ブッククラブニュース
平成23年6月号(発達年齢ブッククラブ)

こだまでしょうか? いいえ

 五月のある夜、親子三人で隣市の映画館に行った。いわゆる場末の映画館だ。かなりの老人が切符切りから飲み物、お菓子の販売、掃除、フィルムの交換、映写まで一人ですべてをする。ウインドウには淡島千景が来訪したときに老人と撮った写真とサインが貼ってある。娘は「だあれ?このおばあちゃん。」と言う。そうだよな。長谷川一夫と「『おさん茂平衛』を演じた美人女優だ」なんて言ったところで通じないだろう。「昔はきれいな女優だった人さ。」と答える。絶世の美男・長谷川一夫も娘は知らない。私は一字違いだが似ても似つかぬ醜男だから、名前など人の運命と何の関わりもないと思う。誰も年をとればおじいさんやおばあさんになる。不慮の死を遂げなければ、それなりに楽しくもあり、苦しくもある人生を生きられる。あまり欲張らないことだ。お金を追い求めすぎて刑務所に入る人間もいる。そうか、あのホリエモンもそろそろ収監されるんだな。時代の寵児もツキが落ちれば塀の向こうだ。
 今日のメインの上映はマイケル・ダグラスの「ウォール・ストリート」。金儲けに全精力をつぎ込む男の話、いかにもアメリカらしい映画だ。でも、今日は、これは見ない。ちょうどあと五分後に、この映画は終わる。その後、上映される映画を見るわけだ。待っている客は私たちを含めて七人。東京では連日満席らしいが、山梨ではこの程度。まあ、田舎は意識も低い。では、おもしろい映画かというと、じつはおもしろくない。どんな映画なのか・・・。

その映画とは、

 福島原発事故を受けて緊急公開されたドキュメンタリー『100,000年後の安全』。無害化されるまでに十万年かかる放射性廃棄物の処理の話だ。フィンランドの試みだが、答が出ない恐ろしさを感じる。映画が問うているのは、使用済み核燃料のゆくえである。使用済み核物質は地下に埋めて十万年もしないと安全にならないらしい。飛び散れば子どもも孫もそのまた子どもも悲惨な結果になる。これについて、日本ではまったく論議がない。現在、青森に置かれて冷やされているが、冷却できなくなれば福島と同じになる。十万年経たないと安全にならない物質を原発は毎日つくりだしているわけだ。また翌年廃棄すれば安全は十万一年後になる。遠い将来の話だが、しかし、観た後、そんじょそこらのホラー映画よりはずっと怖さを感じた。
 今後、五万年は地層変化がないと言われるフィンランドのある森の地下500mに廃棄物を埋める。十万年後には安全になる物資というが保証ができるかどうか。考えても見よう。日本のある場所の地層深くに埋めたところで、ここは地震列島だ。五万年どころか明日だって地殻変動が起きて、地層がずれる可能性はある。それを安全な処理と言うのは嘘以外の何ものでもない。ところが、この国の原子力学者や政府は、平気で「安心、安全」を口にしてきたのである。そして、青森の六ヶ所村で、使用済み核燃料は安全になる十万年後を待っているというわけだ。常時、水で冷やさなければ危険になる燃料を、青森は押し付けられているのである。わずかな交付金ほしさのために・・・。
 それにしても四十年以上、ほんとうにうまく騙し続けてきたものだ。国民の多くは、原子炉の核燃料が冷やされ続けなければならないことも事故が起これば周辺何十キロもが何十年も人が住めなくなることも知らない。処分する方法もなくひたすら置いてあるだけということも知らされていない。安全神話がある限り、誰も何も言えなかったわけである。

だましてきた人々

 こんなことは、学校は何も教えてくれなかったし、メディアも触れてこなかった。とにかく、今回の原発事故で、私は原子力発電について「何も知らない」ということを思い知らされたので、お勉強をしてみると、おどろくことばかり。なるほど核燃料は冷やし続けなければ核分裂を抑えられない、それどころか、原発とは蒸気でタービンを回す原始的な機械だということも知らなかった。さらにテロリストが原発を狙えば核爆発と同じことが起こるのに、この国は自衛隊が原発の守備についたこともないのだ。全国で54基もあることさえしらなかった。とにかく、マイクロシーベルト、ベクレルなどよいう単位は初耳、「建屋」などという古典的な名称さえ知らなかった。つまりは、聞くもの見るもの、すべて知らないことばかり。
 さらに調べていくと、「原子力事業五十周年記念講演」で、中曽根元首相が「反対をうまく抑えながら、原発をつくってきた」ことを自慢げに話していることもわかった。うまく審議のスキをついて法案を通すなど姑息な手で原子力を推進してきたことが講演では語られる。ひたすら原子力が必要だったことが述べられているが、その主張の中で驚くべきことが言われている。「農業国家、四等国家になってしまうという危険をはらんでいるのがアメリカの占領政策だった」というわけで、農業国家を脱するのが中曽根元首相の政治理念だったわけ。おどろきです。こんなことを農業関係者が聞けば、怒る。まあ読んでみてください。資料はこちらです。
 となると、「何だ!・・・福島がこういう事態になったのは、どう考えても旧政権の政策の結果じゃん!」である。浜岡原発を止めた菅首相がなぜ攻撃されるのかもだいたいわかってきた。原発で儲けたい人たちがいるのだ。彼らは、儲かれば孫や子の世代がどうなろうとかまわないらしい。そのトバッチリを福島県民はすでに経験しているが、日本中、誰にでも子や孫はいる。どうする。原発銀座の福井県は・・・? 福井地震はたしかあった! 新潟刈羽原発・・・新潟地震は頻繁にあるよねぇ。それにしても、私たちは知らなさすぎた。

TVも学校も教えてくれなかった

 ものごと、学習しないとわからない。電力会社も原子力保安院も真実は教えない。尋ねてみれば、TVで延々と流れた金子みすずの詩と同じ言葉しか返ってこないだろう。実際、あの三月の東電の記者会見や保安院の説明はそうだった。
 「安全?」と言うと「安全」。「大丈夫?」と言うと「大丈夫」。「ちょっと漏れてる?」と言うと「漏れてる」。
 それでもだんだん怖くなって、「かなり広範囲?」と訊くと「かなり広範囲」。こだまでしょうか?・・・いいえ、だまし・・・。
 三ヶ月経ってみれば、「何が数キロの放射能飛散だろう」と思う。警戒区域から離れた郡山も福島市も線量が高い。関東の野菜からは基準値以上が検出される。関東どころではない。静岡のお茶まで基準を超える濃度だ。小出しにすればわれわれが慣れていくという大衆心理学を応用した政策なのだろうか。海の中などどうにもならないほどの放射能汚染だ。しかし、コウナゴからしか検出されていない。福島・茨城沖だけが汚染されたわけではないだろう。黒潮の北上があるのだから三陸沖だってヤバイ。そして、いずれ「健康被害」が出てくる。数年後の話だ。そういうことをテレビは報道せず、学校は文科省の指示にあわせて校庭の土を浚い、埋めれば線量が減ると思っている。放射能は校庭だけに下りるのかい? 家の庭にも屋根にも降りるだろうよ。まったく、この国の「お上」はひどい。そして、「教えてもらわないから知らない」ということでみんな羊たちの沈黙である。

おとなしいのもいい加減にしないと

 ドイツでは福島原発の事故を受けて何と16万人が反原発デモを起こした。デモしか国民の意識を表示する方法がないのが民主主義だ。それで原発容認派のメルケル首相が方向転換して2030年までに全原発を廃炉にすることが決まった。イタリアだって国民投票で1989年には原子炉全廃である。今回もベルルスコーニ首相は原発を再稼動させようとして国民投票に踏み切ったが、92%の反対にあって退くよりなかった。そりゃあそうだろう。地震や火山のある面積の狭い国で原子炉は危ない。と、いうことは第二次大戦の敗戦国で原発を増やし続けてきたのは日本だけなのである。
 しかし、なぜか日本では、この問題に誰も反応しないという不思議がある。なぜなのだろう。みんな子どもも孫もいるのに、見えないものはないものと同じなのか、とまで思う。想像力がなさすぎだ。世界中に核のゴミは25万トン。これは、人類の子孫まで続く問題である。そう簡単に水に流せる問題ではない。福島第一原発では汚染水を平気で海に流したが・・・。(ニュース6月号一部閲覧)

夢を使って・・・

 山梨では、リニア新幹線が通ることになり、それを祝う式典のようなものが行われた。地元の中学生や小学生が「夢の超特急に乗りたい」という作文を披露して、幼稚園児が鼓笛隊になったり、風船を飛ばしたりする。にぎやかなものだ。なにせ、東京から甲府まで15分、大阪まで一時間ちょっと。なるほど夢の超特急で、9兆円の経費は全部JR東海持ちというのだから、すごい。時速500km、超伝導磁石で宙に浮いて走る画期的な電車だ。「夢」の実現である。
 ただ、何事にもつきまとうデメリットについてはどういうわけか子どもたちに(大人にも)知らせない。営業路線になれば原発2基以上の電力が必要になる。なんてたって超伝導磁石の電力使用量はハンパではない。沿線での電磁波の健康被害が問題にされるくらいだからだ。しかhし、こういうことは一切、発表されないし、報道されない。これだけ節電とか原発の運転再開がむずかしい状況になっているのに、リニアが営業を始めたときに「どのくらいの電力消費がされるのか」すら知らされないのである。これでは原発と同じやり方の公共事業である。

前向きなことに弱い教育

 高空を飛行するコンコルドも燃料の使い過ぎで姿を消したが、リニアは浮遊すると言っても地上スレスレ、落石もあればイノシシも通る線路だ。ぶつかれば大事故である。こういうことは何も問題にされない。環境問題もだ。なにしろ南アルプスという3000m級の山が立ち並ぶ山脈を掘り抜こうというのである。水脈や地層など問題は多い。
 いやいや、私が言いたいのはそんな経済的なことや技術的なことではない。こういう公共事業のセレモニーに子どもが使われることである。「夢」ばかり語られて、現実の問題は無視され、やがて事故が起き、補償で手がつけられなくなると「国民負担」という図式がある。つまり、負担は子どもの世代がかぶらねばならない。それなのに「夢で担ぎ上げて」「うまいことばかり言って造る」というのは「だまし」にならないのだろうか。こういうことは新設の橋の渡り初め、道路の開通パレードなどでよく行われている。つまり、公共事業は子どもたちに夢をもたらすものというわけだ。夢の架け橋、夢の道路、夢の超特急、夢のエネルギー・・・・これを教育が刷り込んでいたら大変だ。とにかく、教育は「前向きなこと」が大好きだ。子どもに夢を与えることが使命だと思っているかのようだ。そして、学校が抱く「子どもに夢を与えること」は水戸黄門の印籠のように力を持ち、そこのけそこのけである。そして異常に「前向きなことに弱い」日本人が作り出されてしまっている。

「子どもだまし」

 山梨県には原発がないので行われていないが、原発についての解説をした副読本が原発推進自治体では子どもたちに配られる。「わくわく原子力ランド」というアニメ・イラスト満載のもので、巧妙に原子力発電の安全と安心が小中学生から教師用まで作られている。ここでもデメリットはまったく述べられていない。こういう形でだましながら、原発関連の式典で設置自治体の小学生や中学生がリニアの祝典と同じようなことをさせられていたのだろう。作文を読み、音楽を演奏し、夢のエネルギー、ぼくらの町はアトムの町・・・と。
 この副読本やPR?ビデオでは科学的にはありえない嘘も述べられている。東大の原子力の教授が「プルトニウムなど食べても消化されないで出てしまう」というようなことを言っている。プルトニウムは猛毒である。食べれば体内被曝する。それだけでも癌などの病気なってしまう。それを知りながら平気で嘘をつく。これはもう学問でもなんでもない。ただの嘘っぱちだ。子どもをだます「子どもだまし」・・・たしかに「子どもだまし」のように稚拙な嘘である。もちろん、「原子力発電所は津波でも地震でも大丈夫」と述べている。

PRで嘘を言う

 プルトニウムといえば、北海道電力の原子力発電PRセンター「とまりん館」にいたっては、嘘以上の「原発反対論者を囲い込む」宣伝がされている。目的は来館者に「原子力発電に親しみをもっていただくことを目的」と言うが、泊発電所のマスコットキャラクター「 とまりん」とか、アニメ・キャラクター、あるいはアニメ声優のような声を使って、プルトニウムについて嘘を語っている。まさにサブカルに弱くなった日本人を騙す仕掛けの展示や演出である。その説明の一部を紹介しよう。アニメ声優ばりのカワイイ声で・・・「頼れる仲間・プルトくん」を語られる。
 「いま、悪者たちがボクを貯水池に投げ込んだとしましょう。ボクは水に溶けにくいどころか胃や腸からはほとんど吸収されず、体の外に出てしまいますから、実際に人を殺すことが出来ません。でも悪者たちは小さなことを種に大きなウソをついておどかすことがよくあるのです。」・・・これでは、プルトニウムが毒であることを言う人間は悪者になってしまう。デマを言いふらす悪者にされてしまうわけだ。これを子どもが聞いたらどうだろう。アンパンマンで育った子などパターンが同じなので、そう思い込んでしまわないだろうか。「とまりん館」は原子力だけではなく、さまざまな教育的イベントを行っているPRセンターである、維持費はかなりの額だ。親だって、こういう施設は教育的でウソはいわないという思い込みがある。子どもも連れて行くことだろう。言っておくが、放射性物質はすべて怖いものだ。高い線量を浴びれば、すぐに死ぬし、低い線量でも蓄積すれば病気を引き起こす。しかし、こうして、けっこうのお金を投じて教育的PRを施し、ウソの宣伝をするのもすべて原発維持のためだ。

学校が加担・・・?!

 まさか、リニアの式典のためにJR東海が学校にお金を出していることはないだろうが、電力会社がそういう式典や催し物に金を出し、原発のデメリットを隠していたことはすでにわかっている。サイエンス・グランプリ(東京電力がお金を出している科学賞とその活動)などで教員をお土産・食事つきで原発に招待して「安心、安全」のPRもしていた。設置場所周辺の学校にお金を出すこともする。東京電力の社長は、出身の慶応大学で評議員をしているから、この大学にもお金が流れているはずだが、いまのところ大学側は入金があったかどうかも明らかにしていない。
 これからもいろいろボロボロ出てくるだろうが、旧政権の公共事業はお金をバラまいて賛同派を増やし、デメリットにはフタをして、さらに学校教育も上手に利用して無駄なものや未来に害をなすものをつくってきたわけだ。そのための仕組み(国民を騙す)は、じつにうまくできあがっていた。事故が起こるまでは多くの人は実態が分からない。分からないはずだ。まず、「自分の意見や疑問を言うなど滅相もない」ということを子どものころから刷り込む教育(内申書)があったのだ。意見を言えない人間を作ることが教育の目的ではないはずなのだが・・・いつの間にか学校も役所と同じ体質となっている。先生は地方公務員・・・その意味でも学校は行政機関だが「お役所」になってもらいたくない組織でもある。だって、子どもが通わねばならないところなのだ。そこが、政治が巧妙に隠蔽して進める事業に加担していたとすれば問題なのである。
 「夢」や「お金」に騙されないようにしっかりと生きる教育を学校に期待できないとしたら、これはもう、「騙されないこと」を家庭で教えなければならないだろう。ブッククラブの会員のお便りに、最近「原発事故をどう子どもに教えたらいいか迷っている」と言う内容が多い。私は基本的には自分の考えを形作ることを「教育」にゆだねることには反対である。「教育」は文字通り「教え、育てる」わけで、つまり上から施されるものだ。上の物の考えで下をコントロールすることもできるのである。今回は「夢」で行われた。だから、自分の考えは「学習」・・・文字通り「学び、習う」で作るよりないのである。だから、本を読み、自ら調べなければ、たやすくだまされてしまうわけだ。そのことを福島第一原発の事故は教えているのだが、どうだろう。この震災と放射能漏れ事故で日本人は変われるだろうか。(新聞6月号一部閲覧)

読書の意味 大震災から学んだこと
A言葉がよくわからない?!

無意味化する美辞麗句

 この三ヶ月間、どこにも「東日本大震災で被災された方に心よりお見舞い申し上げます」という言葉が氾濫した。「震災もビジネスチャンス!」とばかり、さまざまな言葉が溢れるけれど、死語のような美辞麗句ばかりだ。まるで、何かをするときの「免罪符」のように使われている。そして、その言葉の後は身もフタもない「商売」の言葉が連なる。「○○を買えば、震災復興に役立つ」・・・つまりは買ってください! 買ってください!である。 ふだん売るのはべつにかまわないが、こういう事態の時には売るのも儲けるのもなんとなく後ろめたいので、とりあえず「お見舞い」そして「買えば、支援につながる」というものなのだろう。でも、あまりに美辞麗句すぎて形骸化するのではないだろうか。「心よりお見舞い申し上げます」・・・・その心が見えない。心は見えないが、震災を待っていましたとばかりに売り込もうとする「出来心」は見える。
 いやいや、つまりはすべて市場原理主義のなせるわざで、物を売って儲けられれば言葉も心もどちらでもよいということなのだろう。

日本語でなくなっている言葉

 左の「東日本大震災復興水」というのは何なのだろう。これを飲めば力がわいてきて復興できるという意味の○○水というものなのだろうか。この手の意味不明の熟語が町にあふれている。「震災復興記念 父の日2011」・・・まだ震災は復興していないし、記念にするようなものでもない。さらに父の日と何の関係があるのか不思議な言葉だ。
 好意的に考えれば、震災に対して何かしたい。しかし、なかなか何もできない。だから「震災」「復興」「お見舞い」と言う言葉を前につけて、「私は震災のことをちゃんと考えていますよ」という雰囲気を出したいのだろう。

便乗と数字

 いろいろな義援金募集つき商品も出てきている。しかし、たとえば、このような募金つきの食事は、きちんと義援金になるのだろうか。出た数が分からなければ、一部を募金に渡しても分からない。疑いすぎかもしれないが、この便乗商法は、やはり言葉と意味の関係を崩していくと思う。
 「たかが食事の企画だ。そこまで細かく考える必要はないだろう」という人もいるかもしれないが、現象としてみれば言葉が意味を失い、何でもきっかけにして儲けることばかりを行っているもののひとつだろう。

支えあう日本。とはいったい!?

 街角に貼られた政党のポスターのコピー「支えあう日本。」・・・形容詞+名詞で句点までつけて、何を意味するのだろう。「日本を支えよう!」でもなければ「日本人は支え合おう!」でもない。「美しい日本」という言葉は分かる。これは、「かわいい犬」と同じ日本語だ。しかし、この「美しい日本」と同じの、状態を表現する言葉が形容詞+名詞。「支えあう日本。」とは不思議な日本語だ。(だれか、この表現が具体的に何を意味しているのか分かったら教えてください)。
 とにかく、震災関連で、私には多くの言葉がよくわからなかった。
 ニュースを見ていると、なんだか、「私の言語感覚のほうが異常なのではないか?!」と思われるようなことばかりが起こる。震災は未曾有だったが、それを受けた人々もまた未曾有になったのではないかと思った。つまり、未曾有の恥知らずということである。

言葉と行為がバラバラになりつつある日本

 言葉が無意味化すると人間の行動も支離滅裂になる。ことの良し悪しは別としても刑務所に入る人間に壮行会をする有名人たち。それを報道するメディア・・・おかしい! 一日で大津波の死者が二万人以上なのに・・・、いまだに原発は収束しないのに・・・こういう異常は、おそらく日本人の頭が壊れ始めたとしか言いようがない。一方で小娘の人気投票に血道を上げるメディア、無意味な言葉が氾濫している。
 言葉が乱れるから人が乱れるのかどうかは分からないが、深く考えて動いていないから言葉が意味を持たないのだろう。この国のリーダーやトップが「日暮硯」や「論語」、「生きるということ」や「清貧の思想」、「ギリシア神話」や「平家物語」、「神の火」や「ローマ人の物語」・・・いや、少なくとも「憲法」を熟読していたら、やっていることと言っていることのツジツマが、これほど合わないことにはならないはず・・・・震災など忘れて権力闘争ばかり考えている人々を見ていると、本を読んでいない子が引き起こす小学校低学年の学級崩壊と同じような感じがする。理性的に思考することのできる基礎は、狭い体験や情報だけからは作れないのだが、なんだか、みんなサブカルやメディアで頭が狂ってしまったのではないか。行為をともなわない言葉が出てくると、なんだか空疎だ。相手のことを考えられる力があれば、空疎な言葉は出なくなるが、どうやら、このまま節操もなく混乱の中へ進んでいくらしい。私は、被災された東北の会員の方々に、まだ「お見舞い」も言っていないが、節操だけは持っているつもりだ。日本人の言葉と行為・・・復興の中でいずれ一致していくのだろうか。(6月号新聞一部閲覧)



(2011年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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