ブッククラブニュース
平成24年7月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせの日々

A情報化時代はいろいろ大変です
10ケ月以前の読み聞かせ?

 最近は、「早期教育」の影響か、「生まれてすぐの赤ちゃんも耳は聞こえているのだから読み聞かせをしましょう」という話をよく聞きます。私は「確かに耳は聞こえるのだろうけれど、なんだかなぁ・・・」と思っています。赤ちゃんといっても実際にはお母さんのお腹の中で十か月の間、生物の進化・五十億年を繰り返してきて(単細胞→多細胞、魚類から哺乳類の原型まで)生まれたばかり。まだ這うこともできない単純な哺乳類。生まれてすぐに触覚で物を認識することは始めます(まずはオッパイを飲むことから)が、本を与えてもほとんど意味がない、ように思います。生後8,9ケ月になってさえも物は触ったり放り投げたり、しゃぶったりの対象です。認識能力は段階を追ってじょじょに発達していくので、平面にプリントされた事物を見せる読み聞かせが可能になるのは、いくら早くても9ヶ月をすぎないとダメでしょうね。読み聞かせをして、じっと聞いている様子を見せたり、笑ったりするのは親の声や動作に反応しているだけなのです。
 こういう時期には、ほかにやらなければならないことがいっぱいあります。もっとも、BCの会員は10ヶ月からの方ばかりなので、「その前にやることがあったなんて! 失敗したぁ!」と思う方もいるかもしれません。でも、まだ時期が時期で大人が思うようにどんどん受け入れることもないので、読み聞かせをしても悪い影響はありません。その意味では心配無用です。

快い・不快が最初の区別

 育ててみれば分かりますが、6〜9ヶ月の赤ちゃんはあらゆるものをペロペロしゃぶり、口に入れたり、手で握ったり、投げてみたり、そりゃあさまざまなことをします。でも、これも大切な認識作業です。快いもの、不快なもの、食べられるもの、食べられないものなどを判別しているのです。もちろんダッコやオンブで親が自分を守ってくれる存在であることを肌で感じとらせることも重要。こういうことを十分やっておかないと、大きくなったときに察知能力がついていませんから、思いもかけぬ事故を起こすことがあります。触覚認識の時期には「触らせる」。それが発達対応です。ですから、絵本の読み聞かせなんかより、ふつうの語りかけのほうがいいというわけです。そのほうが赤ちゃんは集中しますし、喜ぶ。それが自然だからです。
 確かに赤ちゃんだって物は見えますから、きちんと見てはいます。ただ、平面にプリントされた図形や絵はわかりません。でも、よく言われる話ですが、赤ちゃんには最初から大まかな図形認識の力が備わっているようです。と、言っても絵本に描かれたような図形や事物がわかる機能ではありません。ごく単純な形を快さと不快だけで反応する力なのです。例えば丸顔の人には快さ、角ばった顔の人には不快感を表す。また、柔らかな音、優しい声など音響的なことでも同じようなことが起きます。一定のdb(デシベル)以上の音になると不快感が増して泣いたりします。赤ちゃんのそばで太い声で大声を出すと、泣き出す例をよく見ますよね。これは、自分を守ってくれるものとそうでないものを識別していく能力なのでしょう。つまり、「親」というものを特定していく活動のひとつなのです。この時期は、親がキリキリ声で怒ったり、熱湯を浴びせたり、固い床に放置したりしては、・・・そんなことする親はいませんが・・・(笑・ときにはいたりしますが・・・)。
 その後、赤ちゃんや幼児は、だんだん多様なものに慣れていきますが、けっこう大きくなってもまだその能力が働きます。もう2歳くらいで私をよく見知っている子と話していても、急にヘルメットをかぶってサングラスをすると「ギョ!」としたような表情になります。泣き出すことも・・・。これも経験的に慣れていたものが突如不快なものに変化したときの反応でしょうね。

言葉や絵で見る時期ではない

 やはり発達にはそれなりの意味があり、それを十分にしておかないと後で支障が出ることがあります。いきなり立って歩くよりハイハイが必要なのと同じです。そういう時期にはそれなりのことをする・・・「何事も早ければよい」というものではないでしょう。 生まれてから数ケ月間は、なるべく特定の保護者が優しく語りかけたりあやしたりする。これは、つまらない子育て情報などではなく、親が自力で「どう赤ちゃんに応じるか」を試行錯誤することでもあります。
 背中に背負ってゆらゆらする安心感、目を合わせて語る心地よさ、温かい、冷たい、固い、柔らかい・・・など赤ちゃんは多くの多様な感触を経験しながら脳を発達させていくわけです。物を特定していく最初の作業をしているわけです。親が親であること、赤ちゃんが「特定なもの」への集中を高めていくことで、何が何なのかがやがてわかっていくわけです。その時期、その時期で集中力は増します。目を見つめて話しかける時間も長く持つことです。その後、自由に動けるようになったら、いろいろなものを掴ませる、触らせる、舐めさせる・・・など、昔は、あたりまえのこととして赤ちゃんに行われてきたことですから、やらせましょう。とくに触覚による認識力を高める期間は必要です。これが十分に行われないと一歳を過ぎても紙と本の区別がなかなか出来なかったり、ページをペラペラとめくることだけがおもしろいという子も出てきてしまいます。読み聞かせの前の準備段階でも、その時期の発達にあったことをしていかなければならないというわけですね。(ニュース・一部閲覧 7月)

できれば・・・避けたいサブカル環境。

Bただちに精神に影響が出るものではない・・・

 時折、「ここまでゲームを与えないで来ました。」「最近、ゆめやさんはゲームやケータイのことを何も書きませんが・・・」と自分の生き方を応援してくれるように話す方もいて、また、そういうお便りもたくさんいただいて、「まだまだすべての家庭がサブカル化で崩れ去っていないのだ」と思うこともあります。左の写真はドイツ在住の会員(高学年女子)が送ってきたものですが、「お母さんが買ってくれないので紙で作った」というDSです。ドイツの日本語学校でさえ、そこまで「普及」しているわけです。
 「囲い込み」で生きている日本人の社会では、物事の良し悪しを判断しないで、みんながすることが良いこと、みんながしないことが悪いことという判断がされがちで、いつも少数が負けていきます。おそらく、もう防ぐのは無理でしょう。そして、行き着くところまで行って、破たんを見て、ようやく気付くということになるでしょうね。
 だから、「ゲームを与えて良いか、アニメを見せて良いか」などという質問には、私は、こう答えることにしています。「こういう時代ですからね。しようがないと判断したら与えてもいいんじゃないですか。個人責任ということで・・・。」内心では「悪いと思ったら与えなきゃいいじゃねぇか」と思いますが、回りの目を気にする日本人は「免罪符」がほしいのでしょう。私なんかが「OK」と言ったところで免罪符にも保険にもなりませんが・・・。まあ、「ただちに精神に影響が出るものではない」と、誰かさんのように言うことはできます。目に見えないものは内部に入ると大変なことを起こしていきます。サブカルは放射能と同じで個人差があるから困ったものです。あまり被害を受けない子もいれば、大きな影響を受けてゆがむ子もいるのです。それでも、影響が出る限りは、できるだけ避けてもらいたいと私は思っています。

大人の問題でもある

 DSやゲームボーイは入学祝や誕生日プレゼントで買ってもらうわけですから、これは大人の問題でもあります。遊ぶ時に自分の子どもだけが持っていないという不安。これには、与えたくないと思う親も耐えられません。ダメなものはダメと言えません。これは、学校図書館でディズニーアニメやジブリのアニメ本が蔵書となっていることに文句が言えないのと同じです。そんなことを言ったら、自分の子どもがイジめられるかもしれないという恐怖感が手伝うのです。
 その結果、影響が出ます。高学年の男子のほとんどがゲームでつながっていて、日常のヒマつぶしがゲームですからディズニーやジブリ好きな子どもが嵐やAKBにハマり、テーマパークだけが楽しみになるというのは流れです。親自身がそういうサブカルに侵されているのですから、そういう親の子は当然、そうなるでしょう。学校の先生ですらゲームやPCで育った世代、平気でゲームの話題を教室で口にする時代なのです。バーチャルなものだけが生活の中に入り込み、子どもはフワフワした夢やカワイイものだけを見て育っていく。何も考えず、いつまでも幻想に浸って行く。原発で避難している人たちに「ディズニーランドご招待で心の癒し」ということまで行われたわけですが、そんなもので現実の悲惨さがごまかせるのですからスゴい世の中です。大津の「自殺の練習」だって友人たちはマンガから得たヒントでのゲーム感覚だったのかもしれません。これは学校だけでなく世の中のいたるところで起きている現象で、理屈に合わないこと、異常な言動、狂った行動など・・・まさに何でもありの状態になっています。いちいちあげていたらキリがありません。おそらく、最近の事件の原因になるもののほとんどは、サブカルチャーが源なのだと思います。

せっかく夏になっているのだから・・・

 現代の子どもは、お稽古事や塾などに時間を奪われて十分に遊ぶ時間がなく、少ない時間をテレビゲームや芸能関係の雑誌、マンガで休息に使っているわけです。これは遊びではなく気晴らしや息抜きにすぎません。
 小学校、中学校の時期の子どもは体を精一杯使って、気持ちも体もワクワクする経験がないとまともな大人にはなれないと個人的には思っています。こういう遊びが想像力を高めますし(つまりこの体験のない子どもは高度な本が読めないのです。想像力がないから)、物事を吸収する原動力にもなります。結果として考え出す力、工夫する力も生まれてきます。
 こういう遊びを画面上のゲームでするのではなく、実際に自然の中(町の中でも可能)で行えば、いやおうなく楽しみながら「遊び」を積み重ねられるのです。まともな教育学の本を開けば、子どもの遊びについて、「自分の手で行うことができる」「冒険の可能性を感じ取れる」「仲間と共有できる秘密がある」「努力が必要な遊びをすることで達成感を持てる」「自分の居場所を考えられる」など、「遊び」がものすごい効力を持つことが書かれています。これは体を使わねばできないことです。夏は、まさにそのチャンスの時期でもあります。テーマパークやランドマーク見物のために新幹線のホームや空港でDSをしているさびしい子どもにしないためにも、子どもをサブカルから一時的にでも引き離して、仲間と組んで遊べる時間を作ってやりたいものです。場所は山、川、海・・・広場でも横丁でもいいのですから・・・・。(新聞・7月号・一部閲覧)

読み聞かせ
hy&Because・・・B

W・・・なぜ借りた本はダメなのか?

 B・・・ブッククラブのプログラムを最初にお送りするときに、「ご挨拶」の文が添付してあります。おそらく読んでないですよね!(笑) ニュースのバックナンバーが一年分も分厚く入っているので、ほとんどの方は「ご挨拶」は読みません。
 でもそこには、こうあります。
 「図書館などを利用して発達不適応の本を大量に与えるより、何度も何度も読んであげてください。配本はいずれ増えていきます。図書館を利用する暇があるなら、ぜひ外の世界で現物を触ったり見たり聞いたりする時間に当ててください。いっぺんに大量に与えるより何回も読み続けるようお願いします。」ということを書いています。

神話を信じないこと・・・

 幼児(赤ちゃん)の図書館利用は、一般常識となりつつあります。これは行政が宣伝していますし、その行政の周辺にいる人たちは幼児を持つ図書館利用の推進に力を入れています。当然、それはマニュアル世代の親の常識になり、潮流になっています。若いお母さんの中には、赤ちゃんを連れて図書館へ行くことを「ライフスタイルにしなくてはならない」とさえ思っている人も少なくありません。
 このように一般人は宣伝に弱く、行政が奏でる「神話」をそのまま受け入れます。でも、3・11以来、そういうことが嘘くさいことがなんとなく、私たちにもわかってきました。図書館事業も公共事業ですから、どこかで嘘が出てくるのでしょうね。公共事業でできたものは利用されていないと批判を受けるので、さまざまな方法で利用を薦める「神話」を作るわけです。
 でも、上の挨拶文のようなことを言うと「この人、おかしいんじゃない?」とか「絵本が売れなくなるから言っているんじゃない?」と多くの方から言われることでしょう。作り出された風潮の常識化はすごいものがあります。自分が儲からないから言う・・・それほど、ゆめやは、「尻の(失礼)穴」が小さく(笑)ないのですが・・・。

山ほど借りても効果のほどは

  公共図書館は利用率を数で計測しますので、いくらでも(十冊以上のところが多い)借り出しOKです。だから赤ちゃんでも平気で十冊(二週間)は借りられます。これでは毎日1〜2冊読まないと消化できません。タダだと「1冊だけ借りて帰るより、たくさん借りたほうがいい!」という気になりますよね。しかし、ここでも「タダより高いものはない」という定理はちゃんと生きています。貸し出す方の無責任もね。「この本は、お子さんの年齢では合わないと思いますよ。」なんていう図書館員はいないことでしょう。
 赤ちゃん(幼児)にとって読み聞かせは回数によって成り立つもので、次から次に本が変わったら、まずもって中身を楽しめません。さらに本を返却してしまえば、赤ちゃん(幼児)にとっては、本も中身も「無いに等しい」ものです。まして1回、2回しか読まなかったものは頭の片隅にも残らないのです。偏差値教育で育った親は、「たくさん与えればそれだけ効果がある」という信仰を持っている人がいますが、とんでもない! 赤ちゃん(幼児)にとって「次から次へ」は「百害あって一利なし」。読み聞かせはフラッシュカードではありません。図書館利用の幼児(3歳以上)を見ていますと、「これ知ってる!」「これも知っている!」と言いますが、知っているに過ぎないもので、中身を自分のものにしている子はまずいません。きちんと読み聞かせをされている子は、知っていても何も言わないものです。

幼児にとって絵本より大切なこと

 発達に合わない本を山ほど借りて返す・・・そうすれば、本を乱雑に扱うことにも慣れていく・・・図書館慣れしている子の本の扱いの悪さは定評があります。親が「ここの本は図書館の本とちがうのよ!」と、たしなめるくらいはいいのですが、そのうち物を大事にしなくなることにもつながっていきます。この時期に教えなければならいことは本の中身ではなく、さまざまなものをどう扱うかということでしょうね。「育ちをよくする」ということはそういうことです。
 絵本より大切なこと・・・それは実際のものを見たり、聞いたり、感じたりすることです。近くの動物園にいく、近くの草むらにいく、川辺に行く、八百屋さんに行く・・・庭でアリの行列を見てもいいし、空の雲を見てもいい。なんでもいいのです。現物を見ること、聞くこと、感じること・・・これが十分に行われないと、大きくなってから想像力が働かなくなって、本を読めなくなることでしょう。

W・・・なぜ、寝る前が絵本タイムか?

 B・・・眠気が絵本の世界に入り込むひとつの力になるからです。
 1歳児の読み聞かせは一日に何度してもいいですが、2歳ともなれば行動が活発化して一日に一回くらいになります。読み聞かせの時間は、どこのご家庭でも寝る前の時間にシフトしていくでしょう。時間は短くてもいいから毎日繰り返せば、その積み重ねの効果は大きいので、2歳児なら3冊も読めば十分です。そんなにたくさんの本を読み聞かせる必要はないのです。本棚からたくさん持ってくるお子さんもいるかもしれませんが、それはそれで、子どもの眠気とのかねあいとなります。眠気が出る直前は、絵本の世界の中に入っていくのにちょうどいい頭の状態になります。就寝儀式としての読み聞かせが効力があるのは、このような意味があるからです。フトンのなか、あるいはお母さんの膝の中・・・子どもは誰よりお母さんの声、やさしい抱っこが好きなのです。そこから絵本の世界に入っていくわけで、何かを覚えるために読み聞かせを聞いているわけではありません。(ニュース・一部閲覧 7月)

学校図書館について

B読書は個人的な体験である
芸能本まで・・・

 来店の会員の間でも、また発送している会員からのお便りでも学校図書館の問題がいつも取沙汰される。多くは「貸出競争に困惑」のことだが、学校図書館の蔵書の問題も多い。ときには、「私自身の常識が狂ってしまったのではないか?」と思わされる話も出る。たとえば、「子どもたちからのリクエストで人気グループ『嵐』の単行本が常備されて、借り出し予約殺到!」とか、スポーツ選手・芸能人の本などが人気とか・・・それはそれでいいのだが、学校図書館が置くべきものなのかどうなのか・・・そういう本が蔵書にあること自体が??? いったい誰が選んで誰が許可をするのか・・・わからない。それに比べれば、前回出した「ゾロリ」「マジックツリー」などかわいいものである。
 リクエスト、ニーズに応えての選書と言えば聞こえはいいが・・・はたしてどうなのだろう。図書館蔵書を子どもに選ばせる学校もある。たしかに民主的だが、子どもたちの頭はテレビメディアや雑誌の情報でいっぱいだから、当然それに影響された本ばかり選び、「悪貨が良貨を駆逐する」ことはあきらかである。

風潮に逆らえない

 これに対して心ある親は学校に何も言えない。自分の子どもが学校である意味「人質」になっているのだから、蔵書の批判などして自分の子が「いじめ」を受けるのも恐ろしい。学校は多様な子どもを取り扱っているわかけで、いい加減な子育てをして常識が崩壊している親も多い。相手は数が多いのだ。割って入る判定役の教師ですらもはや信用はできない。教師自身が親たちに何も言えなくなっているし、芸能本やアニメ本があっても違和感を持たない先生方も多くなっている。親は、さらに劣悪である。母娘ともに「嵐」ファンだったり、AKB48のファンだったりするから芸能本の揃えを学校図書館に要求することだってありえるだろう。
 と、いうより、大手出版社では学習雑誌に「芸能」を記事化していることが多い。教育産業が毎月出す学習用の月刊誌でさえ高学年では芸能情報が入る。芸能・スポーツの情報は小学生の世界ではもはや一般常識なのだ。当然、芸能、スポーツはあたりまえのジャンルになっている。(これは十進分類ではどこに入っているのだろうね?)もし、ある親が学校に「『嵐』や『SMAP』の本を図書館に入れるのはいかがなものか!」と言ったりしたら、「読書力のない子もいるのだから・・・こういう本からでも活字に親しんでもらって・・・」などという返事が戻ってくるだろう。とにかく赤ちゃん絵本が置いてある学校図書館さえあるのである。

図書館の成果を描く新聞記事

 「子どもたちの読書に成果を上げている学校」と学校図書館の成功例が、よく紹介される。「読む力がついた」「深く考えるようになった」「一万ページの読書量を目標にしたら子どもが本を開くようになった」などという記事が新聞によく載っている。
 例えば、埼玉のある学校のケース。「隣接する中学校と図書館を共用していて、読書力のない中学生がかんたんな本を読め、本好きの小学生が逆に高度な内容の本を読む姿が見られる。」・・・蔵書量は小・中合わせて一万三千冊、絵本やマンガ、大人向けのベストセラーまで置いてあるらしい。学校司書が子どもの読書相談を引き受け、指導するという。ここでも「語彙が目立って増え、速読力が向上した。」というすごい成果が記される。小学低学年で漠然とした気持ちの表現しかできない児童が、同校では理由を述べた上で「だから嫌だ」などと話す子がいて司書としては「語彙力が増えたと感じる」などの効果があるらしい。
 しかも、この学校では公立図書館とデータベースをオンライン化して結び、貸し借りを可能にしている・・・記事を読む限りでは、たしかに学校図書館として意欲的な試みをしていることはうかがえるが、ほんとうのところはどうなのだろう。
 こういう、いいことづくめの話にはいつも裏がある。まず学校規模を調べてみると、その小学校は児童数三百人、中学校は五百人。司書数は一校一人で二人、データベース利用数は一年間で公立図書館から百五十点、学校間で百四十点・・・もし、前述の効果を上げているとすれば、この数では効率が良すぎる。効率が良い割にはデータベース利用も少なすぎないか。さらに小・中合わせてタッタ二人の司書が、個別の読書指導をするなら、とんでもなく忙しくなるはずだ。一日五人ずつでも一人の相談時間が10分でも一時間近く。さらに、この数字にはインターネットでの調べ学習や数値目標を掲げた借り出し競争の「見かけの利用数」もあるのではないかと疑いたくなる。
 通常、小学生は、その学齢に適した本を月に四、五冊読むくらいが普通で、それでも多いかもしれない。繰り返し読む必要もある。そのばあいは二、三冊でも多いほうだ。もちろん濫読期には本を次から次へと読む子もいるが、そういう子は百人に五人以下。読書は、個人的な体験なので、個人差は出るのは当たり前で、やはり個人的なものに無理やり介入しないほうがいい!と思いたくなる。

図書館には質の低い本を置くな!

 学校図書館は、利用の程度など考えずに質の低い本は置かないようにすればいいのだが、読まない子を読ませようと妙につまらないことをするところが多い。心ある司書は、粗悪・劣悪な本を置くことに抵抗感もあるが、しょせんは悲しき宮仕え。あまり逆らって馘首にでもなったら大変なので、多くは流れに身を任すことが多い。どうせ、いくら頑張ってみたところで、読書は個人的なもの・・・親が自分の子でさえうまく導けない読書の世界をわずか数分しかつきあえない司書が何ができるか、と考えれば何もできない。
 考えてもみよう。幼いころからアンパンマンやディズニー漬け、戦隊ものやプリキュアで育った子に、小学校に入ったからと言って、「マトモな本を読んでくれ」というのは無理というものだ。家に帰ればマンガが山積み。アニメDVDが山積みでは、学校図書館の試み自体が無意味化する可能性のほうが大きいのである。それでもしないよりしたほうがマシとでもいうのだろうか。いずれにせよ、読書(小学校中学年くらいから)は個人的な体験である。どう感じたか、どう思ったかの蓄積がその後に影響を与えるわけで、低学年で理屈っぽくなったからといって、論理性や分析力がついたという判定は早計である。理屈にだって屁理屈もある。やはり、質の高い本で、静かに批判力や疑問を形成して成長していくことが先決だと思うのだが、あなたは、どう思いますか。(新聞・七月号・一部閲覧)



(2012年7月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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