ブッククラブニュース
平成22年8月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせのある生活へC

 読み聞かせのある生活は、あたりまえのことだが時間的、精神的な「余裕」を要求するし、余裕がなければやり続けられるものではない。しかし、ここ数年、振替通信のお便りの中や来店の会員の話の中に「夏休みが来るとつらい!」とか「ウンザリする」といった気になる言葉が混じるようになった。多くは、夏休みになると子どもが家にいる時間が増えて食事の準備や相手をしなければならないことが原因だ。昔は当たり前のように、一日の中で子どもと接する時間が多かった子育ても、いまや0歳児から長時間保育、学校に入っても留守家庭学級と子どもは家庭外存在でいることが多くなった。親も外働きが多いから子どもと長く接するのを鬱陶しく思う親も増えているだろう。とにかく自分が大切で育ってしまった世代である。「夏休みが来るとつらい!」とか「ウンザリする」くらいは認めないと大変なことになる。今月、大阪で、23歳のシングルマザーがマンションの一室に1歳と3歳の子を置き去りにして遊び歩き、死に至らしめたが、現代は子どもより自分が大事という親が出現している事態になっているわけでもある。個人主義的な傾向が極まった結果だが、これが普通の家庭でも現れてきたということだろう。

受けた教育の成果も出ている

 もちろん、受験教育をバッチリ受けてきたので、きちんとしないとイライラする性格も形成されたかもしれない。長い休みの間に、子どもが勉強をしなかったり、だらだら生活していたり、散らかしてしまって片付けや掃除ができない・・・などを、妙に気にする「完璧でいたい親」も増えているようだ。そういう潔癖感、完全主義が働いて心理的なストレスが出るのかもしれない。
 また、最近の若いお母さんは(教育の成果で)いつも正しい答えを求める癖がついている。だから、自分の子が子育てのマニュアルと違うことをやっていたりすると不安になる。子どもを叱ったり、毅然とした姿勢で接したりすると無責任な心理学者が「トラウマになる」とか「虐待の心理」だなどと脅すものだから、子どもに注意も出来ない。言い合うことは悪いこと、たしなめることは悪いこととして育ったから、子どもにも何もできないのでストレスがたまる。さらに、子育てマニュアルにしても雑誌のQ&A記事にしても、そりゃあもう、たくさんありすぎて、何が正しいのか何が適切なのかが分らなくなっている。こういう偏差値教育の成果は、子どもがダラダラしたことをやっているのを見ると「成績が悪くなるのではないか」「良い学校に行かれないのではないか」という恐怖感をすぐに呼び覚まし、きちんとした家庭システムの中に組み入れようとする焦りもまた引き起こしてしまう。

自然に!が基本だが、正しい答などない!

 私はよく「もっと自然に!」とか「子どもに任せて・・・」とか言うが、そう言うと母親たちは「その『自然に!』の度合いがわからない。」と来る。そうなると「子どもと自然に接するマニュアル」をまた作らねばならなくなる。これでは、「自然に!」の意味がまた理解できなくなる悪循環が起こる。
 まったく「教育が引き起こした問題は根深いなぁ」と思う。進研ゼミで育った人をターゲットにして「たまごクラブ」「ひよこクラブ」など「たまひよ」作戦で雑誌を売ろうと狙った企業があることは知っているだろう。この企業は、いわゆる教育産業という部類の企業であって別に教育を施してくれるわけでもなんでもない。「教育」を取り扱って利益を得ることが目的である。進研ゼミの「チャレンジ」が少子化対策で、赤ちゃん用の「ちゃれんじ」にまで出てきたのは、顧客や需要の増加を狙ったものだ。当然、コンセプトは上述の親の不安を元にして、商品展開しようというものである。さらには進研ゼミOGの母親相手に子育て情報誌を展開することもあした。たしかにその人たちは親になってその雑誌を手にしたことだろう。しかし、今度は試験問題という現実の伴わない問題ではなくて「子ども」という多様性と複雑性に満ちたものが相手なのだ。ところが、進研ゼミ以来、「たまひよ」も「答えは一つ」・・・なかなか読者の期待に応えられないし、懇切丁寧に育児マニュアルを設定すればするほど訳がわからなくなって、さらにマニュアル母さんやバカ親を再生産してしまった可能性もある。
 まったく困ったものだ。「ちゃれんじ」をやる。「そうだ! ここに書いてあるお稽古事もさせねば」、「英語も小さいうちからがいいと言うし、」「いやいや、体も鍛えて水泳くらいは、」で、限りなく時間がなくなる。
 子どもなどケガをしないように、あるいは少しくらいのケガをしてもいいから適当に育てていないとまともな成長はないのだが、現代の親はそれができない。子どもが、汚すくらい、片付けないくらいなんでもないことだが、それが親には気になる。「完璧母さん」を目指す人には大変だろうが、子育て雑誌が言うような「子育てが人生の一大事業」などトンデモないということを、やはり知っておく必要があるのではないか。子育てなんか一部の事業、子どもが18歳になるくらいまでやれば、後はもう子どものほうから去っていく。たった18年間ですよ。それも何も細かい子育てをしなくたっていい。接する時間を多くして、親が親としてやっている姿(叱ることもたしなめることも怒ることも口うるさく言うことも)を見せればいいのである。子どもは、叱りや小言で親を嫌いにはならない。いろいろ考えずに「こら、片付けないと本を読んでやらないよ!」で十分なのである。

C―2歳の読み聞かせーその1

 2歳代は想像力が増し、それとともに物語を追う力が飛躍的に伸びる時期です。また1〜2歳には、自分が愛されているという自覚から生まれる自己肯定感や家族などの集団の中にいるというアイディンティティーが育つ時期なので、落ち着いた雰囲気や環境の中で読み聞かせをしていきたいものです。ここで精神性の形成がうまくいくかいかないかは、思春期、あるいは大人になってから影響が大きく出るものなので、親と子が安定した時間を一日の中でより長時間持つことが大切だと思うのです。そうすれば、今、起こっているようなさまざまな思春期の問題や精神的な問題は激減すると思います。
 この時期の発達特徴は読み聞かせにとって重要なものです。いわば、将来、読書に入れるかどうかの大きな要で、分岐点でもあります。どういう傾向があるかというと、まず想像力が高まるため、見えないものが見えてしまうという特異な力が出る年齢が2歳。これはうまく育てないと想像力を必要とする読書の力が落ちてしまうことになりかねません。この時期の子が暗闇を怖がるのは、大人は「何も見えなくて危険だから怖い」のですが、2歳児は「闇に中に物が見えてしまうから怖い」のです。これを生かしてモノトーンの絵本を与えると大人が当たり前に見るものを別の見方をする。この特徴をとらえた「もりのなか」は想像力を発揮させるのに適切な本で、本格的な文章語だから3歳以降の物語絵本にスムースに入れるかどうかのキーポイントになる本ですから、男の子にも女の子にも入ります。また、逆に、2歳後半になると色彩への関心と想像力の拡大が始まり、クレヨンを持たせると「描く」ことも始まります。このきっかけとして「ごちゃまぜカメレオン」や「ぼくのくれよん」などは適宜、時期に合わせて配本に入れてあるので色についての興味が出るように読み聞かせを楽しんでください。
 また、この時期には性差がはっきりしてくるので、それを考慮した選書もしなくてはなりません。例えば、就寝儀式(おやすみなさいの本)でも「ぼくのせかいをひとまわり(男子)」「おやすみなさいおつきさま(女子)」も性差を考慮して加えいれてあります。 配本の順を信頼していただいて何度も読んでいただきたいと思います。
 さて、2歳になって二つのアドバイスがあります。一つは会話語(しゃべり言葉)のみの絵本から文章語(書き言葉)の絵本に向うということ、もう一つは特定の分野への偏りや好き嫌いが出るので注意!という点。この二つの問題は、かなり重要なので詳しく次回で述べます。

子どもは本が好きか?!
C原因がわからない本嫌い

いよいよ本格的な読書へ・・・・

 読み聞かせと一人読みの交錯する一年生の段階が終わったら、じょじょに高度な読書に向けて行きたいものである。しかし、二年生から三年生の時期は学校に慣れて行くと同時に周囲の仲間との遊びなどからサブカルチャーの影響も大きくなってくる時だ。子どもと言うのは仲間と情報交換することで成長する面があり、それは園でも行われているが、学校に入るとさらに遊びや趣味の情報は増えてくる。良い情報を得るならいいが、逆に悪い情報を得ると、そっちの方にどんどん偏ってしまうこともある。読書のためには極力避けなければならないが、人の和を重んじる社会では、みんなと同じにすることは善だから、「情報交換をしてはいけない!」と言うことはなかなかむずかしい。親としては、赤信号をみんなで渡っても車が止まらない時代になっていることを頭に入れて、読書においても、人格形成の面においても、この重要な時期をなんとかしなければいけないと思う。

不思議なケース

 先日、会員の三年生の女の子のお母さんから相談のケースがあった。長くやっているのに初めての相談内容だった。こう言っては何だが、個人的には興味深いものがあった。どういうことかと言うと「分らない言葉が出てくると、もうそこから先に読み進めない。だから配本されたものを一人読みすることができない。読む本は言葉の意味が分る簡単な本ばかり・・・」という相談である。これが本人自身の特異な問題なのか、これまでの成長の中で「分らないものは拒否してしまう」原因が存在したのか・・・そこまでは立ち入って聞けなかったが、分らない言葉に引っかかって進めないというのはありえないことのような気がした。通常、子どもは「どうして?」「なぜ?」の時期を過ぎると(年少から年中)・・・分かっても分らなくても言葉を捕捉して、一応受け入れる。そして前後関係から意味を類推していくという力を持ち始める。具体的に意味が理解できなくても何となく分るということで理解が進むわけだ。この力は2歳半ごろから始まり、大人まで続く。しかし、ひとつ分らない言葉が出るとそこから読めなくなるというのは、高度な読書は期待できないということになってしまう。まったく対策がないので、配本はストップしたが、これからこういう子どもたちが増えてくる(私が気がつかなかっただけで、実際にはたくさん存在する?)としたら困ったものだ。

読み聞かせから一人読みへ

A低学年の読書のための環境設定

 いわゆる読書相談というものが来る。例えば「高度な本を読むのはいつごろか?」・・・こういう相談ならいいが、「読む本が偏ってきている。」「最近、子どもが本を読まなくなったがどうすればいいか?」などという深刻なものもある。新聞報道では低学年の読書は表面的に活発だが、実体は大したことがない。とんでもない冊数の本を読んでいる子も山ほどいるが内容はそれほどのことはなく、幼児絵本程度のものを山ほど借りているだけという暗澹たるものがある。
 なぜ、こういう読書活動が効果をもたらさないかというと、低学年できちんとステップを踏んだ読書がないから中学年、高学年の本(いわゆるグレードの高いもの)に歯が立たないのである。朝読書だって、マンガもOKという学校は多いのだ(右写真)。山ほど本を借りていた生徒も、そういうレベルの読書では、けっきょく3年生くらいから読めなくなり、やがてまったく読まなくなるのが実情だといっていい。学校も読書推進運動をしている人たちもいろいろ考えているようだが、あまり成果は上がっていない。なぜかというと子どもの成育環境に目をやらないで、ひたすら本を読ませようとしているからである。本が読めなくなる原因に触れないで読書を薦めても無理というものだ。しかし、どういうわけか、この人たちは読書を阻害するものに何も言うことなく「読書推進」ばかりを口にする。

5つの環境設定

 私は子どもが読書していくためには最低でも5つの環境設定が必要だと思っている。どういうことかと言うと・・・
 @子どもの読書をとやかく言う前に周囲の大人(親)が読書すること
 A小さいころから自然体験、遊び体験ができていること
 B過度なスポーツをさせたり、サブカルチャーを与えないこと
 C高度な読書ができるよう段階を踏んで本を与えること
 D我が家は我が家という独自の家庭方針があること
 まず@の解説は不要だ。子どもは親を見て育つ。「本を読め!」と言っても「お父(母)さんだって読んでないじゃないか!」という言葉が戻ってきたらおしまいだ。親がテレビを消して本を読んでいる姿を見れば子どもも本に向う確率は高くなる。なにより、そういう時間が生活のなかでゆったり感や思考力を高めるという大いなる効果になる。親の書棚に基本的な本が置いてあればそれを見て育つ子どもは親が尊敬や憧憬の対象となるだろう。文学書であれ、思想書であれ、歴史書であれ、置いてあれば、そして読書力さえつけば、子どもは必要に応じていつか手に取って読むようになる。
 Aは意外に読書効果を高める。読書は文を読むものだが実は言葉から想像していく作業でもある。体験がなければ想像は弱いものになる。想像力はエネルギーを使うので体験が少ないとなかなか想像ができず読書には向かなくなる。 こういう環境を維持するためにBは必要な措置である。サッカーや野球の過度な練習でくたびれきっていたら「本を読め!」というのは酷な言葉だ。TVゲームを与えておいて「本を読め!」というのも無茶な話だろう。マンガやPCゲームは、入り込みやすいぶん内容は浅薄で深い思考力や想像力を抑えてしまう。とくにサブカルチャーの最大の問題は頭を大人にさせない特徴を持つことだ。多くの体験(木登り、虫取り、ままごと、鬼ごっこ・・・)は成長するにつれてやらなくなるものだが、サブカルチャーは大人になってもやり続けるものだ。中年になってガンダムだことのエヴァンゲリオンだことの言う人間は、どのような能書きを垂れようと、頭が成長していないのである。

ステップを踏めば多くの人は本が読める

 Cについては言うまでもない。それまで本らしい本を与えずに、いきなり四年生に「チョコレート工場の秘密を読め!」と言ったところで無理と言うものだ。多くの人間にとって小さい頃から段階を踏んだ積み重ねは必要なのである。
 @〜Cまでは、ある種、他の家庭、世の中の生活一般と違うやり方を要求することである。だからDの方針が家庭として貫かれていないと子どもは「だって、〇〇くんのウチではやっているよ!」と他所を例に取って逆襲してくる。〇〇くんの家のやり方が正しいとか正しくないとかの判断はできず、ただ「他と同じがいい」という考え方だ。家庭方針が確固たるものとして存在していないと親も子どももブレる。やがては、悪い流れに飲み込まれるだろう。
 読書など半分は習慣であり、その習慣は環境でできあがるものだ。その気になればネコでもサルでも読書の習慣はできるかもしれない。

続・発達に応じるということ
1)おもちゃについてC

電子化するおもちゃ

 売るほうは、とにかく売るために何でもします。最近では「これって、おもちゃ?」というようなおもちゃも出てきています。浴槽で天プラやドーナツが揚げられるお風呂の中で遊ぶおもちゃ、声に反応して飛ぶヘリコプター、パワーポインターの光を追いかけて走るミニカー、誰もが知っているしゃべる人形、応えるイヌ、ネコ・・・・ギョウザやアイスクリームを作れるおもちゃ・・・「よく考え付くわ!」と思うほど出ています。
 たしかに、これは大人と子どもがいっしょに楽しめる仕掛けが内臓されていますが、果たして子どもにとってどうなのか・・・しかし、実際には毎年進化して、部屋で見ることが出来る花火やプラネタリウム、さらに家庭ゲーム機がゲームを超えて遊べるものまで出現しています。テレビにつないで遊ぶ知育ゲームなどは、ますます電子化が進んでいます。

電子化に受身になる子どもたち

 大人もそうですが、電子化されたものにはどうしても受動的になります。つまり回路が設定される限りそれは有限の広がりしかなくて、その指示するとおりでしか楽しめないのです。かつて、ほんの数年前まで電子ゲームが孤独な遊びとして批判を受けていたため、おもちゃ業界はおもちゃ自体を電子化して一人遊びではないものを考案しました。
 でも、こういうものが幼児の世界にどんどん入っていっていいのでしょうか。ただでさえ、サブカルチャーと受験教育で自ら発案できない少年、与えられないとやらない青年が増えているのですよ。おそらく発達に合わないものを与え続けられた結果、自ら積極的に工夫して遊ぶ力を見失ってしまったのでしょう。

おもちゃにも当然、発達対応はある

 そういうわけで、おもちゃもやはり発達対応があると思うのです。当然のことですが、これも伝統的なものや新しいもの・・・また問題のあるもの、ないもの・・・、そういうことをきちんと仕分けて、子どもに与えていくことが重要になってきます。基本的には絵本を与えるのと同じでしょうね。与えてはならない絵本は与えてはいけない! 先走って高度な絵本を与えても子どもにはわからない!・・・ということです。ただ、個人的におもちゃで思うのはそんなに高価なもの、名人が作った木工玩具とかブランド品などは与えなくても育つということです。工夫して与えられないがお金はある・・・という方は、流行のくだらないオモチャより高価なオモチャのほうが使用期間も長く、やがてはメモリアルインテリアにもなるものなので買い与えてもいいですが、けっきょくは、子どもがあまり使わずにそのままになることも多いです。あるものを工夫して与えるのも子どもにとってはおもしろいのですから、子どもの作る力をつけるためにも、ここはひとつ親が成長の各段階でオモチャを選び、また、個別に必要なおもちゃ作りに参加してもいいのではないでしょうか。
 ★ニュース増ページでは、ここにおもちゃの発達対応表がついていますが、Web上では削除いたします。必要な方は、毎月郵送しているニュースの増ページの表を参照してください。

一応の目安として考えて

 もちろん、こういうデータを羅列しても具体的な選択(買う)ができません。オシャブリはプラスチックものが多く、木製で自然塗料のものはなかなか手に入りません。モビールやガラガラも「どのようなものが良いのか」素人の親ではわかりません。ぬいぐるみと言っても「ピカチュー」や「ディズニーもの」から一点もののぬいぐるみまで様々にありますから、例えサブカル・キャラクターは避けるとしても、たくさんの中から選ぶのは困難でしょう。なるべく自然に近い素材、キャラが組み込まれていないもの・・・と言った基準で、あとは親自身のセンスと選択能力に期待するよりないと思います。おもちゃも絵本や衣服と同じで、ピンからキリまで品質の幅があります。良いものは品があります。悪いものには品がありません。この「品があるかないか」も選ぶための基本的な要素です。ラメ入りのキンキラTシャツが下品なように、おもちゃにも品格のあるものとないものがあるからです。ただ、あまりにも年齢対応を無視したもの(1歳児のものを5歳児に、ということはないですが、その逆はある)を与えるのは避けたいものです。ニュース(印刷して配布してある対応表を見て、その時期にどういうふうなものを与えればよいかは、だいたいご理解いただけたと思います。ですから、あとは皆さんのセンスです。何を選べばよいか・・・・でも、ですね。最初に述べたように、与えられたおもちゃで、そのおもちゃの遊び用途でしか遊べない子はダメなんです。二歳児はハサミが使えませんが、四歳児は使えます。と、いうことは紙もおもちゃになりえます。子どもにとってはあらゆるものがオモチャとして仕えるわけで、それを限定してしまうのは大人なんですね。だまっていれば、子どもは木の枝でもよく斬れる剣になりますし、小さなお人形も弟や妹や赤ちゃんに早変わりします。表は目安にすぎません。もっと極端に言えば、放っておけば、ヒマをもてあました子は、周囲のものをおもちゃに見立てて遊ぶということです。

夏の夜は怪談
夏の昼は「ものがたりライブ」
8/1〜31 水曜日お休み

 暑いですね。この暑さを吹き飛ばすのは高原の空気に触れるしかない! ついでに怪談と物語ライブでヒヤリ。「空を飛んだポチ」の杉山亮さんお御自宅で毎日やってます。1回目(午後1時〜)2回目(午後2時半〜)・・・おばけばなしは、8月の7(土)、12(木)、13(金)、14,15、20(金)、21,22、28(土)の毎晩8時から。じつに楽しいライブです。いずれも入場料は500円・・・リーズナブルですよね。問い合わせは杉山さんまで。
北杜市小淵沢10060-464

開館五周年記念特別企画
『薮内正幸の世界U』展

 今月のニュース本文でご紹介した薮内正幸さんの絵は一万数千点に上ります。いかに緻密に描かれているかは原画を見れば、一目瞭然。美術館は高原の美しい森の中にあります。暑さを逃れて散策するには絶好の場所でもあります。小さな美術館ですが、懐かしい絵に会えるかも。甲府から小淵沢方面に向ってサントリー白州蒸留所手前1分(車)
北杜市白州町鳥原2913-78



(2010年8月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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