ブッククラブニュース
平成23年11月号(発達年齢ブッククラブ)

役にも立たないすばらしさ

 毎月、振替用紙の通信欄にたくさんのお便りをいただきます。メール全盛の時代にブッククラブの会員はじつに筆まめ。直筆の細かい字が狭い通信欄を細かく埋め尽くしています。毎日来る振替用紙の三分の二は何かしら通信が書き込まれています。・・・近況、読み聞かせの反応などいろいろ・・・「親子で楽しめる時間が増えた」「忙しくて読み聞かせの回数が減ってしまった」「字が読めるようになりました」「四歳になったけれど文字に関心が出ない」「言葉が豊富になってきています」「二歳を過ぎても語彙(ごい)が少ないので心配」・・・とにかく、いろいろな家庭の風景が浮かんでくるお便りです。
 こういうコメントに目を通していて思うのは、昔から言われている諺(ことわざ)「這えば立て。立てば歩めの親心」。この諺は今でも生きているな、と強く感じます。親はいつも子どもに期待し、成長の変化に一喜一憂している。これがなければ、おそらく毎日の読み聞かせどころかご飯を食べさせ、お風呂に入れて、手間隙がやたらとかかる子育てなどできないでしょうね。とにかく大きな期待が見て取れます。
 読み聞かせに関しては、字が読めたなどとなると鬼の首でも取ったかのように、その成果を書き記してくるお母さんも少なくありません。たくさんの言葉を覚えて、字が読めて、書ける・・・読み聞かせは、そのためのもの・・・。なんだか哀しい話ですが、そういうこと(成績のアップ、偏差値の向上・・・・)が「頭の良さ」だと信じてきた親にとっては、あたりまえの発想なのかもしれません。明治以来、変わらない「読み書きそろばん」の思想・・・・役に立たないことには目をくれずに、目先の成果のみを追う・・・・
 ちょっと哀しいですね。

変な絵本

 多くのお母さんは読み聞かせ(あるいは読書でも)というと、上記のように「何かの役に立たせたい」と考えます。「知識量を増やしたい!」「字を覚えさせたい!」・・・、この傾向は親が受けてきた学校教育の成果でもあり、受験教育の影響でもあります。とにかく、知識が増えることが絶対条件、字はその基礎・・・いわゆる「読み書きそろばん」ができればいいという学校教育の基本目標が刷り込まれています。
 笑ってしまうのは、ブッククラブ開始の時に配本が重複しないようにお手持ちの本のリストをいただくのですが、それに「かず」「○○のあいうえお」「□□のかぞえてみよう」「もちものずかん」などという「知育」絵本ばかりが列記されていることがあるのです。1歳になったばかりの子に、こういう本を与えて何をしようというのか・・・・・おどろきなのですが、けっこう、そういう親がいるのです。まあ、かんたんにいえば親の期待です。1歳で数が勘定でき、あいうえおが読めて書けるようになると考えているのかもしれません。芥川龍之介でもレオナルド・ダ・ヴィンチでも1歳のときは無理だったでしょうね。
 ところが、時々、意地悪にも、ゆめやは「おかしな本を配本に入れる」のです。子どもの能力アップを考えているお母さんが首をかしげるような本・・・たとえば「もこもこもこ」、あるいは「ごろごろにゃーん」、または「いっぽんばしわたる」さらには「どんどんどんどん」「キャベツくん」「ママですすきですすてきです」・・・このいずれかが複数で入っていない配本プログラムはありません。
 「これって何よ!?」 「モコッ! パチン!・・・何て本を入れるのよ!?」 「意味分かからない!」「ごろごろにゃーん、ごろごろにゃーんと飛行機は飛んでいきます」・・・「これがいったい何のタメになるの?」というお母さんの悲鳴が聞こえてくるような気がします。読み聞かせをして「字を覚えさせよう」「知識を詰込もう」と張り切って本を読み始めるお母さんは、これらを読み始めるやいなや・・・わけの分からない言葉の繰り返しに驚き・・・「これじゃ何の役にも立たないのじゃない!? 子どもは喜んでいるようだけれど、ゆめやの配本っておかしいんじゃない!」てなことになります。ところがですね。いま二十歳以上になっている、かつてブッククラブの会員だった方々に聞くと、記憶に残っている本といえば左に挙げたような本ばかりなのです。ウチの娘たちも上記の絵本はことごとく好きでした。ま、そのおかげで、すこし他の標準的な?お子さんたちとは違う成長をして大人になって言ったような気もしますが・・・・・。

役に立つこととは・・・?

 世の中で役に立つことを本で教える・・・それなら最初から図鑑や辞書を読み聞かせ、3マイクロシーベルトや1,5京ベクレルがどのくらいの量なのかが分かる人間にすること・・・それが手っ取り早い教育かもしれません。まずは福沢諭吉が言うように「実学」・・・ま、いわば前述の「読み書きそろばん」ですが、これを叩き込む必要があります。これが役に立つことなのか、どうかの判定は・・・むずかしいですね。ただ、役に立つことばかりしようと思っている親は、こうした実学=役に立つことを子どもに詰込んで、いったいどういう人間をつくろうとしているのか私にはよくわかりませんが・・・・とにかく教育とはそういうものと思っているわけで・・・・。
 でも、じつは世の中は役には立たないけれど、楽しく、愉快なことはけっこうあるのです。もし合理的に子どもの頭を発達させたいなら、赤ちゃんに「いないいないばあ」をしたり「おつむてんてん」をさせたりするのは止めたほうがいいです。これらは、どう考えても将来役に立つことではありません。泥団子を作ったり、砂遊びをするのも無駄なことです。子どもと鬼ごっこや追いかけっこをするのも時間の浪費ですよね。
 そう考えていったら、絵本の読み聞かせ自体が、将来、何の役に立つかというと、どうなんでしょ。字が読める、言葉が豊か、数が数えられる、リンゴをアップルと言える・・・なんてのは付随的(後で付いて来る)な効果で、そういうのは多く役に立たないことから生まれるものです。

意見には個人差がありますが・・・・

 個人的な意見ですが、私は人格というものは、「役に立たないもの、何の得にもならないこと」からできあがると思っています。さらに言えば、役に立つことばかりさせようとすると逆に人格は壊れてしまう可能性が大きいのです。最近、成績は良いけれど頭が悪い人、あるいは性格の悪い人が増えているような気がしてなりません。テレビのニュースで巨額の損失を二十年間隠し続けていた企業の幹部が出てきましたが、彼らは「読み書きそろばん」にはすぐれていたと思います。福島第一原発でキセノンが出ても淡々と「自己核分裂で、臨界ではない」と説明する人も「読み書きそろばん」がすぐれていることでしょう。こういうことを見ていると、戦後、60年間、日本の出直し教育は、出直したかに見えていたのですが、じつは明治以来の「読み書きそろばん」を基本とする教育が何も変わらないまま軸にすえられていたと思います。役に立つこと、実学を修めれば立身して出世できる・・・・この刷り込みは明治以降150年間・・・・ずっと日本人の頭に刷られていたのでしょうね。これは冷たい人間、自分のことしか考えない人間、思いの少ない人間・・・・そういう人たちしか形成しないように思うのですが・・・・・。
 このため、役に立つことが自分の利益になると思わされてきました。でも、家の中を見回してみましょう。役に立つと思って買い集めて、ほんとうにそれが役にたっているか・・・利益をもたらしているか・・・・膨大なゴミを作り出しているだけなのではないでしょうか。

役に立つこと、立たないこと・・・

 赤ちゃんに向かって「いないいないばあ」をする親・・・・幼い子どもと追いかけっこをする大人・・・・抱っこして頬ずりをする母親、風の中でカミヒコーキを飛ばしてやる父親・・・・たしかに実学の基礎でもなんでもない役に立たないことだらけです。でも、それらは子育ての大部分を占めているのです。寝床に入って本を広げ「ごろごろにゃーん、ごろごろにゃーんとひこうきはとんでいきます・・・・」と語る親、じつに役に立たないことをしていますが、子どもは楽しげです。
 早期教育の学習プリントをさせられている子ども、英語塾に通わされている1歳児、一週間のうち六日がお稽古事の子ども・・・たしかに役に立つことをしているのかもしれません。しかし、その果てに本当の意味で利益をもたらすものがあるのかどうか。この判断は難しいです。私は役に立たないことをたくさんするほうが人間の厚みが出ると思います。
 役に立たないことが、すばらしいことだと分かるためには、役に立たないことを子育ての中で勇気を持ってやることだと思いますが、皆さんはどう思われますか?

『朗読者』を読んで

 まじめな人は、上からの言葉をそのまま受け入れます。この点、日本人は、じつに、まじめで、「節電せよ!」となると、驚くほど一生懸命に節電します。ある意味、これは美徳ともいうべきもので、お国柄にもよりますが、他の国に行けば、これほどまじめに言うことを聞く国民はいないでしょう。しかし、日本人のまじめさは、言葉を発する側の人の質まで考えずに発揮されることもありますから、そのときは怖いものがあります。日本人は「上意下達」に弱いのです。「節電」はいいと思いますが、もし、これが戦争とか虐殺とか、そういう悲惨なことにまじめだったら、これまた怖いものがあります。そういう怖さを描いた本を読みました。
 『朗読者』を読む?・・・「どういうことなの?」と思うかもしれません。『朗読者』・・・じつは、これが本の題名です。ドイツ人のベルンハルト・シュリンクという作家が書いた小説です。数年前に読んだ本ですが、最近、再び読んでみたいと思いました。・・・再読を思い立ったのは、震災後の世の中のいろいろな傾向や風潮を見て「本を読むことの意味」を考えざるをえなかったからです。

ネタバレとなりますが・・・

 ちょっとスジを話しましょう。物語は、四十歳くらいの女性が十九歳の法学を学んでいる未成年と恋に落ちる話です。でも、中年女性が若手アイドルに狂ったり、年下の恋人を持つという現代の日本社会にあるバカ話ではありません。NHKでさえ「セカンド・ヴァージン」などというしようもない破綻のドラマを流し、韓流アイドルに狂うおばさんが山ほどいる日本の異常さ・・・社会が崩れていく様相を表す現象といえばそれまでですが、『朗読者』の中の中年女性の気持ちはちょっと違います。彼女は、まじめなのです。
 で、少年と一緒に生活を始めるのですが、おもしろいのは、主人公(中年女性のハンナ)は少年から読み聞かせを受ける時間を毎日持つのです。本好きな少年は、いろいろな本を朗読し、女性は真剣に聞いていきます。かなりの冊数を読み聞かせたころ、突然、女性が少年の元を去ってしまいます。よくある「若い恋人の将来を思って年上女が身を引く話」・・・ウーン、ちがうんですね。

考えをともなわないマジメさ

 時間が流れ・・・少年は法学の実習で裁判所の研修を受けるのですが、何と裁判の被告があの女性だったのです。女性は何をして裁きの場にいるのか・・・。じつは、彼女は、ナチスの強制収容所でまじめに仕事をしていたために、その罪で裁判を受けていたのです。女性は「文盲(もんもう=字が読めない人)」なのですが、とてもまじめな性格で仕事はきちんとこなす人でした。しかし、何も考えずに、まじめに仕事(強制収容所の)をしていて、自分のしていることがどういうことなのかさえ考えませんでした。それが、少年と生活し、たくさんの本を読み聞かされるうちに、自分のまじめさがトンデモないことにつながっていることに気がついたのです。
 生きるために何も考えずにしていた仕事が、じつは巨大な悪の手伝いだった!・・・・そのことを彼女は、たくさんの本の読み聞かせで知ったのです。世の中にはまじめに仕事をしても罪になることもあるわけです。つまり、私たちが一般的に思ってる「まじめさ」は、それだけでは「善」とイコールではないのですね。

錯覚して生きている可能性も

 日本人はとかく、外からも勤勉でマジメだといわれます。だから、多くの人は、自分を勤勉でマジメだと思っています。もちろん、たしかに勤勉でマジメで人が良く、周囲を気にして人との和も心がけてはいます。ところが、その勤勉でマジメなことが、巨悪につながっているとしたら・・・・・あるいは、人との和を重んじるのは違う考えを排除しようという無意識のコントロールなのではないか・・・・と・・・・・。
 もし、そういう意識や行動が巨悪につながっているとしたら、勤勉でマジメというのは、ただの錯覚にすぎなくなってしまいます。『朗読者』では、マジメな女性が一生懸命、強制収容所で「巨悪=ナチス」の仕事を手伝うのです。このマジメさは評価されるマジメさとはいえないわけで、だから裁判で裁かれるのです。何も考えず、ひたすら行なう勤勉とマジメさ・・・・これは怖いですよ。
 彼女は文盲で字が読めなかったため、もちろん、本が読めませんでした。このため、国が流す情報だけで自分の常識を作っていったのです。・・・・「字が読めないなんて哀しいね。だから、そんなことをしてしまうのだよ。」「私たちは字が読める。本も読んでいる。常識もある。だから大丈夫。彼女のようにはならない。」と言い切れるでしょうか。そして、これは、いまの日本人にも当てはまらないでしょうか。

教科書が常識を作るとしたら

 最近、ある本を読んでいてハッとしたことがありました。私たちの基本常識の多くは教科書によって形成されるのですが、実は隣国・朝鮮や琉球王朝、そして台湾史などの常識がまったくないのです。私は、韓流ドラマを見て、始めて朝鮮の風俗やファッションを知りました。端午の節句に鍾馗(しょうき)さんが被っていた帽子、地獄の閻魔大王が被っていた帽子・・・これらが朝鮮の両班(ヤンバン)が被る帽子だったなど、この年齢になって初めて知ったのです。NHKが放映した「テンペスト」というドラマで初めて琉球王朝が明治まで続いていた事実も知ったのです。どういう王朝かすら知りませんでした・・・・・あきらかに欧米のことより近隣の国のことの知識がないのです。福沢諭吉が唱えた「脱亜入欧(アジアから出て欧米諸国の仲間入り)」の精神は、現代の教科書の中でも歴然と生きているのです。
 そして・・・・・こういう操作は、じつは現在でも意図的になされているのではないかということです。明治政府は、倒した江戸幕府のことを悪し様に言い、教科書で幕府が行なってきたことはすべて悪いこととしました。私たちの意識の中には江戸幕府は前近代的で封建的なしようもない政府という常識が出来上がっていますよね。お百姓は粟や稗しか食べられない水呑み百姓、毎日毎日斬った斬られたのチャンバラの世界・・・・商家は賄賂を使って、その賄賂を役人が受け取る・・・・ドラマやお芝居から出たこんなことがイメージとしてすぐ浮かぶ常識です。ここでは、「そんなことで260年も続く政府があるわけがない」という疑問すら出てきません。

常識が目を塞ぐ

 翻って現代を見ても何の疑問も発することができない常識を教科書は植え込みます。原発問題でも同じです。教科書副読本の「わくわく原子力ランド」によって、安全が常識の中に畳み込まれ、逆に真実から遠ざかっていく。つまり私たちは目を塞がれて、逆に盲になっているのではないでしょうか。誰もこの狭い国に54基の原発が稼動していたなんて知りませんでした。なぜ、プルサーマルをやろうとしているか、など誰も疑問を発しません。
 さて、ここで再び『朗読者』・・・・彼女は読み聞かせを受けて、考え始めます。そして、自分のマジメさが巨悪に連なっていたことを悟るのですが・・・・たとえば、現代日本の電力会社の社員は、電力の需給に関る仕事が国の発展のためだと信じて、マジメに働いているのではないでしょうか。プルトニウムが何に使われるのかかも考えずに・・・・・宇宙開発事業団の人々はマジメに宇宙開発に携わっていますが、打ち上げロケットの開発がICBMの開発につながるかどうかは・・・・考えていないことでしょう。同じことは、学校教員でも言えますよね。教育は近代国家にとって重要なもので、これが兵士を作っていくなどと言うことは考えもしないでしょう。そして、マジメさと勤勉さに裏打ちされた常識は、こういうことを誰かが言うと「おかしいんじゃないか。そんなことあるわけないだろ?」と判断します。安全神話はどこでも出来上がっているのです。
 こうした「常識」が教科書によって作られるとしたら・・・・・そして、それ以外の情報・・・・・テレビや雑誌、新聞が同じような「常識」を振りかざしてきたら・・・・・真実はどんどん見えなくなっていきます。
 ところが、3・11の、あの巨大な震災は、「想定外」とか「未曾有」という言葉を空虚なものにして、私たちの評価順位が高かった学者や政治家層の虚妄性をどんどん暴いてくれたのです。さらには、利権や権威に血道を上げている人の実像も浮かび上がらせてくれました。もちろん、ほんの一瞬です。数ヶ月たてば、また彼らは必死になって自分たちの城を固め、批判や疑問を出す人を囲い込もうとしています。国民の多くも怖いものは見たくないので、なるべく当たらず触らず・・・・・復興、除染のボランティアでお茶を濁して、自己満足するところで落ち着きます。
 いったい真実はどうして、どのようにしたら見つけられるのか・・・・『朗読者』の彼女は本を読み始めるのです。本の中には多様に見ることができる、さまざまな「考え」があったからです。読むことで・・・・さらにまた考えることができるということがわかったのでした。おそらくナチスの巨悪に無意識だった自分に気がついたことでしょう。

四十歳でも読書を始めるのは遅くない?

 前述のように、震災以後、私たちは地位が高いだけの人の言葉をあまり信用しなくなりました。彼らが「立派だから地位が高い」のではないことに気がついたからです。テレビがほんとうのことを伝えないこともしだいに分かってきました。テレビに出ているコメンテーターなど人気取りのためにどんなオベッカでも使うことが見えてきました。
 御用学者たちや助成金をもらう人たちが口をつぐんでいるのも見えてきました。おそらく、知られてはマズい利権や私たちをゴマカして儲けようとする仕組みが後ろにあるからでしょう。それも、知って、考えるうちにしだいに見えてきました。
 でも、多くの人は、まだまだ忙しさに負けて何も考えずにひたすら「まじめさ」を発揮しているようです。国民全体では、無力感や無意識が蔓延していますよね。何か言ったら損だ! 変わったことを言えば囲い込まれる!・・・・そして、その中で破綻に向かう大きな渦が回り始めているのです。
 とにかく私たちも世の中について書かれたものを読んでみましょう。きっと見えなかったものが見えてきます。その本の中の中年女性もやがて本を読み始めるのです。
 『朗読者』によれば、読書は四十歳でも遅くはないということです。さらに老いた私では頭が回らずに遅いかもしれませんが、どこかで立ち止まって考えることは必要なのです。そうしないと、私たちはまた「いつか来た道」をマジメに歩いてしまいそうです。次世代のことを考えるだけで世の中はかなり違ってくるはずですが・・・これからの社会は上からの言葉と力がかなりひどくなってくるはずです。強欲で動く人たち・・・原発の再稼動の推進・・・・国を売るような外交と政治・・・・反対を押しつぶす力の行使・・・・これが始まってくるでしょう。そして、その強欲の基軸となっている電力会社や自動車生産企業で働くマジメな人々・・・・果たして多くの日本人は、考えて行動する力をこれから発揮できるでしょうか。その先に私たちの子どもや孫が生きる時間が定められているのですが・・・・・。



(2011年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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