ブッククラブニュース
平成26年4月号新聞一部閲覧 追加分

入園おめでとうございます

 甲府は今年二月の豪雪以来寒い日が続いたので桜が遅いかなと思ったら、やはり信玄公祭りのときには満開になりました。この祭りが終わらないと甲府は春になった感じがしませんので、桜の開花は心をウキウキさせてくれます。今年も信玄役は松平健さんで、なかなかの貫録ある武者姿を見せてくれました。
 いろいろなところで戦国時代のお祭りが行われていますが、歴史や伝統を子どもたちが知っていくうえで大切な行事だと思います。
 さて、甲府では、この前後に保育園、幼稚園の入園式が行われます。桜の舞い散る中・・・「桜と入学・入園は風物詩としてピッタリのものだな」と思います。今春入園のお子さん方、ご家族の方々・・・・ほんとうにおめでとうございます。
 最近では、「秋入学」「秋入園」などという提案も出ていて、国際基準に合わせようという動きがありますが、やはり芽吹きの季節と入園・入学はこの国の文化でもあります。固有の文化をなくしてまで国際基準に合わせる必要があるのかどうか・・・個性的であることは、まず他と違うことだと思うのですが、どうなんでしょう。
 所変わればいろいろ変わるわけですから、何も周りを気にして周りと同じにする必要はないと思います。日本人はとかく周りと同じにしていれば安全だと思う民族ですが、もうそういう時代は過ぎてしまい、周りと同じにすることで逆に危険や失敗に陥ることも多くなってきました。

昔とちがう状態もありますが・・・

 入園・・・これも以前と違ってきています。昔はほとんど、三歳、あるいは四歳での入園で、それまで子どもは親の元にいました。だから「子どもも入園で不安や緊張が出て、ストレスが起こるので、親はなるべく心理的なプレッシャーを与えないで子どもを見守ろう」と私も言ってきたものです。
 ところが、現在は子どもの多くは子育て支援などで乳児のころから外部の保育を体験しています。一時預かりも経験している子も多いでしょうし、0歳児保育、長時間保育で育った子どもたちもたくさんいますから、子どもは場慣れしていて不安や緊張がない子がいます。昔、このニュースで私が書いた意見はもう古臭いのかもしれません。
 もちろん早いうちから「場」に慣れるのがいいのか、「場」に慣れずに緊張感を経験したほうがいいのか・・・・それは何ともいえません。場慣れが「学級崩壊」の原因になっているという説もあるくらいですから・・・・。
 ただ、ここまで労働力が必要となり、生活が忙しくなると、親が子どもに向ける力が減ってくるのは当然のことです。「そういうことは好ましくない!」と私が言っても、子どもを預けて働くのが当然だという風潮もありますから、「なるべく子どもに接する時間を多くしましょう」などとあたりさわりのないことしか言えないようにもなってきました。

取り巻きは言葉を濁しますが・・・

 

ところがですね。私は時代が変わっても変えてはいけないものがあると信じている頑固な人間で、状況に応じてコロコロ変わっていく人たちに批判の言葉をぶつけます。あたりまえですが、そういう人たちからは嫌われます。「手のかかる赤ん坊を預けて仕事をしていたほうが楽だ」などという人にはキツい言葉を言ったりします。いつもながら図書館子ども室の無節操な貸し出しを批判すると図書ボランティアたちからは嫌われます。読み聞かせボランティアの方に「自分が光りたいだけのことで、子どもに適切な本を与えることなど考えていない」などとも公言しますから、当然、嫌われます。自分でも、「どうしてこうも敵を作ってしまうのだろう?」と反省することもありますが、性分なのでしょう。
 ただ、現代の社会の動きは「子どものため」を考えるのではなく大人の都合で物事を進めているような気がするのです。これが、私にはカチンとくるわけです。
 でもね。敵が出ようとなんであろうと頑固にやり続けると、中には子どものことを真剣に考えている人や世の中に批判的な人が味方になってくれること、これまた事実なのです。いやほんと、けっこういます。
 周囲と同じことをして、八方美人的に生きる方法は一見うまく世間を渡れるように見えます。「上には逆らわない」、「周りには同調する」というのも現代の傾向ですが、やはり人間はどこか心の底で、そういう生き方をする人をウサンくさい・信用ならないと思っているところがあり、そんな人たちが私のような考えを逆に応援してくれるのです。私は私で、変化に応じないでかたくなにやっていくのもまたおもしろいものだと実感できるようになってきました。

 

子どももいろんな人と接していけば・・・

 ですから、子どもも同じような人たちばかりではなく、いろいろな人と接する必要があると思います。もちろん、0歳から多様な人々に囲まれて育つのではなく発達の段階を追って、じょじょに接する人を増やしていくのが自然でしょう。0歳児には、まず母親が主要な存在です。そして、じょじょに家族、同年齢の仲間、年上、年下の仲間・・・じょじょに増やしていくことで成長は幅を広げます。小さい子どもが、親、祖父母に見守られて成長するように、幼児はさらに多様な人たち、仲間、友達、先生、知らないおじさん、おばさん、よそのお兄ちゃん、お姉ちゃん・・・に囲まれていないと人間を観察する力や相手を助ける力も身につきません。入園はその第一歩です。
 多様な人との交わりは、自分の頭で考えて、行動することを学びます。すべてセッティングされたことをさせられる環境にいたら、自分の頭で考えて何かをすることもできなくなります。マニュアルで物事をすすめている環境に小さい子を放り込むと、精神的にも能力的にも伸びないことが多いのです。

親は他の子どもと比較して焦らずに・・・

 しかし、子どもが横並びの子ども集団の中にいると、親は焦ります。「あの子は三歳で字が読める」「ウチの子はなかなか言葉をしゃべらない」・・・と。おそらく「生き残らせたいと思う親の本能」がつくりだす「比較」なのでしょうが、焦って無理をすれば子どもが壊れてしまうこともありえます。ふつうに育てば字など誰でも読めるようになります。オムツが2歳で外れようと2歳半で外れようと大差はないのです。3歳半までオムツをしている子はふつういません。
 そんなことで焦るよりするべきことは他にあります。子どもは、観察をしますから、知らない人になかなか挨拶をしたり話したりはしません。これをなるべく親の手であいさつや会話ができるようにシツけていく・・・いわば社会性をつける・・・比較や焦りより、子どもの成長のそれぞれの時期にするべきことはたくさんあります。入園を機に親も子どもの見方を変えましょう。(4月号ニュース一部閲覧)

入学おめでとうございます

 甲府では入学式は、四月七日の月曜日が多かったようです。甲府は、ほぼ日本列島の中心で、この時期、桜が咲き誇ります。今年は豪雪で寒い冬でしたが、時が来れば桜は咲きました。でも、日本列島は南北に長いので、まだ蕾のところもあれば葉桜になってしまっている入学式もあったでしょう。
 春はすべてが芽生えの季節、入学にはふさわしいシーズンです。穏やかな光、桜の花や桃の花、芽吹き、小さな花々の開花・・・子どもが幼児から少年少女になる区切りとしてはピッタリの背景です。ゆめやの庭にはメジロやオナガがやってきています。鉢植えは健気にいろいろな花を咲かせています。温暖化で異常な気象になっているとはいえ動植物の生命力の強さにおどろくぱかりです。時の流れに合わせて成長し、環境に応じて変化していく生命の力には脱帽することがあります。
 日本人も四季に応じて多様な力を発揮する種族ですが、最近は豊かになったために季節感がなくなってきました。旬のものがいつでも手に入る豊かさ。グローバリズムで、いろいろな変化や異常が起きている世の中ですから、季節変化を感じなくなっている人も多いのではないでしょうか。しかし、これが日本人の能力や感覚を高めたのですから、子どもたちにも季節を敏感に感じてほしいです。

世代交代をした桜

 ご来店の会員の方はご存知ですが、ゆめやの店頭には、桜の木の切り株があります。二十年前に植えてから大きく成長しましたが、一昨年の夏の高温のせいで枯死しました。ふじざくらという桜で花は小さく可憐です。富士山が見えるところでしか生育しない種類だそうで、フジザクラというそうです。枯れたときはとても残念だったのですが、翌年、ふと根元を見ると苗木のようなものがたくさん芽を出し、今年は写真のように花を咲かせました。苗木のときは気を使いましたが、どうやら見事に再生したようです。まったく生命力というものはすごいですね。
 でも、この再生や交代は動物にも人間にも、そしてまた、この社会そのものにもあります。老いて消える・・・でも、また次の世代が生まれる・・・社会も老いて縮んでいくけれど、また新たに新しい力が生まれてくる・・・新しい力は数が少なくても子どもたちです。もちろん私が桜の苗木を育てたように親には不安があります。親として当然のことですが・・・。「よくもまあ大きくなったものだ!」という驚きから「大丈夫かな?」「やっていけるかな?」という不安まで・・・。これが育てるということなのでしょう。
 たしかに、以前とちがって子どもの周囲には多くの問題があるように見えます。常識崩壊の親に育てられた子が教室を跋扈(ぱっこ)することも考えられます。子どものころから無制限に流行り物を与えられてきた子が特定の子をいじめることも今始まったことではありません。でも、環境の影響に負けて「枯死」しないように見守りたいと思います。
 春は卒業と入学の季節で、その挨拶にたくさんの親御さんとお子さんが店を訪れます。中学に入った子、高校に入った子、大学に入った子・・・幼かったときとは背丈も顔もちがってきていますが、いずれも共通して目の輝きがあり、子どもの時と同じように私と会話が弾みます。こういう子たちを見ていると、世間で騒がれているような、おかしな子どもや青少年がほんとうにいるのだろうか、とさえ思えるくらいです。お母さま方と話していても、モンスター・ペアレントなんて親がいるとは思えない普通の方々ばかりです。考えてみれば、ふつうの家庭で、ふつうの親に見守られて育ってきた子どもが異常になるわけはないのでしょう。小さいころに、ちゃんとしたサポートがあり、読み聞かせや遊びで親との時間を共有してきた子が、「椅子に腰掛けていられない」とか「授業中でも騒ぎまくる」ということなどあるわけがありません。安心していいわけです。変化に応じてちゃんとうまくやっていけるはずなんです。

時代は急に変わるけれど

 学校もどんどん変わっていきます。ここ数年でかなり変わりました。電子黒板やタブレットが幅を利かせ、親が抱いていた学校観とはまったく違ったものになっています。市場原理の波も学校を襲っています。効率優先、数値で測る・・・子どもも先生も忙しい・・・そのうち何を目指しているのかもわからなくなってくるでしょう。子どもをどうしたいのかさえ・・・。
 でも、いずれ、どうにもならなくなって、みんなが元に戻らなければダメだと気がつきます。さあ、それはいつになるのか。
 子どもは、動物や植物と同じで柔軟に周囲に対応しながら健気に生き抜くものです。親が思っている以上に・・・・。苗木の再生、壊れた人間の修復、複雑化しすぎた世の中の復原はいつになるのでしょうかね?
 経済成長など環境問題を引き出すだけですが、こういうことをしていたら、けっきょく自分の首を絞めるのだということが、この国の「指導者」にはまだわかりません。イケイケドンドンの消費が「環境によくない」、「みんながダメになる」という意識も生まれてきていますが、なかなか。
 すぐれた本の中には、この状況を打開して安心して暮らせる術のようなものが書かれていますが、まだまだそういう本の影響も現われません。でも、欲に取りつかれた指導者の影響は、消費は美徳・お金の蓄積は企業の目的と、すぐに動きます。その好例として、今年は政府のいいなりの教科書をつくる教科書会社が多数を占めてしまいました。採用されなかったら儲からないからでしょう。本当のことが書かれない教科書・・・いまや教科書に頼らないで教養を身に着ける必要が出てきたようです。教育も老化して、目的を見失ったのかもしれません。こんな重大な問題を学校が政府に何も言わないのは、もう末期症状です。

我的父母

 以前、「初恋の来た道」という中国の映画を見ました。原題は「我的父母(私の両親)」、近代化しつつあった時代の中国の世代交代の話でもあります。このなかで、学校の先生が小学校一年生に国語の教科書を音読している場面がありました。先生が一行読むと生徒が後を追って大きな声で続くのです。
 「人の世に生まれたら志あるべし/書を読み、字を習い/見識を深める/字を書き、計算ができる/どんなことでも書き記すこと/今と昔を知り、天と地を知ること/そして、どんな出来事も心にとどめていよう‥・」一年生の可愛らしい声がこの言葉を繰り返します。いま日本の学校で行われているもの・・・「字を習い/字を書き、計算ができること」だけでしょうかね。こんなものをいくら高度にやったところで人間は頭がよくなるわけもありません。全部をやらねば! とくに「今と昔を知り、天と地を知ること」「志を持つこと」・・・映画の中では電気を使うものはほとんどなく、だからこそ人と人が強くつながっていました。
 いまの日本は、行く気になれば高校も大学も誰でも入れる時代です。かなり成績が悪くても入れるようになっています。それなのに学校はまだ競争を進めています。成績をあげることだけを目標にして・・。これは、何のためなんでしょう。ただ格差をつけるため? 今の小学生が大きくなるころはもっと大学のレベルは下がっているはずなのですが・・・・。
 私がこの数十年見てきて、ちゃんとした大人になった「子」は良い親に恵まれ、その庇護(ひご)や躾(しつけ)を受け、家族の中で価値観や時間をたくさん共有してきた子です。親がロクデナシで子どもが立派に育つことなどほとんどありません。どんな困難も切り抜ける力は家庭が築いてきた力以外の何物でもないでしょう。これから中学校、高校と大きな山が待ち受けていますが、家族の力が物を言うと思います。「人の世に生まれたら志あるべし」・・・こういう目標は必要です。ダメになっていく子の(あるいは大人)のほとんどは、この志がないのです。お金などいくらあっても人間が必要とする大切なものを買うことはできないのですから・・・。でも志は使えば使うほど、その子(人間)を大きくするものです。今、学校はこれを教えるのを忘れてしまったようですから、なんとか家庭で「志を持つこと」や「世界や歴史を知る姿勢」を身に付けさせたいものです。(4月号新聞一部閲覧)



(2014年4月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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