ブッククラブニュース
平成26年4月号(発達年齢ブッククラブ)

書店の衰退

 いま、大手のブッククラブはとても大変なのではないかと思う。本(絵本)を読む人が減り、アニメ世代が親になった。当然、まともな本の需要は減る。さらに、インターネット通販以前に宅配のシステムを使って広げてきたブッククラブは、選書した配本を公開しているので(郵便局などにパンフレットを置いて、あるいはHPで)、それを見て消費者は、参考にしながら、それらの本をAmazonに注文する。これで、そこのブッククラブの参加者はかなり減ると思われる。そりゃあ、そうだ、本が会費も送料も取られずに送られてくるなら、早くて安いほうがいい。
 もちろん一般の書店も大変だ。前にも述べたが、消費者が書店にきて、本を確かめ・・・家に帰ってからAmazonに注文するのである。実際、ゆめやも、そこまでのひどい客はいないが、お客さんが本を注文して買ってくれる「客注」という注文客の数が減った。もともと少なかったので影響はほとんどないが、ゆめやも書店だから、絵本ばかりではなく一般書でも何でも売ることはできる。岩波新書から宝島社のグッズ付録の本まで注文すれば入ってくる。しかし、客注していた客の多くはAmazonを利用するのだろう。その数は年ごとに減っている。注文して十日も待つよりは翌日届く方が満足する。だいいち、出かけなくても手に入るのだ。ラクチンラクチン! この意味でもAmazonの進む後には草も生えないというわけだ。
 Amazonは、本だけでなく、あらゆるものを取り扱う。これでは、当然、地方の多くの専門店は衰退する。専門店ばかりではない。量販店でも百貨店でも物は売れなくなる。この間、ある大手の家電販売店でリムーバブルディスクを買って店員と話していたら、「最近は見に来て買わずにAmazonのネット通販に注文する人が多いのを感じている。ひどい客はスマホで商品を写して、その場でネット注文する人もいる」というのだ。これではますます地方の販売店は衰退する。だいたい消費者など、「地域の商店を支えよう」などという気持ちはもともとない。早くて安いほうがいいのは当然だから、これはAmazonの勝ちである。
 まったくアメリカという国は、何でも世界一になりたがる国だから、シアトルに本社があるAmazonも、まさしくアメリカそのものである。もともとは書店だったらしいが、あっという間に世界的な規模の流通企業になった。アメリカの地方の小さい書店が世界主要十二か国の書店を蹴散らしている伸びはすざまじい。書店だけでなく商店もどんどん潰していく・・・・。世界一を目指すことは、弱者を蹴散らしていくことでもある。地方書店はただでさえ青息吐息だったところをいまや息の根を止められるところまで来ていると言える。

「本を贈る習慣」・・・ねぇ。

 こんな状況の書店業界は、山梨でも年ごとに書店の数を減らしてきた。すると、先日、山梨県立図書館の阿刀田館長が、「地域から書店が消えるのはしのびない。本を贈る習慣をつくって地域の書店を支えなければ・・・」という「ありがたい」お考えを、この春のシンポジウムでお話してくださった。Amazonのことには、まったく触れなかったから書店が危機に瀕している流通状態については認識が欠ける話なのだが、作家だけに書店の重要性は認めているのだろう。
 コンピューターの並ぶ図書館、いずれ時代の流れに応じて書籍の電子化もすると思う。ひどい場合は、佐賀の図書館のように民間企業に委託して喫茶やDVDの貸し出しをしたりすれば、さらに周辺の書店を圧迫する。貸本屋に本屋が負けるというわけだ。
 さて、「本を贈る習慣」だが・・・うーん、そんなものが鶴の一声でかんたんにつくれるのだろうか。たしかにゆめやにはプレゼントで本を贈るために注文をしてくれるお客がいるが、その多くはブッククラブ配本の初期の一部をプレゼントする方が多く、自分で選んで本を買う人は少ない。いやほとんどいない。それはそうだ、よほど子どもの本について知っている人でなければ本を選んで送ることなどないし、、だいいちふつう一般の子どもが本を贈られて喜ぶかどうかも問題である。こうなると、一般書店で贈り物の本を買う人がどのくらいいるのだろうと思ってしまう。
 つまり「本を贈る習慣を持とう!」など現実離れした掛け声にすぎないのだ。
 多くの人は、自分の買いたい本をかつては書店に注文して買い、近年はAmazonに注文して買うのである。本を贈る習慣など昔よりはるかに減ってきたといえるだろう。先述のように、もう書店はAmazonの前に立ち行かない状態になっているのである。その意味では、まさに新美南吉の「おじいさんのランプ」のように、すでに本は時代遅れの商品になっているわけだ。皮肉にも「おじいさんのランプ」ではランプが時代遅れの商品で、おじいさんは本屋に転向するのだが、今は本屋が・・・新しい何かに転向しなければならない時期になっているといえよう。
 実際、飲食店に入って、他のテーブルの人を見ていると、以前ならマガジンラックの漫画や雑誌、新聞を取ってきて読んでいる人もいた。最近では、そんな姿も見えない。カップルでさえ、お互いに話もせずに勝手にスマホをスイスイ動かしている。もうグーテンベルクの時代は終わったといっていいかもしれない。
 こういう世代、こういう人々が「本を贈る習慣」など持てるわけもない。掛け声は虚しく響くだけだろう。もっとも掛け声をかけるのもまた努力も責任感もなく、「とりあえず立場上、言っておくか」ていどのものだろうから、ことさら取り挙げて批判するのも意味のないことかもしれない。そういう音頭取りをする行政には、読み聞かせ活動からこのかた、ずっと騙されてきたではないか。長いものには巻かれろ・・・・で、人はどんどん劣化して壊れていくというわけだ。

買い支える人たち

 書店は、周辺に買い支える人がいなければ成り立たない商売である。ゆめやは、買い支えてくれる人が周辺では少ないことを初めから想定していて、地域を相手にした商売をしてこなかった。店舗として立ち行くまで、甲府などのような地方都市では周辺の人が買い支えてくれるはずもないのである。飲食業と違って利益率が低い商品なので、ある一定量を売らねば成り立たない。良い本は売れない時代で、多くの書店は主力商品がアニメやキャラ本、漫画、雑誌となっている現状だ。そういう中で、子どもに適切な本を売ろうとすれば、より広範囲に顧客を確保しなくてはならない。このため、初めから甲府を商圏にしていたら三年でつぶれていた・・・・ことは確実である。
 以前、と言ってももう35年も前の話になるが、甲府の中心部に「赤鬼」という児童書専門店があった。私にはまだ子どもが生まれていなかったが、生まれてくるはずの子どもために、この店に絵本を買いに行った。それこそ定期的に通った。近くには甲府でも老舗の大型書店があり、児童書専門での営業は厳しかったと思う。けっきょく三年で店は閉店となった。つまり継続的、数的に買い支える人がいなかったのだ。
 これは、ゆめやも同じである。いまでも近隣地区に顧客はほとんどいない。近隣の子どもが本を買いに来た例などほとんどない。もちろん、大人もだ。逆に顧客は遠方のほうがいる。買い支えは、子どもに適切な本を与えたいという各地に点在する顧客に支えてもらっているのである。ある意味、悲しい話だ。
 山梨県立図書館の阿刀田館長が「本を贈る習慣を!」と言ったところで、親自身が本を読む、あるいは買う習慣がなく、買うと言えば週刊誌と漫画では「本を贈る習慣を!」は書店を買い支えるためより、コンビニの雑誌売り場のほうに働きかけた方が効果的かもしれない。(特別会員への付録ページ一部閲覧)

情報はタダだと思っている人たち

 日本人にはひじょうに多いのだが、情報やサービスはタダだと思っている人がかなりいる。図書館と違って書店は後ろに日の丸が翻ってはいないので、情報発信は自らが出費しなくてはならない、ブッククラブでは毎月一定量の印刷物を配布しているが、この印刷費や手間は自腹である・・・当然、会費をいただいている会員にしか配布しない。さらに、サービスとして、というよりは顧客とのコミュニケーションのツールとして無料でコーヒーや紅茶のサービスをしている。都会の専門店などでは喫茶と書籍販売を同時に営業している店もあるが、地方都市でお茶の代金を取ったら客は寄り付かなくなるから、そんなことはできない。営業を始めてから三十数年・・・どの客にも拒まれない限り、お茶は出してきた。これも自腹だが、本を買ってくれるお礼としてお茶を出すと言う意味もある。お茶を飲みながらなら話もつながる。有用な情報交換も話ができる。
 ところが、以前は「何回もお茶をいただいているから・・・」と、贈答品のインスタントコーヒーや紅茶のパックを持ってきてくれる奇特な顧客も何人もいてけっこう助かっていた。しかし、最近は、サービスはあたりまえと思うのか、そういう「義理」を果たす人はいなくなった。でも、まあ、もらうのを期待してお茶を出しているわけではない。あくまでも本を注文してくれたり、買ってくれたりする方々へのお礼の気持ちで出しているのである。客の中にも情報やサービスをタダ取りしようという人はいない、つまり「お客」なのだからそのくらいのサービスはあたりまえ。情報だけは得てAmazonから買うというような人にはお茶出しのサービスなどできるものではない。だから、このサービスは、ゆめやが終わるまで続けたいと思っている。お茶だけ飲んで平然と出ていく客などいないから、今もきちんと出している。

泣いた赤鬼

 もちろん、他にもお茶を出す意味がある。それは、前述の甲府で初めての児童書専門店だった「赤鬼」だ。この店の店名の命名者は、おそらく浜田廣介の「泣いた赤鬼」から取ったのだろう。「泣いた赤鬼」では、赤鬼は「心のやさしい鬼の家です。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てていた。しかし、村人は警戒して寄り付かないので青鬼の出番となるのだが、赤鬼を支える青鬼がいなかったばかりに甲府最初の児童書専門店「赤鬼」は3年くらいしか持たなかった。つまり市民が買い支えられなかったといえる。
 廣介童話の「赤鬼」の家も、青鬼が去ったあと、自分からは何の手助けもせずにサービスにぶらさがる村人に利用されるだけされて三年持ったかどうか・・・おそらく村人は提供されたものは享受しつつ、一切、赤鬼の家を支えることなどしないように思える。情報とサービスをタダ取りする村人ばかりでは「赤鬼」は成り立たない。村人の「買い支え」を期待していたら、小さな店など他愛もなく潰される。営業も身構えてやらないと利用されるだけとなる。

意地悪く・・・

 さらに、少しでも生き残るために私は意地悪い仕掛けをいくつかしている。例えば、ブッククラブの配本表は個別にしか渡さないが、微妙にタイトルを変えたりしている。基本的な配本のほかにサービスとして、年齢に対応する最低48タイトルの書名を加えているが、これらの中には間違えたフリをして微妙に違う本の名を記している。たとえば、「おにいちゃんといもうと」シャーロット・ゾロトウ作・あすなろ書房だが、これを「にいさんといもうと」なんて記したりする。「願いのかなうまがり角」岡田淳・偕成社は「願いごとのかなう曲がり角」などと書く。これをネットにインプットするとAmazonが出てきて、岩波の「にいさんといもうと」を挙げて来るし、「願いのかなうまがり角」と出て(私は作者名・出版社名を伏せているから)はたして「この本でいいのかどうか」が確定できない。まったくセコい意地悪さだが、Amazonへのせめてもの抵抗と言うわけである。
 なぜ、このようなことをするかというと、ここのところ、かなりひどい話が続いた。先の電化製品量販店のケースと同じなのだが、ブッククラブの会員から「バレーを見に行くのだが、こどもに事前に内容を教えておきたい。適切な本はないか?」という問い合わせがあり、本を教えてやったのだが、当然、こちらに注文など来ない。Amazonの出番だったのだろう。このことはメモに控えてあるから次にはひっかからない。「さあ、私にはわかりません!」で逃げることにする。でも、こういう例はじつは寛容に対応しても相手が顧客なのだからいいのかもしれない。
 もっと凄い例があった。ちゃんと紹介者もいて、ブッククラブの配本プログラムをつくって送ったら、「じゃあ、これに沿って近くで買い求めます。」という電話をもらった。嘘のような図々しさだが、私は寛容に対応した。「それでもかまいませんよ!」と。そうしたら二年経って、何と電話がまたあり「このプログラムの続きを送ってくれ!」という図々しさだ。そこで私は言った。「どこのどなたか知りませんが、登録の無い方のプログラムなど作れっこないじゃないですか!、ブッククラブでは会費をいただいて個別に配本プログラムをつくり、毎回の通信のやりとりでさら配本を適正にするために通信費までいただいているのですからね。」と答えた。情報がタダで手に入ると思ったのかもしれないが、そこまで私はアホではない。

便利で手軽は人間をダメにする

 つまり、もうおわかりかと思うが、このAmazonに代表される現象は、グローバリズムなのである。Amazonも宅配便もケータイ電話も近代科学が作り出したもので、その進歩、進展は「人間を疎外する」ことしかしないものである。これは、いみじくも近代社会が人間を機械の奴隷にしてしまう状態を描いたチャップリンの「モダンタイムス」と同じだ。この社会傾向は、市場原理主義を突き詰め、ひたすら儲けるために人と人を切り離していく風潮なのだ。人のつながりは手間暇のかかるものである。そういう社会を壊して欲望だけを募らせていくものが、グローバリズムといえる。しっかりと長い文を読む力をブチ壊して、チラチラ見るだけでお得な情報を獲得できたかに見せるスマホ、ネット、ツイッターやブログ・・・・こういうものはどんどん人間を壊していく。人と人をつなぐ目的で発明された通信網が、人と人を遠ざけていくというパラドックスは、笑いが出てくるほどおもしろい。そして、それに無意識で乗っかっていく現代人。手間暇をかけないことで時間的余裕を生み出そうと思ったのに逆に時間に追いかけられていく不思議な現象がある。
 まあ、前述の図々しい「会員」のことを書いても、彼女は、この記事をここまでは読む力がない。自分のことが書かれていることもわからない、それ以前に自分を見つめることもしないで、反省もしない。ネットが相互交流の場になるなんてのも嘘。ネットなどほとんどの人が流し読み、拾い読み、飛ばし読みだ。このこと自体、どんどんネットの内容が劣化することにつながっていくことだろう。個人の深い思考のツールになることなどありえない。
 私が、いつもこのニュース一部閲覧で長々と文を書くのは、じつは「読まれないことを前提」に書いているのである。一度電気が通ったものなどを通して、人間に人間の思考や心、気持ちがきちんとつながるわけがない。けきょくは生身の人間が何も介さずに言葉を交わし、息遣いや表情を読み取らなくては真実は見えてはこないわけである。
 しかし、科学の発達は、どんどん無目的化して、人間が本来必要とするものからかけ離れたものになっていく。最終的に困るのは当の人間なのだが、表面の手軽さ、便利さ、安価さに引きずられて機械やシステムや企業の奴隷になっていくというわけである。これを傍目(はため)で見ていると実におもしろいものである。私はスマホどころかケータイも持っていないが、そういうものがないと不安になったり、不便さを感じる人間を哀れに思っている。「初めはこれがないと人間関係がつくれない」とか能書きを垂れていた人間が、すぐに依存になるおもしろさ・・・これを見ているだけでも笑いがこみあげてくる。自分たちは進んでいるという錯覚、便利で手軽なものを享受しているという思い込み・・・その中で確実に進行していく「人間疎外」と「つながりの分断」と「孤独」・・・寅さんのおいちゃんのセリフではないが、「馬鹿だねぇ・・・ほんとに馬鹿だよ。」を繰り返したくなる。

百年前と千年前

 しかし、この手軽で便利を手に入れるにはそれなりのお金も必要なのだ。豊かでなければ、スマホも車もAmazonもつかえない。そうなるとお金を求めることとなる。企業の方は、あの手この手で金を必要とするような仕掛けを組む。そのために自分の時間や静かな生活を切り売って、お金を得て、さらに忙しい生活となる悪循環。
 これは、まさにいま日本で、豊かさを追求するあまり子どもをよそに預けて働くことが当然になったり、車や家を持つことが生きる目的になったりしていることでわかることである。
 現代の日本人は、まるで鼻先にニンジンをブル下げられて、突っ走る馬のような生活をしているのだ。静かな生活よりも豊かで便利で手軽な生活・・・・お金があることが安心の根拠なのだから、なくなれば「おしまい」と思うことだろうし、少なくともお金集めが人生の目的となる。これでは、個人的には芥川の「杜子春」の人生になってしまう。金を鼻先につりさげられて走る馬・・・・この追求の先には大きな破局が待ち構えていることが、この馬たちにはわからない。もちろん、まじめに働いている日本人の多くも・・・・。
 ときおり、私は笑ってしまう。子どもに絵本の読み聞かせをしようとするのは、精神的な豊かさや余裕を与えるためなのだが、その親が馬車馬のごとく多忙のなかに引きずり込まれている姿は、これまた逆説現象でお笑いである。このことをさすがに、頭の良い漱石は文明論集で現代の状態をすでに見抜いていた。百年前のことだ。いやいや千年前に、「徒然草」の著者・吉田兼好も見抜いていた。
 あなたがたも高校で教わったことだろう。兼好は「名誉や利益の使いっ走りになって、静かな時も持たず、一生苦しむのは愚かなことだ、財産が多ければわが身を守ることもむずかしい」と言っている。百年前に漱石が見抜いた現代は、千年前に兼好が見抜いていた人間の本性そのものだったというわけだ。(特別増ページ一部閲覧)



(2014年4月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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