ブッククラブニュース
平成21年8月号新聞一部閲覧

夜のピクニック

 いやはや暑いです。甲府は高温多湿があたりまえの夏ですが、今年のように雨、曇りが梅雨のように続くと太陽の顔が見たくなります。毎日が皆既日蝕かぁと思うくらい日差しがなく、亜熱帯になったかのようにスコールが来ます。8月2日も大雨、3日も大スコールでした。梅雨の蒸し暑さもたまりませんが、照りつける日光もみんなシャットアウトして発電に使いたくなりますね。
 八月の日差しは「日射し」と書きたくなります。早く日が暮れないかと毎日思います。甲府盆地は周囲は三千m級の山に囲まれているのに、この暑さは!?・・・でも、温暖化が進んで、たとえ40度に上がる日があったとしても子どものころから慣れた暑さ・・・しのぐ方法は身についています。
 絵本「とてもとてもあついひ」のような複雑なシノギではありませんが・・・・。砂漠の昆虫や動物が夜間行動をするように、夜を活動の時間にすればいいのです。私は主な仕事は夜。よく夜の散歩にも出かけます。ゆめやの周辺は山麓の住宅街で、午後八時くらいになると人通りが絶えます。十時過ぎるといくら歩いても人と出会いません。ゆめやから山までは歩いて十分くらいなので、そこまで行くと灯りはまったくなし。懐中電灯も持たずの散歩ですから、何となく怖いところでもあります。でも、途中の水田では何百、何千のカエルが鳴いて、まるで絵本「アマガエル先生のびっくりコンサート」のようです。私の足音で近くのカエルはピタと鳴きやむ。おもしろいので、あぜ道ではわざとペタペタと歩きます。
 山に入るともう真っ暗です。この暗闇は本能的な恐怖感をもたらしますが、これだけの回数を歩いていても一度もおそろしい目に遭ったことはありません。夜中が昼のように明るい都会、繁華街のほうがよほど怖い事件が起きています。私は夜中のコンビニの前を通る方が怖いような気がします。周りは明るいのに人の目が少なくなるとなんとなく怖い。でも、秋葉原事件のように白昼残酷なことが大都会の真ん中で起きるほうが、真夜中の山中より怖いですね。
 暗闇では人は警戒心が研ぎ澄まされます。危険を察知する力も倍増します。闇の中で自分の認識機能が変わるのも体験できます。耳を澄ますようになるのです。見えなければ聞くようになる。現代人はあまりにも見ることが多すぎて、自然の微妙な音を聞くことを忘れてしまっていますね。そのほとんどがコンピューターのディスプレイ画面ですから危険も恐怖もないわけで、別の感覚を使うことがありません。でも、夜の山や森では暗闇で流れるせせらぎの音、真っ暗闇なのに活動している鳥がいるのも耳でわかります。そこを絵本「どんどんどんどん」のように闇に向って歩きます。
 山は黒い巨人のようです。「昔の人は、こういう風景を見てデイダラボッチを想像したのかなぁ」と思ったりします。山梨では富士山を作った大男「陀々法師」伝説もあります。山梨だけではありません。日本各地に大男伝説があるのも山がたくさんあるからでしょう。
 山へ入る小道は完全な真っ暗。真の闇です。木のトンネルが星明かりも遮ってしまうからです。鼻を摘まれてもわからない暗闇・・・私が子どものころは身近にけっこう真の闇がありましたが、「最近の子どもは体験していないのだろうな」と思います。その暗い山道はまるで姥捨て山に続く細道のようです。たしかに、奥には老人のケアセンターがありますが、私の散歩の時間は窓の明かりは完全に消えています。その横を通りながら「なぜ老人施設は山深いところにあるのだろう? これでは日常、人と接する機会が減ってしまうのではないか。」といつも思います。風光明媚と謳いながら実は土地価格の安い山の中に施設を作るのは「隔離」と同じで、昔ながらの「姥捨て」ですよね。老人は逆に人とたくさん接することができる場所で余生を送るほうがいいと思うのですが、山の中の老人施設は「近代の闇だなあ」と感じます。
 その灯りが消えた老人ホームの横を過ぎていくと、星明かりでもけっこう風景が浮かび上がるのが分ります。月が出れば、かなりの明るさです。秋から冬はイノシシが出るらしいのですが、夏はそういう危険はありません。怪物や妖怪も見てみたいので「めっきらもっきらどおんどん」(男子に配本する絵本のなかの呪文)を唱えて歩くのですが、そういうものには一度もお目にかかりません。今日のニュースで隣のおばあさんを殺した72歳のおじいさんが初めての裁判員裁判にかけられるという記事がありましたが、そんな齢でもたいしたことがないことでいともたやすく人を殺せるのです。やはり妖怪や怪物より怖いのは人間ですね。
 散歩の途中では、エサをあさりにくるタヌキとは視線が合ったりしますが、危険な動物はあまり里山にはいないようです。この長い間歩いていても銀色の空飛ぶ円盤が降りてきてさらわれることもありませんでした。空を見上げると、琴座のヴェガがひときわ明るく輝いているのが分ります。その斜め上に白鳥座のデネブ・・・・アルタイルはその結んだ線を延ばした二等辺三角形の頂点のところにあるはずです。一時間も歩くと星座の位置も少し回ってきています。
 こうして、暑さシノギの散歩なのに汗ビッショリになります(?)。ここで「夜のピクニック」は終わり。シャワーを浴びて、仕事のはじまり、はじまり。盆地の熱帯夜は更けていきます。秋風が立つのはまだまだ先、九月の半ばです。

(ニュース一部閲覧)

ブームを作って売る時代

 暑い夏の熱い政治決戦・・・、この新聞が出るころには衆議院解散でひとまずの決着がついているかもしれません。それにしても政権を投げ出すのが二度続き、今度は追い込まれての解散。政治は「混乱」の時代に入ったようです。「民主主義」というのは語感からすると良い印象を受けますが、「多数決」とか「最大多数の最大幸福」などということが平然と行われると強引に多数を仕組むことが行われます。強行採決などが良い例ですね。
 昨年夏の段階で、明治以来、日本の法律は憲法を初めとして府庁省令まで6929件(存在するものの合計)・・・このうち法律は1777。国民が知らないうちに法律は作られていくわけですが、この数の中で突出しているのが小泉元首相が任期中に成立させた法律。なんと861件・・・憲法改正法や教育基本法改正、後期高齢者医療法などの重要法案がたくさんあって強行採決も多かったのです。小渕内閣が出したガイドライン3法もこの時期成立。これはじょじょに日本が戦争ができる国になっていく下地を作る法律で、当時の夢新聞で「成立」を記憶しておくようにと述べたことがあります。なにせ防衛庁が防衛省になったのです。夢新聞紙上で「コネズミ首相」「コネズミ改革」という言葉を使いましたから記憶がある会員も多いと思います。
 では、なぜ861件も法律が通ったかというと、ご承知のように小泉首相は「劇場型政治」をして、小泉ブームを巻き起こしました。メディアはこれに乗ってブームを煽りました。ブームの側に入らないと「変わった人」と見られてしまう感じがあり、多くが「小泉」「小泉」でした。ここが深く考えない(まあ、つまりは本を読んで自分の考えを作り上げない)日本国民の付和雷同型性格なんでしょうねえ。エコバックといわれればエコバック、なるべく仲間外れにならないで行くのが一番と考えている人たちの多さが作り出すブームです。それを煽る原動力はメディア(とくにテレビ)です。最近のテレビの傾向は目に余るものがありますね。とにかくブームを作って、視聴率を上げるために何でもしようとしています。これは、ひじょうに危険な傾向です。政治家がバカで助かっていますが、ナチスのゲッペルスのような人材が出てきてメディア・コントロールを始めたら、もうこの国民ではひとたまりもないところにいくでしょう。
 とにかく、なぜ、こういうブームを作るのか。それは何かを売りたいためではないか・・・・そう思うのです。昨年、ニュース増ページのシリーズで述べてきた「親と子がいるところ」で、この市場原理について展開しました。とにかくブームを作って売る・・・日本人は本質より見かけで動きますから、軽く引っかかってしまうわけです。
 とにかく十年前、それはまさに小泉内閣の劇場型政治と時期を同じくするものだったのですが、「ハリーポッター」ブームは先駆けのひとつでした。あの売り方、予約という現象・・・・本があのような売り方になったのはおそらく初めてのことでしょう。読後の感想も広がらなければ内容に関する人気も大きくならないのに爆発的な売れ方になる・・・これは「中身を知らないし、試したこともないけれど、とにかく発売されるから行列を作っても買う!」というゲームソフトの売り方、買い方に似ていませんか? 「ファイナルファンタジー」や「ドラゴンクエスト」はそうして売ってきたのです。それを応援したのはテレビというメディアで「行列」や「フィーバー」を報道して煽っています。行列に並ばないと「買い損なうぞ!」「手に入らないかもしれないぞ!」と・・・・。
 今回のマイケル・ジャックソンの死でも同じようなことが起きています。「偉大な芸術家」に祭り上げていますが、「そんなに日本でファンがいたぁ?」と思うのです。しかし、メディアはまるで偉人のように取り扱います。
 ブームとは「今までなんとも思っていなかったものを好きにさせられる状態」だと思うのです。本質や中身などどうでもよい。一過性で終わってしまえば話題にもならないことが多いのです。前回、村上春樹の「1Q84」について述べましたが、「ハリーポッター」の売り方や他の分野の商品の売り方と同じで、ブームの仕掛け人がいるように思います。私は「1Q84」を意図的に読んでいないのですが、「ノルウェイの森」とどのくらい違うのでしょう。読んだという人がまだ周囲にいないので感想、意見を聞くことができないでいますが、「絶賛」の言葉はまだ聞こえてきません。サッカーやオリンピックなどでもブームを煽って、その背後で商品を売ろうというヤカラがいます。予約販売にする、読まれていないのに発売一週間で百万部売る、・・・話題を仕組んで短期間で大量に物を売りたい人がいるのでしょうね。こういうやり方はスポーツを始めとして食品やファッションまで広がっています。ダイエット効果、美肌効果でブームをつくり、関連商品を売る。「多くの人が認めるものは良いもの」「最大多数の最大幸福」・・・これは怖い話です。一番、困ったことは、そういうブームの仕掛けに気づかずに慣らされて行って、いつかとんでもない状態に陥っていることもありえますよね。引っかからないためには、一度ブームをやり過ごすことです。もっとも、小学生のころ、私も昆虫ブームに巻き込まれて採集少年になった前科を持ちますが・・・あれは捕虫網の会社が仕組んだブームだったのでしょうか。
 さて、政治でブームを起こすばあい、仕掛け人は何を売るのでしょう。テロや海賊、ミサイルや爆弾で危機を煽り、対策中に死者でも出れば熱くなって戦争ブームが広がる・・・七十年前もそうでしたが、あのブームは「国を売る」ことが最終結果でした。

(新聞一部閲覧)

ヒトの子育てはどうあるべきか!?

B「どう育てたらいいの?」という開き直り

●あるケース●

 一年ばかり前に、ある会員の紹介で二十代後半の女性がやってきました。「妊娠中なので子育てについて話を聞きたい」とのことでした。絵本屋としては接し方や読み聞かせの方法などを話しました。同年代の話し相手がいないのか、暇だったのかしりませんが、出産直前まで何度もやってきて話しました。生まれても赤ちゃんを見せにやってきて、生後十ヶ月からは会員になり、絵本も読み聞かせるということになりました。ここで気になったのは、赤ちゃんを「抱いているのがイヤ」、「相手をするのがイヤ」という雰囲気が見られたことです。連れてきた赤ちゃんを私たちに委ねる気持ちが強く見られました。彼女は仕事を再開していたので、こちらとしては「激務で疲れていて少しでも人に委ねたいのだな」と同情的に見てはいましたが・・・。でも配本を始めてたった半年で来なくなってしまいました。「親が赤ちゃん(子ども)を世話する気持ちや技術を失ってきているのではないか」と思わせるケースでした。親業インストラクターは「世話をする気持ちや技術は親に学ばせればOK」と言います。でも、どうなんでしょう。そういう知識や技術を何か頭のリムーバブルディスクに記憶させて、すぐに子育てや家庭生活に役立たせることができるでしょうか。おそらく激務の中で子どもを外部に依存し、関わりをどんどん薄めていくのではないかと思います。

●学習したことではなく体験したことが生きる●

 私は上のケースを見ていて、彼女(母親)の子どものころや十代のころのことが気になります。同世代とばかり接してきて、小さい子との接触がなかったのではないだろうか・・・人生の最上位に「生活を楽しむことや仕事」があって、それ以外は他に委ねることばかり考えているのかも・・・と思いました。彼女は自身がルーズソックスを履いた世代だと言っていました。小さいころから習い事、中学・高校では塾の合間の外食、カラオケ・・・この世代はコミュニケーションも利便性の高いものに急速に変わった世代です。ケータイで見知らぬ人とつながれるが、自分の子には関心がもてなくなるのは困ったことです。前述の霊長類研究所の正高信男さんは、「現代の日本人は子どもを産んで育てることより楽しいものがあると刷り込まれた何かがある。授乳よりケータイが楽しいと思わされる世の中だから状況は変えられない。子どもは悪循環のなかに陥って少子化はさらに進む。」と言っています。いくら学校や研修所が子育ての方法や楽しさを教えても、こういうことは幼いうちに体験したことや受けた感覚が大人になってから役立つものなのです。「子どもなんかどうでもよい。」「今さえよければいい。」と考える人たちは、稼いでお金をためて海外旅行をして、ブランド物をあさって、楽しく暮らすことしか考えません。こういう人たちが成り行きで子どもを産んでしまったばあい、子どもは厄介な邪魔者にすぎなくなる可能性はありますね。何かあったときに精神的な問題を引き起こさないといいのですが・・・・。

●すでに子どもの問題行動はかなり前から始まっている●

 この世代の人に話を聞くと「どう育てていいかわからない」「誰も教えてくれなかった」「親に尋ねてもアヤフヤな答えしか返ってこない」・・・という半分開き直りのような答えばかりが聞こえてきます。身をもって体験しないと教えごとでは伝わらないのが「子育て」です。上では母親のことを取り上げましたが、これは男でも起きている現象です。かなりの数で「父」である意識が持てない男親も多くなっているといいます。TVゲームでしか子どもと接することのできない親もいます。これも世代の悪循環が起きているわけです。団塊ジュニア以降の若者は自分の幼少時、少年時代に親は忙しくて一緒にいる時間が少なかったのでしょう。ただ、私たちも親という仕事を勉強せずに親になり、試行錯誤でがんばってきました。「失敗もあり、うまくいったこともあり」だと思いますが、それも幼いころからの体験が生きていたのだと思います。でも、しだいに世代が若くなるにつれて、親を学ぶ体験や自然に接する経験が減っていくでしょうから、子どもを「どう育てたらいいの?」ということにもなるでしょう。この結果、さまざまな子どもの問題行動も進みますよね。世の中はどんどんそうなるでしょうが、それはまたまた不幸の悪循環になってしまいます。なにがこうしたかは、これまで何度も言ったように社会の変化です。なんとか伝達をしたいですが、この社会の崩れに家庭や家族が個別にがんばれるものでしょうか?

(ニュース一部閲覧)

学校図書館の問題―C―
読書競争で国語力はつくか

●手法は、企業の古典的なやりかた?●

 教育委員会の意向を受けて、学校が読書推進運動をし始めると、たいていが読書コンテストのようなものになる。まるで、高度成長期の企業営業部の売り上げ競争のようなものだ。教育委員会は「お役所=行政」だから推進運動のお達しの中には経済界や企業のプレゼンテーションで使われるような言葉が並ぶ。もっとも偏差値という言葉ももともとは教育用語ではない。経済統計などで使われる経済用語だ。教育がどんどん市場主義に飲み込まれている感じがする。
 たとえば甲府近郊のある市教委が、ある小学校を指定校にして実施しているものを見てみよう。教委の実施要項の名は「国語力をつけるための読書活動事業」・・・なんともお役所的な名がつけられている。「事業」ねぇ・・・国語力をつける事業・・! 私の言葉へのこだわりすぎで、ふつうの保護者は何も感じないのだろうか。その事業たるものは、読書記録カードを発行して、一年間、一冊につき一回のコメントを親からもらい捺印してもらって、担任教師がまた印を押す・・・まさに企業事務や行政事務でやる連絡票そのもの・・・。私は、読書などどこまでいっても個人的な体験で、あれこれ操作されるなんて読書じゃないと思うが・・・。

●家庭の会話量を増やすために行われる読書?●

 ただ、「この事業の目的は違うところにある」と教委は言う。読書記録ノートは「保護者の関わりを通して」が付随事項としてあり、「親が関わること」が研究対象となっている。子どもが読書後の感想を書き込んで、それを親が見て、親の一言を書き込む・・・これを繰り返して子どもに親が関わることが促されるわけだ。目的は家庭内の会話量の増加・・・「本の内容や心に残ったことを親子で話し合って会話を広げる」・・・これに関しては個人的な考えだが、読んだ本の内容を親と話し合うなどという気持ちの悪いことがほんとうにできると思っているのかどうか・・・。読書が個人的体験であり、読んだ印象は独自のものであることを教委はわかっているのだろうか。
子「ねえ、ごんぎつねは良いことをしたのに何で兵十に鉄砲で撃たれたの?」
父「ちゃんと『ぼくはゴンです』って挨拶をしなかったからじゃないか。」
母「運が悪かったのよ。何が起きるかわからないからボクも気をつけてね。」・・・・
こういう会話が増えることを教委は望んでいるのだろうか。「大人になるということは、「親への秘密も多くなること」だということを、読書活動事業を行う人はわかっていないということでもある。

●読書競争で子どもの読書は進むか?●

 これが読書競争につながるかどうかは分からないが、読書の努力を「賞状」として親から手渡すということが盛り込まれている。これまで、全国の学校図書館では、読書コンテストめいたことを行っていて、シールを与えたり、表を貼り出したり、子どもの気持ちをひきつけることを行ってきた。上記事業でも年度末の授業参観などで「賞状」を保護者から子どもに渡し、一年間の子どものがんばりを認める・・・ことが明記されている。「親と子の会話が少なくなっているから、本を通して親子が会話できれば一石二鳥でいいじゃないか」という行政らしい安易な発想が見え隠れする。数で計測することも出来るし、一石三鳥かもしれないが、現実はそうはいかぬ。
 基本的に学校図書館の読書推進運動は数の論理だ。数が目標で、質は二の次、三の次である。どのような本を読むのか、選書リストもなければ、ガイドラインもない。この事業も「質より量」、「質より数」なのだろう。この結果、子どもの読書は高度な本へは向かわず、読みやすい文章の短い絵本や軽い読み物で数を競うことになってしまった。まだ、それなら良い。五月号、六月号、七月号で述べてきたような劣悪な本が置いてある学校図書館もあって、子どもがそれに流れていけば読書推進は、悪書推進にもなりかねない。

●国語力と読書力は結びつく?●

 読書、それもかなり高度な読書ができる子どもでも、学校の国語の成績があまりよくない子がいる。いわゆる学校の国語というものは解答しなければならないものなので、テーマや意図を感じ取ることとは関係のない。第一、読書は楽しみであって、その付随的な効果として言葉への感覚や言葉の増量になる。解答能力が高まることとは比例しない。その証拠に読書が大好きな子で国語の成績が悪い子もいるし、本を一冊も読まない子で成績の良い子がいる。偏差値の高い大学の学生と話してごらん。ほとんど本など読んでいない。おそらく、お役所の方々も推進運動をする人たちも本など読まなくて成績がよかった人だ。だから国語力を挙げるために読書競争ってどうもねぇ、と思う。学校の国語力など(英語で導入したがっているように)ニンテンドーDSで決まりきった国語の問題をプログラムしたほうがずっと成績が上がるかもしれない。

(2009年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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