ブッククラブニュース
平成24年7月号(発達年齢ブッククラブ)

昔は誰も子どもだったが、

 大人は、どうしても物事を「現在の自分中心で」見てしまって、自分がかつて子どもだったころのことを忘れてしまうものです。若いころに、サンテグジュペリの「星の王子さま」のフレーズを、あれほど噛みしめていたはずなのに、子どもだったころの自分を忘れている私がいるのを知って愕然とすることもあり、なんともはや大人になるということは悲惨なことかと思います。
 赤ちゃんが曇りのない瞳でじっと見ている光景、幼い子どもが人形に語りかけている内容・・・そういうことがわかっていたはずなのに、いつのまにか見えなくなっていたり、聞けなくなっていたり、これが大人になること。そして、老いるということ・・・子どものころを頻繁に思い出さないと、どんどん考えが枯渇していくのを感じます。
 しかし、このグローバル化社会では、目先の欲だけで動き、だれがどうなろうとかまわないという意志をもたないと生きられないのかもしれません。それでも、「子どものころを忘れる」というのは、索漠としてくるものです。「こういうとき十一歳のときの自分はどう考えたのだろうか?」「こんなとき、四歳の私はどう反応していたのか?」・・・それは、たとえ「その時」を思い出せなくても大人として考える必要があるのではないか、と思うのです。
 野田首相や小沢一郎さんだって子どもの頃があり、今とはまったく別な美しい国や未来のことを考えていたでしょう。東電の社長たちも子どものころは、これほど非常識で厚顔無恥ではなかったはずです。大人になると、どういうわけか子どもの頃を忘れきり、「そんな子どもみたいなことでは生きてはいけない・・・」という考えに浸食されていきます。

支えてくれるもの

 大人になっていくと、自我が強くなって孤独になり、目先の欲で生きていくわけで、欲が深くなると人が信じられなくなります。競争社会で生き残らねば消される・・・という状態では相手を思いやったり、声なき者の声を聴く余裕もありませんよね。政界も電力会社も力で相手をネジ伏せて浮かび上がる世界なのでしょう。「国民など無知でバカ」「消費者などこちらの思うがまま値上げに応じる」・・・と傲慢にもなります。そういうところでは、仲間を助けたり、励ましたり、誰かのためにがんばったりなんてできないのだと思います。
 では、子どもは小さいから、そういう人たちと同じように自我の世界にいるのか、というと・・・ちょっと違うような気もします。私自身のことは忘れてしまいましたが、子どもたちを観察していると、大人とはちょっと違った気持ちを持っているように思います。
 たとえば、多かれ少なかれ、子どもには「お気に入り」の物があります。それがタオルだったり毛布だったり、ぬいぐるみだったり、たいていは柔らかいものですが、新しい他のものとは取り替え不能。親からは汚く見えるものをいつも持っているのです。こういうことは、あまり大人はしません。アーサー・ミラーの唯一の児童文学「ジェインのもうふ」も取り替え不能の毛布をジェインちゃんが大事にしていましたが、こうしたお気に入りは誰しも子どものころに持っていたと思うのです。それは、物の範疇を越えて、子どもにとっては「人格」に等しいもの、自分に安心をくれるものだったと思います。
 私の娘は、ラッコのぬいぐるみでした。寝る時もいっしょ、話し相手でもあり、大事な宝物でもあり、・・・彼女が、その存在を忘れてしまった現在では我が家の本棚の上にひっそり置かれています。でも、幼いころは、とにかく大事なものでした。

励まされる=励ます

 おそらく、こういう「お気に入り」は、前回書いた「アカゲザルが柔らかなものに抱きついて安心する」という習性と同じものだと思います。万物の霊長である人間とはいえ、そこはそれサルの仲間・・・サルの習性は残っているのでしょう。
 よく観察していると、子どもはぬいぐるみと話をしています。「痛くないよ!」とか「いっしょに寝ようね。」とか・・・こういう姿を見ていたとき、思うことがあるのです。これは、じつはぬいぐるみを励ましているのではなく、「ぬいぐるみが子どもを励ましているのではないか」と・・・。
 それは、「こんとあき」という絵本を読んだときのことでした。おばあちゃんのところに旅をしていく小さな女の子「あき」をぬいぐるみのキツネの「こん」がいつも励ましているのです。つまり、子どもにとって、安心を与えてくれるものは、逆に安心させてあげるものでもあるわけです。
 人間は、一人では生きられませんから何かしら「伴侶」を求めます。子どもはぬいぐるみ、大人になれば配偶者、それに励まされて、そして励まして・・・互いに支えあって生きていくというわけですかね。
 アンジェリー・ビアンコの「ビロードのうさぎ」もこのような展開です。「ジェインのもうふ」は女の子でしたが、「ビロード」のうさぎは男の子。こういうものと対話をして育った子どもは、けっして悪人や無慈悲な人間にはならないと思います。
 しかし、競争社会ではなんだかすべてが敵になっていくようです。そうなると、そこを生きる人間は、孤独になって、おかしくなって、暴走することもあります。秋葉原連続刺殺事件の犯人は、二つのケータイを買い、一方のケータイから他方のケータイに送信して孤独を解消しようとしていたということです。悲しい話です。彼は小さいころ何かと話していたことはなかったのでしょうか。犬や猫、祖父母、ぬいぐるみ・・・なんでもいいのですが、そういうことがなかったのかもしれません。父母から勉強しろ!勉強しろ!と言われ続けて、励ましてくれる友も支えてくれる恋人もいなくて、結果・・・暴走して悲惨な事件を起こす。そんな少年、青年、いやいや老人までたくさんいます。競争社会を生き抜く政治家も企業家も、どこかで切れて、暴走しないよう祈るばかりです。彼らも質の高い本を読んでいれば、そうはならないのにね。

旅の道づれ

 さて、「こんとあき」の話に戻りますが、一人で電車に乗って砂丘町のおばあちゃんに会いに行く「あき」が不安になると、道づれの「こん」が「だいじょうぶ!」と声をかけます。知らない人ばかりの電車の中で緊張する「あき」にも「こん」は、「いっしょに座っているからだいじょうぶ!」と励まします。子どもにとって、こうした存在は、たとえ、ぬいぐるみであっても頼りになる存在、支えてくれる存在なのでしょう。
 私自身、考えてみれば、幼児期や少年期は不安や緊張でいっぱいでした。経験が不足していて先が読めないから、これからどうなるのかが分からないのです。だから不安になり緊張します。そんなとき、いつも祖母が「だいじょうぶだよ!」と言ってくれたのを覚えていますが、あるときは飼っていた猫が言ったのかもしれず、好きだった人形が言った言葉だったのかもしれません。そして、私もきっと、同じように祖母や猫や人形に「だいじょうぶ!」と声をかけていたと思います。
 J・R・Rトールキンの「指輪物語」を読んだとき、ともすれば挫折してしまう主人公を仲間が支える場面がたくさん出てきます。あまり頼りにならない仲間なのですが、励まし、心を支えてくれる少数の仲間がいる。これは人間が人生を旅する時、たとえ一人の友人でも必要不可欠の仲間なのでしょう。人には、だれかを支え、励ます機能が遺伝子の中にあるような気がします。泣いている赤ちゃんを「うるさい!」と脅したり、殺したりする人間はいません。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、あやすのが親であり、人間です。
 幼い子どもには、「こんとあき」がしている以上の長い長い人生という旅が待ち構えています。緊張や不安、たまには恐怖さえあるかもしれませんが、いつも支えてくれる人がいれば「だいじょうぶ」だと思えます。そういう「旅の道づれ」がいるかぎり、子どもは安心して長い旅をやっていかれるでしょう。
 親さえ子どもにストレスを与える時代です。ぬいぐるみでもタオルでも毛布でも何でもいい・・いえいえ、できれば、支える存在は人間でありたい。われわれ大人は「だいじょうぶ!」「だいじょうぶ!」と励ます側の人間になりたいですね。これからの時代は、そういう人が増えないと子どもどころか大人も大変なことになります。互いに励まし、支えあう・・・競争して生き残るゲームならライオンでもトラでもできます。でも私たちは社会的な動物ですからみんなでいっしょはあたりまえ・・・一人勝ちの冷たい人間には子どもをしたくありません。(七月号ニュース・一部閲覧)

初めてのキャンプ

 「野宿」という題のコラムの切り抜きがある。岡山県井原市西江原町に住んでいた向井俊雄さんという旅行者が書いたおよそ四十年前の随想だ。私がその方と出会うまでの話にもなる。その端緒に、こういう文章があったというのは四十年後の発見だが、出会う人とは出会い、出会わない人とは出会わない不思議がある。
 短い文なので引用しよう。
*  *   *   *
 「子どもたちのキャンプシーズンを迎え、不安でいっぱいの初めての野宿を思い出す。夜中にオランダ国境を出てドイツに入る。闇の中では何も確認できずに人にも会わない。頭の中では身の安全だけを考えていた。その時、目に入ったのが駅のトイレ。寝袋に入り、便器を抱えて眠り込んだ私は、警官がドアを叩く音で目を覚ました。不安な状況に置かれた私にとって、トイレは鍵のかかる安心できる場所だったのだ。
 このように初めての野宿は不安だったが、二晩目はアウトバーン近くの朝露が顔に降りるような場所で赤いケシの花のジュータンの中。目が覚めれば「生きているのだ」と感激できる。さらに旅して、アルタミナの朝はカンナが美しく、サハラでは黄金の砂が地平まで輝く・・・。子どもたちにとっての「はじめてのキャンプ」は、私と同じく不安の一夜か夜空の星への感激かどちらかだろうが、野宿の中で自然の美しさや生きる喜びを知り、自然を大切にできる人間に育ってほしいと思う。」と、子どものことも、ちゃんと考えている人だ。

旅とは・・・

 向井さんが、上の文の旅をしてトイレで眠っていた夜、私はその千キロ南の中世から続く町で言葉がなかなか通じないで悪戦苦闘していた。このとき、彼とは接近遭遇はしていたが、出会わなかった。
 さらに昔のことになるが、小学校三年生の私は、甲府駅で列車に乗せられて、新宿まで136km、2時間半の旅をした。緊張と不安の連続である。新宿駅で迎えに出てくれているおばさんの顔を見るまで「安心」の二字はなかった。現代では、中学生くらいにならないと一人で東京へ行こうというのは危ない話だ。親がまず許可をしない。学校だって危なくて送り迎えをする親さえいる時代である。でも、私が小学生のころは東京は安全な都市だった。町を歩いていても危険感はまったくなかった。
 こういうことを夏休み、冬休みで何度も経験すると、さまざまな学習ができる。一人旅の子どもに、妙にやさしい人、食べるものをくれる人、まったく無関心な人、こういう緊張感の中で学ぶ人間像は、その後、人と接するときにひじょうに役立ったように思う。

見知らぬ土地を一人で歩く

 私は、そういう体験を繰り返し、やがて23歳のときに外国旅行をした。この時代、まだ、旅券は東ドイツと北朝鮮、中国本土が渡航できない国としてあり、沖縄へ行くのさえパスポートが必要な時代だった。1ドルがなんと360円の固定相場。いまでもそうだが、ヨーロッパの都市の通りの明かりは暗く、どこへ行くにも緊張した。フランスやイタリアでは財布は胸の奥深くにしまって歩き、タクシー運転手には騙されないように注意しなければならなかった。安全に慣れきった現代の旅行者には信じられないことだろう。観光旅行ではなく、たった一人で移動するには勇気と緊張感と身構える姿勢が必要な時代だった。私は、それを子どもころから体験していたので、騙されることもなく、言葉上の失敗はあったがなんとか生活はできた。しかし、ほんとうの旅とは、もともと緊張の伴うもので、ガイドがついてお土産屋からお土産屋まで移動するのは旅でもなんでもない。

考えながら旅する

 さて、それから四十年過ぎて私と向井さんは出会うことになる。私は旅を忘れてしまった籠の鳥となったが、彼は世界中を飛ぶ渡り鳥で、旅が好き。日本一周どころか世界も何周。四十年経った今も旅をしている。先月はタクマラカン砂漠を越えて敦煌へ行った。ゆめやへのお土産は写真が多く、ゆめやの壁では週替わりギャラリーを設けているくらいだ。腕前、プロ並み。今回は、シルクロードの写真で、私へは敦煌出土の「三国志」の展示写真だった。
 旅する前には関連の本を読んで歴史と地理を熟知してから行くのだが、「読む冊数が凄い!」などという表現では不足で、言うならば「目方(重さ)で読む」。読む量はキロ単位だ。つまり、ゆめやのお得意様でもあるというわけだ。しかし、このように山ほど本を読んで、旅をしても「この世界に正解はない」「人生に答えはない」といつも言っている。「教科書の中にも答えはなく、スマホの中にも答えはない。人生という旅をしながら、けっきょく答えを出せずに終わるが、出そうとする姿勢が必要なのだ」とも言う。

ヒューリマンの言葉

 この方と出会ったきっかけは、「子どもの本」だった。山梨子ども図書館というNPOの経営について企業経営者である向井さんにレクチャーしてもらってからの縁。読むように指示されたドラッカーの「非営利組織の経営」を野球部のマネージャーのように私が読んで、それについて解説してもらった。当然、向井さんは子どもの本にも関心があり、以来、ゆめやのお客としてのお付き合いともなった。
 ヨーロッパの子どもの本の作家・ベッティーナ・ヒューリマンは「大人のくせに本気で子どもの本と付き合っている人は、いつかどこかで出会うものだ。」と言う・・・たしかにこの言葉は当たり!である。私も、この商売をしていて、たくさんの素敵な人との出会いがあった。子どものことを考えている人は未来を心配している人たちでもある。この人たちは未来の安全など考えないで、再び稼ぐために働く欲の深い人たちとは見識が違う。
 さてさて、子どもたちにも日常で多様な人と接してみることを薦めたい。人間には善い人もいれば悪い人もいる・・・酷い国もあれば平和な国もある。不安を感じることもあるが、美しいものも見られる。すべて経験だ。そうすれば、答えばかり書いてある教科書が見せてくれない生きる喜びも自然の大切さもわかってくる。何かを選ぶ意味もわかる。
 夏・・・オートキャンプ、テーマパークめぐりもいいが、子どもたちには人生を旅するための第一歩である不便な「キャンプや旅をさせてみる必要はあるだろう。そうすれば一回りも二回りも大きな人間になって戻ってくると思う。過保護の多い男の子たち・・・テレビゲームで魔法の国の旅をするのではわからない現実も見えてくる。これからの子どもは、生きる力が必要となるから、かわいい子には旅をさせたいものだ。(新聞・7月号・一部閲覧)



(2012年7月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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