ブッククラブニュース
平成27年2月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせと子どもの環境 3〜4歳

 3歳までの読み聞かせが何に有効か?というと「人格のおおもとになる脳(大脳旧皮質)の成長に良いからだ」と言われています。旧皮質は二歳半〜三歳までで完成してしまうので、ここまでに安定した状態があるかどうかで、そその後の個性や行動パターンが決まるわけです。ちょっと、むずかしいことを言わせてくださいね。
 大脳の旧皮質というのは、以前はほとんど役をしない進化以前のものが残っている原始的な部分だと言われていました。ところがどっこい、これは人間が人間として生きる上でものすごく重要な部分だったのです。「愛されているという感覚」「自分は周囲の誰かとつながっているという感覚」あるいは「自分は何に属しているのかという感覚」が人格の形成の基礎にないと思春期以降に大変な問題が起きる可能性が出てくるらしいのです。これらの感覚は、特定の保護者が子どもの世話をし、目を見つめて話しかけ、遊びの相手をしてやることで形づくられるものです。
 これがいい加減に行われると成長の過程、あるいは成人してからも問題行動が出ると言われています。近年、世間を騒がす事件の根元には「乳幼児期の育児」が関係しているのではないかと思うものが多いのですが、はっきりとそれを証明するような説はありません。女性労働という国策に逆行するからです。

子どもの外部依存で国が栄えるか

 とにかくお題目が経済成長率一本の政権は、働けるものなら女性でも猿でも猫でもいいわけで、住宅や車、着るものなどの流行を激しくさせて、それで大衆を釣るわけです。「働けば、いい車、いい家、きれいな服が買えますよ!」と。頻繁にパターンを変えて買い換えさせる。そうして消費を高め、企業が儲かるという図式を描いています。パソコンなどいくら内部の機械が壊れなくてもサポート終了で買い替えなくてはなりません。スマホも多機能になって、どんどん買い換えさせる手を使う。これが市場原理主義です。これで人々が幸福になっていくというならわかります。
 でもね、何十年か前、高度成長で忙しかった親に育てられた子、保育が外部に委ねられた子、家庭内で虐待を受けた子……それぞれの時代の乳幼児保育の結果が、現在起きる事件の本質と深く結びついていると思うのは私だけではないと思いますが・・・そういうことはさておいて、「いはい、どもが生まれたら預かりますよ。心気なく働きに出てください!」かなりまえから学校教育でも刷り込んで来ました。この結果、小さい子どもを抱くことすら怖がる女性も出てきた。0歳児保育が始まって、もう十数年? 大脳の旧皮質は正常な成長を遂げているのでしょうかね。

読み聞かせも効果なし・・・!?

 親から子への読み聞かせは、この旧皮質の成長に必要なさまざまな要素を持っていると思われます。どのような読み方をするにしろ、「自分のために読んでくれている」という感覚が子どもには出てきます。抱っこによる暖かい皮膚感覚、親を独占できる満足感、気分が快い状態……このような点から読み聞かせは、人格のおおもとになるような部分の成長に大いに効果的なものであると考えられるのです。それが、たかが経済成長のためにできなくなる。たかだか三年間くらいの親子の時間は大切にしたいですよね。昔は、貧しい家の子も親ときちんと向き合って生活できましたが、いまや多くの家庭が子育ては忙しい生活の中でやっかいなものになりつつあります。早く迎えに行き、早くご飯を食べさせ、早く寝かせる・・・そのための一手段が読み聞かせでは子どもも楽しい時間とは感じないでしょう。乳児期から始められた読み聞かせも、保育園の粗悪な本やアニメビデオのかけ流しでは効力もありません。3歳から4歳になればそれなりに内容も高度になり、楽しめるはずですが、キャラクター絵本の影響、アニメの影響ではなかなか良い本への食いつきは出てきません。出てこなければ社帰省や人間関係もおぼつかないものとなります。

ブッククラブ配本では・・・・

 こうした時期を経て、外部に適応し始める3〜4歳の段階で与える本は、やはり「自分と社会をつなぐ物語」。「相手とのバランス感覚」や「自分は周囲とどういう関係にあるのか」を知る絵本を主に与えたいところです。ブッククラブの3〜4歳の配本のほとんどはそういう物語絵本になっています。
 例えば「ゆらゆらばしのうえで」のハラハラドキドキ。とくに多くの子への配本に入る「ガンピーさんのふなあそび」は、その代表です。ガンピーさんの操る舟にいろいろな動物が乗り込んできて、やさしいガンピーさんがうまく受け入れてくれて、舟遊びがうまくいくというお話。なかなか楽しいストーリーですが社会性を芽生えさせるにはうってつけの作品なんです。だれもが世の中の何かの役に立つことを奇想天外なスジ運びで描いている。古典的名作の「ぶたぶたくんのおかいもの」も友だち、周囲の大人との関係をうまく描いた傑作です。「いいこってどんなこ?」は、逆にあるがままの自分を受け入れてくれる母親の話。子どもというより親に読ませたい絵本なので時折配本します。前回述べたように3歳代の絵本の傑作は充実していますが、この年齢からやはり性差は確実に出てきていて、それなりに社会性が育つような絵本をなるべく配置しています。空想力、連想力を全開させるパワーのある絵本が多いのでお子さんといっしょに楽しく物語を味わってください。とくに4歳代は性差がはっきり出ます。だから男の子、女の子それぞれが世の中と関わっていく物語絵本でいっぱいです。こういう時代、悲惨な事件を犯す人間が多くなっています。それもこれも幼児期に外部依存で育てられたり、ていねいに育てられなかったり、虐待を受けたりした結果の異常現象が起きているのではないかと思われます。とにかく子どもの社会性は高めたいですね。(2月号ニュース一部閲覧)

経済優先・マスメディアの弊害
(2)ほんとうのことが伝えられているか

 ガイドブックを参考にして選書をすることがある。例えば、ブッククラブの新しい選書をするときに新刊で出るすべての本を読んでみるわけにもいかないので、児童文学関係の雑誌の書評を見てから読むことにしている。ところが、この書評が当てにならない。どこか後ろで金をもらっているのではないかという書評さえたくさんある。まったく参考にならないものも多い。もちろん、こちらも大体の知識はあるから、ある書評家が「本を待ち望む子どもたち」などというタイトルで「こどもは人気のシリーズの新刊を待ち望んでいる。例えば『かいけつゾロリの謎のスパイとチョコレート』など・・・」とか「『ルルと魔女のしらたまデザート』や『わたしのママは魔女』などは期待の新作で・・・」などとあっても、タイトルや作者名でだいたいが劣悪なものだとわかるので問題ない。問題なのはタイトルがそれらしくて、作者の履歴がほとんどわからない新人もの。これは読んで見ないとわからない。しかし、90%以上の割合で失望する作品が多いのだ。なかには、その月に発行される全児童書が網羅された雑誌もあるが、使える本はまずそのなかの1%あるかどうかである。

過剰宣伝で売る方法が取られる

 最近では内容はともかく、とにかく「人気がある!」とか「○万部販売!」などというキャッチフレーズで宣伝し、お抱えの?書評家にまったく分析のない書評を書かせる傾向も目立っている。いい例が大人の本だが、村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」。書評が絶賛している割に売れなかったという話もある。とにかく前宣伝でいかにも売れているかのように見せて売ろうとするものだ。まるで、テレビショッピングである。「はい、ただいま申し込みが殺到中です。番組終了後30分以内にご注文をいただくと・・・」・・・翌日注文しても同じ状態で商品が送られてくるのに、そう言って焦らせて売る・・・いわば大衆心理を研究しつくした宣伝方法である。これにネットがからんでくるからすごい。ネットは書評などというものではなく、とにかく「売る」ということが先決の情報である。調べ物でクリックしていけば必ず「売る」というところに行きつくのがネット。児童文学雑誌の書評でこのていどなのだから、ネットのサイトでは児童書選びも何もあったものではない。すべてが「売らんがための絶賛」である。内容が良かろうが悪かろうが売れればいいのだから大変だ。時折、ある本を調べると、「この本を買った人は、これやあれも買っています。」と来る。余計なお世話である。「何でお前に俺の好みがわかるのだ」と言いたくなる。

書評の世界だけの話ではない

 たしかに子どもが楽しめれば、それはそれでいいと思うが、問題は楽しむレベルである。楽しみにはグレードというものがある。大人の楽しみも同じだ。パチンコを一日中でもしていたい楽しみを持つ人もいる。酒を一日中飲んでいたいという人もそれが楽しいからだろう。サッカーをしていたい。甘いものを食べていたい。楽しければそれでいいではないかという人もいるだろう。しかし、「楽しみのレベルが粗悪なものに向いていたら、まずい!」とは思ないのだろうか。パチンコをしている楽しみなど低劣な楽しみである。
 もちろん、これと同じく、楽しみの対象は子どもの頭の程度の問題だ。環境差、個人差などはあるだろう。それを見越して昔から拙劣な内容で子どもの気を引く作品や遊びはいくらでもあった。それはそれで商売になってきた。ある意味、近代現代の日本文化は、そういう拙劣さが主流となってきた部分もある。

相手にしない権利はある

 「かいけつゾロリ」が子どもの気を引くだけの作品でも、それで気を引かれる子どもがいるから支持されるわけで、これは他の劣悪な作品でも同じことである。もちろん楽しむレベルの高低は本ばかりではなく、ゲームソフト、アニメなどいくらでも分野はあり、どこかで誰かが「評価」をしないとどんどん低きに流れていくのが子どもの世界であり、じつは大人も含めた世の中全体である。いい大人が恥ずかしげもなく電車の中で漫画雑誌を読む。時代の最先端とばかりにスマホやタブレットを開くが、そこにあるのはダウンロードされた漫画・アニメ。優劣の基準を教えずに流行がすべてとしてきた風潮にも問題はあるだろうが・・・・子どもの頭を劣化させると、成長したのちに大変なことにもなる。こういうものを楽しむ人間は相手にしなくてもいいのではないか。人間の、あるいは子どもの低劣な部分に媚びて、儲かるからと何でもする人間は多いのだ。そういう人間も相手にする必要はないと思われる。こちらがわは、よりよいものを選んでいけばいいのであって、おかしなものに楽しみを感じる人間はどうぞご勝手にである。「大きくなって、おかしなことに巻き込まれても知らないよ」ということだ。

消えていく真実

 だから書評と同じく、選ぶ、評価する・・・ということは大事な作業だと思う。しかし、メディアが「ほんとうのことを伝えるより売れればなんでもいい」という傾向を強めているのなかで、かなり気をつけないと、慎重に選んでいるつもりでも駄作をつかまされる恐れがあるということだ。物ならまだいい。下手をすると価値観まで影響を受け、「みんながそう考えているから・・・」「みんながそう思うから・・・」と流されることにもなりかねない。いま、政権はそれをやろうとしている。都合の悪いものには蓋をして、やりたい放題。マスコミも一般人もそれに乗っていく怖さ。こういう状態を大政翼賛というが、これは国民、個人個人が自分の考えを持たずに世間体だけで生きているからである。ほんとうのことが伝えられなかったり、考える材料がなかったりすると、多くは「周りと同じことをやればいい」となり、周りの動向に無意識になる。
 知っていますか? ジャポニカ学習帳から昆虫の表紙が消えたのを・・・親やこともあろうに教師からさえ「気持ちが悪い」というクレームがあったから自粛したのである。売る側として売れないと困るという自粛。こういう現象が子どもの世界でどんどん起き、危険だからアルコールランプを使わない(マッチが擦れないから)、カエルもフナも解剖はしない・・・では本物が見えなくなる。そういう中で人間を解剖してみたくなったり、人を殺してみたくなったりする若者が出て来るのである。ならぬことはならぬ。大人がほんとうのことを伝えなかったら、子どもはどんな大人になるのだろうか。(2月号新聞 一部閲覧)

しかたがねぇ!また書くか・・・(7)
結果が出ているのに分からない人々

 「しかたがねぇ!また書くか・・・」と題しているくらい何度もサブカルチャーの社会的影響については書いているわけだが、じつは書けば書くほど「世の中はサブカルチャーの影響でおかしくなっていること」に気が付く。それは突飛な犯罪が起これば起こるほど感じるのだが、その事件や現象がサブカルチャーの影響なのか結果起きたことなのかなどまったく考えられない。
 もちろん程度の差があって、因果関係を証明できないわけだから、これらのおかしな現象がサブカルチャーの影響・原因とはとても考えられないだろう。昨秋東京の渋谷を中心に起きたハロウインの仮装集団の騒ぎをはじめとして、さまざまな少女誘拐・殺人などの極端な事件まで、サブカルチャーの発展(?)の流れといつもリンクして起こっているのだが、この影響を細かく説明したらキリがなくなる。

事件の後ろにはサブカルがある

 昨年7月に岡山県・倉敷で起きた小5女子誘拐監禁事件など、もう忘れたかもしれないが、この中年の犯人はアニメや美少女オタクであった。最近の統計で教員のわいせつ事件が過去最高(年間200名超え)と報じられたが、これもまたアダルトサイトやアニメなどが原因ではないかとも思えることが多い。犯罪の上位に盗撮や買春が来ているのもこうしたサブカルチャーの影響ではないかと考えられるからである。
 実際『魔法少女リリカルなのは』などはかなり露骨な場面があるし、こともあろうに小学生と教師の恋を描いた『こどものじかん』などという漫画もオタクの間では人気がある。『魔法少女まどか☆マギカ』では、登場する少女が頭を拳銃で打ち抜くシーンがあるが、たとえ読者がオタクでも大人の本なら許される表現なのかどうか。『進撃の巨人』の巨人が人間を食うシーンは殺人衝動へと結びつかないのかどうか。こういうコミックは暴力描写がじつに過激なのだ。
 佐世保の同級生解剖事件にしても今回の名古屋大学学生の老女殺人も、今月死刑が確定した秋葉原無差別殺傷の加藤被告も成育歴をサブカルチャーの視点から見れば、どういうものとなるか・・・成績の良さと行動の良さは一致しないことだけが、はっきりする。知識教育・偏差値教育の悪弊が出ていると言うことである。教育が倫理的ものを主軸に行われなかった結果と言うわけだ。かつて社会的に倫理観があった時代では、こうした異様な犯罪はあまり起こらなかった。貧しさが原因の犯罪はあったが、精神異常が引き起こす犯罪は少なかった。アナクロな例と思われるかもしれないが、儒教的な倫理を主軸に置いた学問・教育(例えば昌平坂学問所や会津の日新館教育)などでは成績の良さは倫理観に基づいたもので、「非道なこと」は許されるものではなかったのである。この教育の根底にある倫理感は意外にも昭和の三十年代くらいまでは残っていたのだが、バブル以後はまったくなくなった。これは、前々回で表で述べたサブカルチャーの変遷とリンクしているのである。マンガは昭和三十年代から広まり始め、いまスマホにまでつながってきている。

小さな影響は身近でも

 だが、現在では、背景にあるサブカルは、漫画・アニメから始まりネット、スマホに至るまで商業主義と密接につながっている。これを犯人の成育歴にサブカルチャーが濃厚に出てきても決して社会的には発表はされない。「すべてが影響を受けるわけではない」というもっともらしい意見が出て、それはそれで済まされる。われわれには子育て上の参考情報がないわけだ。
 私がここまでしつこく言うのは、世の中で起きている事件とは程度の差こそあれ、ブッククラブ内部でもそういうケースが起こってきたからである。例えば小学校6年までたくさんの本を読み、有名中学に入学した子がパソコンを与えられたことで、それに日夜熱中し、ネットやSNSにハマっていき、抜け出すのにかなりの時間がかかった例。高校でネット依存になり、二十歳を過ぎた今でも学校にも仕事にも行けない状態・・・こういうケースの相談が来るからだ。一つや二つなら例外として考えられる。また、その子の特殊性とも思えるが、わずかな人数のブッククラブで十数例となるとやはりサブカルチャーの影響を考えないわけにはいかないのである。絵本の読み聞かせ、読書などは、サブカルチャー依存になってしまった思春期の少年に効力などあまりないといえるだろう。まして、スマホはどの危ないサイトにでも接続できる手軽なコンピュータである。私たち大人よりずっと早く操作を覚え、友人間の情報交換でどんどん闇の中に入っていくこともできる。小学校5年生がアダルトサイトを見ることさえ可能なのである。世の中は「誤った自由」と「誤った個性尊重」で、何も規制がない。子どもが(大人が)事件を起こしたら後は自己責任ということなのだろうか。いったい、このサブカルチャーの影響問題に対して学校や行政は何を考えているのだろう。

ゆるやかにオタク化する社会

 以前は、はっきりとサブカルチャーオタクと一般人は区別ができた。話せば、妙にそのジャンルを熱っぽく語り、見た目には「ああ、オタクだな」と思える小太りの迫力を欠いた表情でわかった。しかし、今では普通のサラリーマンが自室ではアニメビデオばかり見ていたり、山のようにコミックを買い漁っている状態がある。見た目にはわからない。
 仕事の話なら普通にできるし、姿かたちは普通人だ。上記のような事件を起こす人たちは見た目には異常性が感じられないのである。倉敷の誘拐犯人は小5の少女を「飼育したかった」と言う。老女殺しの19歳女子大生は「人を殺してみたかった」という。姿かたちは当然普通の一般人・・・ネットゲームやネットショッピングへの依存は普通の主婦でもあるという。ゆるやかにオタク化する社会。それが露出してきたのが昨秋の渋谷のハロウィン仮装だろう。普通の人々がやっていることである。厳密にいえば普通の人ではないのだが・・・・。
 私が見かける家庭では、大画面の液晶テレビで夕方から夜までずっと子どもにアニメビデオを流している家庭がある。「けっきょく大きくなって使わねばならないのだからスマホを与える」と言う親のそばで黙ってスマホ画面をスーッと動かしている小学校4年生。これらひとつひとつは何でもない風景だが、いずれ影響は成長したときに子どもに出る。
 そして、さらに社会問題化するときが来ると思う。日本ではこれに対する対策などないに等しい。学校も行政もサブカルチャーについて対策する暇などないのだ。だが、しかし、いまのところネット依存の先進国は日本ではなく中国・・・ここでは依存から脱出させるための軍隊が指導する訓練施設まである。次回は、そのへんのこと、つまりサブカルチャーの行き着く先を紹介したいと思う。(2月号新聞増ページ 一部閲覧)



(2015年2月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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