ブッククラブニュース
平成22年7月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせのある生活へB

 いつも言っていることですが、絵本屋の我田引水(物事を自分に都合のいいように言ったりしたりすること)と思わないでください。本は買って読むものです。とくに幼児の本は買って所有しない限り、内容が子どもの頭の中に「所有」されません。会員の方なら、これが「売るためのゆめやの嘘ではない」ということがお分かりだと思います。子どもは、いま現在あるものしか心の中に浮かばず、消えてしまったものを認識していることがほとんどないのです。低年齢になればなるほどそうです。自分のものとして存在していないものは「ない」に等しいもので、実際に読み聞かせをしてみれば、そのことは分ります。「自分のための本」、それを「自分のために親が読んでくれている」という意識がひじょうに高いと思うのです。
 ところが、図書館の読み聞かせボランティアたちは「本は借りるもの」という考えが強く、子どもの成長や環境に合った本などは真剣に考慮もしないで、とにかく何でもかんでも読み聞かせればいいと思っています。おそらく、この背景には行政の図書館利用率向上の操作があるだろうし、自分の子を育ててきた時代(1960〜70年代の図書室利用、町の家庭文庫活動)の経験が色濃く出ています。あの時代は本も少なく、小学生くらい子にとっては借りてきた本でも鮮明に記憶に残るものもありました。幼児は絵本などほとんど与えられなかったのです。幼児の絵本は特別な階級の人でないと買いませんでした。この人たちは、もしかすると悪書追放運動や文庫活動をやっていたような人です。このことは朝ドラ「ゲゲゲの女房」に出てくる貸本屋「こみち書房」を見ていればわかりますね。あの時代は、本の好きな人がお金を払って本を借りていた時代なのです。貸本屋はマンガだけではなく、じつは小説や雑誌も貸していました。おそらく日本人が一番本を楽しめた時代だったのではないでしょうか。対価を払わないかぎり、きちんと収穫は得られない。「主婦感覚で無駄を省くこと」を主張する読書推進運動のおばさんたちには、こういうことがわかっていません。文化などというものは無駄の塊のようなもので、それは子どもの成長にも当てはまるものです。合理的な子育てなどしたらロクな子どもが育たないのと同じです。読み聞かせの時間が生活の中にあることは生活をしていく上で不合理かもしれませんが、じつは、こういう無駄が子どもの成長には欠かせないわけで、さらに、それは家族のつながりや品格にもつながっていくものでもあると思います。

Bー1歳後半の読み聞かせー

 この時期になると、多くの子どもは絵本が親と自分をつなぐ媒体であることが分ってきます。いくらオクテの子でも、読んでもらう楽しさ、快さは感じ取れるようになるので、読み聞かせは、親と子がじゅうぶんに楽しめる時間となります。1歳半から2歳までの間には感覚絵本、初期のナンセンス絵本、探しもの絵本などが発達に応じて配分してありますので、前半のときと同じように何度も読んであげてください。
 さて、ちょっと、ここで覚えていてもらいたいことは、子どもは大人と違って「新しいものにはなかなかなじまないことがある」ということです。慣れ親しんだものが一番で、新しいものは苦手という子が出ます。これは自然なことです。他人が親から引き離そうものなら泣いて騒ぐ人見知り・・・生後1歳前後から始まりますが、これと同じで「本見知り」という現象も出ます。新しい本をなかなか開かないこともある。この傾向は3歳近くまで続くことがあります。対策としては、今まで慣れ親しんだ安心の内容を持つ本を何回か読み聞かせて、最後に新しいものを1冊加えることで解消できます。読み聞かせを何回か繰り返せば、それはやがて「慣れ親しんだ本」になっていくからです。
 読み方にはまだ制約は出てこない時期です。前回述べたように内容のおもしろさ、親と触れ合う楽しさなどが感じられればいいわけで、声のトーンを変えたり、抑揚を付けたり、とにかくおもしろく読んでくださってけっこうです。1歳前後の文字のない絵本、一語あるいは一行しか文がない本、擬音だけで構成されている本など文は長くないですが、その感じを生かして読み聞かせればじゅうぶんです。もっとも、読み聞かせは、文が少ないほど読む人の力量が試されるものです。まさか一歳前半の「どうぶつのおやこ」で、ページの動物を指差してツッケンドンに「ねこ」「いぬ」「きりん」と読み聞かせていた方はいないでしょうね。「くだもの」でブッキラボウに「すいか、さあ、どうぞ」とだけ言っていた人はいないでしょうね。そういうことをした人は力量のない人です(笑)。
 これは、実験したわけでも統計を取ったわけでもないのですが、1歳前半で入る、いわゆる認識絵本とよばれるもの。
 つまり動物や野菜、果物、みぢかなものなどが紹介された絵本の体験は、その後の読み聞かせに大きな効果を持つのではないかと思っています。1歳代で絵本を与えるのが、その後の読書にも大きな力となるような気がするのが、ここ三十年やってきた経験からくる認識です。
 1歳代の子どもの認識能力と把握力はものすごいです。この訓練が聞く力や読む力のもとを刺激するのかもしれません。たった一年で、その力は急上昇して、すぐに会話が可能になり、言葉が出始め、かなりの長さのセンテンスが分るようになってきます。もちろん、表現言語では個人差が大きいですが、耳から入った言葉が増殖していくかのように2歳前半では、かなりの内容のものが分るようになります。これが親と子が楽しむだけで可能となるのですからスゴイものですよね。だからと言って、何も親が気張ることはありません。お子さんとゆったり楽しめる時間を共有すること・・・・とにかく、まだまだ楽しく、楽しく、快く・・・です。

続・発達に応じるということ
1) おもちゃについて

B市場主義とおもちゃ

 町のおもちゃやさんが姿を消しています。甲府でも「おもちゃの〇〇ちゃん」という名で親しまれた何軒もの店で閑古鳥が鳴いています(そういう鳥がいて鳴くのではなく、客が来ないで開店休業状態であること)。皆さんの町でもそうでしょうね。本と同じく、いまや、おもちゃもインターネットで申し込めば翌日届く時代になっています。これだけ、「家の外に子どもだけで出かける危険が増えた町」で、子どもをおもちゃ屋に一人でやる人は、よほどの放任かほったらかし子育てをしている親だと思われかねません。
 町のおもちゃやさんは、昔は子どもたちのコミュニケーションの場でもありました。わずかなお金を手に「カードゲームなら買えるけれどプラレールは買えない。お小遣いを溜めて買うぞ!」と考えたり、仲間と「ああでもない、こうでもない」と情報交換をする場所でもあったわけです。毎日、着せ替え人形を見に来る女の子もいました。それが大型店の進出と電子ゲーム、TVゲームの拡大で消えて行ったのです。大型店やウェブ上でおもちゃを売る産業は、おもちゃの良し悪しなどどうでもよく、とにかく売って利益が出ればいいわけで、たまたま取扱商品がおもちゃなのです。

キャラをメディアで売り込んでおもちゃにする

 現代の商品全体がそうですが、売るためには手段を選びません。子どもが欲しがるように仕向けるために、まずメディア媒体でキャラを売り込みます。子どもは店に行ってもカタログを見ても見知ったものなら手を出すという習性を持っています。「見知ったもの=安全」というパターンがインプットされているからです。この子どもの心理を悪用して、企業側はメディアを媒体にしてまずキャラクターを展開して、子どもの目に植え付けます。メーカーはそのキャラ商品を生産し、販売側は人気商品として売るわけです。こういう消費状態が子どもたちの周りにあふれているわけで、多くの子どもが影響されないわけがありません。このことは、本でも同じです。テレビで番組が組まれているものから生まれる商品は、書店店頭で平置きされ、目立つところで売られます。どれもこれも番組から生み出された・・・と言うか、メディアに載せることで多くの人の意識に受け付けられたキャラが本として登場する・・・・そうすれば、消費者が手に取る・・・・これを狙ったものです。本もおもちゃも同じです。

情報交換の場が園に移ると囲い込みが起こる

 いくらブッククラブの配本でそういうものを避けてきても、あるいは家庭で避けていても、子どもは園で本やおもちゃの情報交換をします。こういう時代ですからいろいろな親がいて、いろいろな家庭があり、DSを見せびらかす4歳児もいれば、部屋中何百台もトミカを置いている5歳児もいます。ピカチュウやプリキュラ関連のものばかり集める親子もいれば、戦隊もののグッズからDVDまで山のようにある家庭もあります。世の中全体では「悪貨が良貨を駆逐する(悪いものが良いものを追い払っていくこと)」現象が起きていますから、この傾向は進んでいくと思います。ここで困るのは日本という国は、「みんなと同じにすること=良いこと=安全」という風潮が働くことです。つまり「和」を振りかざして囲い込むことが起きるわけで、多くの親は、「同じものを与えないと子どもがイジめられるのではないか」という恐怖感が湧いて、囲い込まれていきます。

ただ最近おもしろい傾向が・・・

 ただ、最近、ほんの二、三年前からのことですが、こういう全体的な流れから離れていく親たちも出てきました。おもちゃも独自のもの、保育園も新しい形の保育園(例えば自然の中で遊ぶことが主体の保育)を選ぶ親たちの出現です。価値観の多様化は、こういところでも著しいものがあります。いわゆるオーガニック系といわれる世代の親たちは、あまり周りを気にせず、良かれ悪しかれ自分が良いと思ったことを進めて行くようになっています。まだまだ日本的な社会意識は根強いですが、新しい波は確実に生まれているようです。
 もう、その家庭の選択にまかせるよりないのです。ただ、言いたいことは、最終的に「おかしな方向に行かせないように気をつける」ということでしょう。熱中人などとTVが持ち上げて、オタク化したことをやっている大人がいます。いい年齢の大人がくだらないものを集めたり、やったりしているのを見ると、「幼児期に、あるいは少年期に問題があったのかなぁ」と考えてしまいます。
 おもちゃも成長の一環・・・どれも卒業していかなければならないものです。積み木もゲームもままごとも昆虫採集も卒業していかなければならないもの・・・いつまでもやるものではありません。順次、成長と合った自然なプロセスを踏んだおもちゃを与えていきたいものですね。

B読書は何を目指すのか?

読み聞かせの嫌いな子はいなかった!

 読んでさえあげれば読み聞かせが嫌いな赤ちゃんはいなかった。おそらく、それは長い人類の歴史の中で人間が言葉と言うものを必要として、実際に言葉を生み出してきたことが遺伝子の中に刷り込まれているからだと思う。コミュニケーションを必要とする種類の動物は、言葉の獲得が生きるうえでとても重要なことで、人間の赤ちゃんにもこの獲得技術はもともと備わっているはずなのである。
 まず、言葉は耳から取り入れていく。耳から大脳の聴覚野を通して「こういうときはこの言葉」という感覚が伝わっていき、それはコンピューターのように2進法の単純な情報処理作業ではなく、声の優しさやきびしさ、快さや不快さ、さらには言葉を発する相手から愛情を感じるか感じないかまで、複雑な判断をして獲得しているように思われる。子どもが親の読み聞かせを好きなのは、もともとの、こうした「必要性」から自然に好きになっているわけだ。だから読み聞かせの嫌いな子は、ほとんどいない。

では、読書は・・・?

 読書は基本的に楽しみでなければ続かないが、そんな楽しみが何かの役に立つのだろうか。じつは、高度な読書には最初に述べた「遺伝子に刷り込まれた必要性」がある。人間は高度な本から何かを得る必要性を感じる習性を持っているのではないかと思われるからだ。すぐれた本には(神話などから始まる古今東西の名著)過去の頭脳明晰な人々が書き記した生きるうえのヒントのようなものがあり、それを読むことで危険を回避したり、意志を持って何かを行ったりする方法が得られるのである。読んでさえすれば、困ったときに本の内部に書かれたヒントを思い起こして困難を切り抜けることができるかもしれない。あるいは、自分を肯定できる(自信が持てる)内容が読み取れれば何かで挫折しても怖くないのである。何と言っても文字が出て以来、頭のすぐれた人たちが書き残したものである。われわれ普通の人間の役に立たないはずはない。問題は、「役に立てる力をこちらがもてるかどうか」ということで、それが読書できるかどうかの意味だと思う。
 このへんのところが最近では間違えられていて、知識を増やすこと、知っていることが目的になってしまっているようだ。ただ知っているだけならオタクでも知っている。オタクは、特定の分野において知らなくてもいいようなことまで知っているが決してそれでエライというわけではないだろう。例えば、環境オタクという人がいて実によく環境問題を知っているが、何一つ環境問題の解決のために行動しない人だ。こういう知識オタクは、けっこう多い。
 知識など後から付いて来る必要条件にもならないもので、やはり読書は最終的に「人間は小さい力しかないが、何をするか」「どう生きるか」→「私はこう生きる」を考えさせてくれるものなのではないだろうか。その最初の段階が読み聞かせから一人読み・・・やがて、高度な内容の読書につながっていく・・・何かにぶつかったときに打開する方法を教えてくれるものがすぐれた本だと思う。その何かにぶつかったとき、それまで本を読んでいなかったり、あるいは読む力がなかったりすれば、それまでの小さな経験だけ頼ることができない。そんなものの効果はたかが知れている。しかし、古今東西の知恵を読み解く力が出てくれば、あるいは身についていれば打開策は必ず見つかるのである。それが読書の目指すものだと思う。

読み聞かせから一人読みへ

@低学年の読書

 低学年の配本で一番苦慮するのは個人差をカバーすることである。一年生になって字を読み始めた子もいれば、軽々と長編を読んでしまう子もいる。このため、配本のコースをAからEまで5つに分け、グレードの設定が必要な場合は個人差に応じて配本を組みなおすことを行っている。ただ、この時期の子どもは何の力でも急速に増すから、あまり特定のグレードにシフトすることができない。そこでとどまってしまう可能性もあるから・・・・。しかし、一人読みを可能にする重要な時期でもある。いつまでも読み聞かせていて、なかなか一人読みに移れないことも起きるし、「もう自分で読みなさい!」としてしまうとマンガや軽読書に逃げてしまうこともある。むずかしい! 放っておいて、まっとうな読書へ進む率は20人に一人とも50人に一人とも言われているので、やはり読み聞かせの手助けも必要だ。

何をすればいいか・・・

 一応、配本では前回も述べたように一年生から二年生にかけてB配本だけ、あるいはBを主力にして組み合わせる形を取りながら本格的に読書をする三年生に向けたプログラムを作ってある。もちろんB配本の一部にはとても一人読みできないむずかしいものもあるから、これはきちんと親が読み聞かせてほしいと思う。また、かんたんな配本でも何回かはまず親が読み聞かせる必要もある。幼児期のように何十回も繰り返して読まなくてもいいが、読み聞かせもする必要はあり。
 読み聞かす回数はじょじょに減らしていき、配本レベルのものが最初から一人で読めるようになる時期に(だいたい二年生初期くらい)やめていくといいだろう。
 次に一年生には一人読みの練習として4歳くらい(3歳でもよい)に配本された絵本を読み返すように奨めてほしい。親が聞き手になってもいいので、音読で4歳、5歳の時の配本を順に一人読みでこなしてほしいのだ。これは一人読みするきっかけになる。読んだ達成感で自信もつく。実際、あ4・5歳当時は読み聞かせだったから難しさを感じなかったはずだが、この時期の本は低学年でも一人で読むのに対応したけっこうむずかしい内容の本なのである。決して幼稚な本ではない。一人読みで新しい発見もあるだろう。とにかく三年生のレベルになると一番かんたんなEコースでも読み聞かせでは骨が折れる内容になっている。やはり三年生までには一人読みの力はつけたいもの・・・がんばってください。



(2010年7月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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