ブッククラブニュース
平成24年11月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせ・Why&Because・・・D

W・・・なぜ、幼児の図書館利用を薦めないのか?
B・・・幼児には所有していないものは無いに等しい。

 最初のことですから読まなかったり、読み飛ばしたりしているかもしれませんが、配本プログラムに同封するご挨拶の文に、「図書館などを利用して発達不適応の本を大量に与えるより、何度も何度も読んであげてください。配本はいずれ増えていきます。図書館を利用する暇があるなら、ぜひ外の世界で現物を触ったり見たり聞いたりする時間に当ててください。」と書いています。これは、ブッククラブ開設当初から必ず参加された方へ配本プログラムを送るときに添付しています。
 「本屋だから図書館をよく思っていない」と思われる方もいるでしょう。しかし、ゆめやはそれほど狭い料簡(注/考え、思慮、分別)ではありません。子ども(幼児)にとって、本を借りてきて読むということが良いこととは思えないからです。
 まず幼児での図書館の利用の問題点は、上記の理由のほかに・・・
1. 発達不適応の本が山ほど目につくので、子どもはそれを要求する。当然、見ばえだけで選ぶから自分の年齢に会っているかどうかはわからない。親は要求されれば借りてしまう。
2. 一回の貸し出し冊数も多いので、読み聞かせる回数が1冊が1,2回で終わる。これでは何度も読み聞かせることで内容が把握される幼児の読み聞かせではない。読み聞かせをフラッシュカ−ドのようにしたらまったく無意味。
3. 本の扱いがゾンザイになる。

粗悪な本も並びます

 幼児にとって絵本はたくさんの数が必要ではありません。発達に応じて与える数とすれば月に1〜2冊で十分で、4歳以後でも月に3冊は多いくらいでしょう。読み込まなければ、内容が自分のものにならないので、そうそう多くの本は必要ないのです。それに1歳児には1歳児の本、5歳児には5歳児に適したものがあります。その両方に適したものを探す方がむずかしいのです。それから図書館は公共事業ですからすべての人のニーズに応えますので、粗悪な本も並びます。粗悪な本は刺激的で目につきやすいですから、子どもはすぐに手に取ります。

子どもに本を選ぶのはむずかしい

 「この子に適切な本はどれでしょうか?」と聞いても司書が教えてくれることはまずありません。「お子さんが好まれるものなら適切だと思います。」くらいが答えとして戻ってきます。で、借り出しは無料ですから(館によっては一回で15冊も借り出せるところがあります)、ついつい子どもの選択と親のテキトーな判断で借りてしまいます。無料だし、たくさん借り出せるし・・・それが結果的にはかなりコワいものがあるのですが・・・・。 でも、返却したら、その時にはもう子どもの頭に内容はまったく残りません。 なかには「絵本は買うと高いから借りる」と言う親もいます。たしかに借りるよりは高いのは当たり前です。でも、そう言う方は、その言うくせにファミレスでは何千円も平気で使い、子どもにもケータイを持たせて、一か月の通信料にアップアップするようなケースもあるのではないでしょうか。 「タダより高い物はない」ことを知っておくべきです。ま、それもこれもすべて自己責任。どれを選ぶかは本人の自由に任される時代です。

図書館を利用する人にいろいろ言わない

 そういう人たちにゆめやは「お子さんには絵本がいいですよ。お買い求めください!」とは言いません。「どうぞ図書館をお使いください。」「ダウンロードできる無料の絵本の読み聞かせアプリもいいんじゃないですか!」と言います。そういうことは個人の自由だからです。たまにそんな方が来店されることもありますが、4歳、5歳にもなった子が「この本、借りていく!」と本を引きづり出すのには笑ってしまいます。それを見てお母さんが「ここの本は図書館の本じゃないのだから、丁寧にね。」などと言うのを聞いてさらに苦笑ですが、図書館の本ならゾンザイに取り扱っていいのか、悪いのか・・・幼児に本を借りるというのはいろいろな問題をはらんでいます。

量より質、数より回数 本より体験

 公立図書館は「公共事業」です。住民があまり反対しない箱物事業でもあります。昔は、さほど力を入れなかった児童室や幼児への貸し出しが最近メインになっているのは、やはり女性労働力が必要なので「母親にやさしい行政の事業の一環」としてのアピールがあるのでしょうね。行政側にとっては利用者が多ければそれでいいので、それ以上のことはしません。当然、図書館には個別にサービスするシステムはありません。 ブッククラブの方は、みなさん御承知かと思いますが、絵本は量より質です。つまり本の数ではなく読み聞かせの回数です。さらに大切なことは体験。町を歩く、物に触れる、よく見る、それがまた想像力を増して、読書の質を高めることにつながります。これも、すべて親の考え方、生き方ひとつにかかわるものです。親子が読み聞かせを楽しみ、やがて子どもがきちんとした読書に向かえるかどうか・・・その判断は皆さんご自身の気持ちひとつです。

学校図書館について

Eかなりレベルが低くなってきた

 学校図書館についてシリーズで書いていたら、お母さま方からいろいろお便りをいただいた。多くは私が指摘したような状態が、それぞれのお子さんの学校で起こっていて、「知らなければ子どもが借りてきたものが適切なものではないことに気が付かなかった」というものだった。親には、まだ「学校図書館には適切な本ばかりが置いてある」という思い込みがある。「学校が薦めるものに悪いものがあるわけがない」「読書指導の方法に不適切なものがあるわけがない」と思っている。それが、このシリーズで少しは払しょくできたなら、それはそれでいいことだと思う。つまり、何でもいいから読ませようとする学校がかなり劣悪な本を導入している実態がわかってもらっただけでもいいと思うのだが、これが学校図書館だけではないことも報道されている。右は今月一日の新聞記事だが、「2010年度に公立図書館から小学生が借りた図書数が一人当たり年間26冊になった。調査開始以来最高数」というものである。

公立図書館よ!おまえもか・・・

 この報道記事の数字だけ見れば、ものすごい伸びでそれは「公共図書館の快挙」だ。ところが、文科省のコメントは「マンガなどで歴史を教える読みやすい本が公立図書館で増えたせいではないか」という分析結果である。「景気低迷による買い控えも原因ではないか」とある。いずれにしてもさびしい話である。 年間26冊がブッククラブで配本しているような児童書であれば月2冊以上となる・・・これは大きな読書履歴だが、学校図書館にも置いてあるようなマンガ日本史、マンガ科学もの、マンガ偉人伝であれば、26冊では少ないくらいの数である。その気になれば一時間で1冊くらいは読めるのがマンガ○○○なのだからさびしい。

マンガが開架書棚に置かれる

 それに公立図書館が、これらのマンガ○○ならまだまだいい(本当はよくない!)が、まさか開架書棚に「忍たま乱太郎」や「ワンピース」あるいは「若おかみは小学生」なんかが並んでいたら怒るよ、ほんとうに。そんなことがあるはずもないが、どうも最近の傾向を見ていると、NHKのニュース9でも「ワンピース」絶賛だから、ありうるかもしれない。こういう購入費も税金なんだから湯水のごとく使われたらたまらない。そんな本は図書館が購入する本ではなくて個人が買い求める本だと思うのだが、この本末転倒の時代では、そうじゃないらしい。歴史書、哲学書から始まってマンガまで何もかも行政がやってくれるのなら、こんな良い国はないのだが・・・。そうだとしたら、図書館に「AKB48・UnderGirls写真集」とか「嵐/ARASHI LIVE TOUR Beautiful World」をリクエストしたら、見たい人、聴きたい人が多いので購入してくれる可能性もあるかもしれない。

冗談はこのくらいにしたいのだが・・・

 公立図書館が、集客イベントを行うとき館員や司書たちがマツケンサンバを踊ったり、着ぐるみ、ぬいぐるみで人寄せパンダを行うのは珍しいことではないそうだ。そのうち「ももいろクローバー」やAKB、SKEに扮して踊ったり、歌ったり。それが開かれた大衆的図書館ということなのだろうか。いやいや、そんなことになれば、それは図書館のサブカルチャー化である。そうなれば、まさかとは思うが「特命戦隊ゴーバスターズ」のコスプレを着て人集めをする図書館も出て来るのではないだろうか。 いやいや痩せても枯れても知の拠点である図書館である。そんなイベントは拒否して、清く正しい読み聞かせ会や調べもの相談会、読書相談会などで切り抜けるとは思う。間違っても漫画家のサイン会や講演会はやらないだろうし、質の低いアニメDVDの貸し出しなどやらないはずである。 ところが実際は、公立図書館も学校図書館もどんどんどんどんやることのレベルが低くなっている。冗談はこのくらいにしたいのだが、前に述べたように「嵐」関係の本を置く学校図書館があったり、これまた前にも述べたサブカル本「リアル鬼ごっこ」や「クビキリサイクル」などを購入する学校図書館さえあるのだ。これは司書が中身に目を通しているのかどうかまったく疑問である。こういう本は読む子どもによっては危ないことになりかねないのだが・・・その辺はどう考えられているのだろう。

大衆迎合もいい加減にしないと・・・

 こんなことに目クジラを立てていたら、時代についていかれないのかもしれないが、それにしてもすべてにおいて「レベルが低くなってきた」と感じるのは私だけだろうか。それとも、これが「子どもの本の最先端」なのだろうか。ポピュリズムもいいかげんにしないと大変なことになる。 さらに子どもの本関係の雑誌、研究誌を読んでも、この風潮について述べたもの、あるいは子どもの本関係者の批判の声が聞こえない。子どもの本の専門家たちも学校の先生も声を挙げない。まったく不思議な話だ。・・・ちゃんとした本を読まれては困ることでもあるのだろうか。内実は不明だが、劣化は止められないということである。

読み聞かせの日々

D読み聞かせが一番楽しいとき

 3歳児は、ストーリーの流れをつかむ力が飛躍的に増大するので、かなり複雑な筋立てのものや、かんたんなオチのあるものまで楽しめるようになります。 しかし、数や数字に対する感覚は、まだ希薄なので、力が出たからといって早期教育的な教え込みをするのは、どうかと思います。たしかに記憶力が最高潮に達するので、どんどん覚えていくし、信じられないほど細かい部分への観察力も働きます。たいていの親が「自分の子どもはすぐれた力を持っている」と思う時期でもあります。もっと伸ばしたいという気持ちもわからないでもありませんが、この段階で『約束事』の世界へ入れてしまうのは早過ぎると思います。「これはこれ」「あれはあれ」「AはA」「1は1」・・・こういう約束事は頭を硬くします。まだまだ「これはこれでもあり、あれでもある」「あれは私でもあり、あなたでもある」「Aは『あ』でもあり、『エー』でもあり、その他のものでもある」「1は、リンゴひとつでもあり、アリが1ぴきでもあり、1番速い1でもある」という柔軟さがないと想像力が止まってしまいます。読み書きソロバンだけに習熟させたかったら、それの教え込みでもかまいませんが、マニュアルの習熟だけでは、それを越える思考力が育たなくなります。

字を覚えることは大したことではない

 ときおり、「字が読めた!」と鬼の首でも取ったように報告して来られる方もいますが、何と返事を返したものかといつも困ります。喜んでいるのに水を差すのも悪いし、その調子でずっと教え込みの世界に行かれても困るし、でも日本は明治以来、ずっと「読み書きソロバン」が教育の軸でしたからしようがないですよね。絵本も「字が読める、書ける」を目的に与えている人もいるのですから。 しかし、字が読めるのは単純な約束事の世界。オムツ外しと同じで「1歳半で外れたから2歳半で外れた子より優れている」ということはないのです。約束事は、いずれ誰でも覚えるものです。日本人なら小学校一年の二学期に五十音が読めない子は1%にもならないでしょう。早いか遅いかより、どのくらい多様に物が見られるか、ということに主眼をおくべきだと思います。

アプリを使う危険な未来

 ところがですね。最近、タブレット型のPCで、ひらがな・カタカナを覚えるアプリ、漢字を覚えるアプリなどがどんどんできていますので、子どもの先が読めない親は「便利!便利」と、どんどん与えます。頭が固くなるくらいはいいのですが、おそらく今後15年くらいでトンデモナイ子どもができ、おかしな大人になるでしょう。この傾向は、田中文部科学大臣でも止められませんから、我々は、自分の子どもたちが学校や世の中で異常者にならないように見守っていくよりありません。 3歳児は、約束事から離れて、イメージの世界に遊べる能力を十分に持っています。動物とも話せるし、木や石とだって意志が疎通できます。だから、それを抑えてしまったら、その後の人格形成に大きく影響することになるかもしれないのですが、世の中は上述のとおりの風潮が進んでいきます。

まだ外遊びはさせたほうがいいくらい・・・

 さて、三歳児は外遊びも活発になるので、二歳のころに比べると読み聞かせの回数が減ってくるのはふつうのことです。でも、読み聞かせより外遊びはさらに大切です。この時代は、子どもたちの心を襲う粗悪な玩具やメディアがあふれているので、それを家庭内で、どう排除するかも重要問題であります。おそらく排除はし切れないでしょう。アンパンマン、ノンタン、ピカチュー・・・質の悪いメディア媒体のキャラクターが大手を振っていて、これで子育てしている人も周囲には多いのです。ブッククラブ会員の中でも読み聞かせは内容も高まって順調に進む時期ですが、家庭によっては、このような「その他の問題」で壁に突き当たる家もあるでしょう。まあ、周りがそうだからお付き合いで・・・しかたないですよね。しかたない、しかたない・・・。 男の子では自動車や怪獣・TVキャラクターなどへののめり込みが、始まる年齢ですが、この結果がどうなるかはすでに見えています。 これに反してまともな絵本は、登場する動物たちや植物・自動車などを通して、人間の世界や心をイメージさせるものです。図鑑のように知識の集積で事物(=名称)の数を増やすものではないわけですが、多くの親は知識が多ければ頭良いという信仰がありますから、これはもう家庭の方針で与えるかどうかを決め、あとは自己責任です。 「好奇心」さえ育てれば、子どもは十分に必要な知識を後からいくらでも獲得していくものです。特定の物への関心で好奇心を他に広げられなくなったら、そこですべてが止まることを意味します。3歳で覚えた知識など5歳までも持ちません。だから、3歳児にはもっともっと空想を広げられる絵本を与えてあげたいものなのですが・・・。

できれば・・・避けたいサブカル環境。

Eサブカル依存にならない人もいる

 サブカルチャーが何を目指しているのかはわかりませんが、全体の流れを見ると「偽物を本物に近づけようとする傾向」があるように思います。3D映画・・・これは実物に近づける試みです。液晶画面やハイビジョン撮影は映像をより本物に見せるための開発が進んでいます。ロボット・・・これも最終的に人の形を目指すものでしょう。マンガやアニメは別のような気がしますが、じつは快い世界や刺激的なことを実現する方向で夢や望みを現実化できると錯覚させるものです。FacebookやTwitterは、仮想の人間関係を現実にあるかのようにつなげるものでしょうし、なにより科学技術は無いものを有るもののように、偽物を本物にという方向で動いています。医学でも工学でも現実をそういう非現実なものに近づけようという働きが見られます。クローンは偽物を本物に見せるものですし、話題のiPS細胞もまさに偽物の量産というふうに考えることもできます。

精神異常が起こる可能性

 こういう現実の世界から目を背けるような傾向が起きて来ると、とんでもないことが平気で起こるようになります。1999年の夢新聞で、「十五年後は子どもも大人もおかしくなる」という予想を書きました。実際に起こっていると、その「異常」に気が付かないものですが、新聞を読んでもテレビを見ても毎日理屈では考えられない事件や事故が起きています。政治も経済も・・・・理解しがたい現象に満ち溢れてきました。学校でも地域でも。ケータイの進化やアプリの多様化で、これはもっと進むでしょう。依存症から始まる精神異常が、これから始まると思われます。ですから、子どもを加害者にも被害者にもしない防御が必要となってきます。そのためには、サブカルチャーからできるだけ遠ざかっていることです。避け切ることはできませんが、最小限での防御となります。

すべてがそうなるわけでもない

 クラスで一人を多くの子がイジメても必ずイジメない子がいるように、あるいは国全体が戦争に入って行っても反戦の人がいるように大多数が間違えたことをしていても必ず数%は大多数と同じことをしない人がいます。実際、テレビを見ない人も多くなっていますし、少数ですがケータイを持たない人もいます。その次の時代を生きるときにどうするか・・・大人は今を生きますが、子どもは次の時代を生きていきます。サブカルの進化は止められませんが、破綻した時に次の時代がやってきますので、その準備をしておく必要はあります。(このシリーズは今月号で終わり)



(2012年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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