ブッククラブニュース
平成27年3月号(発達年齢ブッククラブ)

忘れたいのか忘れたのか

 私は記憶力が良い方ではありませんが、どうしても、あの3・11の地震や津波、原発の事故、計画停電を忘れることができません。しかし、いま、なんだかみんな忘れてドーッとオリンピック気分、プチバブル気分になっています。あのとき、何かに憑(と)りつかれたように応援に行った芸能人やスポーツ選手たちはどうでしょう。ほとんどが「そんなことあったの?」という顔をしています。まるで、口にすることが悪いことのように・・・。すべては終わってしまったのか。それとも怖いものを思い出すのが嫌なのか・・・それならそれでいいのですが、昨秋、福島に行ってみましたが、とても浜通りには行けませんでした。大きく迂回しないとたどり着けないのです。通れない道がたくさん。
 悪夢として忘れたいのか、なかったことにしたいのか・・・その後もけっこう大きな地震が起こり、噴火災害もあり、以前とは確実にちがう地殻変動が起こっているのは素人でも感じることですが、どうも、そんなことは「関係ねぇ!」というバカさ加減が世の中に満ち溢れているようです。

同じ方向に行く危険

 ある人気選手が勝つと彼が着ていた服と同じものが完売する。ある少女グループのコンサートに何千人もの若者がつめかける・・・みんなが同じ方向で安心するという気持ち。これは本当の意味で個人主義が根付いていないからなのでしょうね。つまり、自分の考えで行動しない。みんなが行くから、流行っているから・・・みんなが持っているから・・・いったい、このヤンキーな気分はもともと日本人が持っていたものなのでしょうか。これがイジメを生む土壌になっているのでしょうね。「みんなと同じでないと排除される、排除されるのがいやだから個性を出さない」という「和」の掟。和を持って貴しとなすのは十七条憲法ですが、個人の生存権が保証されるのは現行憲法・・・それを変えようとする動きは「和」を前面に出して「大政翼賛」を狙います。でも、みんなと同じにやってきて安全だった時代はもう終わっていることも知るべきでしょう。

てんでんこ

 津波が来たときにどう行動するかという警句が有名になりました。「てんでんこ」です。「それぞれが自分の判断で行動する」という意味です。これは噴火でも台風でも危機の時は当然取るべき態度でしょう。誰かが命令をしなかったら何もしないというのでは危ないことになります。誰かの指示で動くのではなく、自分の判断で逃げる。自分で考える、感じる・・・自分の進路を決めるのは自分ですが、これを人任せにしたら悔やんでも悔やみきれないこともあるわけです。だから「てんでんこ」。
 「自主憲法制定!」なんて言っている人が「欧米に歩調を合わす」という自主性のないことをするのも矛盾ですが、いままで平和憲法で「戦争をしない国」というイメージできた国でテロが起きると、これも3・11と同じで想定外になるのでしょうか。都心の爆弾テロも困るけれど、原発を狙われたら国内いたるところに原子爆弾を置いてあるようなもので、「てんでんこ」で逃げても「ここもあそこも爆発」では逃げきれません。もちろん、テロがなくても地震も津波も確実にやってきます。
 いま、日本列島の地下ではかなりトンデモナイことが起こっていると思われます。最新の報告では琵琶湖が11年間で3cm縮んでいることがわかりました。日本列島が折れ曲がる可能性があるのです。そんなときに、一年間で約4mm(3・11以後は25mmという説も)隆起しています。こんな状態のところに、まさかトンネルを掘ろうなどとは誰も考えないでしょうが・・・。東南海地震は確実視されています。当然、東日本震災級の揺れがあるでしょう。福島事故があるわけですから、まさか東南海地域で原発は再稼働しないでしょうが・・・。

自分の考えを作る必要が・・・

 「一度あったことは二度ある」・・・地震も津波も原発事故も一度あったことは二度あります。これが世の中の原則です。おバカなテレビ番組とマンガで頭ができあがってしまった日本人は、向こうに煽られるとあっちに、こちらに煽られるとこっちに流されてしまうだけに見えます。そんなもので出来上がった「社会常識」など、もう一度考え直さないと二度目も同じことになるのですが、これは一人二人が考え直したところでどうにもなりません。「てんでんこ」に考え直さなければならないことでしょう。それには、どうするか。
 違う側面からものを見るには人の考えを知るのが一番です。そのためには、いまのところ、それなりの本を読むしか方法がないように思えます。それなりの本は優れた内容の本ですので、読む力も必要になります。いま、子どもが本を読む力を高められないような状況になっています。本は「てんでんこ」で読むものです。そして、左右されない考え方をそれぞれがてんでんこに身に付けなければいけないと思うのです。みんなと同じ考えになるのは危ないことですが、日本人には無理かな。(新聞3月号一部閲覧)

ふつうに育つ

 春は気分も高まり、体を伸ばしたくなる時期ですね。花壇や鉢の花々が目立つようになり、梅が咲き、やがて菜の花、桜、桃・・・この時季は、子どもの成長を見ているように速いスピードで、目まぐるしく変ります。見ていて驚きます。
 ゆめやの店先は芝生なので花壇が造れないため、ほとんど花は鉢植えです。冬の間には花かんざしとかビオラ、パンジーといった定番ですが、去年の春は、それらをうまく咲かせることができませんでした。「草花の栄養剤」という成長促進の薬液をホームセンターで買ってきて冬の間に撒いたのですが、どうも春になって伸びが悪く、花も広がらず、けっきょくかなり早めにダメになってしまいました。しかたないので、3月下旬に新たに花苗を買うことになりました。
 農家や造園業の方ならわかりきっていることですが、化学肥料をやると、その時は盛んに花を咲かせますが、土がやられて翌年、翌々年とだんだん育ちが悪くなります。たしかに土が固くなってくることが素人でもわかります。
 腐葉土や動物の糞を肥料にすると虫も出ますが、植物は自然に育ちます。なるべく問題のないもので育てることが一番なわけです。これは動物でも同じで、遺伝子を組み換えたり、薬物の入った飼料で育てても、そのときは効果が出ても長い目で見ると危ない動物が育ってしまうらしいのです。人間の場合でも同じで「無理を通せば道理が引っ込む」ということになるのでしょう。

そのときは良くても

 戦隊ものの絵本を与えた子は、そのときは活発です。エイヤ!・・・と元気に動き回ります。プリキュアを与えた子たちはきらびやかなものを身に着けて元気に遊びます。ところが、思春期になり、青年期になったとき、自然の中で遊んだ経験もなく、自然な道理の描かれていない本やアニメばかりで育った結果ではだんだん生気を失ってきます。あるいは見かけだけ派手なヤンキーになり、流行に影響されて生きるだけという状態になります。
 だから、なるべく自然なこと、良質なものを与えて、無理なことをしないことが大切です。すぐに効果の現れることに親は目が行きがちですが、ふつうの価値観でふつうのことをしていれば大きくなって問題が出ることはほとんどないでしょう。
 ただ、ふつうのことといっても「何がふつうなのかわからん!」という人もいるでしょう。私のふつう感覚では、生まれて数か月の小さい子を刺激の強い(音、光、臭いなどの)環境に置くのはふつうではないと思われます。だから、大音響のカラオケボックスに連れて行くのはふつうのことではないでしょう。2歳の子に勉強を強いるのはふつうのことではありません。

ふつうの基準

 「ふつうの基準」を書いたマニュアルなどはありませんから、「大人が自分の中で考えるよりない」わけです。つまり、親が、大人がふつうの環境で育って身に付けてきた基準で子どもを育てるよりないわけです。
 例えば、親が読み聞かせを受けて育っていると、自分の子どもに読み聞かせをするのは自然なこと、ふつうのことになります。公園や野原で遊んだ経験があれば、子どもを自然の中で遊ばせるのは当然のことでしょう。
 現代では、これがなかなかできなくなっています。最近の悲惨な事件を見ていると、「ふつう」を行うのは、「ほんとうに難しい時代になったな」と思います。とにかく、子どもが外に一人で行くのは危ない時代なのです。実際には危なくなくても親の意識は危ないと思わされている世の中です。
 子どもは小さいうちには何をしても大丈夫のように見えます。しかし、子育てはある程度大きくならないと結果が出ません。とかく人は無理なことをしがちです。子どもには無理をさせないで、ひたすら自分で行動できるようにしたいものです。早期教育、お稽古事に漬けて、どこかで子どもが挫折するのは見ていられません。花なら「枯れた!」ですみますが、人間は「壊れた!」では取り返しがつかないのですから。(ニュース3月号一部閲覧)



(2015年3月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

ページトップへ