ブッククラブニュース
平成21年6月号新聞一部閲覧 追加分

ヒトの子育てはどうあるべきか!? Aライフスタイルと子育て

● おっぱいの飲み方 ●

京都大学霊長類研究所の正高信男・著「0歳児が言葉を獲得するとき」という本を読むと、ヒトの子どものおっぱいの飲み方が他の動物と決定的に違うと書かれています。どういうことかというと「休み休み飲む」という行動が見られるのです。そういえば、動物番組の映像で見る授乳の様子は動物の子どもが必死に一気に飲んでいるものばかりです。では、なぜ、ヒトは休み休み飲むのか・・・それは飲むのに疲れてしまうのではなく、休むことで体を揺すってもらったり、触ってもらったり、声をかけてもらったり、見つめてもらったりすることを要求している、というのです。たしかに思い出すと、妻は授乳の際に体を立てて背中を叩いたり撫でたりしていましたし、顔を見て声もかけていました。他の動物なら、その赤ちゃんは乳房に吸い付いてひたすら飲むだけです。でも、ヒトの赤ちゃんは目的が栄養補給だけではないのです。 誕生時の赤ちゃんは一日のうち起きている時間が極端に少ないので、栄養補給だけなら一気飲みのほうが効率がいい!。でも、そうしないのはヒトの子どもは高等哺乳類でも特別な子育てを要求するものだからです。

● 子どもを産めば黙っていても親になるか・・・●


昔は「子どもを生めば黙っていても親になるもんだ」とよく言われていました。たしかに四、五十年くらい前はそういう状況はあったと思います。でも、ご承知の通り、虐待や育児放棄、育児の外部委託を含めて、子どもを産んでも親になれない親が山ほど出てきました。赤ちゃんが休み休みおっぱいを飲むことで対話を要求してきても、親がテレビを見ながら授乳したり、ケータイメールを打ちながらおっぱいをあげていたら赤ちゃんは一番最初のコミュニケーションの発端を閉じてしまうことも考えられます。もし、母親がミルクタンクで良ければいいのですが、どうもヒトの子育てはそれだけでは不十分のようですね。生活の近代化でヒトの子どもが人間になるための最初の過程が失われているとしたら、現代のライフスタイルは哺乳類としては不適切な様式になっているのかもしれません。親になるためには、その人の親たちから何かしら伝達されているものがあるはずですが、現代では断絶のほうが強いようです。

● ヒトの子育ては動物の子育てとあまり変わらない ●


おっぱいを一気飲みしないで対話を要求することは遺伝子にプログラムされたものですが、授乳はプログラムされていても赤ちゃんへの働きかけはプログラミングされていないのかもしれません。原始時代のライフスタイルでできた遺伝子プログラムは当然いまも引き継がれていますが、二十世紀という劇的な生活様式の変化の中では矛盾が起きていて、親になる人間に育てる知識を再学習させる必要が出てきたように思います。便利さと手軽さが生活様式を覆ってしまった現代では、子育ても便利さと手軽さのなかに入ってしまい、親として何ができるのかは考えられなくなっているような気がします。増井光子・著「動物の親は子をどう育てるか」を読むと、なんだか文明人であることのほうが恥ずかしくなるような見事な動物の子育てが詳細に描かれています。「精神の避難場としての親」とか「肉体的な接触の重要性」、「叱ってくれる親にすがる子」、「子は親の反応を待っている」を読むと、動物の話なのに現代人は子育てで必要なことを何もしていないと思ってしまいました

● 親は赤ちゃんの働きかけに答えているか・・・●


そのほんの一部を紹介しましょう。彼女は「テレビやビデオで育てる危険性」について触れたあと、「ヒトの赤ん坊というものは、大人が考えるほど弱くてか細い生命体ではない。赤ん坊たちは泣く以外に自分の感情を訴える術を知らないように見えるが、おどろくほど敏感に親の反応、振る舞い、声の調子などを見ているものだ。それは、いわば動物の子どもたちと同じレベルではないか。赤ん坊たちは、彼らなりに、一心に母親に働きかけ、そして、その努力が無視されてしまうと、すべての働きかけを中止してしまう。」・・・テレビやビデオは画面が動きますが、赤ちゃんにとっては自分の働きかけや語りかけに応えてくれるものではありません。何をしても反応が得られないとわかると働きかけをやめてしまい、そのうちにコミュニケーション自体を面倒くさいものとしてとらえることになるかもしれません。前回で述べた若者たちの傾向はそれを如実に表しているのかもしれませんね。恋人同士が喫茶店で互いにケータイを開いて一心にメールしている姿を見ると、彼らは小さいころ生身の人間への働きかけを中止してしまったのではないか・・・だから人と視線を合わせすに話したり、口や手を使わない言葉(メール)を使うのか・・・そんな気もしてくるのです。

● 視線を合わせるのは怖いことだが・・・●


通常、動物の世界では視線を合わせるのは危険なことです。ヒトの世界でも低レベルの人間同士では目が合った、合わないで大喧嘩が起きることがあります。これを回避するために視線が合ったら微笑むとか柔らかな表情をするという技術をヒトの赤ちゃんは授乳のときに学ぶのかもしれません。ニコリとすること、表情を和らげることで母親が「肯定してくれる安心感を学習するとしたら、これはもう社会性を身につける第一歩ですよね。それが、次には挨拶を覚え、言葉を交わすことにつながっていくのかもしれません。もう少し動物に学ばねば・・・そう強く思った二冊の読書の結果でした。

学校図書館の問題―A― 怪物「かいけつゾロリ」の分析

● 貸し出しトップの学校図書館の王者 ●


日本全国の学校図書館で読書のベスト3に入っている本は「かいけつゾロリ」である。図書館にあるのは本の体裁をしたシリーズだが、一般ではマンガ化されたもの(本もマンガに等しいが)やゲーム化されたものも出回っている。いわゆる「柳の下商品」で、キャラがヒットするとゾクゾクと出るもの。幼児の「ピカチュウ」関連ものと同じだ。 さて、「ゾロリ」が小学生に人気になりはじめたのは、もう20年以上も前で、その意味ではロングセラーだ。厚い一冊が5分で読めてしまう内容の薄さだが、吹きだしのセリフやその時代その時代の子どもの関心をひきつけるテーマも含めて、ここ数年は圧倒的なリピート率を誇る学校図書館の王者である。同じようなものでは女生徒向けの「まじょ子シリーズ」もあるが、やはり「ゾロリ」が強い。

● なぜ強いか! ●


なぜ、それほど「ゾロリ」は強いのか!? 以前、図書館の貸し出し王者に「ズッコケ三人組」があった。いまや三人組自身が定年を越えて老人になるので完結したが、そこでも子どもの、その時々の反応をうまく捉えた(子どもにこびた)テーマで話が展開していた。「ゾロリ」も基本的には子どもの現在の欲望、関心にテーマを置いているのは事実である。 「ゲーム」を取り上げたものは多いし、定番の「お金」「超能力」「女(男)の子への関心」「食べ物(ラーメン・ハンバーグ・カレー」などがテーマとなっている。これを単純に否定する前に、同じようなことは大人の雑誌記事のテーマになっていないだろうか考える・・・そのまんまではないだろうか。大人の欲望の対象と同じものが「謎」や「恐怖」「大作戦」と言ったお手ごろなドキドキ感とともにたやすく読めてしまうのが「ゾロリ」。、多くの子どもが借りるのは当たり前のことかもしれない。つまり、ここでも子どもは大人の似姿なのだ。

● 抜け出せるか、抜け出せないか ●


では、図書館に置いてあって子どもの間でブームになれば、和を尊重する日本の学校で逆らうのはむずかしい。前回、担任の先生が「二十面相をやめてゾロリにしたら!」と言った怪言も、「みんなが読むものだから読んでおけ!」くらいの軽い気持ちだったのかもしれない。個人的な意見だが、ちゃんとした本を読み聞かされ、それなりの選書観や価値観を形づくった子どもは、目新しいものとして「ゾロリ」などに見入るかもしれない。しかし、すぐに、その底の浅さに飽きて離れていくのではないか、ということである。中学年、高学年になっても離れられないというのは「その程度の子だったとしてあきらめたほうがいい」ということでもある。それは家庭内部で「ゾロリ」が描く価値観のようなものに包まれて育てば、関心はその程度のものになるのもしかたがないことだ。事実、ブッククラブ内で低学年では親がビックリして連絡してくることが多いが、三年生、四年生で「いつまでもゾロリを読んでいて困る!」という相談はない。

● 少しは学校図書館も考えてほしいが・・・●


学校図書館の選書が司書によるウエイトが多いのか闇雲にTRC(図書館流通センター)のオススメをそのまま受け入れるウエイトが多いかは学校によって違うし、司書でも見識のある選書観を持つ人もいれば、そうでない人もいる。子どものリクエストがあれば入れるのが民主的だと思っている人もいれば(前述)、目を通して取捨選択する司書もいる。司書資格など司書課程を持つ講座を受ければおよそ誰でも持てる資格だが、問題はその後・・・つまり、その人の眼力がものを言うか言わないかで学校図書館の蔵書の質は高まりもし、低くもなるわけだ。

● 最大の問題は低学年ではない! ●


本を読んでこなかった子は、高学年になると二手に分かれる。まったく読まない子と関心の向くもの(ほとんどサブカル文学・・・・これについては次回で述べる)しか読まない子の二種類だ。それは、「ゾロリ」や「まじょ子」のような単純な問題ではない。中・高学年ではサブカル文学なのかふつうの児童文学なのか判別のつかない作品が出現してきているからだ。もちろん、以前から離婚や虐待をテーマにしたものやアニメやマンガを小説化したようなものもあった。  より多くの子どもに読ませようとすれば、まともな児童文学など歯が立たない子が多いのは昔も今も変らない。いきなり、三年生で「大どろぼうホッツェンプロッツを読め!」、四年生で「飛ぶ教室を読め!」五年生で「モモを読め!」と言ったところで、見向きもしないだろう。そういう子どもたちが生育環境の中にあったサブカルの延長の文学に走ることもある。それが、挿絵だけサブカル調なのか中身もそうなのか、異様な精神病の世界に引き入れていくものなのか、世界を見つめるツールになるのか・・・その辺のことを見極めるのはむずかしい。子どもの読書は、その子の未来を変えるかもしれない両刃の剣でもある。公共性の高い学校図書館はそこを考えてがんばってもらいたいのだが・・・。

発達に応じるということ A読み聞かせの開始

1) 読み聞かせの開始までは


赤ちゃんは生まれてから生後九ヶ月くらいまでは触覚で物を認識することが主になっています。触って快いもの、そうでないもの、危険なもの、安全なものを認識しています。たしかに視力も聴力もありますが、まだまだ絵から認識する力は育っていないのです。こういう時期はいろいろなものに触らせましょう。そうしないと、本を与えたときに本が物としてしか認識されず、めくったり破いたりすることを楽しんでしまいます。だから、ゆめやのブッククラブ配本は、生後十ヶ月から始まります。要望があってもそれ以前から配本を組むということはできないようになっています。生後十ヶ月・・・これは偶然でも思いつきで決めた時期でもありません。標準的な発達では、平面にプリントされた表象を認識しはじめるときだと考えているからです。それまでは、いつも言うように親が語りかけることだけでじゅうぶんだと思います。

2) 選書の基本は


絵本の選書の多くは発達心理学(最近はユング心理学が主)で行われていますが、私は絵本を形態学というものを基礎にして選書しています。良い絵本の選書リストを出しているところは多いのですが、多くは子どもの発達とは無関係に本だけを見て良いか悪いかを決めて、良い本をリストアップしているだけです。いくら良い本でも二歳児によいものが五歳児によいとはかぎりません。あるいは悪い効果をもたらすかもしれません。やはり、発達に合ったものを与えることが重要になります。ですから、読み聞かせ前は、あまり焦らず語りかけで十分でしょう。子どもの本で一番重要なことは良書を選ぶことではなく(それは当然のことです)、いかにタイムリーに発達に応じた本が与えられるかということなのですから・・・。与えすぎもよくないし、与えなさすぎもよくない・・・・むずかしいものです。

3) 発達に合わせるために


「形態学で選書している」と言っても多くの会員は良くわからないかもしれません。もちろん、そんな理屈より配本順に子どもに読み聞かせて楽しめれば、それでいいわけです。でも、ゆめやの選書の基本は形態学です。この流れと基本的な体系、そして順にアップデートしていくリストについては2005年に山梨子ども図書館の「子どもの本の専門家養成講座」で、合計13時間の講義公開をしました。全データの公開でした。ちょっと、このニュース紙上に載せるにはデータと文章量がハンパではないので無理ですが・・・。でも、この講義内容を神奈川大学外国語学部の白須康子先生が小樽の「絵本・児童書研究センター」所長の工藤左千夫さん(ユング心理学)の選書と比較分析した紀要をお出しになりました。適合性においてゆめやの配本選書に軍配をあげていただいたのはうれしいことでした。

4)まず、6歳までの配本体系は問題ないが・・・


絵本の読み聞かせの段階、つまり生後十ヶ月〜六歳くらいまでは、ほとんど問題なく対応できています。ところが、「ご案内」に書いてあるような読み聞かせや読書の正常な発達をさえぎるものがじょじょに家庭内に入り込んで、影響を及ぼしているのも事実です。読み聞かせの開始は、そのようなものとどういうふうに親が向き合っていくかという態度決定の開始でもあります。読み聞かせは親が楽しめれば子どもも問題なく楽しめます。まずは、そういう幸せな時間を獲得できることを念頭に置いて始めてみてください。親子の快い時間が確保できることは保証いたします。

サブカルチャーとどう向き合うか A 国まで敵となる・・・

首相肝いり・国営マンガ喫茶の建設


テレビゲーム、ケータイ、アニメ、漫画などが梨くずしで認められて、子どもたちの世界で「市民権」を得ている。こういう現状で、小さな絵本屋が何を言おうと親も子どもも「なに言ってるの? 遅れたこと言って! 時代錯誤じゃない。」という声が聞こえてくる。それでもなお言わねばならないのは、サブカルチャーが子どもに(大人にも)影響が大きく、それでさまざまな破綻や悲劇が起こる原因になっていると思うからである。もちろん、この意見は個人的な主張にすぎない。少数意見のさらに少数意見でもあるから、「そんなことがあるわけない」と思う人はこのページは読み飛ばせばいいのだが・・・・しかし・・・。 日本人は多くが認めるものは、あるいはお上が認めるものに唯々諾々となる性質がある。だから、サブカルチャーへの批判はだんだんしにくくなっている。たとえば、今年度の補正予算で政府は「国立メディア芸術総合センター」を117億円で計上した。日本が世界に発信する漫画・アニメ・ゲームを収集、展示するサブカルチャーの殿堂である。マンガ好きの首相らしい事業計画だ。ところが本質的な意味で誰も反対しない。こんなものができるということは、サブカルチャーが国からお墨付きをもらったようなものである。つまり国民の中には漫画・アニメ・ゲームが「日本の誇れる文化」として認められたと錯覚する人も多くなるのではないか。

メディア依存の社会が子どもの発達を脅かしている


もちろん、上記ゆめやの主張は個人的見解だが、世の中では少数意見ながら、親に向けて子どもたちのために反メディア論を唱えている人もいる。ノートルダム清心女子大学の教授で児童文学作品の翻訳家でもある脇明子さんが「メディア依存の社会が子どもの発達を脅かしている」と題して講演し、子ども関連のメディア批判をしている。詳細は長くなるので、箇条書きでまとめてみる。 ●赤ちゃんの発達でテレビ・ビデオはコミュニケーションの機会を奪う。それがどんなに「ためになる」内容でもその意味において有害・・・ ●赤ちゃんはテレビを注視し、言葉を真似て話すことはあるが、それは鸚鵡返しであって、会話力へ発展していくものではない。カード教材などで教え込む言葉も同様・・・ ●幼児はメディア機器の扱いをすぐに覚えるので賢くなると錯覚して積極的に使わせる例が多いが、これは極めて危険である。幼児は環境順応性が高いだけで賢さとは関係ない・・・ ●アニメ・ゲームなどの刺激の強いメディアには実体験を減らす危険だけでなく、行動に現れてしまうような直接的危険がある・・・ ●仮想世界に浸る時間が長ければ長いほど現実世界でのスキルが低下して、依存症を引き起こす・・・ ●ゲームなどがもたらす非現実な刺激には耐性ができてしまい、同レベルの刺激では興奮できなくなる。メディア漬けの子どもが不機嫌でキレやすいのはそのため・・・など、かなり踏み込んでサブカルチャーを叩いている。しかし、脇さんやその周辺の声は全国的には小さく感じられる。

メタ認知能力を高めるために・・・(!?)


脇さんが提唱するのは、「ノーテレビ・ディー」「ノーメディア・ウイーク」などだ。「子どもは最初は抵抗するが、実行すればテレビなしの生活がすぐにできる」というものだ。しかし、私は最も適応できないのが大人なので、よほどの決断と実行がないとそんなことができる家庭が多くなるとは思わない。我が家もテレビを切ったが、テレビに慣れていたのは親のほうで子どもは切られても平気だった。これはケータイでもコンピューターでも同じ・・・大人のほうが離れられない。「ノーTVディ」「ノーメディアディー」は上記風潮があるから、この国では実現しないことだろう。 さらに脇さんが薦めるのは当然ながら「質のいい読書」だが、ここで私がひじょうに注目したのは「メディアの誘惑を退けるためのメタ認知能力」というものである。思考力や想像力は映像メディアやゲームでは育たないから、「質のいい読書(学校図書館のページで述べるように質の悪い本もある)」で力を高めようというものである。メタ認知能力とは「自分の心の中で起こっていることを一段上から客観的に把握し、それをコントロールする」力だという。これが生きる力に結びつくわけだが、その仕組みとはこういうものである。

不快感情の経験と消去


生きていくためには、さまざまな感情体験、そのなかでも不快な感情の体験が必要だが、メディアは不快感情を消去するマシンとして働くという。つまり、不快なものに直面して乗り越える力を発揮するのではなく、バーチャルな世界でごまかしてしまうのである。2001年のアメリカ同時多発テロのあとブッシュ大統領が「みんなディズニーランドに行って心を癒そう」と言ったのはまさにそれの現実版である。しかし、子どもは質のいい読書で不快なこと、悲劇的なことを想像力で体験し、自分の力で考えて乗り越えていくことを学習するわけである。 ・・・と、まあ、いろいろ言ってもしょせん少数意見だ。そうするかしないかは、家庭、親の決断。多くの日本人は、自分が悲劇に直面しないと分からないだろうし、子どもがおかしくならないと分からない。国までサブカルチャーの味方になってしまった時代だ。もう30年近く言い続けてきた。今後は言うだけ言って高みの見物をしていたいと思う。



(2009年6月号ニュース・新聞一部閲覧 追加分)

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