ブッククラブニュース
平成27年7月号(発達年齢ブッククラブ)

暑中お見舞い申し上げます

 甲府は長い梅雨で、湿度がとても高いのですが、例年ほどの蒸し暑さにならず夜などは寒いくらいです。でも、このニュースを会員の皆さんが読むころには気温はウナギ登り、いやいや、それどころか、昇り竜のように上がりに上がって40度オーバーになるかもしれません。まずは先に暑中お見舞い申し上げます。
 とにかく、甲府の夏は暑い! なのにゆめやは零細店なので夏休みも取れず、避暑などということもできず、ひたすら暑さをガマンしているよりありません。涼しそうな風景を見て、ゆったりとした時間を過ごしたいものですが・・・。台風が数珠つなぎで3つも押し寄せる。箱根も浅間山も蔵王も活発化。西ノ島は噴火が続き、桜島も大噴火。御嶽山は静まったものの日本列島は地面の上も下も何となく危うい感じがしています。自然が狂えば人間も狂う。政権も節操なくおかしなことを推し進めています。そして、学校も園も唯々諾々と受け入れる・・・こりゃあ、先行き、とんでもないことになりそうです。夏休み・・・楽しく過ごしたいですが・・・戦争法案もゴリ押しでしょうね。
 さて、みなさんの夏休みの計画はどうなっているでしょうか。赤ちゃんがいるとそうそう遠くへは動けませんね。車で長距離を移動される方もいると思いますが、どうか事故には気をつけてください。
 とにかく時間に追われる現代です。無理をしないでゆっくりゆったり行きたいものです。

時間の切り売り

 国際競争力で勝つために女性労働力まで欲しい政権、「子どもの面倒は見るからお母さんは働いてください。」ということでしょう。まあ、お母さんのほうも子どもの世話より外で働いたほうが楽という方も多いでしょう。長時間保育、乳幼児保育・・・いまやあたりまえになっています。こども園も本格スタート。その影響でしょうか。ウイークディに来店されるお客様が減っています。ゆめやでは土曜日集中という感じで会員の皆さんの受け取り日も偏るようになりました。こんなことで地方創生ができるのでしょうかね。
 遠方の会員からのお便りでも、「なかなか毎日読み聞かせができない」というグチや嘆きも聞こえてきます。
 仕事を始めたお母さん方が増えてきたのでしょうね。0歳児保育もあたりまえになりつつあります。また長時間保育も、なかには朝から夜7時まで・・・小さい子を長時間預けたら夕ご飯食べさせて、お風呂に入れて、寝かすだけになります。親と子の接点である家庭も失われつつあるようです。
 この間、おもしろい話を聞きました。こども園では親の都合によって保育時間の延長をお願いできるわけですが、この時間延長には当然、そのぶんの料金を払わねばなりません。いちいち事務処理するのが面倒ということで、時間延長する場合は「券売機」で延長券を買うというものです。まさに時間の切り売りです。子どもの保育を券売機でする・・・私にはこれ自体が子育ての冒涜のような気がしますが、おそらく合理化、合理化で、このようなことは、いずれあたりまえになっていくでしょう。それにしても、こういう傾向は子どもの成長に影響を及ぼさないのでしょうか。

子どものため?親のため?

 たしかに親は働かねばなりません。車は新車種が出れば買わねばならない。マンションの家賃も払わねばならない。家を建てればローンもある。スマホの通話料も・・・となってくれば朝から晩まで働いてもしかたありません。働くには、どこかに勤めるわけですから、その間は子どもを預けなければなりません。昔のように自営業や農業なら働きながら子育てもできましたが、外働きではそうはいきません。こんなことを言うと、ジェンダーフリーのおばさんに叱られそうですが、ただ、こういう低年齢から子どもを預けっぱなしになっていく受け皿の「こども園」化が、当の子どもにとって「ためになるのか」「ならないのか」結果がでないとわかりませんが・・・私の個人的な予想では、あまり良い方には行かないような気がします。
 幼稚園の中には生き残りのために「こども園」にするところもあれば、これでは幼児教育はできないとあきらめて廃園にするところも出てきています。幼児教育に賭けている志の固い人なら当然、そういう決定になるでしょう。
 しかし、新しい車やマンション、家の新築、快適な生活道具を鼻先にぶら下げられて、そのためにコマネズミのように働かねばならなくなっている人々や女性・・・その労働力が何を支えるのか・・・こども園は、その付託に応えられるのか・・・その結果はみんなに幸福をもたらすのかどうか、先のことは良そうもできませんが、もし労働が女性の権利であって、決して国の思惑に沿ったものではないというなら、ジェンダーフリーのおばさんに答えを教えてもらいたい気はしています。
 乳幼児期の「自己肯定感」や「家族に属しているという意識」がつくられるときに、それでいいのかどうか。

親に考えてほしいこと

 私は自分の娘たちが出た幼稚園の保護者たちが出している園報のようなチラシに長年絵本の紹介コーナーを持たせていただいています。どのくらい書いたでしょうか。かなりの数になります。こんな時代だからこそ、なるべくすぐれた本を子どもに読んでもあげたい、読んでもらいたい・・・と思うからです。左のようなコンパクトな説明でお勧めする本を紹介しているのですが、その最新号にゆめやのことを引いて書かれた園長の「親に考えてほしいこと」という題の意見が述べられていました。
 この幼稚園では園児募集を止め、あと一、二年で閉園にするらしいのです。きっと「こども園」にすれば、思うような幼児教育ができなくなると考えているからでしょう。
 しかし、ここで書かれたご意見はひじょうに子育ての本質を突いたお考えですから、以下に全文引用しますので、会員のみなさんにも読んでいただきたいと思うのです。

幼児期から育てたい力

 私の知り合いに絵本屋さんがいる。その人が「2歳には2歳の絵本、3歳には3歳の絵本・・・年齢に適した絵本がある」と言っていた。そしてそのような配本をしている。もちろん、絵本は何歳になっても良いものであるが、その年齢に合うものは、その時が一番ということだろう。小学生時代には、そのときの感性に合うもの、青春時代には、その時の体験や心情に合うものとの出会いは一番感動や共感が得られて一生を左右することさえある。
 失恋をして、このうえない(実は、そうでもないのだが、そのときはそう思う)悲哀と、それでも捨てられない恋慕、または自己否定感などを感じている時に、当を得た本に巡り合い、「大人なった」などと思えたりする。逆に老境に入っている者が、いくら名作と言われても、青春小説を読むのは機を逸しているというものだろう。
 さて、話を戻そう。「その歳、その時にあったものを」ということは、その年齢に合った成長を促すという面がある。見方を変えると「その年齢でなければ感じ取れないものをその時に」ということでもある。また「その年齢でなければ育たないもの、また逆に育ちにくいものを、いま、この時に」とも考えられる。
 幼児教育(幼稚園だけでなく)最大の眼目はここに置くべきものなのだが・・・3歳には3歳でなければ育たないもの、あるいは逆に育ちにくいもの、もっと言うと、この時期に育てておかないと、将来重大な問題の原因になりかねないものもある。
 生まれてすぐの子、0歳ごろには「周囲を信じる力(心)の獲得が必要で、この時期にこれを逸すると後の成長に差しさわりが出る。「自分の非を認める力=周囲の人を信じられる力=自分を信じる力」と言えるだろう。いま、責任転嫁をする人や子どもが何と多いことか。「俺のせいじゃない。」「俺だけじゃない。」と。これは自信がなく、周囲に不信感を持っている表れだが、0歳のころの「周囲を信じる力(心)」の獲得が欠如していることが影響している。
 一事が万事、後からでも身につくこと、学べることより、今でなければ身につかないこと、学べないことに大人の慧眼(けいがん=物事の本質を見通す力)が欲しい。
 友人の設計士に聞いたのだが、「基礎や構造がしっかりしている家は、後からの相当なリフォームに耐える」とのことである。後からここを変えたい、ここに〇〇を取り付けたい・・・すべて基礎や構造しだいだ。
 人を育てるのは、ある意味むずかしい。だから、子どもを信じつつ、忍耐強く待てるような前出の大人の慧眼が切に欲しいのである。

戦い終わって日が暮れて

 個人的な話になりますが、私の娘たちはいまだに、この「幼稚園時代が一番楽しかった」と言います。九時に連れて行って、二時には先生が歩きで家まで連れてきてくれた園でした。給食なし、送迎バスなし、目玉教育なし・・・遊びが主体の、ここの園は子どもにとって一番記憶に残ったようです。
 上のご意見にあるような信念で幼児教育をされていた園に通わせていた私も誇りを持てますし、そういう幼稚園時代を娘たちが過ごせたことに深く感謝せざるをえません。何もかもが儲け仕事で、生き残りばかり考えているいま、残念ではありますが、理想が揺らぐ社会環境に抵抗する意味でも廃園はしかたがないと考えます。
 世の中では、この考えとはまったくちがった逆のことが始まっています。政権から末端の教育まで。さて、そんな国際競争や経済成長で社会の行く末が吉と出るか凶と出るか。物を得ることはそんなに大事なことなのか、親がもう一度考えなければならない時に差し掛かっています。競争、競争で日が暮れたあと、焼け野原だけが残った・・・ではシャレにもならないのですが。(ニュース7月号一部閲覧)

気をつけよう!暗い家庭と新幹線

 今年の甲府の夏は、例年に比べて夜間の気温が低く過ごしやすいです。  もっとも、これは梅雨が続く間だけで明ければ熱帯夜。気温は上昇して40度くらいになるかも。
 そうなると睡眠もじゅうぶんに取れなくて疲れがたまりますが、7月初旬の段階では睡眠がとれるのがうれしいです。我が家はクーラーは店しか入っていませんのでね。この時期の過ごしやすさは、エルニーニョのおかげといえるのかもしれません。
 さて、みなさん。この夏はどういう楽しみ方をしますか。海外旅行、それとも海か山。ご実家への旅?・・・ゆめやは、夏休みが取れませんので、暑い甲府の夏をひたすらガマンですが、一日くらいは暑さから逃げ出して近くの高原か湖くらいへは行きたいです。
 でも、最近、まったく不可解というか、わけのわからない事件が頻発しています。避暑や旅行では気を付けてくださいね。交通事故もですが、新幹線での焼身自殺、放火で家族惨殺、毎日毎日、わけのわからない事件が起こっています。なんで命をここまで軽く扱うのか。これもあまりにも忙しく働いて何も考えずに来たから、かんたんに心が崩れてしまうのでしょうか。新幹線の焼身自殺は71歳の老人が引き起こしたものですが、まさに人の迷惑顧みず、ですね。「七十歳にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰えず」という論語はもう死語です。この言葉は「従心=自分が行うすべての行動は道徳の規範から外れることはなくなっている」という人格が達成できた年齢を表したものですが、とんでもない! この71歳は、他人を巻き添えにしてかまわないという行為をしています。子どもが寝ている家に火を放った自衛官は40歳ですが、当然、論語では「不惑」の年齢。感情に惑わされなくなる年齢です。なのにカッ!となって放火する。こんな危ない人が毎日毎日出現しています。何が狂わせているのか。
 世の中のしくみが、そういう事件・事故を引き起こすようになっていると思いますが、もう少し、経済の成長とか競争とか騒いで物の獲得ばかりやっていると欲だけで世の中が動き、悲惨なことが出てきます。いま心の安定をはからないと、さらに大変なことになっていくことでしょう。これらの事件は、ただの前兆にすぎなかった!ではシャレにもなりません。

わすれられないおくりもの

 そんなこと思っていたら、大月市立図書館館長の絵本作家・仁科幸子さんに定期的に行われるブックトークのコメンテーターに誘われました。打ち合わせ会でお尋ねすると、「心の問題を取り上げたい」とのことで、選ばれた本はスーザン・バーレイの「わすれられないおくりもの」でした。深いテーマの本です。死期を悟ったアナグマがどういう気持ちで生きるか、彼が死んだあと何が残るか・・・ある意味、大きな生きるヒントを与えてくれる本ですが、なにぶん「死」が大きな部分を占めています。どのようにブックトークしていくか、考え込んでしまいました。
 ゆめやのブッククラブでは二十年くらい前に一度、六歳(小1)の配本に入れてみましたが、「子どもたちがあまり手にしない」という反応が多かったのです。、それで、外してしまった本でした。子どもの感受性が強いからでしょう。味わう前に拒否します。やはり、ある程度の年齢にならないと死の問題を考えることはできないのです。だから、コメンテーターなどでできるのか、と思いました。とても私の頭で考えられるようなかんたんなテーマではなかったからです。
 その打ち合わせが終わった帰途。大月駅で電車を待っているとアナウンスがホームに繰り返されました。「高円寺駅で人身事故が発生して電車が一時間近く遅れる」というのです。中央線の飛び込み自殺は年中です。「またか!」と思いました。
 ホームに立っていてもしかたがないので待合室に入ると帰宅途中の高校生が十人ばかり全員スマホを操り、無言で時間を過ごしていました。遠くの駅で飛び込み自殺をした人のことになど思いも行かない、まったく無関係の感じでした。私たちが高校生のときに、こんな事態になれば「飛び込んだのは若者か老人か」とか「どういう原因で飛び込んだのだろう」などとペチャクチャ話したはずですが、待合室の高校生たちは、お互いに何も話すこともなく一時間遅れでやってきた電車に無言で乗り込みました。
 私は、電車に揺られながら、思いが減少していく世の中であることを実感していました。いちばん感受性の高い時期に頭が「人間」から離れた他のものに奪われている若者たち・・・これはあぶない状態です。いやいや、いまやけっこうの大人、老人ですら「人の死」など何も考えず、お葬式に行っても儀礼が早く終わることばかりを考えているのではないでしょうか。
 ブックトークの「わすれられないおくりもの」・・・「やってみるか!」と思いました。

Alice’s Tea Book Talk

 当日は、仁科幸子館長の企画らしい「なごみ」のあるブックトーク会場になっていました。「アリスのティーブックトーク」と銘打っただけに、会場全員(60人くらいはいたでしょうか)に紅茶とクッキーが配られ、かなりリラックスした雰囲気の中で始まりました。
 司会は仁科館長、翻訳と意味の解説を都留文科大学の白須康子先生、幼児の反応や絵本とのかかわりを猿橋幼稚園園長の仁科美芳先生がコメント。
 ・・・男性は私ただ一人で、ソフトなムードの中では、ちょっと暗い話は分が悪かったのですが、「子どもは死や悲しみにひじょうに敏感で、こういう本をなかなか二度と読もうとはしない。それはそれで中身がわかったということなので、また読めばいい。」とハードボイルドにコメントしました。ブッククラブの配本にも入っている「おおはくちょうのそら」や「きつねのでんわボックス」なども例に挙げて、子どもの反応や親たちの感想も紹介しました。哀しい本、死が描かれた本は、親たちには評価が高く、人気があるのですが、子どもは直感的に意味を感じ取り、拒否することが多いのです。
 しかし、それが、なぜ、若者になるにつれ、感受性が薄れていくか、その原因には、安っぽいアニメや漫画、ライトノベル、ゲームなどの影響があるのではないか・・・と話しました。
 会場には、現実問題としてそういうケースを抱えている小学校の先生や親たちも来ていて、質問がいくつかやってきました。世の中一般では、その原因となるサブカルチャーが全盛なのです。そして、それがはびこるのは当然のように誰も異を唱えません。しかし、その陰でいじめ、ひきこもり、自殺、殺人などの事件が起こっているのです。おそらく大人たちが生命のことや死のことや生きることをきちんと伝えていないからなのでしょう。家庭ではテレビが成育過程の情報源として取って代わり、遊びでは漫画、ゲームです。これでは生きること、死ぬことの意味など考えることも思うこともなくなるでしょう。
 昔のことを言えば、古臭いと思われるかもしれませんが、昔は身近な人が死ぬと、その人を悼み、その人のやったこと、どういう人だったかを語りました。子どもはそれを聞いて、亡くなった人がどんな人だったか学んだものです。しかし、そういう時間が現代の家庭や子どもにあるとは思えません。s亡くなった人のことを語るということもほとんどなくなったようです。
 生老病死は避けられない人間の運命ですが、生を与えられたらどう生きるかを考えていくのも人間がしなければならないことでもあります。それによって生を無駄にしない生き方もできるわけです。こうした基本的なことの伝達は、やがて子どもが大きくなれば、世の中のいろいろな問題を考えていくことにつながっていきます。最近の若者が社会に無関心なのは、伝達(言葉や語りだけでなく、行為も)を大人がしなかったからではないでしょうか。

子どもの問題は大人の問題

 こういう問題は、いま述べたように、じつは大人側の責任であり、テレビの番組の劣化から始まって、学校でさえバーチャルな機器をどんどん使い、子どもは生身の体験が薄くなっているわけで、「死」だけでなく「生」もバーチャル感が強くなっているわけです。当然、こういう環境では心も幼児化したり、壊れたりします。  「わすれられないおくりもの」では、死んだアナグマは、生きている間にみんなに伝えたさまざまなものがあり、それが残された者の生活の中に生きて行く、という結末で終ります。それは、行うことを次世代に伝えていくという作業でもありました。
 ところが現代では、そういう生き方をする大人が少ないのです。善を示すよりは、はるかに悪を示す大人が多いのです。いや、それはマチガイ! 現実には善人のほうがはるかに多いのですが、マスメディアで流される情報のほとんどは「悪」といっても過言でないようなものばかりです。メディアの世界ではそんなものが毎日山のように流されます。子どもも大人もそれをみている日常生活で、どんどん悪に鈍感になっていきます。こんなことが残された者や後に続くものに伝わればまともな人間はますます少なくなるでしょう。と、言うより、テレビなどの情報ソースでは「悪」のほうがどんどん入ってきて、「善」の情報はまるで入らないのです。そうなれば、子どもたちは、そういう情報からだけ物事を学んでしまいます。これが、わけのわからない事件の連続になっているのだと思ったので、子どもの問題は大人が考えなければならない問題だとコメントを締めくくりました。

子どもたちに見せるもの

 夏休み・・・子どもには「どんな大人がいるかを見せる体験」をさせてみるのもおもしろいかもしれません。旅行に行けば、多様な人に出会います。その人たちは、そこで何らかの「行為」をしています。それを子どもと親が一緒に見て、おたがいに感じたことを言いあえば、これは人が行ったことをいい意味でも悪い意味でも学ぶことになるでしょう。
 並んでいる行列に横入りする人、行儀よくない大人、やさしく声をかけてくれる人・・・世間は良い人ばかりでもないし、悪い人ばかりでもないことを子どもに見せていくことは大切なことだと思います。
 猿橋幼稚園の仁科美芳先生が園児たちがサブカルチャーにあまり影響されないで楽しく遊ぶ子どもたちの話をしてくれました。世の中ゲームやアニメばかりがすべての子どもの世界に行きわたっているわけではないのです。良い環境で育つ子はそれだけで幸せです。
 白須先生はスーザン・バーレイの翻訳が結論部分で少しソフトになっていることを指摘してくれました。日本人向けに訳したのかもしれませんが、上記の人間の行為や人間の生き方が日本では曖昧にみえるのかもしれません。いずれにせよ、悲惨で残酷な事件が報道され続けてもまだまだ人間は捨てたものではないのです。安倍政権がどんどんこの国を悪くしていきますが、善人や真っ当な人の息の根を完全に止めることはできません。経済成長のためなら何でもやる・・・国民の大多数が疑問です。儲けるためにコストをどうにかするために原発再稼働・・・これも過半数の国民が反対です。安保法制・・・これもまた国民は反対数がはるかに多い。まだまだ、この国には善人がいるのです。それを子どもに教える・・・「わすれられないおくりもの」のアナグマが見せてくれた人生は、次の世代にかならず引き継がれていくと思います。(新聞8月号一部閲覧)



(2015年7月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

ページトップへ