ブッククラブニュース
平成27年4月号(発達年齢ブッククラブ)

読み聞かせ以後の子どもの環境

 読み聞かせが終わって、ある一定の時期になると、子どもは一人読みを始めます。以前から申し上げていますが、問題は文字が読めることと本が読めることは別物ということ。子どもが4歳くらいで字が読めはじめると、親は鬼の首でも取ったように「おかげで子どもが拾い読みを始めました」「一人で本を読む楽しさがわかったようです」などというお便りが来る・・・これは、じつはあまり喜ばしいことではない。文字を読むのは負担なことだから、どうしても子どもは年齢対応のものより、グレードの低いものに流れていく。4歳なら「からすのぱんやさん」とか「したきりすずめ」といった長い物語が読み聞かされるが、拾い読みでは、せいぜい2歳前後の本となる。これが、7歳くらいになるとグレードの低いものもともかく、漫画などに流れていきます。11歳くらいではライトノベルに流れる。これは好ましいことではありません。大人は子どもが本を読んでいると喜ぶかもしれませんが、それはちょっと違います。何を読んでいるか見定めが付くか付かないか・・・・。
 本の壁は大きく見ると4歳、7歳、11歳と三つの壁が立ちはだかるというわけです。4歳は戦隊ものやアニメ本に流れ、7歳は漫画やゲームに流れ、11歳はお勉強にはばまれて息抜きにライトノベルに行く。これでは高度な本へ進んでいくことができません。

字が読めればいいだけの話なのか

 不思議なことに、実行内容はともかくあれだけ読書推進をしていた小学校が終わって、中学に入ると部活と勉強が待っていて、先生も誰も本など薦めません。まずは勉強をさせて、部活に一生懸命にさせる・・・・。
 ということは、識字率をあげるだけのことで、そのために本が利用されていると取ることもできます。だいいち朝読書は十分間が多く、これでは本を読む時間とはとうてい言えません。本を開いて眺めて、落ち着けば授業に入りやすくなるということで始められたのでしょう。実際、学級崩壊が始まった時期に朝読書も始まっています。

入園の季節ですね

 今年の桜前線の北上は遅かったのですが、咲いたらすぐに甲府ではもう満開。緯度的に日本のほぼ中央部に位置する甲府は、毎年、桜の開花と入園の時期が一致するのですが、このところ桜前線は緯度よりも温度に支配されているようなので、みなさまのところはいかがでしょうか。
 以前は、お母さんに手を引かれて通る子どもたちに会うこともありましたが、最近はみんなマイカーなので、あまり見かけなくなって淋しい気がします。それより、なにより子どもの姿が街角から消えている時代です。
 時代がどんどん変わっていく‥‥・生活様式や考え方も変わっていき、当然、保育園や幼稚園も変わる。さまざまな要素が入り交じって多様化が進むでしょうが、まあ、入園の子どもたちは、その変わる社会への第一歩。なにはともあれ入園おめでとうございます。

変わる園、親、子どもたち

 期待と不安に満ちて幼稚園に入っていく季節‥‥‥‥そういう子どもたちの心をいろいろな面から支えてあげたいものです。このところ、小さいうちから自己抑制を教えられなかったり、社会性を身につけられなかった子どもが増え、園も質的にどんどん様変わりしているといわれています。知り合いの園の先生方のグチを聞いていると「忙しい」「親たちの要求が多すぎる」「子どものしつけがなってない」・・・などです。
 加えて0歳児保育、延長保育、ついには「子ども園」の出現。完全に、この世界もボーダーレスです。労働力がほしいだけの政権が子どものことなど真剣に考えるわけもいないのですが、社会のひずみが子どもの世界まで浸透してきているかと思うと残念でなりません。けっきょく大人は車、家、家電,通信機器に釣られて、ひたすら稼ぐばかりになり、家庭内滞在時間も減り、家族も変質してしまっているようです。でも、大きくなった子どもたちを見るにつけ、けっきょくのところすべては「家庭環境と育ちが子どもの未来を決定する」と確信するようになりました。
 たしかに見た目では幼稚園でもわがままな子や強引な子が他の弱い子を押しのける傾向、つまり「悪貨が良貨を駆逐する」傾向は強くなっています。読み問かせを受け、人の話に耳を傾けられるような子はそういう耳を持たない子の乱暴さに押しのけられてしまうかもしれません。戦隊ものごっこで弱い子を蹴飛ばす子でも、園によっては「元気活発で良い」などといっているところもある昨今です。
 さらに、それに加えて早期教育という時代遅れの教育を受けさせられている子たちもいっぱいます。「学校に上がってからの力は幼児期に身につけさせたい」という考えを「学校で習うことを幼児のうちに習わせる」と曲解している親が育てた子どもたちです。この子どもたちは、人とのかかわり方をうまく学習していませんから、さまざまな問題をはらんでいます。いじめなどもこういう見かけの落差を持つ子が生み出しているのかもしれません。

根のない木は倒れる

 幼児期は、木でいえば『根』の部分、学校教育は『幹』だと思うのですが、根を育てずに幹ばかり育てたあげく、一吹きの風で倒れてしまうような子どもが増えていることは事実です。学校の成績がけっこうよかった子が意外に頭が悪いという例もいくつも見てきました。実際、何人もそういう大人がいるのです。
 いま取り立てて「幼児期の重要性」を強調するつもりはありませんが、人生の『それぞれの時期に特有の発達』に対応した「やるべきこと」があり、それをやらないと発達がゆがみ、人間としてうまく形作られない、ということをいいたいだけなのです。
 これは、昔なら親の多くはあたりまえのこととしてやっていましたが、どうも能力開発教育が進むと洗脳されたり、影響されたりする人も多いようです。

ふつうに育てればいいのだ!

 乳児期にはそれなりの自然な発達があり、それは幼児期にも少年期にもある。大切なことは、ひとつ上の時期の育て方を引き下ろして優劣を競うのではなく、その時期にふさわしい育て方をすることだと私は考えています。生後6ヶ月の子どもに歩く訓練をさせる親は鬼ですし、二才の子に字や計算を教える親は妖怪でしょう。幼稚園児に数学を教える親は悪魔かもしれません。私はそういう親も見てきました。
 でも、ふつうは、おむつが濡れる、赤ちゃんは泣く、親は「ああ、よしよし」とあやしておむつを替えるでしょう。困ったことがあるとその困難を解決してくれる人がいることを教えるのが乳児期の親です。安心感を与えるのが幼児期の子育ての基本です。その信頼感をもとにして遊びや探険を通して自立心や「自分にはこの世界で生きていかれる」という自信を教えるのが、幼児期・少年期の子育てだと思います。
 そして、それはすべて周囲の大人の言語と態度で学習されていくのです。「ああ、よしよし」=「あったかいなあ〜」と感じる気持ち、「桜が咲く」=「うつくしいなあ〜」と思う感受性、「入園」=「緊張するなあ〜」という感覚・・・みんな言葉や態度によって心を伝えることができ、その心がまた人間に対して適切な言葉を作っていくのだと思います。心が言葉を生み、言葉が心をつくる・・・。
 「根こそぎ」幼児期を圧迫されて育った結果、自我が出る時になって自分を見失い、漂流している青少年が町中にはすでに激増しています。山梨でも「ひきこもり」が問題になっています。幹ばかりで根がない木は、倒れて当然なのです。私たちが育てる目標は「自立」なのですから、過保護や放任という発達のゆがみをつくることだけはやめましょうよ。
 大きくなったさまざまな少年少女の実例を見て「育ち」はすべてを決めていると実感しています。誤った可能性の追求は、子どもを幸福な人生が送れない人にしてしまいます。幼児期にふさわしい生活の確保、私たちをして鬼や妖怪や悪魔にしないことがまず大切ではないでしょうか。子どもたちが、園でどのような自分をつくっていくか、そのキーポイントは言うまでもなく「家庭」にあります。(ニュース4月号一部閲覧)

入学の季節ですね・・・

 ここのところ毎年、上野公園の桜を見る機会に恵まれています。去年は、もう散り始めで、お花見宴会は盛んに行われていました。しかし、今年は咲き始め。肌寒い三月末。それでも桜の下で、なごやかにものを食べる若者、くつろぐ家族、平和な風景が広がっていました。でも昨年同様、外国人が多く、とくに中国語が飛び交っていました。すれ違うたびに何語かわからない言葉が耳に飛び込んできます。でも、私が行ったのは外国人がいないところでした。一か所は国立博物館・・・これは東北の仏像を集めた展示「みちのくの仏像展」・・・震災を見つめていた仏たちです。なかには何と1200年前の貞観大地震も知っていた仏もいました。素朴な木肌の仏像に惹きこまれました。
 もう一つは正岡子規が生涯を閉じた「子規庵」・・・これが国立博物館の近くにあるのですが、場所がウロ覚えだったので、コンビニへ入ってガムを買い、場所を尋ねました。なにしろスマホどころかケータイも持たないので、誰かに聞くよりないのです。女性店員に尋ねると「ワタシ、キョウ、ハジメテツトメマシタ! スミマセン。ワカリマセン。」・・・名札を見ると「張○○」とあります。しかたがないのでレジの男性に「子規庵はどこにありますか。」と聞くと、「そちらの菓子の棚にあると思います。」と言うのです。『そのアンじゃねえよ!』と思いましたが、名札を見ると「金○○」・・・日本人の店員がまったくいないのです。グローバル化の速さは想像以上です。
 で、外に出て花屋の配達のお兄さんに尋ねて地図を描いてもらい、喫茶店に入ってレジのおばあちゃんに近道を教えてもらい、子規庵では数人の係員の女性と話しました。スマホを沈黙して観ているよりは、わずか十数分で9人の人と会話ができる・・・・都会の喧騒から離れた庵で子規のことを考える・・・なかなかおもしろい春の始まりでした。・・・「案内者もわれらも濡れて花の雨(子規)」・・・

言語は大事です!

 でも、こうしたグローバル化の日本になれば、やはり英語も韓国語も中国語、アラビア語も話せた方がいいと思います。小学校の教科に英語が取り入れられるのも悪いことではありません。しかし、思考の元になる、母国語が崩れていくのはいかがなものかと思いますが、それは個々の家庭の問題かもしれません。漫画とアニメドラマではきれいな日本語は身につかないと思いますが、まあ、それはしかたがない。この流れもまた止められません。
 いや、そればかりではなく、歴史教科書の大幅な書き換え。歴史の解釈替え。道徳・・・の押し付け。何となく戦前に戻っていく不気味さがありますが、学校は国旗掲揚、国歌斉唱も唯々諾々(いいだくだく)と受け入れて行くことでしょう。・・・小学校も中学校も大きく変化していくことは間違いなしですね。
 ほとんどの人が、そういう変化に気が付かず、関心もなく受け入れていく・・・アメリカのグローバル・スタンダードを引き受け、不思議なことに、国内ではその逆のまわりを敵視するような国粋教育。あからさまに右傾化が進んでいます。教科書をあれだけ都合が良いものに変えようとする裏には、どういう意志が働いているのでしょう。まあ、武器輸出は儲かります。原子炉輸出も儲かります。憲法を捻じ曲げても儲けることが優先なのでしょうか。
 お金を印刷してバラまいて国民から批判力を奪えば、これはもう政権の勝ち。逆らえば、強引に貴重なサンゴ礁でも埋め立ててきます。どのくらい国民がものを考えるか・・・教育は小学校一年から大事なのですが・・・・。マスメディアや「物の豊かさ」やITなどで、目をくらませておいて、次々に流行を生み出し、流行のものを使わない者は遅れているというような意識を蔓延させる。そうすれば批判する力など湧いてはきません。

映像と音声だけでは思考力も

 依存症にかかってしまった子どもを廃人にするには好奇心を奪うことです。物ごとに好奇心を失った子どもは自分というものを形づくることができなくて、社会を浮遊することだけの生き方をしてしまう可能性が大きくなります。こういう子どもにしたくはないのですが・・・・コスプレやゲームオタクの若者を見ていると心が暗くなります。
 「自分探し」などということが教育の目標になっているような現在、どこに自分を探し当てた人間が生まれるのでしょうか。自分などというものは、世の中と悪戦苦闘した結果、うっすらと自覚できるものでしかないのに・・・・。
 教科書の改定で、不確定なもの確定とする「領土問題」、あったことをなかったことにする「戦争の実態」……それどころかお勉強に関心を持つように漫画のカットが多用されるとか‥‥‥。親は危機感を強めて低学年から塾に通わせるでしょうし、下層階級の親はそんなことには無関心。子どもは好奇心を育てるどころか、分析力も批判力もない無意識人間になっていく可能性が大きいです。(もうなってるか!高校生や大学生を見るとそう思います)
 実際、いま、ちゃんと読書をしようと思っている子どもは、「無意識人間の仲間たち」の囲い込みに遭っています。 TVゲームを持っていなければ仲間はずれ、何とかカードを持っていなければ遊んでもらえない。LINEの仲間にならなければイジメ、つまり、低レベルが標準となりつつあるのです。子どもは0歳から遊び続けますが、この遊びはやがて大人になって仕事をするときに自発的に考える力と何かを生み出す技術をつけるのです。ところが現代では大人になってもくだらない遊びをしつづける人が多くなっています。親自身がゲームやテーマパークなどの与えられた遊びしか経験してこなかったからだと言えるのかもしれません。子どもをダメにするものに鈍感な親が増えた結果、最近の動機すらわけのわからない悲惨な事件も起こるのではないでしょうか。

トムソーヤの冒険

 こんなことを話していたら、私の雑談相手の方が、「トムソーヤの冒険にこういうことが書いてある」と教えてくれました。「・・・『仕事』とは、人がぜひともしなければらないことであり、『遊び』とは、ぜひしなくてもよいことであると、トムはよく理解した。」これが、子どものころからよく遊び、いたずらをしてきたトムソーヤが発見した人生の一大原則だった、というわけです。遊ばないと仕事を創れないのです。
 ところが、現在では、こういうことが大人の世界でも子どもの世界でもよくわかっていないようです。早くからお勉強やお稽古をさせれば優秀な人間になれるという思い込みで育てる人も多いのです。そんなことをしても優秀になる子どもは一握りにすぎません。一流大学を出て、成績はよかったかもしれないけれど、平気で悪いことをする・・・そんな人たちが毎日のようにテレビカメラの前で頭を下げて謝っています。

無駄な抵抗かもしれないけれど

 低レベルのサブカルものを拒否してきた親のなかにも、子どもが学校に入ると、悩みながらも子どもたちの標準へ合わせなければならない状況に陥る人がたくさんいます。イジメを怖れるからです。もうかなり前から、これに対して学校は何もいいません。
「学校は成長に悪影響を与える場になりつつあります。」というのが言い過ぎであれば、SNSに対しても子どもの心をゆがめるサブカルにしても何も発言をしていないのが学校といえるでしょう。親は、学校も当てにはならいことを知っておくべきです。
このおめでたい入学の時期に「何を言うか!と思われる方もいるかもしれません。しかし、私だって十何年か前には入学にはお祝いの言葉を言っていたのです。しかし、いま、そんなことを言えば学習雑誌の四月号のような夢や希望という嘘を言うことになります。もちろん脅しているわけではありません。「心して学校生活へ突入してもらいたい」と思っているのです。園のときより家庭が子どもに係わる時間は減ります。こういう中で、防げないものが子どものなかに侵入してくることを知っていてほしいのです。
すぐれた本の中には、この状況を打開して安心して暮らせる術のようなものが書かれていますが、まだまだそういう本の影響が世の中には現われません。本当のことが書かれない教科書が子どものうちから刷り込まれるからです。
いまや教科書に頼らないで教養を身に着ける必要が出てきた時代です。家庭で「志を持つこと」や「世界や歴史を知る姿勢」を教えたいものです。そこで上の新聞記事で取り上げてもらったように、お母さん方を対象に、「なぜ本を読まねばならないか?」というテーマで講座を始めました。一回目には教科書が答えを押し付けてくる問題や疑問が挟めない学校生活が、どこからどのように始まったかを話しました。隔月行って一年間ですが、いまのところ盛況です。内容はかなりむずかしい話が多いのですが、お母さん方の熱心さには驚きます。親が変わらねば子どもは変れません。親が本を読まねば子どもも読みません。(新聞4月号一部閲覧)



(2015年4月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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