ブッククラブニュース
平成24年3月号(発達年齢ブッククラブ)

小さいもの

 今年の二月の甲府はとても寒く、マイナス十度まで行った日もありました。子どもたちの中では風邪が大流行、受け取りの会員は、お子さん連れではなくお母さん、あるいはお父さんが、お一人で。そうなると、いろいろ話ができる利点もあり、ゆっくりとお話。一番の話題は、やはり虐待死など子どもが被害にあう事件のこと。ここのところ多かったですからね。なかには「これだけ虐待が増えているのに、ゆめやのニュースは触れないのですね。」という方も・・・でも、以前、「絵本を与えて育てようという家庭に虐待のことなど無意味です!」と書いたので、なるほど以後、触れていません。 でも、それ以後、急速に日本の家庭は変ってきています。乳児を預けて働く家庭も増えました。長時間保育もあたりまえになっています。このわずか、十年で、かつて例外だった保育方法が一般的な常識に変りつつあります。その背後で、虐待やネグレクトなどが増えています。ゆめやの近くには児童相談所がありますが、ここで保育で働いているブッククラブの会員がいて、話を聞かせてもらいますが、こんな田舎でも、育児放棄の傾向が出てきていて、収容される子どもは増加の一途とのことです。家庭が壊れてきてしまったわけですね。困ったものですが、日本人はだんだん子どもが「お荷物」になってきているのでしょうか。

もともと備わっている?

 こういう話を来店で配本を受け取りに来る会員とお茶飲み話ですると、「子どもを殺すなんて!人間じゃないですよ。」「育てるのが嫌じゃ、生まなければいいのに・・・」と言う方もいます。たしかに常識では考えられない事件も起きています。私たちの頭の中には「子どもとはかわいがるもの」「育てるのは大変だけれど喜びももたらしてくれるもの」という基本的な思いがあります。だから、それを裏切る行為が事件として起こると「人間じゃない!」という反応が起きてしまうような気がします。ただ、私は、これらの事件を考えるときに「私たちの『常識』は正しいのだろうか?」と思うこともあるのです。子どもをかわいがるという機能がもともと人間に備わっているのかどうか。 たしかに、子どもは大人にかわいがられるようになっています。小さい顔、無力な体、あどけない目、かわいらしい声・・・すべてが大人の保護感覚を刺激します。だから育ててもらえるわけで、もし、これが映画「ベンジャミン・バトン、数奇な人生」のように、しわくちゃの大きなおじいさんで生まれ、醜悪な顔、しわがれた声だったら、捨てられてしまうこと、まちがいありません。あらゆる動物の子どもは、かわいらしさがあり、保護されるための要素をすべて持っています。それは、「種を維持するため」に必要な要素なのでしょう。

人口急増の結果

 ただ、ですね。「種を維持するため」というと額面通りに受け取る人が多いと思いますが、「種の維持」は増やすばかりではなく、減らすこともあるのです。増えすぎると生きにくくなっていきますから、減らす作業が始まるというわけです。大きな事柄では戦争や疫病も入りますが、そういう外的な要因で無い場合は自殺や虐待死などネガティヴな減少もありえるでしょうね。その一環が人々の意識の中で「子どもはお荷物」「うっとうしい存在」というものになっていくわけです。左のグラフはこの百数十年で急速に増えた日本の人口をあらわすものですが、この増加は異常です。日本の国土に対しては6000万〜7000万が適正人口だとも言われています。 実は、平安末期から戦国にかけても人口が増えていった経過があります。中世と呼ばれる時代で、食糧生産が大きくなかったために現代のような急増ではありませんが、人口が増えました。しかし、この時代は、「子どもはお荷物」「うっとうしい存在」だったのです。だから子どもが大切にされませんでした。それと同じ現象が人口減少のこの時代にも起きているというわけです。

親自身の成育過程にある何か

 では、子どもがかわいいから大人は保護するのか、というと、そうとはいえません。泣き騒ぐから放り投げた、面倒なので食事を与えなかった・・・子どもがかわいく思えない人が事件を起こしています。われわれの遺伝子の中に「子どもを保護する」「世話をする」「かわいがる」という機能が組み込まれているのか、いないのか・・・常識で考えれば組み込まれているのでしょう。 小さいものをかわいく感じたり、無力なものを保護したりする感情はあるはずですが、実際に育てたり、面倒見たりする力は後天的な学習のような気がします。小さい子と接してこなかった新米保育士が子どもを抱っこするのを怖がったり、ゲームで育った子がサル山に花火を投げ込んだり、光市の事件のように欲望優先の前には小さい子など平気で殺すこともできるようです。

常識も作られるもの

 われわれが常識と思っていることが、じつはそうではないことがあるのではないか。こういう疑問は持ったほうがいいと思います。子どもに絵本を読み聞かせることが嫌いな親もいますし、遊んでやることをしない親もいます。そういうのは、小さいころに同じような体験をしてこなかったから、できないのではないかという意見もあります。おそらく当たりです。 前述の児童相談所員の話ですが、「親に捨てられた少女が施設で大きくなり、それなりに結婚して子どもをつくったが、子育てがうまくできないで離婚をした」というのです。彼女は家族が食卓を囲んで楽しくご飯を食べる習慣がなく、当然親も相手にしてくれなかった幼少期がありました。家族がふつうに行っている生活を経験していないのです。このために、自分の子どもに同じようなことをしてやることがなかったのです。 人間は自分の子どもに接するときに体験したものを繰り返す習性があります。野山で遊んだ親は、子どもと野山で遊ぶ。ゲームで遊んだ親はゲームで子どもと遊ぶ。そういうものです。体験しか伝えられないのがふつうです。ですから、そこで体験の伝達が行われるのですが、野山で遊んだ体験とゲームで遊んだ体験の質で伝達されるものが違ってくるように愛情のない幼少期を過ごした子は、親になっても愛情在る接し方ができなくなるでしょう。 最近では、子育ての外部委託はあたりまえですから、子育てに強い負担を感じている人も出てきています。ここでまた幸せな体験の少ない子がたくさん育てば、事件を起こす可能性もまた高くなります。悪循環ですね。 あまりの寒さで戸外に出られなかった人々が精神的閉塞で起こした虐待やネグレクトなら春になって暖かくなれば減るかもしれません。でも、これから起こる虐待やネグレクトは、あきらかにおかしな環境で育ち、本来動物が持たねばならない「常識」を失ってしまった親が起こす問題です。減るどころかどんどん増えるでしょう。われわれの世代が変らねば、と思いますが、はたして国家挙げて労働力を確保しようとして行われている乳児保育、長時間保育にどのくらいの人が抵抗できるでしょう。ニンジンを鼻先に吊るされて走り続ける馬はあわれなものですが、「収入」を鼻先に吊るされて走る人間も悲しいものがあります。幸せより豊かさがほしいのですからしかたないのでほうが、幼保一元化でさらに世代を超えた悪循環が始まっていくでしょう。(ニュース三月号一部閲覧)

あれから一年・・・

 あれから一年・・・時間だけがどんどん経ち、個人的には何をしたら良いのかわからない一年でもありました。私の周囲では、復興支援のボランティアに出かけた人たちも多く、ガレキ除去や除染の話を聞くにつけ、被災地の状況を知るにつけ、何もできない力の無さに落胆しました。この新聞の一年間のバックナンバーを読み返したのですが、怒っているのか、失望しているのか、自分でもよくわからず、さらに被災地向けに一行も「お見舞い申し上げます」という言葉を出せなかったゆめやがいたこともわかり・・・なんとも。 世間は「お見舞い」の大合唱だったのに何を逆らって、その言葉を出さなかったのか・・・考えています。 幸いなことに、ブッククラブの東北の会員は一人も地震・津波の犠牲になることがなく、もちろん、中には津波で家が流された方、家が使い物にならなくなった方、放射能を避けて避難されている方・・・いろいろですが、でも、命があるということは何にも勝ることで、まずは一安心というところかもしれません。 東北の会員の中には、ブッククラブを修了するお子さんたちもいますが、きっと「こんな凄いことが現実に起きるのだ」ということを胸に刻んで成長していくことと思います。世の中にあふれるフワフワした若者たちとは違った大人になってほしいです。これからは、そういう方向に向かう子どもたちを地味な方法で応援したいです。

水に流せないものを

 ただ世の中的には3・11を真剣に考えているのかどうか不明な部分もあります。言論の自由があるはずなのに放射能について何か言うことさえはばかられる雰囲気が出ている不思議があります。だれかが仕組んでいるのか、そういう国民性なのかはよくわかりません。「除染すれば大丈夫」という宣伝があることは事実です。 「除染」という言葉を思いついた人は、ものすごく頭がいい人だと思いますが、どう考えても放射能を消すことはできず、他に流すだけ。でも、言葉は独り歩きをして、いかにも安全が確保されるように思えてきますが、じつは水で流れてほかに移っただけ。ヤバいものは「水に流せば大丈夫」というのは昔の話で、化学薬品でも放射能でも水に流したらトンデモナイことになるのが現代です。でも「除染」には大金が投下されるので、まさに利権の大きい公共事業。こういうことを考えるというのも役人の発想らしく、ある意味、賞賛したくなります。でも実際には、大手建設会社から町の掃除屋さんまでお金目当てに「水に流そう」とするバブルも起きています。これは、かなり長期的にお金が投下される公共事業ですが、1000兆円の借金がある国が果たしてどこまで続けられるか。ギリシアどころか日本が債務不履行(ディフォールト)に陥る危険性があります。陥らなくても自民党政治以来、次世代(次々世代にも?)に負担を強いる大盤振る舞いの無駄金を使ってきた責任を誰も取らず、さらにまた無駄な公共事業。放射能はそれでもなくならず、さまざまにゴマカシの政策を立案しても安心・安全のゴマカシがどこまで持つか。いずれ癌も発生しますし、奇形などの現象が動植物に出てくるでしょう。まだまだボロボロ問題が出てきて、子や孫の時代にまで引きずられていきます。 多くの国民は怖いものは見ないようになっていますし、そういう操作も社会的規模で行われています。

メディアは報道しない

 こうして一年経つと、テレビも新聞も世の中の震災の現実を見せなくなりましたよね。震災一年の記念番組も批判や分析よりは、感動物語、希望を描く番組構成でおざなりのものばかりです。もちろん未来の安全を図る想定も語ってくれません。 それにしてもよくもまあ、これだけ並ぶと思われるようなおバカ番組ばかりで、最近ではNHKですら、そうしたバカげた番組を放映するようになりました(こういうものを見せられて視聴料を払うことは必要なのかどうか)・・・そこでは、品のない芸人のギャグ、売名だけが目的のスポーツ選手のそこの浅いパフォーマンス、人気さえ保てれば何でもありの芸能人の言葉が満ち溢れています。視聴する人間も、そんな流れには弱いもので、影響を受けて、それを真似たライフスタイルも広がっています。こういうものが世の中に広がると不幸なことが増えるのですが、これまた多くの人はそれが見えません。まだまだ騙されているような感じがします。いいですか。原発事故の情報は一年後になっても公表がほとんどされず、海の汚染など計測する気があるのかないのか・・・魚はみんなが食べますよ。黒潮は三陸沖まで流れていますよ・・・・それをきちんと報道しないで、この国のメディアはオバカの芸能と、これまたオバカのスポーツ番組を流して、人々の目と耳をふさいでいます。このまま行けば、子どもたちが成長したときには大変な時代になるかも・・・。いやいや、まず放射線による病気が数年後に続発です。近未来(数年後には)には経済的破綻も・・・やってくること確実です。

事故や事件に巻き込まれない

 日本の直下ではかなりの地殻変動が起きています。実際、震災の余震とは思えない地震も関東で頻発ですが、じつはこの社会基盤の下でも、かなりの劣化や崩壊要素が高まっていて、現実にはかなり危険な状態です。高度成長期のインフラは耐用年数が来ていますし、その前に社会の沈没(破綻)が起きることもありえます。われわれの一部がなんとなくは不安に思っている事件・事故の可能性は、耐用年数や極度の合理化、軽量化、簡易化の中で高まってきているでしょうね。 制度や機械があまりにも複雑になりすぎて、大きな事件や事故に直結する時代にもなってきているのです。人間の力の低下がコンピュータや制度の複雑なシステムを制御できなくなる事件、あるいは事故です。 まったく個人的な意見ですが、東京直下型地震が来て政府の被害予測では死者がたった1万1000人・・・ほんとかいや?です。あの高層ビルの林立する東京で震度7あるいは8などが来たら、まず数十万人規模で死者が出ます。神戸の二倍などという比ではありません。火災でも起これば、毒ガスでまず何万人もの人がやられますよ。

社会的な制度でも機械でも

 たとえば税制ですが、あまりにも多岐に渡り、複雑なものになってきています。おそらく東大を出たような物凄く頭の良い人が、「こちらで取れなければこうして取る」と二重三重の税制をつくってきたために、仕組み自体が猛烈に複雑になり、これを全体的に見て操作できる人が人間力の劣化のためにいなくなって、破綻が始まるということです。ものをスピードアップでつくり、その構造の複雑さをコントロールできないまま、事故に突入することもあるでしょう。リニアモーターカーは車体を軽くしているために、もし直径十数センチの石が当たったら、500km/hで走っていて、当然大事故になるでしょう。まあ、その前に安全神話こそありますが、新幹線で大きな事故が起こる可能性は否定できません。同じことは飛行機でも起きます。合理化で安くするために、メンテナンスなどがおろそかになる、機械任せにしていけば事故はあたりまえに起きます。過密なダイヤばかりでなく、人間の制御感覚や力が衰えているのですから、大変です。 震災を体験としないで、まだイケイケドンドンの傾向、怖いものは見ないでいようとする風潮・・・それもまた人為的な大事件、事故を引き起こす背景になるのではないでしょうか。 こうしたものに巻き込まれてはいけません。日ごろから最善の方策を練っていくこと・・・・危険を避ける頭と勘。子どもたちが、ひじょうに世の中が危険になっていることを見抜けるような力を持ってもらいたいと思います。そして、未来にどのようなことが起こっても、生きていく力を身につけてもらいたいです。(新聞三月号一部閲覧)



(2012年3月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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