持てば強引に天動説で押し切られないが、多くは考えないからどんどん天動説論者の思う方向に流されていくのである。かんたんに言えば騙されているのである。
 安全を保障してくれるはずの友好国がこちらを内密に探っていたら信頼などできないのに、常識でしか考えない民衆にはこの真実もわからない。「天動説の絵本」は、思い込みが常識になってしまって困ったことになることを描いた本だが、こういうことは昔も今もあたりまえにあることだ。やはり、立ち止まって考えて見る必要があると思う。
 戦時中は、国民は「お国のため」という天動説だったが、戦後は「基本的人権」という地動説となった。また今でも「お国のため」という人が出てきたが、また天動説に戻そうというだろうか。ある議員が「安保法案反対の若者は利己的でお国のことを考えない」と自分も若いのに天動説を主張している。「それだけ言うなら、お前が真っ先に戦地に行けよ。」と地動説側としては言いたい。子どもの未来を心配する側は天動説という無知蒙昧な頭の連中は認められない。しかし、お国のことしか考えない側は人がどうなろうとお国が勝てばバンザイということらしい。さあ、どっちにつくかしっかり考えないと・・・。それとも考えるヒマがないほど我々は生活が忙しくなっているのかな。(8月号新聞一部閲覧)

学校でいちばん強い組

 暑いのでパロディをひとつ。
一年A組の学級委員長は小浜くんなのですが、学年をまとめるために自分のお小遣いをかなり使ってしまいました。それでも、まだ、この学校には、すぐ隣の組に暴力を振るいそうでワガママな紀武くんとか、最近、のさばってきた修欽平くんなどがいます。
 小浜くんはほとほと困っていました。学校から『脳減る安全賞』をもらっていましたから、学校の安全を守る義務があるのです。小浜くんは一人でも腕力が強くて、これまで多くの言うことを聞かない連中をねじふせてきました。でも、独り勝ちをしていると悪い噂も飛び交います。
そこで「なんとか味方になってくれる友達はいないか」と手下の網貞二くんに相談しました。ニックネームが「アーミテージ」という網くんは小浜くんが頼りにしている切れ者です。網くんは、こう言いました。

 「そんなの・・・かんたんですよ。J組の学級委員長に話に乗って来そうなお坊ちゃんがいるじゃないですか。世間知らずだから、うまくダマせば力になりますよ。それに前に完膚なきまでコテンパンにした奴ですから言うことは聞くでしょう。」「でも、あそこのクラスの目標は『けんかをしない』じゃなかった?」
 「そんなのだいじょうぶですよ。J組の生徒はみんな言葉でダマされるタイプですから、うまく言葉を使って、ダメなら解釈を変えたと言えばごまかせます。そのうちクラスの目標も改正させちまえばいいじゃないですか。」「うまく行く??」
 「例えば『けんかはしない』は『積極的おともだち主義』とか、『小浜さんへの協力』は『グループ的いじめ権』とか・・・」
 「そうだね。教室のゴミを処理できないでまとめておくのは『除染』と言っていたクラスだよね。あのクラスは言葉でダマせるんだ。」
 「そうですよ。クラスの会計もきちんとできていなかったのですが、ちゃんと黒字になってました。粉飾決算ですけどね。『不適切会計』といえば罰せられることはありませんから。G組の会計はすごい赤字でD組に助けてもらっていますが、J組はG組以上の赤字なんです。誰も責任を取らないので、なるようにしかなりません。お坊ちゃん委員長は無駄遣いなんて平気です。」

 「よし、あいつに協力するように約束させよう。ぼくのお小遣いの肩代わりをしてもらうことにする。とにかく他のクラスに抑えの友達を置いておくだけでもかなりお金がかかるんだよ。向こうが粋がって学校の平和に貢献したいというのだからかまわない。どんどんお金を出してもらおうじゃないか。」
 「大丈夫ですよ。J組が学級崩壊してもA組までやられることはないでしょう。フレンドシップ協定で縛ってしまえば言うとおりになりますよ。このアーミテージにおまかせください。」
 「ならず者の紀武くんはどうする?」「まあ、J組の委員長には何もできないだろう。最悪の場合は、お金で解決すればいいというわけですね。それより修欽平のほうが何をやらかすか。まさかケンカはしかけてこないでしょうが、お小遣いの額を少なくさせる切り下げをやらかすかもしれませんよ。周辺から叩かれていて、かなり金回りが悪くなっているようですからね。」「そうなると僕のお小遣いにも影響が出るね。なんとかJ組の委員長は夏の終わりまでに協力する約束にこぎつけると言っていたから期待するよりないね。」「学校で一番強い組になるためには、J組なんか踏み台ですよ。学校の安定のためにはクラスひとつやふたつ亡くなってもかまいませんからね。(新聞8月号一部閲覧)



(2015年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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