ブッククラブニュース
平成23年7月号新聞一部閲覧 追加分

訪れてみたい絵本美術館

 絵本美術館のすばらしいところは、原画のよさを味あわせてくれることだ。見慣れた絵本、よく知っている絵本でも、実際に原画を見ると本の中にあった絵とは思えないすごさを感じることがある。まったく別物という感じのものもある。
 現代では、印刷技術が飛躍的に高まったが、やはり手書きのものは人の心を打つ迫力があると思わざるをえない。こうしたものを堪能することで、本物と偽物を見分ける感覚も身につくかもしれない。八ヶ岳周辺は、絵本美術館が目白押しです。節電の夏、涼しい高原で本物を楽しんで見ましょう。

A小さな絵本美術館

 八ヶ岳が一望の森の中にある雰囲気最高の絵本美術館。ばばばあちゃんシリーズで有名な「さとうわきこ」さんの美術館です。岡谷市に本館がありますが、この八ヶ岳館は緑豊かな自然の中。春には芽吹く緑、夏はこんもりと茂る深緑、秋にはまぶしいほどの紅葉と木漏れ陽・・・別世界に来たようです。実際に別世界ですが・・・避暑には最適の場所です。近くには農業大学校のキャンパスもあって、あわせていろいろ楽しむこともできます。
 今年の夏は以下の企画展が開催されます。またそれに合わせて、いろいろなイベントが企画されていますので時期に合わせてお出かけください。
 予定を知りたい方は、こちらをクリックしてアクセスしてみてください。


★7月18日まで 「沢田としき絵本原画展」
★7月23日→9月4日 「降矢なな絵本原画展」
 降矢ななさんは皆さんおなじみですよね。配本の中には、「めっきらもっきらどーんどん」や「まゆとおに」「おっきょちゃんとかっぱ」などが入っていますから見知った絵本の原画の美しさも味わえます。
★9月10日→11月末日 「フェリックス・ホフマン展〜後期〜」
 長野県諏訪郡原村原山  TEL 0266−75−3450
 アクセスは、こちら

読み聞かせから読書へ・・・そして・・・
読み聞かせや読書がむずかしい時代

「純粋培養」などできません!

 ときおり、「ゆめやの選書は良いものだけを与えて子どもを純粋培養しようとしている」なかには、「読書エリートをつくろうというのではないか」なという声もあり、他にもいろいろご批判をいただきます。でも、こういうご意見は「純粋培養」とか「読書エリート」という言葉にとらわれていて現実を見ていないものが多いです。
 昔もそうですが、現代では、生活の中に津波のようにサブカルチャーが入ってきます。TVやメディア媒体からアニメ、キャラクター、戦隊もの、ゲーム・・・園や学校に行けば、絵本や児童書の話題ひとつ出てこないでしょう。きちんと読書をしていくエリートをつくるなど逆立ちして日本一周するよりむずかしいことです。
 ですから、純粋培養をしても、現実にはさまざまな影響を受けることになります。また、読書エリートといっても特定の分野のものに偏る「オタク」的な読書エリートならともかく、教養のレベルで読んでいって、社会的なことや自分の向上につなげる読書エリートをつくる確率はかなり低いかもしれません。だからこそ、「選書には良いものを・・・」「ずっと本を読んで行かれるように」を基本にやっています。

読書どころではない!

 しかし、そうは言っても時代が時代です。親はひたすら忙しく、三十年前と比べれば子どもに絵本を読み聞かせる時間だって激減でしょう。小学生の読書だって二十年前に比べても質はカリキュラムのツメコミでかなり低下しています。
 よく講演会で、主催者が「じつは、講師の先生の話は聞きに来ている聴衆には聞く必要がない話で、ほんとうは会場に来ていない人々にこそ聞かせたい」と訴えるのを耳にします。これはブッククラブも同じで、子どもに本を読み聞かせている人に、このニュースや新聞で言う必要はないのです。ところが、読み聞かせをし、読書をしている子どもの周りは、すべてとは言いませんが、しようもない育ち方をしている子も多く、そういう育ちから来る強引な物言いや行動が読み聞かせや読書で育っている子に迷惑なことも多いのです。もちろん、そういう子の親は、やはりそれなりで、とく最近は常識を逸した人も多いです。
 では、園や学校は頼りになるかと言うと、もう、こういう親子のモンスターに手がつけられない状態になっているところが多いですし、一定以上踏み込まないのです。また、こと本(読み聞かせや読書)については対策どころか何のガイドラインもなく「ご勝手にどうぞ」という状態です。みんながみんなではありませんが、ひどい蔵書、ひどい貸し出しで子どもが高度な読書に向かえない教育環境が多いのです。だから、今こそ家庭がキチンとしないとダメなんですね。
 さて、前回の続きです。

電子書籍が子どもに不適な理由A

 子どもは新しいものへの順応が速いですが、世の中や学校などでは電子書籍を取り入れ始めている風潮があります。いくつかの問題点、極端に言えば、人格さえ変えてしまうかもしれない問題を軽く越えていく風潮に危険も感じますが、これは私がグーテンベルク原理主義者だからでしょうか。
 最近、ブッククラブの卒業生で工学部の学生が来て、i-padで本を読んだ状況を話してくれました。とにかく、「数日間もかかって、ようやく読み終わった!」というのです。何を読んだか聞いてみると、全体量としては短い論文のようなものだったらしいのです。おそらく一日かそこいらで読めるような量です。学生だから電子書籍の扱いは慣れているだろうし、論文内容も自分の得意分野ででしょう。「ハイテクに精通した学生が、なぜそこまで時間がかかったのだろうか」と考えていましたが、すぐに、本人が素晴らしい説明をしてくれました。
 読み始めても、電子書籍だと「続きを読む」ことを忘れてしまうらしいのです。読み通すには、つまり、次を読み始めるには「新たな決意」が必要だといいます。だから、なかなか進まない。電子書籍は、視界のどこかに存在するということがないのですから、どこまで読んだ、どのくらい残っている、この厚さを読みきった、という感覚がともなわないわけですね。本が、「読み始めたものは最後まで読め!」と訴えてくる力に欠けるのです。1,000冊を超える電子書籍を持っていたとしても、視界に入ってこなければ忘れられてしまう。この問題を解決する方法は、『はてしない物語』を読み始めてもう17日がたつが、まだ47ページ目だ、ということを思い出させてくれる通知が画面のどこかにポップアップで出くる機能がなければ感覚的に読んでいる、ここまで読んだという実感がないのです。しかし、たとえ、ポップアップが出てきても、ページをめくって進む読了感には及ばないことでしょう。これは絵本でも同じことですが、マンガならいいかもしれません。パーっと読み進めて終わりですからね。こういうもの(電子書籍など)を幼いうちから与えたらどうなるのでしょう。取り返しのつかない失敗に対応ができないものを実行するのは原発と同じで危険なのですが・・・。

読書の意味 大震災から学んだこと
B信頼できないメディア

 おそらく、誰もが震災後の情報の混乱で、何がほんとうで、何がウソなのかよくわからない状態になったのではないだろうか。テレビの津波映像には恐ろしさも感じたが、それはまるで危機をテーマした映画の一シーンのようで、切迫感はなかった。つまり、安全地帯で見ている「怖い」映像である。それでも、あの大きな揺れを体験しているから「これが現実だ」という認識もある。恐ろしいことが起こったという実感もじょじょには出てきた。しかし、果たしてそれが何かを考え出す力になったかというとそうではない。ただ、感情的なものにすぎなかった。少なくとも私はそうだった。映像からは反射的な想像力しか出ないし、すぐに想像は消える。たとえば、役場三階に避難したが、水が三階まで上がってきて屋上まで逃げたおばあさんのコメントを聞く。「こんなとこより、昔から言われていた山のお稲荷さんのところまで逃げればよかった・・・」・・・「やはり言い伝えのほうが防災情報より確かだな」と思った。それと同時に昔読んだラフカディオ・ハーンの「稲むらの火」を思い出す(「TSUNAMI!津波」小泉八雲・原作、キミコ・カジカワ再話 )。これは、南海地震の津波のとき、稲の束に火をつけて村人を高台に逃がした話だ。やはり人間は物語付きでないと想像力は高まらないし、記憶にも残らない。映像はどこまでいっても一過性のものなのである。映像にも物語がつけば(たとえば映画)いいが、まだまだ物語にはかなわない。この震災の津波の映像がどこまで人の記憶の中に残るのか・・・66年前の広島の原爆の映像はいたるところで流されているが、いまの若い人たちの中には戦争があったことさえ知らない人もいるわけで映像が想像力には結びつかずに風化していく問題もある。

テレビからはつくれない思考

 原発事故は映像がない分、逆に怖さが強くなったが、じつは何もわからない不安があった。それなりに常識として知っていたはずなのに、いざとなると何も分からない。報道される情報は初耳ばかり。放射能漏れ事故以来、日本人の思考は変わったと思う。あるいは変わらなくてはならないと思う。
 メディアが信頼できないのは、この数ヶ月間、怒りの意見を一切報道しないことにある。まさか、すべての人が電力会社からお金をもらって口封じされているとは思えない。締め付けが怖くて何もいえないという状態でもないだろう。それにしても、怒りの意見を伝えないのは異常で、あきらかにメディア内部で規制があるか、どこかから伝えないようにというお達しがあるとしか思えないのである。
 私は、メディアが、こういうことについては真実に触れる報道をしないことは分かっていたが、やはり、これは本を読まねばダメだという思いを強くしていた。3月14日から関係書籍をかなり読み始めて、知るにつけ、分かるにつけ、メディアの報道は隠していることが多すぎると思った。テレビからの知識で考え方をつくったら、「いいように利用されてしまうだけ」と思った。
 いまだに、夢新聞5月号で書いた(「地震と原子力発電所」広瀬隆)福島第一原発で起きた去年六月の燃料棒露出については報道されていないし、今月初旬に議決されたドイツ国会の2022年までの原子炉廃炉法案についてはほとんど報道されない(取り上げたのはNHKくらいで新聞の扱いは小さい)。今月7日の福島第二原発の配電盤ショートによる冷却水の温度上昇もほとんど報道されない。原発はどういうわけか隠すことばかりという感じがしてくる。
 だから、こういう問題(じつはあらゆる問題も)は、専門家や別の角度から情報を発信しているものを参考にしないと見えてこない。私たち日本人はテレビを主な知識源にして考えをつくっているところがあるが、これはきわめて危険だ、と思う。それは今回の放射能漏れ報道でわかったのではないか。
 「原発のことはむずかしくて分からない」と言う人も多いが、ある会員の方が私に子どもでも分かる原発の本を教えてくれたことがある。大人の鑑賞にも耐えるものだ。こんな本が20年も前に出て、今日を予言していたなんて知らなかった。こういう本を読ませる親の子は批判力がつく。今回、私たちの多くが、そういう気持ちが出せなかったのは、原発に関心を持たないようにテレビなどに操作されていたということでもある。
 私たちが子どもに本を読ませたいと思うのは、国語力を上げることでもなく、ワイドショーやバラエティを喜ぶ人間にしたいのでもなく、深く考えて行動できる人間になってもらいたいわけだ。大人も考え直さねばと思う最近である。

読み聞かせのポイント
B急速に発達する1歳児への対応

1)おどろくべき急な発達

 毎日、赤ちゃんに接していると、なかなか、その発育の速さを感じないものですが、数ヶ月という刻みで見ていくと、この1歳代の発達は、ものすごい速さであることが分かります。絵本を与え始める1歳直前は、まだ、おっぱいを飲んでいる時期で、言葉もきちんと出ない状態です。それが一年後の2歳ともなれば、こちらの言うことは分かりますし、中には会話が自由にこなせる子も出てきます。
 当然、その間では、体も脳も急速に発達しています。直立歩行がまず始まり、プリントされた絵柄が何であるかわかるようになってきます。もちろん、耳からの言葉の取り入れは大量になってきます。考えても見てください。実物に近いような絵柄が分かるかどうかだったのに、半年も経てば、線画だけの絵が何であるか判別できるわけです。なかなか気づかないことなのですが、あるいはあたりまえと思ってしまうかもしれませんが、この発達速度はすごいものがあります。

2)ブッククラブ配本では

 大きく四半期に分けて構成し、さらに感覚的なものやリズム感や探す力、見つける力などの発達が始まる時期に適切な配本を組み込んでいます。もちろん、標準的な区分で、個人差はあるかもしれませんが、おおまかには対応できていると思います。ですから、前半では「本には初めがあって、読んでいくと終わる」ということを念頭に置いて読み聞かせるようにお願いいたします。
 とにかく、この時期の赤ちゃんは見ていて飽きないのです。表情は多様に変化し、話しかければ、ここちらに向いてきます。まさに自分を相手にゆだねている様子は母親ばかりでなく父親の気持ちさえひきつけます。この時期を経験できる親は生涯で一番幸せな気持ちになるのではないでしょうか。親ばかりではありません。お姉ちゃん、お兄ちゃんだって、この時期の赤ちゃんは大切にします。

3)ゆらゆら感

 1歳前後の子どもは、親(とくにお母さん)に相手をしてもらって、快い感覚にひたることを喜びます。ひざの中に入ったり、息づかいが聞こえるくらい近くでお話を聞いたり、歌を歌ってもらうことが大好きです。それも、そのはず、この時期は大脳の旧皮質が発達し始め(2歳半くらいになると旧皮質の発達が止まる)、そういう安定感が必要になる時期なのです。愛されているという感覚が「自分は必要な存在である」という「自己肯定感」を作っていきます。また、相手をしてもらうことで「自分は何かに属している」「ひとりぼっちではない」という感覚も芽生えることでしょう。ゆらゆらと抱っこされる快感・・・うつらうつらしながら聞く歌、そこで色やリズムにゆっくりと反応していきながら、安定した心をつくっていくと思われます。こういう体験が希薄な子ども、あるいは快感どころか不快な仕打ちを受けている子どもは、やはり思春期から成人期になって、とかくの問題を起こすのではないでしょうか、ね。個人的な意見に過ぎませんが、この国の異常な自殺数は、乳児期に置かれた環境(自己肯定感が得られない)に原因があると思っています。
 私たちの祖先がネアンデルタール人やクロマニヨン人だった昔も赤ちゃんはお母さんの腕の中で、あるいは背中でユラユラと快いリズムで揺れながら、安定した気持ちをつくっていったのではないでしょうか。

4)ごっこから始まる

 1歳半くらいになると、いわゆる「ごっこ遊び」が可能になってきます。それ以前では、本をペラペラめくることをおもしろがったり、本を積み重ねては他へ運ぶなどという本来とは違ったことをしますが、だいたい1歳半くらいから内容そのものを体の表現で楽しむというができてきます。たとえば単純な絵本ですが、左の「もこもこもこ」・・・これで「もこもこもこごっこ」ができます。シーツをかぶって、もこもこもこ・・パッチーン。
 また、上の「こぐまちゃんのみずあそび」でもお風呂の中で水のかけっこを実際にしてもいいのですが、じつは居間でも寝室でも「みずあそび」はできるのです。子どもは、大人のようにリアルでないと喜べないほど単純な存在ではありません。何でもどのようなものでも見立てて遊ぶことができるのです。それは、持って行き方ひとつです。
 つまり、1歳では、絵本を通して子どもと遊ぶことを心がけたいものです。まだ、子どもは絵本の中から何か学習するという能力は芽生えていません。もちろん急速に覚えていきますが、やはり楽しさがなければ本に向かう気持ちは減ってしまいます。まずは、親が相手をしてくれる快感、つぎは内容で遊べるおもしろさ・・・そういうところから入っていくのが自然です。まさか、この時期から物の名を覚えこませ、「さあ、これは何?」「この次にはどれが来るの?」などと教え込みをする親はいないでしょう。大人だって楽しくないことを覚えこむのは嫌なことです。子どもならなおさら。それにですね。1歳の赤ちゃんの相手をするのは日々発見とおどろきで、親にとっても楽しみなのです。(ニュース増ページ一部閲覧)



(2011年7月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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