ブッククラブニュース
平成23年9月号(発達年齢ブッククラブ)

いい国つくろう、何度でも

 先日、ある出版社のコピーを見て度肝(どぎも)を抜かれた。皆さんも電車の中吊り広告などで見たことがあるだろうが、ここに掲げた写真つきのコピーである。日本人なら誰でも知っている66年前の日本占領の冒頭シーンだ。厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥の写真に「いい国つくろう、何度でも」とコピーがついている。この言葉から「1192つくろう鎌倉幕府」を連想しない日本人もいないだろう。フレーズ自体がなじみのあるもので、しかも人をバカにしたような「何度でも」という言葉が述べられたら、ギョっとする。この文の真意は分からないが、なにはともあれ心にズキンと来た言葉だった。
 いろいろな解釈があるだろうが、3・11以後、ずっと、この国の姿を見てきて、「戦後の日本が、ここに至って再び敗けた」感じを持っていたから胸を打たれた。
 このコピーは「またアメリカさんの力でもう一度良い国を作ろう」ということなのか、「アメリカに占領されて来た日本がこうなってしまったのだから、もう一度自力で良い国にしよう」ということなのか、短い言葉からは意味が分からない。しかし、少なくとも私の心を打つ「素晴らしいコピー」だったことは間違いない。

短い言葉の可能性

 メールやツイッター、キャッチ・コピーやポスターのフレーズ・・・とにかく短い言葉があふれる時代になっている。そして、「長い文など誰も読まない」と多くの人が思っている。人の心をつかまえて物をどんどん売ろうという世の中だ。「どうしたら一発で人の心を惹きつけられるか」、「具体的なことなどどうでもいいから、とにかく惹き付けるには・・・」などと思っている仕掛け人は多い。
 しかし、こういう言語文化は、じつは日本人はお手の物だ。俳句も短歌も長い伝統がある。「古池や蛙飛び込む水の音」・・・日本人ならパッと目に浮かぶ情景である。音まで聞こえる・・・この国は、短詩型文化の国なので、いたるところに短文が転がっている。短い文ならお得意なのだ。しかし、「古池や蛙飛び込む水の音」・・・これを英語で作文したら大変である。「In the old pond,a frog jumped in making sound of water.」では何のことやらわからない。外国人なら「飛び込んで、どうした!」「なんで古池なの!」と文句が出る。「Full in care Cowards to become mid note」では冗談、冗談である。
 ただ、短い言葉は俳句と同じで個々の感性で解釈させるものだ。だから、雰囲気で分かってしまう良さと意味不明になる悪さを合わせ持つ。下手クソな短文だと共通の理解が得られない身勝手な発信になる可能性もある。

言葉の意味を考える

 コピーライターの多くは感覚的に訴える言葉だけをつくっている。あまり意味はないのかもしれないが、「いい国つくろう」の作者はどんなことが表現したくて、この言葉を発信したのだろう」・・・この真意は詮索(せんさく)したくなる。
 言葉をそのまま受け取れば「たとえ間違っても、あるいは落ちるところまで落ちても、やり直せばいいじゃん。」ということになるだろう。つまりは、熟慮もなく、豊かさと便利さに浮かれてきた脳天気な日本人を皮肉っているともいえる。
 とにかく、一日で二万人の人が死に、1.5京ベクレル(いったいどのくらいの量なんだい!?)の放射能が海を汚染している事実。まだまだ死者は出るが、東電も政府も他人事だ。反省もなく、責任も取らず、原発事故に携わった警察官、消防隊、自衛官にはスペイン皇太子から賞が贈られる始末・・・なんでスペインから?? この皇太子はドン・キ・ホーテの子孫かい!? 果敢に風車に突撃する英雄と同じとすれば自衛官たちはパロディになってしまう。
 事故はまだ何一つ収束していないし、この日本は今、止められない急降下を始めたというのに、やはり「いい国つくろう」なのだろうか。66年前に広島に舞った放射能が、いままたその165倍の規模で福島に舞っている。懲りず、恥じずに何度でも。
 子どもにかかわる仕事をする者は、つねに未来を心配することをしなければならないと思う。その意味では政治家も教師も役人も・・・・親も・・・すべての大人は子どもにかかわる仕事をしているのだ。と、いうことは、その仕事は未来から不安を取り除くことをしなければならないわけである。「今がよければ、次の世代のことなどどうでもよい!」という人が増え続ける限り、原発という利権構造はふくらむし、環境を破壊する経済が横行する。放射能が出ても年間自殺者が三万人を越えても住環境が悪化しても、そしてすべてが破壊されても何度でもいい国をつくるというバカさ加減で進む。これはもう未来そのものがない行き方だ。

やり直せないもの

 しかし、このキャッチ・コピーは別のことも意味しているのではないかとも思う。逆説的に考えれば「何度もできないこともあるのだ!」「だから何事にも心して取り組め!」という意味を持つのかもしれない。実際、子育てや家庭生活で、この言葉は使いたくないものである。「良い子をつくろう、何度でも」、「良い家庭をつくろう、何度でも」では哀しい。「失敗したらやり直せばいい」という考え方もけっこうだが、何もかもそうはいかない。世上には、「起きてしまったものはしかたがない」「希望を持ってやりなおすしかない」という声が大きいが、この考え方はある意味、ひじょうに女性的な思考だ。一見フンギリをつけて未来に向かう感じがするが、ここには反省も原因追及も何もないのである。最近、このような発想が至るところで見られるが、やはり戦後は女性の時代と言うことなのだろうか。反省も原因追及もないところでは、同じことが繰り返される危険性がある。太平洋戦争の反省はなく、戦争に至った原因追及もなく、敗戦は「終戦」という言葉でゴマカされ、フンギリはつけて?民主日本を目指したが、殖産興業は「高度成長」に名前を変え、富国強兵は「極東第二の軍事力を持つ自衛隊(軍ではない)」ものに掏りかえられただけで、けっきょく、また同じことが繰り返されている。
 歴史も人生も一回だけのものだ。生身のものは、育てなおし、つくり直しはできない。子どもにいろいろなことをやらせて失敗したときはどうするのか。気楽に離婚して子どもを置き去りにして何度でも懲りずにまた結婚・・・これこそ、すぐにフンギリをつけて未来に向かう脳天気が量産されている結果でもある。そこでは虐待も生まれ、DVも起こる。あたりまえのことだが、やってはいけないことはしてはいけないのである。
 「いい国つくろう、何度でも」・・・このコピーは「世の中にはやり直しのきかないものもあるのだ!」ということを教えているのかも知れない。

仁義礼智忠信孝悌

 「現在必要と思われる価値観を一字で表すとしたらどの字がよいか」と、ある保険会社が調査したら、集計順に絆・愛・信・力・心・結・和・金の順になったという。一位の「絆」は、東北の大震災で家族や地域の人間関係が再認識された結果だと思うが、二位以下の愛・信・力・心・結・和は、壊れかけている現代社会を考えたものだろう。しかし、八位に入っている「金」とは何を意味するのか、と思って、調査の解説を読むと若い人が多く支持した字だという。彼らが挙げた理由として「お金がないと何もできない」が多かったらしい。やはり、バブル世代後の若年層には、お金信仰がかなり浸透してしまって、「お金最優先」という考え方になっているというわけだ。
 ただ、金が危険なものであることは言うまでもない。愛情や信頼、活力や心情、結束や和合を壊してきたのは、じつは金だったのだ。これは、昔から分かりきっていることだ。おそらく、近い将来、投機や市場原理の行き過ぎで世界的なインフレが起こると思うが、それはお金を追い求めてきた国から始まるはず。アフガニスタン発とかブータン発のインフレは起こらない。よく見てみると、先進国はお金のために家庭や地域、愛情や信頼、活力や心情、結束や和合をなくしているのである。

国の衰え

 たとえば、この国も経済最優先でやってきた。それも農業や漁業ではなく、工業でがんばってきたが、その裏ではお金のバラマキがあって利権ばかり追い求める仕組みが多い。見かけは豊かになったようだが、じつは忙しいだけで、娯楽やレジャーも時間に追いかけられるだけのあわただしい豊かさなのである。
 本を読めば、そういうことが味気ないものだということが分かるが、多くの指導者は本を読まないので(当然国民の多くも)、減速してゆったりとした生活を目指す世の中にすることができない。指導者ばかりではない。世の中を円滑に動かす仕事をする行政の方々も、壊れてしまった世の中の仕組みを復活させることができない。
 昔、アジアの国では、教育者や役人になるためには四書五経を必ず学んだ。四書とは「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経とは「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」。世の中の仕組み、哲学、行動学、倫理学から天文、歴史まで基本的な考え方を勉強したわけである。教師や役人の登用にはこういう中から試験問題が出て、この学を修めた人が教養と人格で民の上に立っていた。その学問の中には責任の取り方や人との接し方、世の中の見方、未来の探り方まであるわけだから、勉強をした人が教師や役人になって指導的役割をもつのは自然な成り行きだった。
 しかし、国が衰えてくると四書五経を暗記しただけの成績の良い人が試験をクリアして役人になり、権力や金を求め始める。こういう人は暗記はするが、本を読むわけではない。読んで何かしようという意志もなくお金に群がり、権力と金が入れば何でもする。さらに欲だけかく仁徳のない人と組んで社会や家庭の結束や和合を壊していく。ラストエンペラーの時代の中国(ひょっとすると現代中国も)や大韓帝国の末期、幕末・・・など国が終わるときはどこも同じである。かんたんにいえば官僚・役人が国をつぶす。

地に落ちる思想

 現代日本だってまったく同じだ。学歴は高いが人徳のない教師はいくらでもいるし、成績は良かったが無能な役人は掃いて捨てるほどいる。それなのに彼らは異常なほどの高給を取り、国の借金を高めることには貢献している。これが、どの文明も陥る没落の最初の兆候である。この風潮を押しとどめることなど誰にもできない。
 しかし、アメリカナイズされた民主主義と自由という病気にかかった日本人は、四書五経の根本を見捨ててしまった。「論語」「孟子」「礼記」には現代にも通じる世の中の道理や人の道が書かれているのに・・・・。たとえば有名な論語は、仁徳の基に八つの概念を挙げる。判りやすくいえば、有名な里見八犬伝に出てくる玉には、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つ字が浮かぶが、いずれも社会の仕組みや人のつながり、人格や生き方の象徴となるもので、勉学すると理想の実現に向かうようになっている。つまり教養がつき、人格が高まる。
 では、「本家本元の中国はひどいものではないか!」「儒教の教えなどあの国にカケラも残っていない!」という人もいるだろう。たしかにそうだ。だが、孔子(老子も孟子も・・・)の考えは、そういう倫理や概念を必要としていた国だからこそ出現したのである。当然、そんな国では孔子は受け入れられなかったのだから・・・。しかし、「人が生きていくには・・・」「国を安んじるには・・・」「世の中を経営するには・・・」という方法論は四書五経の中に山ほど書かれているのである。「自由」と「正義」を声高に叫ぶばかりのアメリカの浅薄な実用主義とは雲と泥の差があるものだと言ってもいいだろう。
 だが、こういう問題ひとつ現在の公務員採用試験には出ない。読書をしなければ、この概念は身につかないから、やがて役人は地位と金と力だけを求める人になりさがってしまう。困ったものだが、現在の社会を見ていると、「すでに、そういう末期になっているなぁ・・・」と感じないこともない。こういう時代に子どもを育てるのは大変だし、なかなか希望も持てない。壊れる過程で作っていくことは困難で大変なことなのだ。しかし、だからと言って壊す側、壊れる側には回りたくない。何とか社会が壊れるのを防ぎ、新たに作っていくことをしたいものだと思う。



(2011年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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