ブッククラブニュース
平成25年5月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせでお困りのケース
@1歳前後 参考意見

1)読み聞かせは、早期教育ではない。

 いつから読み聞かせが可能か?・・・「生まれる前から耳が聞こえるのだから生まれたらすぐに始める」という考えもあります。でも、子どもの発達を見ていればわかりますが、とにかく注意力が散漫というか何にでも興味を示すというか、1歳前後ではなかなかすぐには読み聞かせに応じてはくれないことが多いものです。早期教育が叫ばれた時代には、「とにかく読んでやれ!」という風潮が強かったのですが、乳幼児にほんとうに必要なことは知識教育ではなく、「人間づくり」や「心の形成」であることがわかり、早期教育は活発ではなくなりました。過度な詰め込みをすると、それが人間性の崩壊や暴力事件に結びついていったからです。そして、知的教育は言葉が分かるようになってからでいいという結論に達したのでした。それでも、受験教育を受けてきた親にはまだ根強い早期教育願望があります。けれど、読み聞かせは、そういう親が期待するような効果はすぐ出ません。
 考えてみれば、赤ちゃんのときから「これはこれ、あれはあれ」と物と名を一致させるだけの量攻め学習が後で障害になることは素人でも予測がつきますが・・・・最近の親は自然な成長を待てないのかもしれません。読み聞かせは成績をよくすることが目的ではなく頭をよくすることが目的なんです(笑)。
 まずは親が楽しんでください。それが子どもに伝わり、自分の相手をしてくれるものが絵本だということがわかればすぐ乗ってきます。

2)とはいえ、読み聞かせを生後十か月くらいから始めてもなかなか集中してくれないと親は焦る。

 でも、本に関心があることが見えるはずです。ペラペラめくる。触る。開けば指を指したり、「これは・・・」などというと声を出して反応する・・・個人差はありますが、、この傾向さえあれば読み聞かせを聞き取ることができるようになるまで数か月はかかりません。早ければ11ケ月、遅くても1歳前半にはきちんと聞けるようになってきます。ここは、親の根気なのですが、じつはさほど根気もいらないのです。
 この時期の子どもは、一日刻みで発達が見られます。今日は這った。今日は立った。今日は「ウマウマ・・」と言った。相手をしたい気をマンマンにしてくれる成長です。ま、この時期から2年くらいは、もうこちらの気を引き付けるに十分な発達をしてくれますから根気など必要ないでしょう。
 とにかく飽きることがない発達の状態で親を楽しませてくれます。絵本を開いて、「ほらネコさんよ。赤ちゃんのネコがにゃあにゃあ!」なんて言うと乗ってくる日も出てきます。とくに動作絵本は反応が大きいです。「いないいないばあ」はもちろん、「おつむてんてん」や「こんにちは」「おやすみ」などの挨拶動作はすぐに覚えて繰り返します。(ニュース増ページ5月号増ページ一部閲覧)

ゆめやが読み解く昔話
Bしたきりすずめ

 おじいさんに助けられた雀が、障子の張り替えに使おうとしていた糊(のり)を食べてしまい、おばあさんに舌を切られて逃げ出します。おじいさんが雀を追って山へ行くと、雀たちが恩返しにご馳走したり、踊りを見せてくれたり。
 帰るときにお土産として大きい葛篭(つづら=物を入れて運ぶ籠)と小さい葛篭のどちらを持って行くか雀たちに聞かれ、欲のないおじいさんは小さい方を持って帰ります。家に帰り着いて、中を見てみると小判がぎっしり詰まっていたという恩返しの話ですが、今度は欲の深いおばあさんが、大きなつづらをもらおうと雀の宿に押しかけていきます。そして、強引に大きい方を受け取って、途中で開けてみると中には妖怪や虫や蜥蜴や蜂や蛙や蛇が詰まっており、お婆さんは腰を抜かし命からがら逃げ帰ります。それから、おばあさんも欲をかかなくなったという話。

だんだん伝わらなくなる

 失敗や不幸に陥ることを避けるために、昔はいろいろなことを物語や歌で伝えた。近代になっても字の読めない人がいたから昔のことの多くは歌で伝わっている。「♪・・・むかし、むかし、浦島は・・・」、「♪・・・桃太郎さん、桃太郎さん・・・」、「♪・・・裏の畑でポチが鳴く・・・」・・・みんな物語が最後まで歌で語られる。全部聞けば、物語全体がわかる仕組みで、字が読めない人には便利だ。これを生み出した人はすごいと思うが、それも百数十年で忘れられ、若い世代は昔話を知らない人もいる。浦島太郎の歌を最後まで歌える人などいなくなってしまった。でも、子どもたちには昔話の真のテーマくらいは伝えたいものである。
 さて、「舌切り雀」。このテーマは簡単で分かりやすい。「欲が深いと後で大変なことになる」・・・欲の深いおばあさんがあれもこれもとツヅラに詰め込んで、持ち帰るととんでもない物が飛び出すことになるが、これは個人レベルの教訓。現代風に焼き直せば、欲深にいろいろ手に入れると、後で嫉妬とか苦悩とか破綻などの不幸が飛び出すということだろう。あれが欲しい、これが欲しいと欲張って、やがて「家庭崩壊」なんてものが飛び出さないように無理なく、楽しく暮らしたいものだ、と思う。つまらない便利品のために、せっかく出会った夫婦の関係、一期一会の子どもとの絆を断ち切りたくはない。(ニュース五月号増ページ一部閲覧)

鬼が出るか、蛇が出るか?

 成長、成長、経済成長・・・国が言う「豊かさの追求」は、ほんとうに生活の中に幸福を生みだしてくれるとは思えない。そのために生活を犠牲にして、子育ても犠牲にして、あわただしく生きていかなければならない毎日が来る。たしかにツヅラの中には次々と便利なものが詰め込まれるが、後になって「不幸」が飛び出してくる怖さは電力危機で、もう体験済みだ。妖怪や虫や蜥蜴(トカゲ)、蜂(ハチ)や蛙(カエル)や蛇(ヘビ)くらいならカワイイものだが、国レベルになると戦争とか放射能とかトンデモないものが飛び出すからほんとうに怖いです。欲は適度に抑えたほうがいい。「足るを知る」のが大事なのだ。やはり、小さなツヅラがいいのです。【教訓】欲が深いと、あとのシッペ返しも大きい。

伝わって行かない体験

 先日、ある新聞記事を読んでいてびっくりした。「こんなことを頭の良い科学者がいまごろ気が付いたのか!」というものだった。読んだ人もいるかもしれない。こんな記事だった。
 「親が赤ちゃんを抱っこして歩くと、赤ちゃんが泣きやんでリラックスする仕組みを科学的に検証したと、理化学研究所の研究チームが発表した。18日付の米科学誌カレントバイオロジー(電子版)に掲載された。子が親に運ばれるとき、おとなしく丸くなる反応は、ライオンやリスなどヒト以外の哺乳類にも共通しているが、その仕組みは分かっていなかった。チームは、生後6カ月の赤ちゃんを腕に抱いた母親12人に、約30秒ごとに座ったり歩いたりという動作を繰り返してもらい、赤ちゃんの心拍数や泣く時間を調べた。その結果、母親が歩き始めた約3秒後に心拍数が低下してリラックスした状態になり、座っているときに比べて泣く時間が約10分の1になった。赤ちゃんのおなかを親の体につけるように抱いた方がより効果的だった。」・・・というもの。
 しかし、子どもを育てたことがある人なら誰でもわかっていることである。

ヒトがサルだった時から

 これについては以前、このニュースで、「人類がまだサルだったときに母親の背中で揺られたり、抱っこされて移動するときに快さを感じるよう遺伝子に組み込まれている」と述べたことがある。
 だから、親は子どもがグズると無意識に抱っこしたり、オンブしたりしてあやすのである。別に統計的・科学的に証明されなくても、誰もが組み込まれた遺伝子で無意識に行っていることなのだ。最近では「泣き止まないから車に乗せて移動する」という方法まで考案されている。振動は子どもにとって快いことは昔からわかっているわけで、グズる子どもをあやすには、こんな科学的解明などまったく不必要、ちょっと試行錯誤をすればすぐにできることである。こういう体験で伝達されていくべきことが実は伝達が途切れている。上の科学的証明など、証明されたことがないから報道されたのだろうが、あまりにもバカバカしい証明である。
 こうなると、子育て情報は山ほどあっても、余計な情報が多くては選択するのに困るだけの話となる。(新聞増ページ一部閲覧)

新一年生を持つ会員へ

 新一年生の配本を手にして、「内容が、ずいぶんかんたんになってしまったのではないか?」という感覚を持つ方々も多いかもしれない。『ゆめやさんも年齢対応を間違えているんじゃないか!』という感じで話してくる会員も実際いる。就学前に「ピーターのとおいみち」とか「おおはくちょうのそら」とか高度な内容のものが配本されたのに「いちねんせい」、「かわいいこねこをもらってください」なんて短い文すぎる! 「なにをたべたかわかる?」なんて短文の絵本じゃん! 「よい子への道」!・・・漫画みたい!と思われる方もいるだろう。しかし、これには理由があります。その目的は新一年生にプレッシャーを与えて、本嫌いのきっかけにならないような仕組みなんです。
 弁解を言わせてもらえば、なんと言っても一年生は毎日が緊張の連続、「学校に入ったんだから本は自分で読む」というプレッシャーも受けている。読み聞かせなら耳が開いているから「何でもござれ!」にはなっているが、自分で読むのはシンドイ子も多いのだ。そのために基本配本では月1冊しか配本しない。こんなときに「高度で長い本をたくさん読め!読め!」では、本が嫌いになってしまう。やはりその時期に合わせてのステップアップ。
 ここはひとつ、谷川俊太郎先生の「いちねんせい-わるくち」で、「そうだ!そうだ!」と共感し、「よい子への道」でケラケラ笑える余裕がほしいのである。自分で読んで行く自信をつける糸口なんだから楽しさは必須条件なのだ。不足な方は副読本を加えていくことにも喜んで応じます。二学期の本は、何度か親が読み聞かせをしてください。

これからのゾロリの話をしよう

 先日、いくつかの公立図書館長を歴任された方が、憤懣やるかたない様子で「ねえ、ゆめやさん。県立文学館が『かいけつゾロリ展』を開催するのを聞いた?」と話を始めた。私に反対のノロシを上げてもらいたいかのように・・・。もちろん県立文学館が企画したゾロリ展は知っている。しかし、「文学館がゾロリっていうのは合わなくない?」と言われても、私は困るだけだ。ゾロリについては、ブッククラブのこの新聞で「ありゃダメだ!」と何度も言ってきた。「ゾロリだけを読んでいたら読書なんかできっこない!」と思っている。
 しかし、私が反対したところで文学館が耳を貸すわけもない。子どもの読書を推進する人たちが、子どもの読書を妨げるものについて何ら発言して来なかった結果が出てきただけじゃあないか・・・。いわば自業自得の結果である。
 公立の文学館や美術館が質の良し悪しはともかく、人気のあるものを展示するのは人寄せパンダで、集客が目的だ。公共事業で建てたものが利用されないと税金の無駄遣いだと批判されるからである。ならば、人気のあるもの、大多数が知っているものを展示すれば人が集まる。なんだってそうじゃないか。ある商品を売りたければ、人気俳優、人気タレント、人気スポーツ選手を使うのと同じだ。商品とその人気者はほとんど関係がないのに・・・。でも人は買う。


 県立美術館がアンパンマン展を開く。集客のためだ。文学館がゾロリ展を開く・・・たくさんの入館者が来れば何でもいい、ということである。利用状態の向上のためには背に腹は代えられない。入場者を多くするために、文学館が名作映画鑑賞と銘打って、映画「かいけつゾロリ だ・だ・だいぼうけん」を上映しても法律に触れるわけではない。要は、県民に批判力がなければ、行政は何だってやるのだ。行政に良識など期待するほうがおかしいのである。
 そして、低俗なものでも行政がやれば、「これは良いもの」と思うのが一般民衆である。そうすれば、どんな粗悪なものも、行政のお墨付きをもらったわけだから大手を振って世の中でまかり通る。これから、ますますゾロリは一般化して学校図書館でも代表的作品として並ぶことだろう。

人みな宣伝に走る

 山梨県立図書館も映画「図書館戦争」のロケ場所だから、これを良いきっかけに宣伝して、来場者を多くしたい。本来の機能などどうでもよくなっているといえばいえる。実際、開架書棚には「忍たま乱太郎」のシリーズが並んでいるし、ザワザワしているのは人気のある証拠、ということにもなる。利用されれば何でもよいという発想だ。かんたんに言えば、市場原理主義がここまで浸透してきているわけである。
 佐賀の武雄図書館なんかもっと凄いよ。TSUTAYAと組んで集客力アップ、CD,DVDの販売から貸し出し、喫茶までやる。効率、集客、一儲け・・・市場原理はとどまるところがない。
 その一環が、今夏の山梨県立文学館・夏の特設展「あそぶぜ!かいけつゾロリのおたのしみだいさくせん〜原ゆたかとゾロリのなかまたち」・・・小学生が対象なら「遊ぶぜ!怪傑ゾロリのお楽しみ大作戦」だろうが・・・読めなくては低学年が集まらないかな。これからのサブカルチャーは、行政が認めるから、どんどんどんどん子どもたちに浸透する。行き着くところまで行かないとわからない風潮。誰にも止められないが、行き着くところで何が起こるのだろう。(新聞・増ページ5月号一部閲覧)

再び「本の壁」 4,7,11歳

 この春、何人かの就学児ブッククラブの会員から、「二月号の新聞の記事は、子どもが小学生なっている親が読むより幼児を持っている親が読んでもらった方がいいと思う」という話があった。そこで、転載して幼児を持つ方々にも読んでもらうことにした。以下、二月号の就学児向け新聞の一部転写です。
 とにかく忙しい時代です。時間に追いまくられている状態の子どもたちも多いでしょう。いまや大人だけではなく子どもまで余裕がない時代になってしまいました。一か月に一冊の本さえ読むことができなくなる忙しさが出ています。
 しかし、本を読むことはとても重要なことなのです。なぜ本を読むことが重要か!
 私が、なぜ「読書」を薦めたいのかというと、子どもが大きくなったときに、表面的な情報に左右されたり、人の意見に流されたりしないためです。いま、本を読まなかった大人が山のように増えてきて、批判力や自分の考えを出すことがなくなってきました。出版王国と言われていますが、じつはくだらない本がこれまた山のように出ているだけなのです。
 こういうものだけを読んで、自分の頭で考える力を失うと、いろいろなことが見抜けなくなり、不幸になっていくのですが、それさえ考えられない人々も多くなっています。
 たとえば「日本国憲法は押し付けられた憲法」という意見が出たときに、本を読んで、憲法が出来上がったときのことを知れば、当時(戦後、憲法を作ろうとしたとき)の日本人が考えたものは、「明治憲法の焼き直しにすぎなかった」ということがわかります。つまり本は詳しく精密に書かれているので、自分の頭で考えていくことができるわけです。そうでないと、声が大きい人にどんどん影響されて、目先の判断しかできなくなってしまいます。すべて、自分の考えがなければ流されるだけ。だから読書は大切なのです。言っておきますが、すぐれた本の読書ですよ。本の形をしたくだらないものもいっぱいありますから・・・。

読書挫折

 ブッククラブ内部でも以前に比べて読書挫折が多くなっています。それはそうですよね。時間がない。塾、お稽古事、スポーツ。息抜きに読書は重たすぎる。さらに、これだけ子どもの気を引くものが溢れていたら読書などバカバカしくて・・・となります。読む子は逆にとんでもなく読むのですが、読めなくなる子との二極分化が進んでいるように思います。もちろん、ブッククラブで配本している本のレベルでの読書挫折です。ゾロリなどの軽い本は読めてあたりまえですが・・・まったく、いろいろな意味でむずかしい時代となりました。
 以前から、子どもが育っていくとき、子どもの前に本の壁が現れました。4・7・11という本の壁。4歳、7歳、11歳で本離れの壁が立ちふさがるのです。まともな本から離れたり、拒否反応が出る時期です。
 4歳くらいでの挫折の原因は、自動車や電車の図鑑などを大量に与えられて関心が偏ったり、戦隊ものやアニメに狂ったりで離れます。ブックククラブでは読み聞かせの効果もあって、ここで挫折してしまう子は一握りですが、7歳の壁は強力です。何と言っても読み聞かせから一人読みへ移行をしなければならない時期ですが、学校ではゲームの情報やサブカルの情報が子どもたちの話題のトップになります。当然、ネットゲームやゲームセンターの遊びなども・・・。

読書が苦痛になる

 これに影響されて本から離れていく子は多いのです。中学年が一番の山場なのでしょうね。最期は、11歳・・・これはもう学習や習い事、スポーツ練習などが読書に壁を作っていきます。ただ、ブッククラブでは、ここまで来ると残ってきた子にはすでに読む習慣ができているので、わずかな時間を見つけては読書する子も多いので本離れは少ないのです。・・・だから、やはり危機は低学年のときです。
 中学年の読書状態について配本を読みこなせなくなっている状況について、あるいは月一冊の配本ですら手をつけられないまま過ぎているばあい、原因について何か思い当たるふしはないでしょうか。当然、家庭や個人によって違いますが・・・ちょっと観察してみてください。
1. 内容がむずかしいと感じている様子がある
2. 漫画など軽読書にしか関心が向かない
3. 電子ゲームへの関心が強くなり本へ行かない
4. ケータイ、パソコンなどへの依存傾向がある
5. おしゃれ、ファッションなどに強い関心がある
6. スポーツ、外遊びなどで疲れが出てしまう
7. 塾、学校の課題、お稽古事などが多い・・・

対策

 原因別の対策について・・・@Aについては、配本グレードの変更や物語の分野の変更で対処できます。これについては個別に御相談ください。状況を詳しく教えていただければ、適合グレードのものに変更します。
 ただB以降の原因は家庭や学校の環境の問題であるため、なかなか効果的な対策がありません。これまでのケースでも、ほとんどのばあい、結果的に読書から離れる傾向となります。あまり本から離れるばあいは、配本の打ち切りを視野に入れてお考えください。無理やり「配本を読みなさい!」という圧力は、将来どこかでまた読書に復帰するときに障害になります。無理に強いると義務的に読む感覚になり、本が楽しいものでなくなってしまいます。
 過去(幼児期)の絵本の読み聞かせや自分で本を読んだ記憶は目に見えないところで大きな成果をかもし出しています。現状ではそれが見て取れないことが多いのですが・・・・・大きな力になっているはずです。ただ本は楽しくなくては本ではありません。いろいろな思いがあるでしょうが、環境の改善を先決にして、「本はまたいつか読めればいい」とお考えになったほうがいい方もいるはずです。無理強いするのは私どもも不本位ですので、お考えください。(2月号夢新聞本文転載)



(2013年5月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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