ブッククラブニュース
平成24年2月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせのポイント
E五歳児は言葉遊びが楽しめるようになる

言葉に意味がなくなることを知る

 5歳ともなれば、読み聞かせで何も注意する必要がないと思います。子どもはきちんと聞けなきゃおかしいですし、親も慣れています。ふつうに読むだけで子どもはじゅうぶんに物語を把握していきますし、味わう力も出てきます。読み聞かせでは何も問題ない年齢に達したわけです。ただ、親は大変です。物語が長いので読み聞かせているうちにウツラウツラしてきて、どこを読んでいるのか、何を話しているのかさえ分からなくなることもしばしば。一日の労働の疲れ・・・お察し申し上げます。  さて、5歳・・・この時期、特徴的なことといえば、イレギュラーなことを考えられる力がつくということでしょうね。常識的な観点から少し外れたものを楽しめる・・・その布石として、配本では4歳でナンセンス絵本やシリトリの絵本などを入れています。物語では「さむがりやのサンタ」「キャベツくん」のような諧謔に満ちたおもしろさがわかる絵本を伏線として入れてあります。子どもはおもしろがりますよね。こういうものを・・・・。その時期だからです。

約束事の意味

 これまで約束事で進んできたものを一度ひっくり返す時期に来たということです。子どもは、生まれてからドンドン言葉を覚えます。猫は「ねこ」、「桃」は「もも」、「ぬけました」は「抜けました」、「さんぽにでかけました」は「散歩に出かけました」というきまりごとで覚えていきます。ところがですね。この辺の年齢で、それを一回見直すことが重要になってきます。そのためには「人間にとって言葉が絶対ではない」ということを一度見せてあげる必要が出てきます。それが言葉遊びの本に代表される読み聞かせです。  言葉遊びとは、言葉が言葉を意味しない使い方(遊び方)です。初期の例ではシリトリ・・・これもつなげたから意味が出てくるというものではありませんね。ブタ→タヌキ→キツネ→ネコ・・・何の意味もない、「可愛いカワウソ、皮を乾かす」カワが続くだけ。「鶏と小鳥とワニ」・・・うしろから読んでも同じ言葉です。つまり文章として意味がまったくないけれど、感覚的にはおもしろいわけで、ここに言葉が無意味化するおもしろさが初めてわかる年齢になったというわけです。これはお互いに暗記して使うとおもしろいですよ

保安院 全員 アホ

 最近の日本では、なんとか言葉で気を引いて物を売ろうとする、あるいはキャンペーンをしようという傾向が強くなっています。だじゃれでネーミングをしたり、言葉遊びで笑いを取ったり、まじめであるべきことでさえ、言葉遊びで切り抜けるということが行われ始めました。これも、言葉遊びが本当は「言葉が無意味な部分があり。だからこそきちんと使わねばならない」ということを小さいころに学習してこなかったからでしょう。お笑いで切り抜けられるほど現実は甘くないのですが・・・。  GKB47・・・政府の自殺防止キャンペーンの標語ですが、あきらかにAKB48を頭に浮かべたものです。Gate Keeper Basicという英語の意味さえ分かりませんが、47が都道府県数・・・コジツケもいいところでセンスも何もありません。何でも縮めて、何かにひっかければ、ごまかせる・受ける(TPPとか)と思ったのでしょうか。この人たちは小さいころに言葉遊びなどをしないで、きっとまじめに幼児教育のプリントをやり、学校のお勉強をがんばっていたのでしょうね。だから、流行があれば何でもそれに乗ればいいという感覚でやってしまうと思うのです。言葉遊びはしていいものと、してはならないものがあるということです。  ただ、ひとつだけ省略も縮めもしないで言われている長い熟語があります。「東京電力福島第一原子力発電所」・・・これはどういうわけか縮めませんね。何でだろ。「福島原発」くらいで分かるのに・・・・。  あ、小見出しの「保安院 全員 アホ」の意味が分からないですって?「GKB47」の造語は内閣府ですから保安院は関係ないかぁ。でもね、うしろから読んでみてください。ホアンイン ゼンイン アホ!・・・これは、なんと!例外的に意味があるサカサ言葉なんです。(笑)

日常で出てくる言葉遊びは潤滑油

 小さいころの絵本の中身の話はたまに出てきますが、我が家では、幼いころに覚えた言葉遊びがけっこう今でも日常生活で出回ります。「これを食べたのはママ?」などと言うと「ママです。すきです。すてきです。(連語のしりとり)」と続く。「イラクで爆弾テロ!」と言うと「イラクの后(きさき)のクライ(サカサ言葉)」と誰かが言う。雪がちらつけば「ゆき、こおり、みぞれ、しも・・・」・・・寒い中、お風呂に入ると「ふろよりらくはなかりけり」(いずれ「さむがりやのサンタ」・・・つまり、このような言葉は意味はほとんどないのですが、お互いに知っているということで、人と人をつなげる役目をしているように思います。  行政文書のように無味乾燥な会話では家には木枯らしが吹くでしょうし、「風呂、メシ、寝る!」の命令文ばかりでは一生を共にする気にはなりません。家庭内の言葉は潤滑油です。言葉をうまく使えない家庭は、危機に直面すると意外にもろいものだということが言われています。お互いの会話に遊びがなくてはいけません。どこかでホッとする言葉・・・それには言葉遊びを含めて絵本のなかのフレーズは家族共通語として大いに役にたつことと思います。

大人の絵本・大人好みの絵本

 絵本がブームになって以来、大人好みの、あるいは大人のための絵本が増えている。単なるかわいいものへの憧れか。それとも現代人が癒しを求めているからなのか。はてまた難しい思想書や小説が読む力がないので絵本に流れるのか、社会心理学者でもない私には原因が何かは分からない。  たしかに時代はボーダーレス。大人と子どもの境目をとやかく言うのは時代遅れかもしれない。絵本を子どものものと決め付けるのも問題かもしれない。しかし、どうも世の大人、とくに絵本好きの母親たちの嗜好が変わってきているのも事実。「ジャミバン(江國香織・文、アートン)」「千の風になって(新井満・文、小学館)」「償い(さだまさし・文、サンマーク出版)」、古くは「ラブユーフォーエバー(ロバート・マンチ作、岩崎書店)」・・・たしかに大人にとって癒しになるかもしれない。ただ、子どもにとっていいのか悪いのか。読み聞かされた子が「?」ていどならともかく、不快に思うこともなきにしもあらずである。  絵本は子どもが成長の各段階で楽しむもの。読み聞かせボランティアたちの絵本好きを否定はしないが、「大人の本を読まない人が子どもにどういうふうに本をガイドしていくの? 子どもだってだんだん大人の本を読んでいかなくてはならないのに・・・」と余計な心配も出る。二歳児にも五歳児にも、そして小学生にも年齢などおかまいなく同じ本の読み聞かせでは場を得て光りたいだけのパフォーマンスにすぎないわけで、子どもにとっては迷惑な話である。  絵本は読書のための前段階、やがては高度な読書へ進む第一歩にすぎないと見るのは間違いなのだろうか。どこかに一定の基準がなければ与える意味もないような気がするのだが・・・。  さらに問題なのは「私は子どもの本をたくさん読んできましたよ」としたり顔の読書推進運動をするおばさんたち。自分たちが子どものころに名作であっても、今では古びてしまったものがゴチャマンとあることがわかっていない。しかし、そういう人たちにかぎって「活字離れ・本離れ」を声高に叫んで押し付けてくるから始末が悪い。この国の人々に活字や本に親しんできた歴史などないのに・・・。つまり活字や本への親しみなど初めからなかったことが、この老人たちには分かっていないのである。こんな発想で読書推進を老後の生きがいにされたら子どももたまったものではない。  たしかに怒涛のごとく出版される本を見ていると子どもの成長に合わせて何を選んで、どう読めばいいのかも分からないというのが選ぶ側の本音である。しかし、いま、ここで重要なことは、大人好みの絵本、老人趣味の絵本、若い親を狙ったキャラクター本などを成長にそぐわない要素があるものとしてきちんと見極め、発達に合わせて絵本を与えていくことなのではないか。出版洪水のこの時代、子どもに正常な読書を可能にする選書職人が、登場しなくてはならないような気がしている。  (平凡社 別冊・太陽、「絵本屋さんが選んだ100冊の絵本」所収 ゆめやの記事)

こんたのおつかい 田中友佳子 徳間書店 

 絵本ブームこのかた大人のための絵本や大人好みの選書が増えている。当の子どもが忘れられて何だか大人のものになりそうな傾向もある。癒しを求めているからなのか、単なるかわいいものへの憧れか。絵本は子どもが成長の各段階で楽しむもの、それだけで十分。読み聞かせボランティアたちの絵本好きを否定はしないが、「大人の本を読まない人が子どもに本をガイドする? 子どもだってだんだん大人の本を読んでいかなくてはならないのに・・・」と余計な心配も出る。たしかに怒涛の如く出る本を見ていると成長に合わせて何を選んでいいのかも分からないが・・。  そんな中で目に付いたのが、この絵本。何のことはない。落語の与太郎のおつかい話を縦糸にお定まりのオニや妖怪が出てくるだけ。目新しいもの何もなしだが、けっこう子どもにはインパクトがある。しかも、話のオチが言葉遊び。なるほど、それで「きつねのこんた」だったのか。何もかもが単純明快でいい。(平凡社 別冊・太陽、「絵本屋さんが選んだ100冊の絵本」所収 ゆめやの記事)

あさえとちいさいいもうと 筒井頼子 林明子 福音館書店

 ある評論家は、この本を「最悪」と決めつけた。また、ある絵本作家は「気持ちが悪い」と評した。おそらく、この酷評の背後には「個を最優先」し、「家」「血縁」「家族」などを疎ましく思う現代的感情がある。  しかし、世評に抗して、あえて挙げた理由は「人間誰しも思い入れというものがある!」この一点のみである。健気さがいい! 必死さがいい! 子どもらしさがいい! ・・・こうあってほしいと思うのは親心ではありませんか。私の子どもも二人姉妹。「個の自由、個の表現を!」という近代の理想で育てたところで、親殺し、子殺しが横行する世の中になったんじゃ個の尊重も絵に描いた餅か空念仏。泥臭くても姉が妹を思い、親が子を思い、夫が妻を思い、そして少しばかり他人も思う。それで世の中が丸くおさまることもある。丸くおさまる結末が「大団円」というもので、親も子も一安心。相手が高名な評論家・絵本作家の批評でも、この良さは必要だと思いますよ。(平凡社 別冊・太陽、「絵本屋さんが選んだ100冊の絵本」所収 ゆめやの記事)

まとめ・高度な読書への道

 この国の「読書」の問題は、識字率が高い国民であるにかかわらず、さまざまな阻害要因が大きく、本来的な意味での読書(高度な)ができる人口は比率としてひじょうに低いものがある、ということである。なぜ、そうなのか考えてみれば、識字率の高さ自体が読書を妨げる要因になっているのかもしれない。なぜ、そういうかと言うと、おそらく、ここには学歴主義による成績偏重が学校にも家庭にもあり、答えのあるもの(教科書の内容)さえ知っていれば良いという風潮があるからである。つまり教育システムのなかで成績(学歴)が最優先されるために読書(本)よりは勉強が基本に置かれるのである。  このことは、読み聞かせを経て一人読み読書に入る小学校中学年で極端な本離れという現象が起こることで証明されている。成績というマニュアル処理の能力と読書での人間形成は大いに意味が違うのだが、学校教育の現場でも家庭でも優先されるのは教育システム内での成績である。

学習優先・成績優先では・・・

 読書を薦める側でも「学習優先・成績優先」という前提があり、読書による人間形成などは事実上、主眼におかれていない。実際、学校図書館を含め、公共図書館などの読書推進運動を見ていても、貸し出しコンテストや朝読、あるいは的外れな読み聞かせイベントが行われている・・・こういうものは子どもが高度な読書に向かうのに何の手助けにもならないが、そこでさえ、子どもが成長していく上での対応型選書や高度な読書が可能になるガイドラインは提示されない。  こうした学校教育的な価値観にさらされた読書の現状のほか、一般家庭のレベルでは、さらに読書を阻害する強力な要因が1980年以降、蔓延しはじめた。サブカルチャーの登場である(詳しくは資料参照・ネットでは割愛)。読書の推進は、ここで大きな壁に突き当たることになり、2000年以降は、高度な読書への可能性はさらに低くなったといえるだろう。この状況を見ながら、ブッククラブ配本では、1980年に成長への対応型選書と系統的に本を選書して与えるという形で高度な読書へのガイドを行っているが小学校6年までの成功率は6割、中学では1割という成果しか得られていない。成長段階別に見れば、ブッククラブで配本している種の本は一般ではほとんど読まれないグレードのものであるため、上記の数値はさほど低いものではないともいえる。  ただ、かなり読書家の子が育っても中学2年段階で多くの子が受験学習のために読書をしなくなるのである。

サブカルチャーの影響は大きい

 しかし、 ブッククラブの配本を7000人余に行ってきたこの三十年を経て、一般の子どもたちへのサブカルチャーの影響は大きいものがあり、ますます高度な読書への可能性は薄れているが、ここでひとつ興味ある結果が出ている。視力障害を持つ子どもたちの読書である。  アニメ・ビデオ、TVゲームなどほとんどのサブカルチャーは、ビジュアル(視覚)なものが主体で、聴力は音楽的なもの、あるいはサウンドのみに限定されている。精神への悪影響はきわめて大きい。デジタル絵本というものもあるが、これも読書へつなげる効果は皆無と言っても過言ではないだろう。このような中で、サブカルチャーの影響を受けにくい視力障害者が高度な読書へ入りやすい可能性を持っていることが判明した。下地づくりとして、読み聞かせ用のライブラリーや拡大写本の充実が必要だが、言葉が聴覚によって広範囲の想像力を引き起こし、本来的な読書の効果を高めるには有効だと考えられるからだ。  私は、上記の選書体系を成長対応型選書と系統的な配本を発達心理学を基準にしないで発達形態学を元に構成したが、ここでも聴力の重要性は最初から証明されている。読書の基本は感性にあるわけで、感性の育成を言葉によって行うためには聴力はきわめて重要な要素だと思うのである。現代において、一般の子どもたちがサブカルチャーと成績本位の学習によって感性がはぐくめない状況になるなかで、皮肉にも視力障害者には高度な読書への道がかなり開かれたものが用意されている。これはおもしろいことだと思う。  では、ここで、普通の子にはどのような下地づくりが必要か? ということを考えると初期には聴力を使った成長に対応した読み聞かせ、段階的な読書のための選書などの個別対応を緻密に行っていけば、本来的な意味での読書の成果が大いに期待できると思う。ただ、小学生になってからは読書環境の整備も含め難しいものがある。学校図書館の指導などはあまり当てにしないほうがいいし、読書推進の貸し出しコンクール、コンテストのようなもので子どもの読書力増進は期待しないほうが良い。



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