ブッククラブニュース
平成24年10月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせの日々

C二歳から三歳は天才です

 2歳児になると親ばかりではなく、周りの人との会話もじょじょに達者になり、言葉で意思の疎通ができるようになります。もちろん、ちっともしゃべらない子もいますが、耳(聴力)に問題がないかぎり、読み聞かせた言葉や日常の言葉が十分に頭に入っているので、心配することはありません。
 行政の検診などでマニュアル通りの保健師さんから「言葉が遅れていますね」などと言われて深刻に悩む親もいますが、言葉の早い・遅いは個人差。知的遅滞は、言葉でなくてさまざまな反応などからわかりますので、心配は無用なのです。
 しゃべり始めのときには信じられないくらい絵本の中の言葉を、それも、場に応じてひじょうに上手に使うようになります。そして、この時期は、読み聞かせの手ごたえが最初に感じられる時期でもあります。また親を驚かせるほど天才ぶり(物がわかる、素早く言葉を覚える、暗記する・・・)も発揮します。成長の過程では自然な成り行きなのですが、親は驚きます。ついこの間まで言葉も発せず、物事がよくわからなかった子が、びっくりするような力を発揮するのですからね。これには親は驚きます。この成長は、おそらく親の育てる意欲を高めるためのものなのでしょうね。自然はほんとうにうまく仕組んでいますよ。それなのに、このところ、こういう可愛い盛りの子どもが実の親に殺されてしまう事件が頻発しています。子どもの成長を感じ取れない「親とは言えないような人」が増えてきたということです。原因は何なのでしょうね。ははははは・・・そんな問いかけは無用ですね。原因はもうわかっていますが、この社会はまだその原因となることを推し進めています。

この時期の特徴は・・・

 さて、そんな親のことや子どものことはどうでもいいでね。まずは読み聞かせで育てている二歳児のことです。二歳・・・この時期の大きな特徴は、空想力が増すことです。それまで暗くても平気で寝ていた子が、暗い所では怖がって寝なくなったりするのも、この空想力増大が原因です。ふつう、大人にとって「暗闇は物が見えなくて危険、だから不安」という感覚になりますが、2歳児は逆に、暗闇に物が見えてしまうので怖さを感じます。赤ちゃんは暗闇を怖がりませんが、想像力が高まると暗いところで物が見えてきます。と、言うより、ある物が他の物に見えるわけです。
 例えばマリー・ホール・エッツの『もりのなか』というモノトーンの絵本がありますが(ほとんどの方に入ります)、子どもたちは、この本の絵から、他の物の形を感じ取ります。木の葉を見て「舌がでている」と言ったり、石を見て「カメさんがいる」と言ったりします。大人には木の葉や石にしか見えませんが・・・。もの凄い想像力で物を見ているのです。この力の高まりは、3歳の物語絵本を読み聞かせるときの重要なものとなります。大人は物語を客観的に理解するだけですが、2歳後半からは絵本の世界に入り込んで主人公と「同体化」することができます。これこそが読み聞かせの成果でもあります。

2歳では、まだ

 まだ展開の激しい物語や長いものは受け入れられません。2歳初期では、単純な繰り返しの絵本、例えば『おおきなかぶ』。後半になって前述の『もりのなか』などが適切なものとなってきます。まだ、大きくスジが展開する物語にはついていけません。
 しかし、単純なストーリーのものではあるけれど、しっかりした文章語で構成されている絵本へ急速に移る必要もあります。文章語の持つ論理的な緊張感には慣れが必要なのです。会話語(おしゃべり言葉)だけに囲まれて育つ子は、文章語(書き言葉)の論理的な緊張感に耐えられませんから、どんどんキャラクター絵本やアニメやマンガに引きずり込まれていきます。おしゃべり言葉は、楽で快いかもしれませんが、じつは矛盾したことが語られても何となく流れていきます。私たち大人が交わす会話でもそうですよね。さっき言ったことと違うことを今言っても笑顔や動作などでごまかされて不審に思うことはない、それが会話語です。ところが文章語ではそうは行きません。前ページで書かれたことが次のページで違ったら、おかしい!と感じます。
 また、テレビや漫画などの会話語だけで育った子どもが、文章語の物語に拒否反応を示すことが多いことからも、早いうちにしっかりした物語文に慣れさせることが重要になるわけです。ブッククラブでは、3歳になったらすぐに文章語の物語絵本に入れるように2歳代でしっかりとした読み聞かせの基礎ができるように配本を組んであります。これも、読書ができるように育ってほしいという思いからです。考えても見てください。マンガの吹き出しにあるようなおしゃべり言葉ばかりで育った子が、きちんとした文章語の本を読んでいくことなど考えられません。書き言葉への慣れが出てこなければ、とうてい読書はできないことでしょう。(増ページ十月号一部閲覧)

できれば・・・避けたいサブカル環境。

Dおかしいと思わないおかしさ

 「流行のものや若者たちのグッズをいろいろ言うようになったら老人だ」と言われますが、私はもう老人なので「老人だからこそ言うぞ!」という傲慢さで言うことにしています。すでにサブカルに浸食されてしまった若者たちを心配するからではないのです。国をあげてサブカルを容認しているのだから、もう止めることなどできません。おそらく、多くの文化や民族が最終段階では、このような状態になっていくのでしょう。それは昔も私としては「異常になりたければ勝手にどうぞ!」なのです。前回述べたようにサブカルを原因とする異常(おかしい)な事件は次々と起こるでしょうが、多くの人は気にも留めず日常は流れていきます。そして、異常(おかしさ)を異常(おかしい)と思わないようになっていくわけで、これはおかしいことなのですが、世の中ではおかしいことではないのです。言葉遊びをしているわけではありません。私が言い続けているのは、これからの子どもたちの周辺に対する心配だけです。

レベルダウンする意識

 テレビではおバカ番組や一日中アニメ番組というチャンネルなどでサブカルチャーが流され、まったく良い・悪いの規制がありません。メリハリがなく規制の薄い社会では人の意識はだんだんレベルダウンしてくるものです。緑色の髪の毛にしようと、肌を露出しようと、アニメ・フィギュアを集めようと、「人の迷惑にはならないからいい」という意識のレベルになっています。当然、それに子どもは遭遇しますから、見ています。周辺で「あれはダメだよ」「バカがやっているのだよ」ということを言わなければ、子どもは「世の中はそういうものだ」と思い込むでしょう。それは物事に鈍感になっていく心をつくっていくことでもあります。こういう環境ができると、相手のことなど何も考えない、つまり相手を意識することもない、ひじょうに鈍い精神のレベルまで落ちます。「恥ずかしい」とか「人前だから」という感覚は生まれません。こんな状態が周辺に日常、長時間あって、批判や分析などがなかったら子どもの心だって変ってしまうでしょう。私は、それを心配しているのです。「心配することはない。子どもはそういう中でもちゃんと育っていく!」と思う人は、どんどんサブカル環境を与えればいいです。どっちみち規制はないのですから何でもありで与えられます。

さらにディスプレイの中では

 さらには、あらゆるデイスプレイの中では、ヴァーチャルな世界が広がっています。ここで依存が起きれば、当然、ヴァーチャルなことが現実だと思いこむことも起きるでしょう。現実をまともな目で見ていくことなどできなくなって、バーチャルなことが展開する「おかしな」こともおかしく感じなくなるのです。
 これは、子どもの成長をいちじるしくゆがませます。どうなるか。相手が不快に思おうと、怖がろうと、当の本人はまったく相手のことを考えなくなるのです。もっと凄いのは、当人が相手を不快に思わせようとも怖がらせようとも思ってもいないことです。これはイジメの問題やストーカーの事件を見ているとわかりますよね。つまり、悪いことをしているという自覚がありません。一種のゲームの感覚、スイッチを切ればすべて元に戻るくらいにしか思っていないのです。
 コスプレだって同じです。昔はおかしなファッションをするのは周囲に対して自分をアピールしたり、主張することだったのですが、今やアピールの意識すらない単純な自己快楽にすぎなくなっています。そういう意識の人間に子どもたちをしたくないのですがね。(増頁十月号一部閲覧)

読み聞かせ・Why&Because・・・C

 W・・・なぜ、弟や妹の読み聞かせは同じ本ではいけないのか?
 B・・・なぜなら、兄姉の本は読み取りにくいところが多く、タイムリーではないから・・・・。
 年齢が離れた兄弟姉妹ならともかく、年齢の近い兄弟姉妹だと、とかく絵本タイムに同じ本を読んでしまいがちです。下の子は、いつも兄姉を意識して、背伸びをしようとしますから、自分用の本よりお兄ちゃん、お姉ちゃんの本を読みたがります。
 親も面倒なので、ついつい同じ本を読み聞かせてしまいます。しかし、聞いているようでいてじつはきちんと言葉が入っていないことが多いのも事実です。子どもというのは、いつも大量に言葉を受け入れますが、その時期(年齢・月齢に応じて)難しい言葉、理解できない言葉は、その場で右から左に聞き流してしまいます。
 それはそれでいいのですが、物語のテーマのレベルでも同じことが起こるので、できれば下のお子さん用の絵本タイムを設定し、月齢に応じた絵本を読み聞かせてもらいたいと思います。  とはいえ、これは言うに易く、行うに難しいことです。
 家族はだいたいが決まった行動をして、たとえば食事時間を二重にすることができないように絵本タイムもなかなか二度は取れません。でも、とりあえず以下のようなことを心がけていただけばありがたいです。
 兄姉のいないときに下の子に読み聞かせる時間を取る
 兄姉は父親、下の子は母親というように分担して読み聞かせる
 同じ読み聞かせ時間なら、必ず下の子対応の本を1,2冊先に読む・・・などがアドバイスとなりますが、どうでしょうか。
 絵本をタイムリーに与えてきた兄、姉と下のお子さんを比較してみてください。上のお子さんのように「ピタっとした読み聞かせ感がない」と感じることはありませんか。なんとか時間や方法を工夫をして絵本の楽しさが共有できるようにがんばってみてください。(ニュース十月号一部閲覧)

学校図書館について

Dどこもかしこもポピュリズム・・・

 今夏、甲府で「かいけつゾロリ」作者の原ゆたかさんの講演があった。そこで彼はこう言っていた。「子どもにはおもしろい本が必要で、おもしろくなくては子どもの本とは言えない。」・・・なるほど、たしかに的を射ている言葉だ。子どもにしても大人にしてもおもしろくなくては読み進めることはできない。
 ただ、言葉の上では、この理屈は正しいと思うのだが、よく考えてみると「おもしろさの質」について述べられていないから、「おもしろくなくては子どもの本とは言えない」と、単純に断言できないような気がする。
 つまり、おもしろさにはグレードというものがあり、「血ぃ、吸うたるぜぃー!」というギャグで笑い転げる人もいれば、苦い顔をする人もいるということである。
 例えば、テレビのお笑い番組でもバラエティ番組でも何でもいいのだが、ある番組を見て「おもしろい!」と言う人と「くだらない!」と思う人もいるわけで、ここでは「おもしろくなくては視聴者のための番組とは言えない」という理屈は通らない。おもしろがる人とそうでない人がいるのだから、ここでは、まず番組の質が問われなくてはならないと思う。
 くだらないものを面白がる人もいれば、そうでない人もいる。このことは考える必要があるのだ。あるおもしろを、すべての人が面白がるとは思えないということ、その視点が原さんの見方では欠け落ちている。やはり、質を考えることは必要だ。

子どもに媚びたものは受ける

 子どもの本で言えば、「マジックツリーハウス」をおもしろがる子と「空を飛んだポチ」をおもしろがる子、「チキチキバンバン」を楽しめない子と「くまのパディントン」を楽しめない子・・・さまざまだが、おもしろさには、このように質の上下があることを原さんはわかっているのかどうか。
 絵本で考えても「アンパンマン」や「ノンタン」を喜ぶ子が、「からすのぱんやさん」や「さむがりやのサンタ」を喜ぶことができるかどうか。
 これらの問題は成育環境で作られた感覚そのもので、小学生の段階で変えようとしても変えられないものである。いわゆる子どもに媚びたものにハマってしまう子どもがいれば、「それはそれまでだ」ということ。そこから高度な読書に進んでいく子どもは稀である。あきらめるよりない。現代は、質の低いものが大手を振って歩く時代だから、子どもに媚びたものをつくれば、当然、それが受けて人気になる。そういうのがおもしろいという子どもが多勢を占めるから
 もちろん、小学校中学年で少年少女古典文学やロアルド・ダール、佐藤さとるが楽しめなくてもいいが、「かいけつゾロリ」や「マジックツリーハウス」では、とにかく読書の先行きが心配だ。多くは高学年でも「若おかみは小学生」「サバイバルかがくるBOOK」(マンガ)程度にとどまり、とうていふつうの読書などできるものではなくなる。

迎合する時代

 いま、子どもの本の世界で最大の問題は、この低レベルものを推し進める風潮である。出版社は、より売りたいがために子どもの傾向に媚びたものを作り、出版する。学校図書館は吟味することなくTRC(図書館流通センター)あたりの情報を鵜呑みにして買い入れる。司書が膨大な出版点数から選書するのはむずかしいだろうが、書籍の図書館納入は公共事業の一パターンであることを知るべきである。たとえば、TRCは日本出版販売を背後にした取次店の集合体のようなもので、公共事業として図書館へ食い込んで売っていく組織である。彼らは売れれば何でもいいので、「現在は、こういう本が子どもに人気がありますよ。蔵書にどうぞ!」という形のデータを流す。それを受けて品ぞろえをする図書館も多いから、あたりまえのことながら児童書の蔵書の質は下がる。
 原さんの言う「おもしろいから読む」・・・この原則は否定しないが、高校の図書館で貸出ランキングのベスト10の中に「デュララ」(電撃文庫)や「戦国BASARA」のようなサブカル書籍が入っているようでは世も末なのである。こういうものも、「よく読まれている本」としてリストに挙げていることだろう。これは世の中の流れに迎合するもので、子どもの読書をガイドするものではないと思う。
 当然、こんなシリーズを山ほど借りて読んだところで何のたしにもならない。極端にいえば「読まない方がいい」くらいである。

「悪貨が良貨を駆逐する」

 ・・・という、この言葉はインフレになったときの経済用語だが、現在の出版界でも図書館の世界でも言えることである。良い本はどんどん絶版になり、しようもない本が書店でも学校図書館でも幅を利かせている。この用語は、本の世界でも適用でき、「悪本が良本を駆逐する」と軽佻浮薄な文化(AKB48やオタク文化)や治安の悪い状態が起こりやすい。ま、悪人や劣悪な事件がはびこるような状態で、もう少し、子どもたちにかかわる大人が儲け主義ではない行き方をしないと大変なことになりかねないのである。でも、世の中の傾向はどんどん悪化だ。そこをうまくしのいで、自分の子どもを良貨にするためには、やはり質の良い物を与えること、そして、きちんとした価値観が身に着くような家庭で育てること・・・子どもをそれなりの環境で育てれば「それなり」に育っていくことをもっと大人は知るべきだと思うのである。子どもがしようもない大人に育ったときに苦しむのは親だ。手抜きの子育てが大流行の時代だが、やはり、きちんと接して、共通の時間を長く持ったほうが子どものため(ひいては親のため)にも良い結果を産むと思う。悪貨になるより、たとえ駆逐されても良貨でいたほうが結果的には勝ちだと思う。(十月号増ページ一部閲覧)



(2012年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



ページトップへ