ブッククラブニュース
平成24年5月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせの日々

1. その時期に合った読み聞かせを
2歳半くらいまでは大脳の旧皮質のために

 ブッククラブの配本は、2歳半までは大脳旧皮質の安定的完成に必要なものを選書して発達に沿って入れていきます。この流れはブッククラブ配本を生後十ヶ月から見ていただければわかると思います。配本の順番は認識力の発達や想像力の発達にリンクさせて組んでいますから、とにかく、この時期には何度も何度も同じ本を読んであげてください。お子さんも読んでくれ!と要求してくるのがふつうです。それが結果的にお子さんの心の安定をつくりあげるわけですし、家庭内で親と子が濃密な交流を通わせるとても良い時間になると思います。心の安定がないと、いくら親が読んであげても四、五歳で読み聞かせから離れて行きますし、とうてい読書まで行くことはないです。
 さらに読み聞かせ以上に必要なことは、子どもが「快い」と感じる環境を整えることです。静かな環境、一日のうちに次から次へと変化しない環境、子どもにとってはよく見知った特定少数の保護者がいる環境・・・こういうものが「安心」をつくり、そこから出る快い感覚は脳幹へ伝わって旧皮質の安定した成長を促します。絵本の読み聞かせなどは、この安定をつくるには二次的な方法で、もし、こういう落ち着いた環境があれば「絵本の読み聞かせなど不要だ」と言っても過言ではありません。
 私が、この時期の子どもに読み聞かせが大切だと思っている理由は、現代の子育ての中で、あまりにも子どもの置かれる環境が変わったと思うからです。つまり、忙しすぎ。これでは子どもの心がなかなか落ち着きません。その結果どうなる! ここ三十年の生活の変化の影響は、あまり良い形ではなく、もう社会的に出てきています。

オアシスとしての読み聞かせの時間

 0歳児あるいは1歳児が一日のうちにかなりの時間、車であちこちに移動したり、一時預かりの形で見知らぬ大人の世話を受けたり、家にいてもTVやDVDがつけっぱなし・・・などの状態が日常化してしまうとどうなるでしょう。大脳旧皮質の正常な完成(二歳半で旧皮質は完成してしまいます)は望めない可能性が出てきます。それならば、確実に見知った親という存在が密着して安心感を与えてくれる「読み聞かせ」という時間は短時間でもとても重要になってきます。さらに発達に適合した絵本なら子どもの「快さ」は倍増することでしょう。いわば「読み聞かせ」は現代のゴチャゴチャとしたあわただしい環境の中のせめてものオアシスなわけです。
 たとえば現代の一般的家庭でも、親は時間に追いまくられています。共働きの家庭の増加は、せわしない時間を家庭の中に持ち込みます。この結果、多くの家庭では、絵本の読み聞かせの時間さえなく、保育園から戻れば食事、入浴、寝かしつけで一日が終わるでしょう。三歳児でこうなのですから、0歳児保育、長時間保育ともなれば親と共に過ごすオアシスの時間などまったくなし。親も疲れきっていますから、結果的には寝かすまであわただしくしなければならないということになってしまいます。これでは、子どもの大脳旧皮質の安定的充実と成長は望めません。

良い本でも与えるのを間違えば・・・

 では、絵本を読み聞かせすることで、寝る前の穏やかな時間を使って、ゆったりとした脳の成長に良いひとときを与えれば問題ないか、というと、たしかにそういう部分もあるです。しかし、絵本の読み聞かせでなくてもべつにかまいません。何でもいいですが、子どもの人格をつくる上で基本となる旧皮質の充実は、じつはなにより必要なことです。
 しかし、親の世代は完璧にセンター入試の世代ですから、子どもが頭が良くなる(成績が良くなる)ことを望み、早期教育の商売の罠にハマっていきます。良質の絵本の読み聞かせより、即問即答の教育絵本、「○○じろう」でも「□□ぱんマンのあいうえお」でも、「昔見知った受験のときの教材屋が出しているものだから安心かも・・・!」「みんなが知っているキャラクターが出ているから間違いはないだろう」・・・「赤信号みんなで渡れば怖くない」なんて劣悪な意識で、何と0歳児に教育教材を与え、「はい、これは何?」「こっちは何?」では旧皮質は充実しません。絵本選びだってひどいものです。1歳児に「あいうえおの本」「時計の本」・・・這えば立て! 立てば歩めの親心・・・は分かるのですが、それは無理というものです。とにかく間違えている!!!でも、ここで絵本屋としては「どうせ与えるなら適切な本を・・・!」と思います。たしかに世間で評価の高い「良い本」を与える必要がありますが、いくら良い本だからと言って、発達を無視して与えたら効果がないどころか害になることだって起こります。
 実際、世間に影響されて、「これは良い本だから・・・」と思い込んで自分の子の発達も見ずに与えて、まったく意味がない結果になることだってあるでしょう。たとえば、皇室の愛子さまが一歳のときに、「『はらぺこあおむし』と『ぐりとぐら』が好きだ」という報道がなされました。これを知った多くの親がこの本を買いあさりました。当時、ブッククラブに入会した人に「お手持ちの絵本のリスト」を出してもらうと判で押したように、「はらぺこあおむし」、「ぐりとぐら」、「うずらちゃんのかくれんぼ」がありました。一切前後のお子さんですよ。われわれの子は1歳で水曜日、火曜日なんて時間観念は理解しません。いろいろな食材でカステラやパンを焼く頭は持ち合わせません。、この三冊はとても一歳児に読み聞かせる本ではないのです。。愛子さまはやんごとないお方で、ご教育により発達も一般人とは違うでしょうから、こういう発表は例外的なものなのです。多くの人が影響されて買い求め、与えましたが、具体的な効果はあったのかなかったのか、その報道はまったくなされませんでした。一般人は、このような選び方をこの時期にしてはならないのです。『はらぺこあおむし』は内容に時間観念が入った表現があって、昨日と今日の区別しかできない二歳児以下には与えても意味がないでしょう。『ぐりとぐら』はどう考えても3・4歳児に向けたものです。

ブームに弱すぎる親の頭

 こうして、メディアに影響され、吟味もなく絵本を選んでしまう人が多いのです。子どもの発達に合わない本を与える親を見かけるのは日常的な風景です。。子どもはいくら良い本でも、合っていなければ右から左に聞き飛ばし、楽しむことは薄れます。せっかく読み聞かせをするのですから、親が読んでくれる快感だけの時間にしてしまってはもったいないですよね。このためブッククラブでは、配本は標準的な発達に沿って組んであります。
 さらに、これは、いつも述べていることですが、幼児(とくに四歳以下)にとって借りてきて読み聞かせた本はほとんど頭に残らないのです。返してしまえばないものと同じで、内容も頭から消えています。数多く借りれば借りるほど読み聞かせの回数は減りますから頭から消えます。4歳より上でも「ああ、それ知っている!」「ああ、これも知っている!」というだけになってしまうのが一般的でしょう。この意味ではタダより高いものはありません。売り手として手前味噌で言っているのではありません。幼児というのはそういうものなのです。少なくても良いから何度も読み聞かせ、それが身近な本棚にある・・・そういうことで、子どもの頭は本の中身を所有しているわけです。公共図書館の児童室の宣伝に乗らないようにしてください。読み聞かせおばさんたちの口車に乗らないようにしてください。横並び一線の若いお母さん方は、「図書館へ行くのが子どもがいる親の勤め」、「読み聞かせイベントに参加するのが子育ての一環」などと思い込んでいる人がいますが、そんなことより、動物園に行って実際の動物を見たり、山や川を歩いたり、街を見たりすることのほうが子どもにとっては大切なことなのです。読み聞かせは家でちょっとした暇な時間にすればいい。実際の風景を見て、そして親と濃密な読み聞かせのひと時を楽しむ・・・・その時間が旧皮質の発達を大きく促しているというわけです。

親と過ごす時間、落ち着いた時間

 大脳の旧皮質は人格の中核となる重要な脳の部分です。極端に言えば知識や論理を司る大脳新皮質より大切な機能をもっているといえます。情緒や性格や行動の基本を作り上げるものだとも言われています。誕生してからわずか二、三年で発達を終えてしまう旧皮質は、以前は名前の通り、古い部分が進化の過程で残ったものとしか考えられませんでしたが、じつは「自分が何に属しているのか」、「愛されているのか」などアイディンティテイや自分を肯定する機能だということが分かってきました。人間が生きていく上で最も大切な機能です。最近の少年の行動、いやいや子どもばかりではありません。大人の生活や行動を見ていますと、この部分が正常に機能しないまま、おかしなことにつながっているような気がします。
 あまり結果の出ていない△△式右脳教育とか○○式早期教育の宣伝に左右されず、昔の親がやっていた(団塊の世代の子育てではないですよ。もっとそれより前)単純な子育て(安心感を与える子育て)が、いまこそ見直されて良い時代に来ているのではないでしょうか。(つづく)(五月号ニュース一部閲覧)

読み聞かせ・Why&Because

 ゆめやの配本は大まかには男の子、女の子で違っていて、また誕生月でも違います。もちろん、配本順に何度も読んでいただければ、それなりの楽しさがお子さんにも親御さんにもあるとは思いますが、「なぜ、ここでこの本が?」というような疑問も起こるかもしれません。そこで、今年度は、数回にわたってWhy? & Becauseの形で、配本の要についてご説明したいと思います。皆さんのほうからも疑問がありましたらお便りください。

W・・・なぜ、最初に写実的な認識絵本が入るか?

 B・・・一歳前後の子どもは、まだディフォルメされた絵柄で判別する力がありません。1歳半くらいになれば輪郭だけのものでも何か分かるようになりますが、この時期は実物に近いほうが分かりやすいのです。「実物に近いなら写真絵本でもかまわないのではないか」と言う方もおられますが、写真絵本は映像ですから描かれたものにくらべて温かみがないのです。さらにこの時期の子どもは集中力がまだありませんから、背景にも目が行ってしまいます。認識絵本は原則1ページにつき一個の物、ネコであるとかカボチャであるとかを見せるものです。ひとつの物に集中してもらいたいために配本のような本を選んでいます。ネコかイヌか、カボチャなのかキュウリなのか、認識絵本とは「物の区別の本」です。
 ですから、紙と本の区別ができずにページを破いてしまった場合は、きちんと叱ってくだ さい。その場で手をピシャリと叩くぐらいはしてもいいと思います。この年齢では言って聞かせたところで理解などすることはできません。まだまだ快いか不快かで物事を判別する時期ですから、叱られる=不快で、してはならないことを学んでいきます。叱らないで説得をして来た子の多くが、いつまで経ってもワガママを言い、自我を膨らませているのは、この時期にきちんと「してはならないこと」を覚えられなかったからです。手をピシャリくらいでトラウマになることなど絶対にありません。

W・・・なぜ、1歳直後に歌の絵本が入るのか?

 B・・・1歳前後から音にしろ言葉にしろリズムやメロディーというものが必要になります。歌、これはリズムもメロディーも言葉も入ったもの・・・赤ちゃんにとっては快いものです。昔から、子守唄というのがありますが、言葉が分かっても分からなくても歌って聞かせるだけで、親と子のつながりは増します。子どもの気持ちも安定します。ですからCDまかせにしないで、ぜひお母さんやお父さんの肉声で歌を聞かせてあげてください。
 長年、この仕事をしてきて、本を通して得た1歳前後の感覚はその後の読み聞かせにおいて、とても重要なものと感じています。「三つ子の魂」という言葉がありますが、それはおそらく0歳から3歳までにどんなものを得たかということだと思います。ロックがガンガン響き、親がヒップホップダンスをしながら育てた子どもと比べてみる実験があったらおもしろいと思うのですが・・・・。(5月号ニュース増ページ一部閲覧)

学校図書館について
@全部が全部といわないが

 昨年、大震災があったために、この項目で「読書の意味」をシリーズで書いてしまった。真の意味で読書をしていない国民にとって原発問題はあまりにも大きな問題で、やはり子どもの頃から考える訓練はしておかなければならないと痛切に思ったからだ。で、例年、書いている「学校図書館」や「学校での読書」のことが書けなかった。
 そうすると案の定、一年生を持つ会員のお母さんからさまざまな質問が寄せられた。
 「学校図書館にマンガのような質の低いものがけっこうある。これでいいのか。」とか「なぜ、1歳や2歳の赤ちゃん絵本が置いてあるのか不思議。」とか・・・定番の質問である「貸し出し競争をしているので、読書シールほしさに読みもしない本を毎日借りてくる。」「朝読の本を図書館から借りなければならないのはおかしい。」・・・・と、いろいろなお便りが来た。もちろん、個別にお答えはしたが、新一年生の会員は、これまでの学校図書館や公立図書館についての私の見解を知らないので、やはり今年も少し述べておかなければならないと思った。

書店は図書館を批判できない!

 その前に言っておきたいのは、一般的には「書店人が図書館を批判してはいけない」ということ。なぜか。公立図書館もふくめて多くの自治体では、地域の書店を指定業者にして書籍を納入させている。図書行政に口を挟んだら、あるいは批判なんかしたら指定業者ではいられなくなる。
 何もしないで年間数十万、数百万の売り上げをもらえるのだから「指定業者」という既得権益はおいしいのだ。だから指定された書店は何もいえない。学校図書館も地域の書店を指定業者にしているから、そこを経由した納入をさせるのがほとんどである。つまり原発の立地自治体にお金が入るのと同じで「お金が欲しけりゃ文句は言うな!」ということ。これが、お客が入っているのを見たことがないような書店でも生き残れる仕組みだ。つまり行政が助けてくれているのである。
 しかし、ゆめやの売り上げはブッククラブ配本のみ。指定業者ではないから、自由に物は言える。黙っていても入る巨額のお金がないのはつらいが、お金のために文句を言えないのもさみしい。・・・で、まあ、地域の学校にも自治体図書館にも恩や義理がないので、思ったことはどんどん言えます、です。では、まず学校図書館について。

動機が不純?

 朝読書や貸し出しコンテストのようなものは、いまから十数年前に少年犯罪が目立ってきたころ、さらに学級崩壊が浸透してきたころに始まった。朝十分間で読書をしようというものが朝読。これの目的は、本を開いて読んで、心が落ち着いたところで授業に臨もうというもの。その後、読書をサポートするために親を動員して読み聞かせの時間を作り、地域と子どものつながりなどを名目に読み聞かせ活動も進められた。「本を読みましょう!」の掛け声だけでは子どもはその気にはならないので、なんとか貸し出し競争や朝読書のシステムをつくって、本に親しむようにしたいわけだ。動機は不純だが、それで子どもたちが本を読むようになれば、それでいいとも思う。ただ、問題はどのような本を読んでいるか、だ。しかし、これをブッククラブのレベルで論じたところでほとんど意味がない。なぜなら、マンガを読もうと劣悪な本を読もうと本を読むことにはちがいないわけで、そんなことを指摘したら、「生徒の中にもいろいろな子がいる」「本を読む習慣のない子もいる」「読む本のグレードが低い子もいる」という言葉が戻ってくるだけである。集団でする読書は質の維持が難しい。

蔵書の問題も大きい

 全部が全部とは言わないが、子どもが手にする本はかなり質の低いものがある。図書館もそういう子ども層に応じるために、図書館流通センターなどが選んだ(売れ筋本、人気があるといわれる本)ものを予算の消化でどんどん入れているところもある。出版社が直接学校図書館に売り込む巡回営業などもあったが、これも売り手側のやり方で、こういうものを選書もせずにシリーズで買い込むこともする。かなり粗悪な本が書棚に並んでいる学校図書館もある。
 司書のセンスや質も蔵書を左右するが、全体的な流れとしては良い本がセレクトされる傾向はない。悪名が高いのは「かいけつゾロリ」だが、マンガの「名探偵コナン」さえ置いてある図書館もある。「子どもが喜んで読めば、なんでもいいではないか」という声もあるが、これは、いかがなものだろう。こういうのを見ていると、選書も読書時間や貸し出し競争も場あたり的なもので、本気で子どもに一定のガイドラインを示して読書指導が進められているとは思えない。つまりは読み聞かせイベントや貸し出しコンテストという「目に見える」、「数で測れる」ものばかりだ。中には、それをきっかけに高度な読書ができるようになる子が出るかもしれないが、数は少ないだろう。サブカル文学への道を開いてしまう危険すらある。やはり、子どもには、まともな本に出会わせることをしなければならないと思う。(つづく)(五月号新聞一部閲覧)

できれば避けたいサブカル環境
@もう耳にタコでしょうが・・・

 もはや子どもたちの世界にサブカルを持ち込むことを家庭が回避できるとは思っていません。当然、親がそういう環境を準備するということも期待はしていません。「できれば・・・避けて!」でいいのですが・・・。
 じつは、サブカルチャーについて連載するのは、これで七回目です。平成2年の第一回「男の子が危ない!」 翌年の「女の子も危ない!」から始まって、足掛け22年間、この危険性についてずっと述べてきましたが、その間にサブカルチャーは異常に巨大化して生活に浸透してしまいました。そして、親の世代が変わるたびに、どんどん「注意すべきもの」ではなくなり、家庭内部に当然のように存在するものになってしまったからです。もう、その影響と結果は出ています。30年くらい前にあれほど騒がれた子どもとテレビの問題も、20年くらい前にやはり騒がれたテレビゲームの問題もどこかに立ち消え・・・いまや、すべての機能を満たすスマホが登場しています。それぞれが問題になった過程で渦中にいた子どもは親になり、もはやサブカルが精神にもたらす問題に鈍感な世代が大人や親になっています。アニメキャラに恋をしてしまうなどという信じられないことも起きています。個人的な感覚に過ぎませんが、おそらく社会的な事件の80%以上は、根本の原因に「サブカルチャー」があって、その影響を受けた人が引き起こしたものと言えるのではないでしょうか。

影響は、いつ、どこからでも・・・

 生後二ヶ月の赤ちゃんでさえ、テレビ画面に目が向き、その動きを追うことができます。生後五ヶ月にもなれば通常音声とCMで流される音波の違いがはっきり分かり、CMが流れるとテレビに目を向けることもする・・・・これが成長するまで続けば何らかの影響は出るのはあたりまえでしょうねぇ。もちろん、それが綺麗な風景、おだやかな音楽なら良い影響も出てくるかもしれません。しかし、現実にテレビもアニメDVDも四六時中掛け流されていることも多いわけで、その結果、サブカルチャーの害をまともに受けた子どもが量産されているわけです。
幼い子ばかりではありません。テレビが垂れ流す醜悪な言葉やファッションがそのまま中学生、高校生、大学生に影響します。場も考えずに、状況も読み取らずに、その「劣悪」を振り回してしまう青年たち・・・聞くに堪えない女子高生言葉・・・これは、きっと親になっても言語習慣として続くことでしょう。
 いやいやメディアやサブカルの影響は子どもたちに限りません。親でも影響を受けている人がいるのです。たとえば、娘と一緒になって「嵐」のファンになり、グッズからCDまで集め、コンサートにも行くような母親、コンピューターゲームでしか子どもと遊べない父親、・・・・こういう親たちは、赤ちゃんがテレビを見ていようと、子どもがテレビゲームをしていようと気にも留めないことでしょう。自分が少年期に浸った環境がサブカル環境であれば、それがふつうの日常ですから、かれらはサブカルが人間の精神に大きな影響を与え、対人関係や日常生活に支障を興すものだということが考えられません。いずれ自分の子どもがある一定の年齢に達したときに困るのでしょうが・・・・

幼いままの頭と希薄な現実認識

 サブカルの影響の特徴とは何か? それは、大人になっても頭が幼稚、対人関係がうまくこなせない、つまらないものに執着する・・・すぐあきらめてしまう、自分を信じられない・・・などなどエトセトラ。実際にこういうことが世の中であたりまえとなっているのです。情報洪水の中で誰もが気がつかないだけ。いまや大人の社会も子どもじみたサブカル洪水です。
 小娘集団のコンサートに30歳代の男が群がる、50歳近い女性がテーマパークのパスポートを買って年中出かける、大の大人がネットゲームのくだらないアイテム欲しさのために何十万円も注ぎ込む、数え上げたらキリがない「おバカな現象」が子どもの世界ではなく大人の世界で行われているのです。
 すでに世の中は市場原理に侵食されていますから儲かれば何でもやるという世の中になっていて、ほとんどのサブカル企業は儲かれば何の商品にでも手を出しています。本の通販会社かと思えば、赤ん坊の肌着まで売っている。紙を売る会社がメルマガで金融商品や旅行商品まで売るという何でもあり。儲かれば何にでも手を出すのですから何屋なのかわからなくなっています。こういう商品の洪水の中で、前述のように「サブカルに関する警戒心」も希薄になっていきます。
 ブッククラブの配本プログラムの下にも注意書きをつけているのですが、最近ではTVゲームにしろアニメDVDにしろ平気で読み聞かせと平行して与えている親も少なくありません。おどろくべきことには、学校や園でさえ、あたりまえのこととして行われていることです。つまり、サブカル企業と同じに何でも与えているのですから、「これは言い続けなければダメか!」と、ゆめやは海に石を投げるように何度も書いてきました。子どもの頭、子どもの精神が危機にさらされているのに良いものを選ぶことをしない不思議。「何でもあり」に対して寛容な態度は、やがて大きな悲劇を生むと思うのですが・・・。

サブカルが何だか知らない大人も・・・・

 でも、まずサブカルチャーとは何か? わからない方も多いでしょう。最近では子どもの周囲にあまりにも満ち溢れていて、逆に何が何だかわからなくなっていることもあるでしょう。入会のときに「ご案内」で避けたいものの一覧表を挙げてありますが、目を通しておられない方もいるでしょう。ですから、次回から順次解説していきます。
 私が言いたい「サブカルチャー」は、辞典の意味とはちょっと違いますが、まず、かんたんな例を出しておきましょう。子どもの遊び、たとえば、折り紙とかお絵かき、どろあそびや木登り、ままごとやお手紙遊び、石けりやスゴロク・・・・こういうものは、いずれメインカルチャー(ハイカルチャー)に移っていき、遊びはいつか終わります。遊びで得た技術や発想は大人になって生活をしていく基礎にもなるものです。
 ところが、サブカルは終わりません。次から次へとサブカルが続き、大人になってもそのままです。このことに最近気がついた方々が、「森の幼稚園」などで、子どもの遊びの重要性に注目しはじめていますが、世の中のサブカル化は止まりません。このへんのことも含めて次回から「できれば避けたいサブカル環境」にというシリーズで述べさせていただきます。ま、園や学校が無頓着で、サブカル世代の保育士、教師が出てきているわけですから、もう無理は承知です。しかし、言うだけ言っておかねば・・・容認すれば・・・ゆめやはブレたことになります。売れれば何でもやる・・・もし、ブレれば、ゆめやの店頭にもアニメ絵本、ゲーム関連本などが置かれるかもしれません。(つづく)(五月号ニュース増ページ一部閲覧)



(2012年5月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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